紙の上の空

中谷ととこ

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私たちの昔話

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 先月、湯川を含む女友達数名と、はじめて近場の温泉に旅行に行って来た。

 女同士でわいわいはしゃぐのが楽しいと思う反面、こういう場所に公ちゃんと一緒に来れたらと想像して、急に切なくなった。
 家族としてではなく、恋人として、二人だけで──。土台無理な話。


 非日常にいると、好きな人を思い出す。
 綺麗なものを見ると公ちゃんに教えたくなる。身の回りで起こった面白い話を伝えたくなる。日々感じた何気ない事や些細な出来事を、公ちゃんに聞いて欲しくてたまらない。

 私の心の一番大事な部分を占領していた。
 公ちゃんは、そんな場所に居座りたくはないと思うが。

 兄を慕う妹という体でメッセージを送るが、言いたい事がどれだけあっても、実際に送れるのはその十分の一程度で、ほとんどは書いては消してしまう未送信のものだった。


✉️

『旅先でお土産買ったんだけど、公ちゃんのアパートに持って行ってもいい?』

『旅行楽しかったか? 腐るものでないなら今度行った時にもらうよ。ありがとう』

『腐るものなの。なるべく早く来て』

 時々こうして、自分をコントロールできず滅茶苦茶に我儘になる。公ちゃんはそんな私の意味不明の自分勝手に、わかったと言いながらいつも付き合ってくれた。

 だって、旅行中からずっと顔を見たかったの。声が聞きたかった。


 家は出たものの本人も言っていた通り全く会えなくなるわけではなかった。律儀な男で、家族の誕生日が近くなるとプレゼントを持ってふらりとやって来たし、盆暮れ正月は欠かさず帰って来て、家族で過ごす時間を作ってくれた。だから二か月に一度か二度くらいはその存在を確認できた。多忙とはいえ学生だったから、自由が利いたのだと思う。

 私が実家を出て一人暮らしなどしていたら、会うのは難しかっただろう。


「せっかく来たのにもう帰るの? どうして泊まらないの? 明日何かあるの?」

「明日は午前中からバイトだから、帰るよ。それに夕暮れ時にバイクで走るのってすごい気持ちいいからさ」

 公ちゃんは念願の400㏄の中古バイクを買って、バイク乗りになっていた。

「いいな、私も乗ってみたい、後ろに」

 本気ではないけれど、バイクのダンデムシートをポンポン叩きながらそう言うと、

「碧はダメだ、危ないから。命を預かるわけにはいかないから」

 予想通りの答えだ。

 それなら免許を取って私自身が運転する、と言ったところで許してもらえないだろう。


「バイクの二ケツってそんな命懸けなの?」

「そうだよ、当然だろ」

「そんなわけないでしょ、皆普通に乗ってるじゃない」

 乗るかと言われたところで、公ちゃんの背中に後ろから抱き付くなどできそうにないのだが。

 バイクでも電車でもどちらでもいいけれど、まだ帰らないでよ、もう少しだけ。
 公ちゃんから「じゃあまたな」と言われるのが、異常なほど寂しくて仕方がない。
 次に会えるのは、また一、二か月後だ。

 バイクに跨がる後ろ姿が遠く見えなくなり音が何も聞こえなくなるまで、私はいつも、玄関の前に立ち尽くしていた。


 それでも、こんなに好きで好きで苦しいのは今だけで、他に出会いがあって好きな人ができれば、変わるものだと思っていた。

 身近にいる人をたまたま好いてしまっただけ。物理的に距離が開けばきっと幼い恋心は若気の至りとなって、思い出話になる。
 きっと自然消滅する感情なのだと。




「──碧ちゃん、見て見てあの人……なんか公亮先輩と似てない?」

「え、どの人?」

 大学の構内で、偶然見かけた人だった。

 その人は同じ大学の二学年上で、当真先輩といった。

 公ちゃんと? 全然似てない。

 そう思ったものの、穏やかで真面目そうな雰囲気は、たしかに同じ系統だなと感じた。


「似てないけど、格好いいかも」

「ええっ、碧ちゃんが!? めずらしい!」

「びっくりしすぎ、湯川、声でかっ」


 当真先輩とは何の接点もなかったけれど、認識した途端よく視界に入るようになるもので、何がきっかけだったか顔見知りになり、挨拶をかわす程度の知り合い、声を掛け合う関係と発展し、どんどん距離は縮まっていった。私に全く興味がなさそうなのに優しいところも良い。隣にいて居心地が良かった。

 自然な流れで「つき合いませんか?」と、少し照れながら言われた時、嬉しいより先に「ああやっぱり、似てるかもしれない」と思った。


 目の前にいる人とは別の人の事を考えながら受けた告白に、私は迷うことなく頷いた。

 当真先輩のことは、好きだ。
 公ちゃんとは比べられないけれど。

 そうするべきだと思った。
 ここから別の場所へ行きたい。

 私にとっては初めての彼氏だった。




「おー、碧」

「なに?」

 その日は、八重嶋の家に丈が来ていた。

 公ちゃんは不在だが、たまにこうして例のごとく試作のお菓子をいくつか持って、ふらりと立ち寄る。  
 丈と日向はミニバスの経験があり話が合うようで仲が良い。日向は日向で公ちゃんが居なくなり少し寂しいのかもしれない。

 丈に会うのは、大分久しぶりだった。


「さっき、日向がさ、」

「うん」

「姉ちゃんに最近彼氏ができたかもしれんって言うんだけど、まさか、嘘だよな?」

「…………」

 日向めーーお喋り! 口が軽過ぎる。 
 口止めしたのに……。

「なにその言い方、まさか嘘って。悪いけど私、結構モテるんですけど」

「いや……それはわかってるんだけど、違うだろ? 日向の勘違いだろ?」

「…………勘違いじゃない、大学の先輩」

「…………」

 丈は表情を変えず、私の方をジーッと見たまま、無言だ。なに? 沈黙が、怖いんですけど。


「なんで……」

「なんでって、できるでしょ、彼氏くらい」

「バカか……簡単に付き合うなよ、ちやほやされて流されたのか?」

「違うから、ちやほやなんてされてないし」

「そのわりにはなんにも変わらないな、ほら恋愛すると綺麗になるってよく言うだろ?」

「……元々綺麗だからじゃないですかね」

「……ああそうですか」


 丈が何を考えているのかはわからないが、機嫌が悪い。私の心の中などすべてお見通しで、何やってんだよと、呆れられたのだと思った。そして丈に知られたということは、公ちゃんの耳に届くのも時間の問題だろう。別にそれでいい。


「だって、恋愛したいんだもん、私だって。年相応に、人並みに、楽しみたいの」

 じめじめと公ちゃんだけを思って、辛い、苦しいと、落ち込んでばかりいるのは勘弁、困らせたくない。変わりたいの、前に進みたい。

「……まあ、そうだよな」

「だから、いいでしょ? ダメなの?」

「ダメじゃないけど、それでいいの?」

「……だからさ……」

 なぜ丈が、突っ掛かってくるのか。

「そいつのことが本当に好きなのか?」

「うん、そうだよ、今楽しいんだから」

 正確に言えば、これからもっとそうなりたいと思っている。当真先輩のことをもっと知ってもっと好きになって、好きな人とちゃんと、正面から向き合えるようになりたい。

「それならいいけどさ、俺が何か言える立場じゃねえしな」

 ぶっきらぼうにそう言うと、カメラを持たず手持ち無沙汰だった丈は、自分のスマフォを使いパシャパシャと写真を撮り始める。


「今、止めてよ」

「……おまえ今日、超不細工」

「……は」


 カメラに向かって、思いっきり変顔をしてやった。


「…………丈も、バイク買ったんだね」

「ああ」

「公ちゃんと同じようなやつ?」

「いや、ちょっと違う。俺のは500cc」

「ふーん…………後ろに乗ってみたい」

「やだよ、彼氏のいる人は乗せませーん」


 丈は二十二歳、私はもう少しで二十歳。

 私たち、出会ってから何年経つんだっけ。



 当真先輩とつき合うようになったとはいえ、数か月経っても、実態は友達に毛が生えたようなものだった。時々会ってデートするだけ。食事したり飲みに行ったり。

 当真先輩が奥手だからなのか、私がなにかおかしい態度だからなのか、キスをしたこともなければ、恋人同士特有のスキンシップは何ひとつないという、完全にプラトニックな関係だった。もういい大人だから、やっぱりそれはちょっと不自然だと思っていた。




「碧ちゃん、この間公亮先輩見たよーー」

「え、どこで? 何してた?」

 偶然公ちゃんとなんて、会ったことない。

「バイクでギューンって走ってくる人がいてさ、K町の陸橋の所に女の人が待っててね、その人にヘルメット渡して後ろに乗せて走り去って行ったの。なんか今のお兄さん格好良かったーーと思って、よく考えたら碧ちゃんとこの公亮先輩じゃん? て」

「…………バイク、後ろ? 本当にそれ、」

 公ちゃん?

「ブルーのヘルメットだったと思うけど」

「……」

「公亮先輩、彼女いるんだ?」

「…………たぶん」

 公ちゃんは、ブルーのヘルメットだ。

 視力が両目1.5以上の湯川は、見間違えないと思う。

 高校生の頃もかなりショックだったけれど、その比ではないくらい、よくわからない衝撃がガツンときて、痛い。言葉が出ない。


 落ち着け、平常心、わかっていた事じゃない、深呼吸──でも、何これ、苦しい……。


『碧はダメだ、命預かるわけにいかない』

『バイクの二ケツってそんな命懸けなの?』

『そうだよ、当然だろ』


 私のことは、ダメだ乗せないって言ったのにね。……公ちゃん、命預かるような女性、いるんじゃん。




「──碧ちゃん?」

「……え?」

 その日は当真先輩と会う約束をしていて、いつも通り食事を楽しみ、あとはこのまま真っ直ぐ駅に向かい帰路に就くはずだった。

「どうかした? 調子悪い?」

「え、いえ、」

「今日何と無く、心ここにあらずだから」

 私の様子がおかしいから、大丈夫?って、心配してくれている。
 先輩は、就活はすでに就職先から内定をもらい落ち着いており、これから卒論で忙しくなるという合間の時期だった。

 どうしよう。
 この人の顔を見て、なんて伝えたら良いのだろう。決心が鈍る。

「当真先輩」

「ん?」

「私のこと、抱きしめてもらえませんか?」

「え?」

 先輩は不意を突かれたように立ち止まり、私の顔をじっと見た。

「どうしたの?」 

「ええと……あの……」

 聞かないで。

 どうもしません。だって普通するでしょ? つき合ってたら。
 ぎゅっと抱きしめたりキスしたり。しない方がおかしいですよね?


「今?」

「いま」

「そういうの、苦手なんだと思ってた」

「え」


 そんな態度を取ったつもりはないけれど、私がそう感じさせていたという事だろうか。無意識にバリアを張っていたのだろうか。


 当真先輩は不思議そうな顔をしながらも、私の手を取り、人が疎らにいる近くの公園の方へ誘導した。手を繋ぐことさえ、初めてに近かった。

 そして何も聞かずに、ぼんやりする私を引き寄せて、まるでいつもそうしているかの様に隙間なく抱きしめてくれた。

 期待していた通りのものがやって来て、なぜか一瞬泣きそうになりながら、先輩の胸に顔を埋うずめる。

 男の人の匂いがする。
 曲がりなりにもつき合って半年近くになる〝彼氏〟だというのに、この距離で当真先輩を感じたのは、はじめてだった。

「あ、まずい、今日汗掻いたんだ」

「全然……気にならないです」

 忘れらない人がいて忘れさせてほしいと、正直にそう伝える事も考えた。当真先輩ならきっと、受け止めてくれる気がした。

 けどそんなのエゴだよね、勝手な話だ。
 先輩に言うことではないと、胸にしまう。


「俺今、心拍数がすごいことになってる」

「私もです」

「今日なんかさ、碧ちゃんに別れ話をされるかと思った」

「……しません、別れ話なんて」


 公ちゃんのことが好きなら、本人に言えばいいじゃない。忘れたいなら、自分の中ですっきりした方が区切りがつくじゃない。

 私自身の頭の中で、その討論は何度も繰り返されてきた。

 後のことは何も考えず、公ちゃんに思いを伝える──それができたらどんなに……。


 伝える気はない。


 好きになった相手が全く関係のない他人なら、振られても仕方がないととっくにぶつかっていた。当たって砕けろでダメならダメで自分が傷つけば済む話だもの。
 私だって、言えるものなら言いたかった、好きだと。

 でも公ちゃんはだめ。公ちゃんだけは。

 公ちゃんが欲しいのは、私の恋心ではないから。妹だから。安心できる家族だから。

 私の思いを伝えたら私だけの問題ではなくなる。公ちゃんの居場所を奪うことになり、困らせることになる。

 それだけはわかっていた。

 公ちゃんが大切にしてきたものを壊すわけにはいかない。壊れたって仕方がないなんて思えない。

 夕暮れの中を、公ちゃんが誰とバイクで気持ちよく走っていようが、私とは関係のないことだ。思い出さない。


「碧ちゃん、今日これから──」

「……」

「うちに来ない?」

 迷うことなど何もない。


 その日初めて、先輩の部屋へ行った。

 恋人同士として繋がるために。

 当真先輩は優しかったし、おそらくとても丁寧だった。あの人でなければ受け入れられない、などと、身体が拒絶するようなこともない。キスもセックスも、それほど大袈裟なものではなく、呆気ないほど容易に私の足りない部分を満たしてくれた。

 正しいか正しくないかはわからない。でも私には、必要なことだった。




 朝の早い時間に目が覚めて、隣で眠る当真先輩の健やかな横顔を見た。


「…………」


 なぜそんな事を考えてしまうのか。

 女友達との旅行の時のように寂しさを感じ、先輩とのはじめての朝なのに、説明しがたい涙が溢れた。だめだな、私ほんとに……。

 ここにいるのが公ちゃんなら、なんて。


 ひどい事を考えていると思う。裏切りかもしれない。

 でも今だけ、許して、絶対に言わないから。これからもっともっと、先輩のことを好きになるから。この気持ちに蓋をして、ちゃんと忘れるから。


 二十歳の頃の私は、とても真剣で純粋で、だけどすこしだけ狡かった。

 そして全くわかっていなかったのだ。誰かを好きだという思いをコントロールするなど、もとより無理な話だということを。


 当真先輩とは、それから一年程付き合いが続いた。とても大切にしてもらったし、私も一緒にいる間は楽しくて、先輩のことを思って、たくさん幸せな時間を過ごした。

 社会人と学生の、よくありがちな些細なすれ違いが積み重なり別離に至ったわけだが、当真先輩の心が私から離れていった理由は、それだけではなかったと思う。

 一番わかり合いたい人が本心を誤魔化して別の方を向いているとか、〝一生懸命〟自分を好きになろうとする彼女の様子をどう捉えていたのか。私の知らないところでたくさん傷付けていたのかもしれない。

 彼が何を考えていたのかは、今となってはもうわからないけれど。




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