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プロローグ
日常
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たとえば。
たとえば年頃の女性が色やサイズ選びに悩んでいる場合、どういうシチュエーションを想像をするだろうか。
普通に考えれば、ショップで洋服を選んでいる姿――今の時期ならフェミニンな春物、夏ならガーリーな水着、下着ならばそれこそ年中――ラグジュアリーなひとときを恋人同士、友人同士で過ごしたりするシーンを思い起こしたりするのだろう。
でもここはフェミニンな春物やガーリーな水着、ましてやラグジュアリーなひとときを送れるワンランク上のランジェリーなどが陳列されたショップではないし、目の前でハミングしながら何にしようか迷ってるのは恋人でもなければ友人でもない。
「んー、これは気分じゃないかなー」
青を手にした彼女はいう。
「これはこの間使ったし」
赤を戻す。
そんな彼女の格好はブラトップに……サテン生地でサイドが紐のシンプルなフルバックパンティ。露出狂ではない。
「ん、これにしようっと」
お気に入りの一品を発見したかのように呟きながらパンティのふちをなぞるように指をすべらせると、ぱちんという音とともに空気が色めいた気がした。
よく手入れされたロングヘアーをふわりと舞わせながら笑顔をこちらに向ける。
恋人でもなければ友人でもない、手にバンテージを巻いた彼女はピンクのそれに決めると、そっと拳に装着する。
「……じゃあ、お願いね」
甘えるように、淡紅色をまとった左手のひらを突き出す。ぶら下がった白い紐をくいくいっと引っ張り、何度か手首で交差させたのち、きつめに結ぶとやはり右も同じようにきっちり固めた。
若干、うっとりしたような表情の彼女は待ち切れないといった体で肩を悩ましげに何度も何度も小刻みに上下させる。
ブラトップ越しにカタチのいい胸が揺れる。
見ようによっては官能的な曲線を描くピンクを装備した彼女にうながされて、僕はドックに刺さっているDAPの再生ボタンを押す。同時にその横に鎮座してある黄金色の鐘を小槌で打ち鳴らした。
カァーンという澄んだ音が糸を引くように細くなっていく中、ばすん、ばすんとピンクとピンクを付き合わせる悩ましげで鈍重な音が辺りの空気をふるわせるように響く。
始まると思って振り向いた刹那、残酷さと艶かしさを纏った彼女の右腕が絹を切り裂くような勢いで飛んできた。
視界がショッキングピンクに覆われた瞬間、鼻孔から後頭部へと冷気が駆け抜けるような錯覚に襲われた。
殴られたと理解する間もなく、二発目の左が右頬に食い込む。
踏ん張って体勢を保つ。
彼女は足を巧みに使って距離を調整し、鼻歌交じりに懐に入り込む。
距離を測るかのようなジャブの連打が鼻先をゆがませる。間をおかずに飛んでくるであろう大砲を警戒して歯をグッと食いしばる。
ふっ、と鼻を鳴らし、再び顔面に放たれたストレートで体勢がぐらつく。
保つ。
はっ、と息を吐き、左フック。
保つ。
んっ、と声が漏れ、みぞおちにヘヴィな右。
保つ。
彼女の拳はご機嫌だった。
何発かに一回の確率でダッキングやブロッキング、スリッピングなどを駆使しつつ凶悪な、しかし無邪気さをまとった拳を回避し、その度に彼女は「うん、そうそう」とか「その調子」とか誉めてはくれるのだけれど、ご褒美のつもりなのかその次には決まって重めのを容赦なく打ち込んでくるので、けっきょく僕は二倍喘ぐ羽目になった。
調子に乗ってパアリングやストッピングにも果敢にチャレンジしてみたものの、彼女のフェイントにいいように翻弄されただけで、結局は被弾してしまうのだった。
空間を自在に舞う拳が打ち込まれるたびにピンクが網膜に焼きつき、顔面に残される痛みは無遠慮に僕の深部感覚を刺激する。一打ごとに皮革特有の匂いは鼻腔の奥にこびりつき、拳を握り直せば微かにうなる革の収縮音が耳の奥まで届く。前歯にナメクジのごとくまとわり付いている樹脂の塊を噛み直すと舌の上は錆びた鉄の味でいっぱいになった。
当たらない、と分かってはいても、ただ動くだけのサンドバッグじゃないのだし、一応、反撃らしきことはしてみるけれど、面白いようにすべて無効化されてしまう。
それどころか、避けた反動を次に打ち込むパンチに遠慮なく乗せてくるので、余計なダメージを蓄積するだけだったりする。
ジャブともストレートともフックともどうとでも取れそうな左の裸拳を突き出すと、お手本にしたくなるようなきれいなスリッピングでもってかわされ、右が飛んでくる。
ボディを狙おうと右の拳を握り込むものの、察知されストッピングされる。
ジャブを放ってもパアリングで内側に流されるので距離をとられて反撃もままならない。
ステッピングで部屋を滑るように移動する様はダンサーのそれだった。
今、街に出ればそこかしこに咲き誇っている桜のように僕の顔面には桜色の花びらならぬ拳が舞っている。尋常じゃない痛みを伴って、執拗に幾度も幾度も食い込んでは僕の顔を楽しげに陵辱し続けた。
さんざん自分の五感に振り回され、パンチのバリエーションはほぼ出尽くしたのではないだろうかと思われた頃、永遠に続くかのように思われた理不尽な暴虐は、時間でいえばほぼ3分といったところだろうか、終わりを告げ、先ほどかけた曲も終わっていた。
お気に入りということもあるのだろうけれど、時間的にちょうどいいと彼女はいっていた。クラシックはよく分からないけれど父のお気に入りでイタリアのサンドイッチみたいな名前の曲だったはずだ。
「パガニーニよ」
久しぶりの濃密なコミュニケーションに満足したらしい彼女が大人の笑みで答える。
キョウシキョクとか続けていたような気もするけれど、正確に頭に入っては来ない。
ちなみに音楽とは別に鳴らされたゴングは「気分を盛り上げるため」のアイテムに過ぎないらしい。
ハンドモデルでも務まりそうなくらいしなやかで白さの映える手のひらから、普通の女性ならば一生、縁もゆかりもないであろうセクシーでピンキーな、アクセサリーと呼ぶには血なまぐささを漂わせるそれを外してパーテーションに掛け直す。
赤を中心に青、黄、緑、黒、白、銀、金(!)……色も大きさも違うおびただしいボクシンググローブ――すべて紐式なのは彼女のこだわりらしい。曰く「紐じゃないボクシンググローブは認めない」のだそうだ――がこの部屋の異様さを物語っている。
もっともブランドやオンスの違いはあれど使用頻度が高いのは圧倒的に赤で今日使ったピンクを除けば他の色はお飾りにすぎない。
するすると慣れた手つきバンテージを巻き取りながら、彼女はマットの上でぐったりしている僕に声をかける。
「一緒に入る?」
答える気力もなく、かすかに頭を横に動かすので精一杯の僕に、入りたかったら遠慮せずに来るのよとやさしくいい残して、バスルームへ向かった。
グローブがぶら下がったパーテーション以外これといったものがない広い部屋に取り残された僕は訪れた静寂の中、ぼんやりとあの人のことを思う。
あの人はたった今まで僕をサンドバッグのように扱っていたハウスメントボクサーにただならぬ想いを寄せている。そして僕はあの人のことが好きだった。
フェイスガードタイプのヘッドギアを脱ぎ、口の中から異物を取り出すと、それをじっと眺めた。ヘッドギア同様、僕の口内を守ってくれたマウスピースはてらてらと妙な輝きをそこらじゅうにばら撒いている。
まだふらつく頭を何度か回して、ようやく立ち上がり、部屋を出た。
次のお呼ばれはいつになるのやら。
春だというのにちょっと鬱な気分になりながら、自分の部屋に戻った。
たとえば年頃の女性が色やサイズ選びに悩んでいる場合、どういうシチュエーションを想像をするだろうか。
普通に考えれば、ショップで洋服を選んでいる姿――今の時期ならフェミニンな春物、夏ならガーリーな水着、下着ならばそれこそ年中――ラグジュアリーなひとときを恋人同士、友人同士で過ごしたりするシーンを思い起こしたりするのだろう。
でもここはフェミニンな春物やガーリーな水着、ましてやラグジュアリーなひとときを送れるワンランク上のランジェリーなどが陳列されたショップではないし、目の前でハミングしながら何にしようか迷ってるのは恋人でもなければ友人でもない。
「んー、これは気分じゃないかなー」
青を手にした彼女はいう。
「これはこの間使ったし」
赤を戻す。
そんな彼女の格好はブラトップに……サテン生地でサイドが紐のシンプルなフルバックパンティ。露出狂ではない。
「ん、これにしようっと」
お気に入りの一品を発見したかのように呟きながらパンティのふちをなぞるように指をすべらせると、ぱちんという音とともに空気が色めいた気がした。
よく手入れされたロングヘアーをふわりと舞わせながら笑顔をこちらに向ける。
恋人でもなければ友人でもない、手にバンテージを巻いた彼女はピンクのそれに決めると、そっと拳に装着する。
「……じゃあ、お願いね」
甘えるように、淡紅色をまとった左手のひらを突き出す。ぶら下がった白い紐をくいくいっと引っ張り、何度か手首で交差させたのち、きつめに結ぶとやはり右も同じようにきっちり固めた。
若干、うっとりしたような表情の彼女は待ち切れないといった体で肩を悩ましげに何度も何度も小刻みに上下させる。
ブラトップ越しにカタチのいい胸が揺れる。
見ようによっては官能的な曲線を描くピンクを装備した彼女にうながされて、僕はドックに刺さっているDAPの再生ボタンを押す。同時にその横に鎮座してある黄金色の鐘を小槌で打ち鳴らした。
カァーンという澄んだ音が糸を引くように細くなっていく中、ばすん、ばすんとピンクとピンクを付き合わせる悩ましげで鈍重な音が辺りの空気をふるわせるように響く。
始まると思って振り向いた刹那、残酷さと艶かしさを纏った彼女の右腕が絹を切り裂くような勢いで飛んできた。
視界がショッキングピンクに覆われた瞬間、鼻孔から後頭部へと冷気が駆け抜けるような錯覚に襲われた。
殴られたと理解する間もなく、二発目の左が右頬に食い込む。
踏ん張って体勢を保つ。
彼女は足を巧みに使って距離を調整し、鼻歌交じりに懐に入り込む。
距離を測るかのようなジャブの連打が鼻先をゆがませる。間をおかずに飛んでくるであろう大砲を警戒して歯をグッと食いしばる。
ふっ、と鼻を鳴らし、再び顔面に放たれたストレートで体勢がぐらつく。
保つ。
はっ、と息を吐き、左フック。
保つ。
んっ、と声が漏れ、みぞおちにヘヴィな右。
保つ。
彼女の拳はご機嫌だった。
何発かに一回の確率でダッキングやブロッキング、スリッピングなどを駆使しつつ凶悪な、しかし無邪気さをまとった拳を回避し、その度に彼女は「うん、そうそう」とか「その調子」とか誉めてはくれるのだけれど、ご褒美のつもりなのかその次には決まって重めのを容赦なく打ち込んでくるので、けっきょく僕は二倍喘ぐ羽目になった。
調子に乗ってパアリングやストッピングにも果敢にチャレンジしてみたものの、彼女のフェイントにいいように翻弄されただけで、結局は被弾してしまうのだった。
空間を自在に舞う拳が打ち込まれるたびにピンクが網膜に焼きつき、顔面に残される痛みは無遠慮に僕の深部感覚を刺激する。一打ごとに皮革特有の匂いは鼻腔の奥にこびりつき、拳を握り直せば微かにうなる革の収縮音が耳の奥まで届く。前歯にナメクジのごとくまとわり付いている樹脂の塊を噛み直すと舌の上は錆びた鉄の味でいっぱいになった。
当たらない、と分かってはいても、ただ動くだけのサンドバッグじゃないのだし、一応、反撃らしきことはしてみるけれど、面白いようにすべて無効化されてしまう。
それどころか、避けた反動を次に打ち込むパンチに遠慮なく乗せてくるので、余計なダメージを蓄積するだけだったりする。
ジャブともストレートともフックともどうとでも取れそうな左の裸拳を突き出すと、お手本にしたくなるようなきれいなスリッピングでもってかわされ、右が飛んでくる。
ボディを狙おうと右の拳を握り込むものの、察知されストッピングされる。
ジャブを放ってもパアリングで内側に流されるので距離をとられて反撃もままならない。
ステッピングで部屋を滑るように移動する様はダンサーのそれだった。
今、街に出ればそこかしこに咲き誇っている桜のように僕の顔面には桜色の花びらならぬ拳が舞っている。尋常じゃない痛みを伴って、執拗に幾度も幾度も食い込んでは僕の顔を楽しげに陵辱し続けた。
さんざん自分の五感に振り回され、パンチのバリエーションはほぼ出尽くしたのではないだろうかと思われた頃、永遠に続くかのように思われた理不尽な暴虐は、時間でいえばほぼ3分といったところだろうか、終わりを告げ、先ほどかけた曲も終わっていた。
お気に入りということもあるのだろうけれど、時間的にちょうどいいと彼女はいっていた。クラシックはよく分からないけれど父のお気に入りでイタリアのサンドイッチみたいな名前の曲だったはずだ。
「パガニーニよ」
久しぶりの濃密なコミュニケーションに満足したらしい彼女が大人の笑みで答える。
キョウシキョクとか続けていたような気もするけれど、正確に頭に入っては来ない。
ちなみに音楽とは別に鳴らされたゴングは「気分を盛り上げるため」のアイテムに過ぎないらしい。
ハンドモデルでも務まりそうなくらいしなやかで白さの映える手のひらから、普通の女性ならば一生、縁もゆかりもないであろうセクシーでピンキーな、アクセサリーと呼ぶには血なまぐささを漂わせるそれを外してパーテーションに掛け直す。
赤を中心に青、黄、緑、黒、白、銀、金(!)……色も大きさも違うおびただしいボクシンググローブ――すべて紐式なのは彼女のこだわりらしい。曰く「紐じゃないボクシンググローブは認めない」のだそうだ――がこの部屋の異様さを物語っている。
もっともブランドやオンスの違いはあれど使用頻度が高いのは圧倒的に赤で今日使ったピンクを除けば他の色はお飾りにすぎない。
するすると慣れた手つきバンテージを巻き取りながら、彼女はマットの上でぐったりしている僕に声をかける。
「一緒に入る?」
答える気力もなく、かすかに頭を横に動かすので精一杯の僕に、入りたかったら遠慮せずに来るのよとやさしくいい残して、バスルームへ向かった。
グローブがぶら下がったパーテーション以外これといったものがない広い部屋に取り残された僕は訪れた静寂の中、ぼんやりとあの人のことを思う。
あの人はたった今まで僕をサンドバッグのように扱っていたハウスメントボクサーにただならぬ想いを寄せている。そして僕はあの人のことが好きだった。
フェイスガードタイプのヘッドギアを脱ぎ、口の中から異物を取り出すと、それをじっと眺めた。ヘッドギア同様、僕の口内を守ってくれたマウスピースはてらてらと妙な輝きをそこらじゅうにばら撒いている。
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