これにて一件落着、菊姫は名奉行

勇内一人

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弐の巻 豆福入れ替え騒動

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 それから、しばらくして。いつもように二人揃って道場から帰って来たところ、菊の愛犬豆福がいないことに気が付いた。庭には豆福によく似た狆がいるが、明らかにこれは豆福ではない。何故ならば、この狆の尻の辺りには豆福にはない、大きな禿はげがあるからだ。
「もしかしたら豆福をかどわかして、この狆と入れ替えしたとか?」
「まさか。でも、それしか考えられないような気もする」
 世間では狆はまだ珍しい。町で見かけたこと皆目なく、日本橋にある呉服屋で飼われていると噂になっているくらいだ。
「お主は何処からやって来たのだ?」
 禿のある狆はぷるぷると体を震わせ、目は涙で潤んでいる。
「豆福も可愛いが、お主も可愛いのぉ。名は何と申すのだ? 毛が抜けて可哀そうだな、毛抜けの抜け丸よ」
 菊が抱き上げると、狆は尻尾を振り喜んだ。その愛らしい姿に菊姫も思わず笑顔になる。だが、愛犬の豆福が行方知らずなのだ。暢気に可愛いなど言っている場合ではない。
 玄関口は違えども、奉行とその家族は奉行所内の裏屋敷に住んでいる。その住まいに侵入し、豆福を連れ出すとは何とも大胆不敵な輩がいるものだ。
「入れ替わっているなんて、全く気づきませんでした」
 女中たちや母の茜も驚いていた。
「奉行所に侵入するという危険を冒してまで、豆福を連れ出すにはそれ相当の理由があるはずだ」
 奉行所に曲者が入り込んだとは面目丸つぶれ。だが、何も盗まれず、狆の豆福だけがいない。しかも、身代わりのように別の狆が残されている。
「あまりにも妙な犯行だなぁ」
 詰めている与力や同心たちは、犯人の奇妙な行動に笑いをこらえていた。それでも菊にとって豆福は大事な、大事な愛犬だ。たとえ可愛くても、身代わりでは困るのだ。
「あれは異母兄上から譲り受けた犬。菊がしかと世話をすると約束したのに、盗まれるとは情けない」
 いつもは堂々としている菊が何だか小さく見える。こんなに落胆するほど豆福は大事な存在なのだろう。しかし、銭や宝が盗まれたわけではないから、奉行所の出る幕ではないと言われてしまった。
 それならば、ここは菊のために手前が一肌脱ごうではないか。
「よし、俺が豆福を見つけてしんぜよう」
 いつもは菊がいの一番に声を上げるが、今度は光之助の番だった。
「ありがたい、光之助殿。もちろん、私も手を貸すぞ」
 それから、さっそく二人して豆福探しを始めた。

 大事な狆は家の中で飼われることが多く、町で見かけることはない。呉服屋の伊勢本屋で飼われているという噂だが、誰も見たことがないそうだ。
「せめて鳴き声でも聞こえればなぁ」
 狆は無駄吠えしないゆえ、鳴き声さえ聞いた者はいないという。
「もしかしたら、我々を追い回していた奴が豆福を盗んだのではあるまいか?」
「それはあり得るかもしれないな。豆福が菊殿の愛犬だと知った上、菊殿の留守を狙っていたのかもしれぬ」
 それならば合点がいく。菊の行動を調べて留守を狙い、豆福と抜け丸を入れ替えたに違いない。そうとなれば、こそこそと探りを入れるより、堂々と正面から直撃した方が良いと思えた。
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