さだめの星が紡ぐ糸

おにぎり1000米

文字の大きさ
25 / 56
第3章 八十八夜

7.走り梅雨

しおりを挟む
7.走り梅雨

 伊吹の視線の先で七星がふりかえった。その瞬間伊吹の心を満たしたのは純粋な喜びだった。そこに七星がいる、それだけで与えられる喜び。それともこれは心ではなく、体の反応なのだろうか。

 七星からまっすぐ、矢のように伊吹に刺さってくる甘い香りや、目に映る姿――猫背ぎみの肩からのびた首、ぴょんと跳ねたくせっ毛、細いあごに、はっとみひらいた黒目がちの大きな目、それらが全部いっしょくたになって伊吹の心臓をわしづかみにし、どきどきと脈打たせる。しかし同時に頭の片隅を横切ったのは、自分の軽率さに対する後悔だった。

 実は土曜の夜からよく眠れていなかった。日曜の法事のあとも気もそぞろだったが、両親や蓮は気づかなかったはずだ。ポーカーフェイスには自信があった。

 アルファはベータとオメガの先頭に立ち、集団を引っ張っていく、そんな存在だと思われている。だが伊吹はちがう。先頭に立つことはめったになく、意識して集団に溶けこむようにしている。だが伊吹が戦略的にそうふるまっているとは、周囲は気づかない。

 アルファだからこそ目立ってはならないと思うようになったのは、良くも悪くもベータの両親のせいにちがいない。大学のころは陰険なアルファだと陰口を叩かれていたことも知っているが、伊吹は何とも思わなかった。他人の無責任な言葉に左右されず、自分の思う通りに物事を運ぶ。それこそがアルファの特徴であって、世間のよくあるアルファのイメージ、派手なリーダーシップはその一部にすぎない。
 戦略に沿って、その場に応じた最適解を選べ。そのために常に冷静であれ。これが伊吹の金科玉条である。

 ところが土曜以来、伊吹の心は冷静からは程遠かった。だからこそユーヤに来てしまったのだ。社にはまだ片づけなければならない書類が残っているというのに、七星を、その存在を、自分自身の目でたしかめることこそがのだという、不条理な衝動をふりはらうことができなかった。

「こんばんは」
 年上のオメガ女性に挨拶され、伊吹は「どうも、こんばんは」と応じた。魚居祥子。四月にユーヤのメンバーズになったとき、伊吹は代表の魚居蘭とともに名刺をもらっていた。いかにもオメガらしい柔らかな雰囲気をまとった女性だ。
 ちょうど事務所から魚居蘭とベータの男があらわれて、階段の前の通路は混雑した。奇妙にぎこちない譲り合いがおきて、伊吹はカフェの方へ、七星の隣へ押し出される。

「ど、どうも」
 七星がどもりながら小さく会釈して、飛び出すように大股に前に出た。距離をとろうとしているのだと感じて、伊吹の胸はちくりと痛んだ。きっと軽率だと思われている。こんなふうに鉢合わせしなければ、ちょうど二週間前の月曜のように、遠目に確認するだけですんだかもしれない。

 しかし七星はそのまま伊吹を置いていったわけではなかった。ためらいがちにふりむいて、目をあわせたからだ。

「カフェ……ですよね」
「あ、ああ」
「すみません、スタッフで混雑してて。打ち合わせがおわったばかりなんです」

 月曜の夕方、カフェにも仕事帰りに立ち寄る客が増える時間だった。伊吹のあとも客がつづいて、レジには三人並んでいる。
 伊吹はあたりをみまわし、窓のそばまで歩いた。七星が一メートルほど離れて立った。電車が鉄橋を走り抜け、窓ガラスが揺れた。

「息抜きしようと……社を出てきたんだ」
 口にした言葉はあまりにもいいわけがましく響き、伊吹は自分自身をあざ笑いたくなった。七星がすばやくいった。
「三城さん、土曜のこと、気にしないでください。僕、誰にも話したりしないし」

 ハッとして伊吹は七星の顔をみたが、いそいで視線をはずして、またも自分の軽率さに呆れた。七星は自分が口止めに来たと思ったのか。
「ちがうんだ。そうじゃない。どうしても……きみの顔をみたくなって」

 ふたたび後悔した。どうやってもだめだ。いつもの伊吹ならもっと言葉を選べるはずだ。状況にあわせた適当な言葉を。でもいまは自分自身のコントロールが効かない。七星から漂ってくる、この蜜の香りのせいか?

 少なくとも彼を傷つけたり――嫌がられることはしたくない。

「私は……いや、すまなかった。とにかく土曜のことは偶然で、意図したわけじゃない。蓮もそうだろう。彼はきみを気に入ってる。だから私に紹介しなかった」
 七星は不思議そうな目つきになったが、何もいわなかった。

「この前の事故といい……土曜といい……偶然というのは恐ろしいな。とにかく、嫌な思いをさせて申し訳ない。すまない」
「前もいいましたけど、あれは三城さんが謝ることじゃなくて……僕の方が……」

 七星の返事は尻すぼみに消えた。カウンターから淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。匂いのなかでもコーヒーというのはかなり強烈なほうだ。それなのに伊吹が七星に感じる香りは打ち消されることがない。

「今もわかりますか? 匂い……」
 七星がぽつりといった。何の話をしているかはあきらかだった。
「ああ」
「三城さんと僕、ふたりだけでいるの、だめですよね。あの検査キットがちょっと……適当だったとしても」
「……ああ。たぶん」

 赤い線が頭をよぎる。たぶん? いや、そんなのは嘘だ。もしふたりだけになって、誰にも見られない、知られないとなったとき、伊吹は自分が何をしでかすか自信がなかった。
 今ですら体の奥底で、こうして距離をとって立っているのが間違いだ、という感覚が疼いて仕方ないのだ。誰もみていないのなら七星をこの腕に抱きしめて、そのまま離さずにいたい。それこそが正しいはず――

 伊吹は小さく首を振り、危険な方向へ走りかけた思考をふりはらった。七星と目があった。
 窓の外をまた電車が通っていく。鉄橋の下は渋滞のきざしがあった。そろそろ夕方の通勤ラッシュだ。

「ここに来たのは間違っていたな」
 体と心が感じていることと正反対の言葉を口にするのは苦痛だった。「すまな――」
「謝るの、やめましょう」七星がさえぎるようにいった。
「あの、ここって、九月いっぱいで終わるんです。そのあとは僕もどこか別のところへ行くし」
「え?」
「あっ、これ、外部の人にはいっちゃいけないんだった……すみません、あの、僕がいいたかったのは……三城さんとここで顔をあわせるのも九月までだから……三城さんこなくなってお客さんが減ったらみんながっかりするし……それに僕は……三城さんと知りあえて嬉しかったから……あんなことがなかったら、もっと三城さんと……」

 最後まで話すのを恐れているように、七星の声はまた尻すぼみに消えかかった。しかし伊吹の体の奥には逆に力がみなぎりかける。
 七星は伊吹を拒絶しているわけではなかったからだ。むしろこれは――

 その先を考えるのをやめるべきだった。罪悪感と欲望のはざまでどうしようもなく気持ちが揺れた。いや、伊吹は今の位置から動くことなどできない。七星もそうなのにちがいない。
 それなのに、伊吹の胸の奥底にはしてはならない期待がある。蜜の香りが伊吹を呼んでいる。と教えている。

 同時に顔をあげて、目をあわせた。七星の黒い目がまばたきをこらえているように、大きくみひらいていた。七星にそんな顔をしてほしくなかった。四月のおわり、あの事故が起きる前のように笑ってほしかった。

「大丈夫だ、二度は起きない。あれは事故だったから――ほら、いうじゃないか。パーソナルスペースとか、ソーシャルディスタンスとか」
「一・五メートルでしたっけ」
 ふっと七星が苦笑いをした。下手な冗談を聞いたように。緊張が抜けたように肩がすこし下がった。
「カウンター、空きましたよ」

 レジの順番待ちは解消していた。だが伊吹はまだここに立っていたかった。七星にいちばん近くいられるところに。それが一・五メートルでも二メートルでもかまわない。
「コーヒーチケット」唐突に七星がいった。
「使ってくださいね。うっかり部外秘、いっちゃいましたけど、あれは秘密で」
「ああ」
「僕、行きますから」

 七星はのろのろと窓際を離れた。伊吹はスーツの内ポケットに手をいれる。コーヒーチケット。暗号のようだと思った。しかし何の暗号だろう? 周囲に気づかれないふりをするための? 自分の心を無視するための?

 コーヒーはテイクアウトにした。外に出ると、風が湿り気をおびてうすら寒かった。まだ五月だというのに、この先の季節を予感させる風だった。



しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

彼らは互いにβと噓をつく

桑水流 雫
BL
【子どもがほしいαと欲しくないΩの切ないラブストーリー】 ※ハッピーエンド ※リバあり。最初は主人公が受けで、あとからΩが受けになります。 【あらすじ】泌尿器科で働く舩津(ふなつ)は優秀なαだが、患者を怖がらせないようβと偽って働いている。患者のヒートにも対応できるよう、強い抑制剤を飲み続ける舩津。子どもが欲しいにもかかわらず、副作用でどんどん自分の精子が減っていくのを、歯がゆい気持ちで過ごしていた。そんな時に、同じ院内の薬局で働く小鳥遊(たかなし)と出会い、恋に落ちる。小鳥遊と過ごす毎日は穏やかで、船津は子どもがいなくても、彼さえいれば満足だと思えるようになっていた。男性同士のβでは、どうせ子どもは作れない。だが、ある時、小鳥遊がオメガだということが発覚して──。子どもがほしいαと欲しくないΩの切ないラブストーリー。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー

白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿) 金持ち‪社長・溺愛&執着 α‬ × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω 幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。 ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。 発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう 離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。 すれ違っていく2人は結ばれることができるのか…… 思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいα‬の溺愛、身分差ストーリー ★ハッピーエンド作品です ※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏 ※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m ※フィクション作品です ※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです

僕がそばにいる理由

腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。 そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。 しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。 束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。 愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。

彼は罰ゲームでおれと付き合った

和泉奏
BL
「全部嘘だったなんて、知りたくなかった」

【完結】end roll.〜あなたの最期に、俺はいましたか〜

みやの
BL
ーー……俺は、本能に殺されたかった。 自分で選び、番になった恋人を事故で亡くしたオメガ・要。 残されたのは、抜け殻みたいな体と、二度と戻らない日々への悔いだけだった。 この世界には、生涯に一度だけ「本当の番」がいる―― そう信じられていても、要はもう「運命」なんて言葉を信じることができない。 亡くした番の記憶と、本能が求める現在のあいだで引き裂かれながら、 それでも生きてしまうΩの物語。 痛くて、残酷なラブストーリー。

当たり前の幸せ

ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。 初投稿なので色々矛盾などご容赦を。 ゆっくり更新します。 すみません名前変えました。

処理中です...