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ふたりの少女
登校
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「はよーっす」
黒御影石独特の鈍いきらめきをそこここに放つ校銘板が埋め込まれた於牟寺学園高等部の、威厳を通り越してただひたすら威圧感を漂わせる重厚かつ高踏的な門をくぐると、見慣れた顔がこちらに寄って来た。
「……どした?」
ワックスでほどよく散らされた髪をふわふわさせながらロクこと六反園ハヤマは自分の顔をさすって見せながら訊く。もう何年も付き合いがある、言い古された表現をあえてすれば、腐れ縁というやつだ。正確に腐った年数など今さら数えたくもない。
「昨日の夜、一戦交えられた」
わずか1ラウンドほどのコミュニケーションだったけれど、派手に拳を振るうわりに実害はたいしてなかったりする。鼻に近い頬辺りが微かに赤くなっているくらいの小さな痕。
彼女はその手の加減を熟知しており、目の周りなどにあざを残すようなことはしない。
ましてや、
「驚いたわね、わたくしのストレートを浴びて一発で倒れないなんて……」
とか、どこぞの浮世離れした殺人パンチ持ち女子高生みたいに上から目線で吐き捨てたりもない。
専用サンドバッグの扱いには本当に慣れているのだ。腹立たしいくらいに。
ロク、というか他のみんなは一戦の内容のことまでは知らない。せいぜい軽い取っ組み合いというかじゃれ合ったくらいの認識しかない。
そんな昨晩のことを思い出しながら答えていると、眼前の腐った顔がゆがんだ。この芝居がかったニヤけた表情を見ていると濡れたズックで引っ叩きたくなる衝動に駆られる。
「仲がいいなあ、羨ましいったらねえよ!」
いいながら、ひとのわき腹をつつき始める。痛いのと、くすぐったいのと、ひとの気も知らずにはしゃぐバカさ加減に腹が立ったので中指と薬指を揃えて丸めると親指に引っ掛ける。渾身の力を指に溜め込むと、腐った顔面の上部、前額部にたっぷりとしならせた二本を勢いよく放つ――。
ばちんっと心地いい音が辺りに響いた。顔に残る理不尽な痛みが多少、軽減された、そんな一撃だった。
アメコミのふきだしに踊っていそうなバタくさいフォントを思わせる叫び声を上げながら、腐った果実のごとく、ぼとりと倒れこむロクを置いて下駄箱に向かうと、見慣れたセミロングが上履きを手にこちらを振り返った。
「おはよう。今日も仲、いいね」
七ツ役シギヤは上履きに履き替えると、興味深げに後方に目をやった。腐った果実でも見ているのだろう。お腹を壊すからやめろといってやりたい気分だ。
「あの程度で仲がいいっていうのなら、シギとは夫婦になっちゃうな」
「そうだねえ」
可笑しいのか可笑しくないのかよく分からない、しかし裏表など微塵も感じさせない自然体を地で行くような笑顔をシギは返す。こんなことを面と向かっていえる女子はシギだけだ。今のところ。
「今日も一生のうちの一日が跡形もなく消え去り、人は自分の墓場に向かってさらに一歩進めることになるんだな」
いつか父の書斎で大部ゆえに最初の一ページ途中で挫折した小説の一節をつぶやくと、背後から声がかかった。
「なんだよ、それ」
復活したロクがいつの間にか横にいて、シギと挨拶を交わしてる。
「小説」
「誰の?」
「忘れた。ロシア辺りの文豪、だったかな」
「じゃあ、ドフトエフスキーだろ」
ロシアの文豪といえばドストエフスキーという短絡さがたまらない。まあ、人のことはいえないけれど。いい間違いはスルーしてやろう。
「トルストイじゃない」シギも加わる。「あ、チャイコフスキーかも」
シギはたまにわざとなのか自然体なのか、判別に苦しむ発言をすることがある。ロク以上に付き合いが長いシギだけれど、未だにその辺はつかみ所がない。しかし、あえてここはスルーすべきだろう。
そもそもそれが何なのか、別に知ったところでどうということもない。
クラスが別のシギと分かれ、まだ数えるほどしか入っていないため新鮮さを実感できる教室に足を踏み入れ、カバンを机に置くと、左衛門三郎ミカがまるで狙っていたかのようにしゃなりしゃなりとこちらに向かって来た。後方にはいつものように従者である三次が影のようにぴたりと貼りついている。彼女にはもう一人、従者がいるのだがクラスが別だ。シギと同じクラスだったと思う。
基本的に誰にでも愛想のいい左衛門三郎のお嬢様と違って、従者の三次は呆れかえるくらい表情が変わらない。やや地味目ではあるものの、ちょっとクールビューティ系でたまに笑顔のひとつでも見せればそれなりの人気を得られるのではないのだろうか、などど一部の男子たちの間で語られていたりするのだけれど、さすがに大きなお世話なのかもしれない。さぞかし顔面の筋肉が強固なのだろう、能面と陰口を叩かれるのも納得の堅牢さがそこに見え隠れしているようで恐怖すら感じる。もう一人の従者はちょっとおどおどした感じの子で、こちらはまだ人間味を感じることができたと記憶している。
左衛門三郎のお嬢様たちとは小学校に入学して以来の顔見知りで、お嬢様とは小学校から九年間ずっと同じクラスで今年、高等部でもめでたく記録更新と相成った。
幼稚園の頃から知っているシギを除けば、ずいぶん付き合いが長い同級生の一人だ。
「ごきげんよう、一君」
目の前に泰然と居座るお嬢様が物憂げに口を開いた。
「先ほどのお話ですが」
何のことだと訝しがっていると、どうやら例の文豪のことらしい。もう頭の中から消し去った懸案であるのだけれど。
……というか聞いていたんだ。
「あれはゴーリキーですわ」
「ゴーリキー?」
「ええ、マクシム・ゴーリキー」
お嬢様は一節が出てくる作品名はもちろん、ご丁寧に件の文豪の本名やペンネームの意味まで語ってくれていたのだが、まるで頭に入ってこなかった。しょせん耳なじみのない国の固有名詞である。
話終えたところを狙って、礼をいう。僕はお嬢様とは話をしたくなかった。しかし。
「一君は未だに参加してくれません」
やや拗ねたような物言いで続ける。軽くカールした肩にかかる彼女の毛先が持ち主の計算づくであろう上半身の動きに合わせて従順に揺れる。
お嬢様のいう参加とは、彼女が定期的に開く親睦会のことである。中等部、いやそれ以前の小学校の頃からだと思うけど、クラスメイトはもちろん、他のクラスの生徒まで左衛門三郎のお屋敷に呼んで、楽しいひと時を過ごすのだそうだ。
伝聞調なのはお嬢様のいうように未だに参加していないからだ。ロクは何度か行ってるようだけど、シギは僕と同じで不参加組だ。理由は……女という生き物は男には理解不能で独特なコミュニケーション形態があるそうで、だから聞いてもきっと無駄なのだろう。
僕の理由は単純明快、お金持ちが好きじゃないからだ。そう、ヒガミ。ただの。それともう一つ。
「キュレーターのお姉さまともども是非いらして下さいと何度もお誘いしてますのに」
そう、これ。
姉は地元の私立美術館で学芸員をしているのだが、以前、お嬢様と話をしたとき、彼女の職業を聞いたが早いか、ひとりで納得したかのように、ああ、キュレーターですのね、とそれはお上品な笑い声とともに発したその瞬間、僕は彼女が苦手になっていた。それがなくともお金持ちのお嬢様の時点で相容れなかったのだけど、このキュレーター発言は彼女への苦手意識を決定づけるインパクトがあった。
ところでキュレーターなる呼称は姉いわく、間違いではないが、正しくもない。
あまり興味がないので込み入った話は訊かなかったけれど、日本の学芸員は外国のそれとは違うということらしい。完全分業制の、本来の意味でのキュレーターと違って、日本の学芸員は事務方の仕事も、それこそ力仕事も一切合切まとめてこなす、学芸員というよりは雑芸員なのだそうだ。一見優雅なようでいて、実はガテン系という意外な一側面がある職業、それが美術館勤務の実状らしい。
なるほど、特別ジムなどに通わなくても、弟をサンドバッグ扱いするなど朝飯前なわけだ。
昨夜のコミュニケーションを思い出し、思わず鼻をなでていると、お嬢様がちらちらとこちらをうかがっていた。答えを待っているのだろうが、どういわれようとも出席する気など、毛頭、ない。
お邪魔する理由はないよ、ともう何度口にしたか分からない丁重な固辞を、しかし先ほどの文豪に対する礼を再度、添えて告げると、後者の方をことさら強く前向きに受け取ったらしく、お嬢様は満足げに頷きながら席に着いた。
ひょっとすると。お嬢様は件の文豪とのことはきっかけに過ぎず、親睦会へ誘うのが目的だったのではないかと考えたりもした。
そういえば高等部へ上がってからは初めてのお誘いだった気がする。昔から律儀に従者に招待状を持たせるようなことはせずに、直接やって来ては「ぜひいらしてください」を繰り返していたように思う。
苦手なお嬢様を振り返ってみる。
何やら本を取り出し、読書を始めていた。
彼女を取り巻くその空間だけ、気品にあふれた特別な場所のように思えてちょっとめまいがする。
間違いなく美人の部類なのだろう。そこに家柄など付加価値も加わる。
「一君は未だに参加してくれません」
彼女が放った、芝居がかっているとばかり思っていたセリフを思い出して、なぜか、少し鬱な気分になった。
*
昼休み。
大多数の生徒にとっては退屈な授業中心の学園生活において紛れもないお楽しみイベントなのだろうけど、自分にとっては個体の単純再生産に必要なエネルギーを摂取するためのいとまに過ぎない、そんな時間。
とはいえ、こうしてロクやシギのつきあいで学食のテーブルでぼうっと生徒たちの喧騒に耳を傾けるのもそうそう悪いものじゃない。
春の日差しを受けたテーブルの白が瞳を容赦なく焼き尽くすかのように刺激する。そういえば三人で座るときは窓際が多い。というか、テーブルチョイスの選択権はいつも先に着席しているシギが持っているので、他の席についた記憶がない。中等部のときからそうだった。
「左衛門三郎さんと何を話していたの?」
果汁100%のオレンジジュースをひと口、くちびるを濡らすように啜りながら、シギが訊いてきた。皿の上に乗ったバケットサンドが旨そうだ。
「……見てたの?」
「教室に入ってすぐ、左衛門三郎さんがナギちゃんに近づくのが見えた」
バケットサンドをちぎるか齧るか逡巡しているシギの横でオムライス(!)を慎重に崩そうと格闘中のロクが食欲をそそるなまめかしい黄色い木の葉型の小山から目を逸らさずに引き継いだ。
「ああ、話してたな。どうせ親睦会のことだろうさ」
正解。
「返事したの?」
「したよ。答えはいつも、同じ」
シギの潤んだような、まだこの世の汚れなど直視したことなどないであろう双眸にいくぶんかの安堵の色が揺らめいたような気がした。もし行くことにしたとして、どういう反応を見せるのか、見てみたい気もするが、それはシギに悪いし、あのお嬢様に対しても、好きじゃないとはいえ、失礼というものだ。
シギの無邪気の固まりのような瞳にちらりと確認することが出来た、先ほどの小さな小さな変化は行動に現れた。
「はい、ナギちゃん、あーん」
手にしていない方のバケットサンドを摘んで、こちらにそっと差し出す。
僕はすでにバータイプの栄養食品を一本、食べてしまっていて、紙パックの野菜ジュースだけ。特に空腹というわけでもないけれど、断る理由もない。口を大きく開けて、待機。
「仲、いいねえ」
黄色とオレンジと茶色、字面にするとアレだけど、空腹の胃には刺激的な組み合わせのオムライスの破片を口に運びながら、ロクがハミングするようにいった。だが今は眼前にバケットサンドがある。はみ出た鮮度バツグンのレタスがやたらとまぶしい。
ひと口ではもちろん無理ではあったけれど、それでも全体の3分の1を齧り切ったところでシギが満足そうに指をはなした。静かに、優しく。
「やっぱりシギヤはナギがお嬢様のところに行くと面白くないわけ?」
真ん中から攻めることにしたらしいオムライスを愛おしそうに突っつきながらロクが訊く。相変わらず視線は黄色の物体を捉えたままだ。
「それはナギちゃんの勝手だよ」
いいながら、攻めあぐねていた自分のバケットサンドにようやく齧りつきながら、シギはごく自然に答えた。
「だとさ。行けばいい」
イエローマウンテンも半分は胃の中へ運ばれていったようで、ロクは名残惜しそうに残りのオムライスを突いていた。
「行く理由もないし、大体、行って何するんだよ」
「食べたり、飲んだりしつつ、生徒同士、親睦を深めるのさ」
けっこう楽しいぞと付け加えて、ロクはもう皿に残された物体の処理に集中した。
楽しい、生徒同士の親睦目的の集まり。
仲間と愉快に過ごす長い人生。
シギと驚くくらい、同じタイミングでバケットサンドを消化しながら、ふと思った。
「一君は未だに参加してくれません」
朝の、お嬢様のセリフがまた、浮かんだ。
何十回と断り続けているにも関わらず、諦めることなく、意地の悪い見方をすれば懲りることなく誘い続けているお嬢様。
自分勝手な理由で一方的に嫌い、誘いを断っている自分は矮小なのかもしれない。
一度、参加すれば、何か変わるのだろうか。
黒御影石独特の鈍いきらめきをそこここに放つ校銘板が埋め込まれた於牟寺学園高等部の、威厳を通り越してただひたすら威圧感を漂わせる重厚かつ高踏的な門をくぐると、見慣れた顔がこちらに寄って来た。
「……どした?」
ワックスでほどよく散らされた髪をふわふわさせながらロクこと六反園ハヤマは自分の顔をさすって見せながら訊く。もう何年も付き合いがある、言い古された表現をあえてすれば、腐れ縁というやつだ。正確に腐った年数など今さら数えたくもない。
「昨日の夜、一戦交えられた」
わずか1ラウンドほどのコミュニケーションだったけれど、派手に拳を振るうわりに実害はたいしてなかったりする。鼻に近い頬辺りが微かに赤くなっているくらいの小さな痕。
彼女はその手の加減を熟知しており、目の周りなどにあざを残すようなことはしない。
ましてや、
「驚いたわね、わたくしのストレートを浴びて一発で倒れないなんて……」
とか、どこぞの浮世離れした殺人パンチ持ち女子高生みたいに上から目線で吐き捨てたりもない。
専用サンドバッグの扱いには本当に慣れているのだ。腹立たしいくらいに。
ロク、というか他のみんなは一戦の内容のことまでは知らない。せいぜい軽い取っ組み合いというかじゃれ合ったくらいの認識しかない。
そんな昨晩のことを思い出しながら答えていると、眼前の腐った顔がゆがんだ。この芝居がかったニヤけた表情を見ていると濡れたズックで引っ叩きたくなる衝動に駆られる。
「仲がいいなあ、羨ましいったらねえよ!」
いいながら、ひとのわき腹をつつき始める。痛いのと、くすぐったいのと、ひとの気も知らずにはしゃぐバカさ加減に腹が立ったので中指と薬指を揃えて丸めると親指に引っ掛ける。渾身の力を指に溜め込むと、腐った顔面の上部、前額部にたっぷりとしならせた二本を勢いよく放つ――。
ばちんっと心地いい音が辺りに響いた。顔に残る理不尽な痛みが多少、軽減された、そんな一撃だった。
アメコミのふきだしに踊っていそうなバタくさいフォントを思わせる叫び声を上げながら、腐った果実のごとく、ぼとりと倒れこむロクを置いて下駄箱に向かうと、見慣れたセミロングが上履きを手にこちらを振り返った。
「おはよう。今日も仲、いいね」
七ツ役シギヤは上履きに履き替えると、興味深げに後方に目をやった。腐った果実でも見ているのだろう。お腹を壊すからやめろといってやりたい気分だ。
「あの程度で仲がいいっていうのなら、シギとは夫婦になっちゃうな」
「そうだねえ」
可笑しいのか可笑しくないのかよく分からない、しかし裏表など微塵も感じさせない自然体を地で行くような笑顔をシギは返す。こんなことを面と向かっていえる女子はシギだけだ。今のところ。
「今日も一生のうちの一日が跡形もなく消え去り、人は自分の墓場に向かってさらに一歩進めることになるんだな」
いつか父の書斎で大部ゆえに最初の一ページ途中で挫折した小説の一節をつぶやくと、背後から声がかかった。
「なんだよ、それ」
復活したロクがいつの間にか横にいて、シギと挨拶を交わしてる。
「小説」
「誰の?」
「忘れた。ロシア辺りの文豪、だったかな」
「じゃあ、ドフトエフスキーだろ」
ロシアの文豪といえばドストエフスキーという短絡さがたまらない。まあ、人のことはいえないけれど。いい間違いはスルーしてやろう。
「トルストイじゃない」シギも加わる。「あ、チャイコフスキーかも」
シギはたまにわざとなのか自然体なのか、判別に苦しむ発言をすることがある。ロク以上に付き合いが長いシギだけれど、未だにその辺はつかみ所がない。しかし、あえてここはスルーすべきだろう。
そもそもそれが何なのか、別に知ったところでどうということもない。
クラスが別のシギと分かれ、まだ数えるほどしか入っていないため新鮮さを実感できる教室に足を踏み入れ、カバンを机に置くと、左衛門三郎ミカがまるで狙っていたかのようにしゃなりしゃなりとこちらに向かって来た。後方にはいつものように従者である三次が影のようにぴたりと貼りついている。彼女にはもう一人、従者がいるのだがクラスが別だ。シギと同じクラスだったと思う。
基本的に誰にでも愛想のいい左衛門三郎のお嬢様と違って、従者の三次は呆れかえるくらい表情が変わらない。やや地味目ではあるものの、ちょっとクールビューティ系でたまに笑顔のひとつでも見せればそれなりの人気を得られるのではないのだろうか、などど一部の男子たちの間で語られていたりするのだけれど、さすがに大きなお世話なのかもしれない。さぞかし顔面の筋肉が強固なのだろう、能面と陰口を叩かれるのも納得の堅牢さがそこに見え隠れしているようで恐怖すら感じる。もう一人の従者はちょっとおどおどした感じの子で、こちらはまだ人間味を感じることができたと記憶している。
左衛門三郎のお嬢様たちとは小学校に入学して以来の顔見知りで、お嬢様とは小学校から九年間ずっと同じクラスで今年、高等部でもめでたく記録更新と相成った。
幼稚園の頃から知っているシギを除けば、ずいぶん付き合いが長い同級生の一人だ。
「ごきげんよう、一君」
目の前に泰然と居座るお嬢様が物憂げに口を開いた。
「先ほどのお話ですが」
何のことだと訝しがっていると、どうやら例の文豪のことらしい。もう頭の中から消し去った懸案であるのだけれど。
……というか聞いていたんだ。
「あれはゴーリキーですわ」
「ゴーリキー?」
「ええ、マクシム・ゴーリキー」
お嬢様は一節が出てくる作品名はもちろん、ご丁寧に件の文豪の本名やペンネームの意味まで語ってくれていたのだが、まるで頭に入ってこなかった。しょせん耳なじみのない国の固有名詞である。
話終えたところを狙って、礼をいう。僕はお嬢様とは話をしたくなかった。しかし。
「一君は未だに参加してくれません」
やや拗ねたような物言いで続ける。軽くカールした肩にかかる彼女の毛先が持ち主の計算づくであろう上半身の動きに合わせて従順に揺れる。
お嬢様のいう参加とは、彼女が定期的に開く親睦会のことである。中等部、いやそれ以前の小学校の頃からだと思うけど、クラスメイトはもちろん、他のクラスの生徒まで左衛門三郎のお屋敷に呼んで、楽しいひと時を過ごすのだそうだ。
伝聞調なのはお嬢様のいうように未だに参加していないからだ。ロクは何度か行ってるようだけど、シギは僕と同じで不参加組だ。理由は……女という生き物は男には理解不能で独特なコミュニケーション形態があるそうで、だから聞いてもきっと無駄なのだろう。
僕の理由は単純明快、お金持ちが好きじゃないからだ。そう、ヒガミ。ただの。それともう一つ。
「キュレーターのお姉さまともども是非いらして下さいと何度もお誘いしてますのに」
そう、これ。
姉は地元の私立美術館で学芸員をしているのだが、以前、お嬢様と話をしたとき、彼女の職業を聞いたが早いか、ひとりで納得したかのように、ああ、キュレーターですのね、とそれはお上品な笑い声とともに発したその瞬間、僕は彼女が苦手になっていた。それがなくともお金持ちのお嬢様の時点で相容れなかったのだけど、このキュレーター発言は彼女への苦手意識を決定づけるインパクトがあった。
ところでキュレーターなる呼称は姉いわく、間違いではないが、正しくもない。
あまり興味がないので込み入った話は訊かなかったけれど、日本の学芸員は外国のそれとは違うということらしい。完全分業制の、本来の意味でのキュレーターと違って、日本の学芸員は事務方の仕事も、それこそ力仕事も一切合切まとめてこなす、学芸員というよりは雑芸員なのだそうだ。一見優雅なようでいて、実はガテン系という意外な一側面がある職業、それが美術館勤務の実状らしい。
なるほど、特別ジムなどに通わなくても、弟をサンドバッグ扱いするなど朝飯前なわけだ。
昨夜のコミュニケーションを思い出し、思わず鼻をなでていると、お嬢様がちらちらとこちらをうかがっていた。答えを待っているのだろうが、どういわれようとも出席する気など、毛頭、ない。
お邪魔する理由はないよ、ともう何度口にしたか分からない丁重な固辞を、しかし先ほどの文豪に対する礼を再度、添えて告げると、後者の方をことさら強く前向きに受け取ったらしく、お嬢様は満足げに頷きながら席に着いた。
ひょっとすると。お嬢様は件の文豪とのことはきっかけに過ぎず、親睦会へ誘うのが目的だったのではないかと考えたりもした。
そういえば高等部へ上がってからは初めてのお誘いだった気がする。昔から律儀に従者に招待状を持たせるようなことはせずに、直接やって来ては「ぜひいらしてください」を繰り返していたように思う。
苦手なお嬢様を振り返ってみる。
何やら本を取り出し、読書を始めていた。
彼女を取り巻くその空間だけ、気品にあふれた特別な場所のように思えてちょっとめまいがする。
間違いなく美人の部類なのだろう。そこに家柄など付加価値も加わる。
「一君は未だに参加してくれません」
彼女が放った、芝居がかっているとばかり思っていたセリフを思い出して、なぜか、少し鬱な気分になった。
*
昼休み。
大多数の生徒にとっては退屈な授業中心の学園生活において紛れもないお楽しみイベントなのだろうけど、自分にとっては個体の単純再生産に必要なエネルギーを摂取するためのいとまに過ぎない、そんな時間。
とはいえ、こうしてロクやシギのつきあいで学食のテーブルでぼうっと生徒たちの喧騒に耳を傾けるのもそうそう悪いものじゃない。
春の日差しを受けたテーブルの白が瞳を容赦なく焼き尽くすかのように刺激する。そういえば三人で座るときは窓際が多い。というか、テーブルチョイスの選択権はいつも先に着席しているシギが持っているので、他の席についた記憶がない。中等部のときからそうだった。
「左衛門三郎さんと何を話していたの?」
果汁100%のオレンジジュースをひと口、くちびるを濡らすように啜りながら、シギが訊いてきた。皿の上に乗ったバケットサンドが旨そうだ。
「……見てたの?」
「教室に入ってすぐ、左衛門三郎さんがナギちゃんに近づくのが見えた」
バケットサンドをちぎるか齧るか逡巡しているシギの横でオムライス(!)を慎重に崩そうと格闘中のロクが食欲をそそるなまめかしい黄色い木の葉型の小山から目を逸らさずに引き継いだ。
「ああ、話してたな。どうせ親睦会のことだろうさ」
正解。
「返事したの?」
「したよ。答えはいつも、同じ」
シギの潤んだような、まだこの世の汚れなど直視したことなどないであろう双眸にいくぶんかの安堵の色が揺らめいたような気がした。もし行くことにしたとして、どういう反応を見せるのか、見てみたい気もするが、それはシギに悪いし、あのお嬢様に対しても、好きじゃないとはいえ、失礼というものだ。
シギの無邪気の固まりのような瞳にちらりと確認することが出来た、先ほどの小さな小さな変化は行動に現れた。
「はい、ナギちゃん、あーん」
手にしていない方のバケットサンドを摘んで、こちらにそっと差し出す。
僕はすでにバータイプの栄養食品を一本、食べてしまっていて、紙パックの野菜ジュースだけ。特に空腹というわけでもないけれど、断る理由もない。口を大きく開けて、待機。
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黄色とオレンジと茶色、字面にするとアレだけど、空腹の胃には刺激的な組み合わせのオムライスの破片を口に運びながら、ロクがハミングするようにいった。だが今は眼前にバケットサンドがある。はみ出た鮮度バツグンのレタスがやたらとまぶしい。
ひと口ではもちろん無理ではあったけれど、それでも全体の3分の1を齧り切ったところでシギが満足そうに指をはなした。静かに、優しく。
「やっぱりシギヤはナギがお嬢様のところに行くと面白くないわけ?」
真ん中から攻めることにしたらしいオムライスを愛おしそうに突っつきながらロクが訊く。相変わらず視線は黄色の物体を捉えたままだ。
「それはナギちゃんの勝手だよ」
いいながら、攻めあぐねていた自分のバケットサンドにようやく齧りつきながら、シギはごく自然に答えた。
「だとさ。行けばいい」
イエローマウンテンも半分は胃の中へ運ばれていったようで、ロクは名残惜しそうに残りのオムライスを突いていた。
「行く理由もないし、大体、行って何するんだよ」
「食べたり、飲んだりしつつ、生徒同士、親睦を深めるのさ」
けっこう楽しいぞと付け加えて、ロクはもう皿に残された物体の処理に集中した。
楽しい、生徒同士の親睦目的の集まり。
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「一君は未だに参加してくれません」
朝の、お嬢様のセリフがまた、浮かんだ。
何十回と断り続けているにも関わらず、諦めることなく、意地の悪い見方をすれば懲りることなく誘い続けているお嬢様。
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あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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