姉はすべてを支配する。さればわれらも姉に従おう。

さいきごそ

文字の大きさ
3 / 126
ふたりの少女

思慕

しおりを挟む
朝、何気なく呟いたように「一生のうちの一日が跡形もなく消え去り、自分の墓場に向かってさらに一歩進め」た今日という日も終わりを迎えようとしていた。とはいえ、まだ9時間余りあるのだけれど。
 校門をくぐってさてどうしたものかと考えあぐねていると、背後から透明感を伴った気配がかぐわしい香りとともに辺りに広がるのが分かった。
 羽二生はにうカヤノは伏目がちに視線を落としながら、ゆっくりとたおやかに現われた。規則正しく生え揃っている睫毛は濡れているようにも見える。
 こちらが起こした微弱な空気の変動に気づいたのか、彼女が下に向けていた視線をそっと寄越してきた。そして、少し期待した表情の変化など決して見せることなく、静かに、最小限の動きだけで会釈をしてみせた。
 自分でも恥ずかしくなるくらい動悸が激しくなっているのが分かる。こういう場合、悟られまいとすればするほど所作が妙になるのが相場だ。
 心中など察するのは不可能と思えるくらい凛としたまなざしが乱れ始めている胸の鼓動をいたずらに刺激する。
 この瞬間がずっと続けばいいのにと思う一方で、すぐに終わるだろうことは哀しいかな容易に想像できる。均衡を破ったのは彼女だった。
「ナナミさんは……お元気?」
 こぼれる笑顔。くちびるから控えめに覗く輝くような白は睫毛と同じく整然と並んでいる。これが自分へ向けられたものならば、どんなに幸せだったであろう。
 ナナミ―――。
 それはあのハウスメントボクサーのことだ。彼女が想い焦がれて、そして大げさな物言いではあるけれど、僕の人生に影を落としている絶対支配者にして実姉。
 左衛門三郎のお嬢様とはまた違った雅やかな歩みでこちらに向かってくる。近づくほどにつやつやとした黒髪から、ふわりと漂って来るシャンプーの匂いに心を躍らせながら、目をなるべく合わせないよう、しかし、もっと見ておかなければという、本能にもなるべくしたがいながら、視線の落としどころを決めかねていると、こちらの思惑など知るよしもない彼女が本当に楽しそうに続けた。
「春休みにナナミさんと会ったとき、お買い物に行く約束をしていたのだけど……いつ都合がいいか聞いてる?」
 彼女の紡ぐ体温のある言葉も整った相貌に浮かぶ人当たりのいい笑顔も、ここにいない人物への礼賛にしか過ぎない。だがしかし、僕はめげない。こういうときは前向きに行くべきなのだ。彼女が生み出すこれらはすべて、自分に向けられたと勝手に変換する。人が想像できることは必ず人が実現できると誰かもいってた。
「……今度、訊いてみるよ」
 数秒前の意気込みはどこへやら。我ながらなんという後ろ向きなコミュニケート。
「今度? 一緒に住んでるのにおかしな言い回しね」
 笑顔が一瞬にして消え去る。育ちのよさを実感できる楚々とした眉が険しさに歪む。彼女は僕に対してはまるで容赦がない。というより、興味がないのだ。分かってる、分かってたことじゃないか。何を今さら。
「姉さんも忙しいから」
 決して嘘じゃない。けれど、ここ数日は帰って来ている。今日も定時には家にいるだろう。こんなときまでご機嫌取りとは情けないやつだと彼女を敵視しているロクはいうのだろうか。
「……そう。まあ、ナナミさんも忙しいのでしょうね。企画展でも近いのかな」
 羽二生さんはそうつぶやくように、いう。小学校一年のとき、初めて同じクラスになったときはクラスメイトのひとりとしてまともに話をしてくれていた気はする。
 俗な言い方をすればひと目惚れというのだろう。僕の気持ちが強まるに従って彼女の心はどんどん離れていった。とはいっても、告白=玉砕という定番コースを辿ったわけじゃない。
 彼女は僕の気持ちなど知りもしないだろうし、知らせるつもりも今のところはない。シギやロクですら感知しない秘密だ。
 羽二生さんが明らかに視界から僕を排除――しているように見えるだけ、と言い切れないのがとても辛い――し始めたのは彼女が姉の存在を知ってからだ。どういう状況だったのかもう忘れてしまったけれど、何か特別な気持ちを姉に抱いたらしい。ロクはそれを非常に危険で怪しいものだと常に語っている。それはもう、熱心に。
 ともあれ、それ以来、羽二生さんは特別な想い人のオマケたる僕に対し伝言板というか貴重な情報源というか、そういうようなものに近い接し方をし、彼女にやはり、特別な想いを人知れず抱いている僕自身もそれを甘受するという、一方通行で行き先の見えにくい不思議な関係を保っている。
 ……いや、これは言い訳だろう。姉の存在の有無に関わらず、彼女は端から興味など示してはくれないのだ。むしろ、姉の存在が彼女との関係を繋ぎ止めているといえる。そしてその姉との関係を自分の好きな女性と密やかな交流に都合よく利用していると非難されても文句はいえないだろう。
「この間ナナミさんが着ていたジャケット、素敵だったなあ。どこのだろう。知ってる?」
 羽二生さんは夢見る少女のように、大好きな女性のことを、大好きな女性の弟に訊く。
 この笑顔を見続けたいのなら、答えはひとつ。知らなくとも、話を合わせればいい。しかし自分でも呆れるくらい、こういうとき僕は融通が利かない。
「今度、訊いてみる」
 せめてさっきと言い方ぐらい変えるべきだったか。情けない。
 再び、眉間にしわが寄り、きれいに並んだ眉が歪む。弟のくせにそんなことも知らないのかという表情が否応なく、僕のか弱い心を押し潰す。
「……ごめん、なさ
 がうまく言い切れなかった。
 それ以前に自分でもなぜ謝ったのか分からなかったけれど、それが椿事を呼び起こした。
 僕の思わぬ謝罪に驚いたのか、羽二生さんはハッとあわてた様子で目を伏せた。
「……こちらこそ、ごめんなさい」
 謝る表情も実にいい。やはり、綺麗だ。可憐だ。天使だ。
 こういうのはなんていうんだろうか。片思い……バカ?
「今度、都合のいいとき訊いてみるから、服のことを含めて。姉さん、羽二生さんのこと気に入ってるみたいだから、きっと時間作ってくれると思う」
 申し訳なさそうな顔をしたレアな羽二生さんを見れたことで気持ちに余裕ができたからか、口も滑らかだ。僕はやればできる子らしい。
「本当?」
 その目は本当に輝いてるように見えた。彼女の周りに花々が咲き誇ってるように見えた。
「私のことよく話してくれているの?」
 嘘はいっていない。姉は確かに羽二生さんのことを何度か口にしてはいた。
 羽二生さんの華やぐような面差しに滑らかさはいや増す。
「あのジャケット、羽二生さんにも似合うと思うよ。スタイルいいし、そ、その……すごく、き、き、きれいだし」
 やればできる子とはいえ、いってしまってから、さすがに調子に乗りすぎじゃないかと思ったけれど、奇跡はまだ僕を見捨ててはいなかった。
「……お世辞でも、うれしいな」
 本来、お世辞というものは、女性の身にぴたりと当てはまる衣装だといったのはどこの哲学者だったか。
 感動で叫びたくなる衝動を抑えるのは大変だった。
 あの羽二生さんが顔を赤らめていた。僕のセリフで赤らめていた。控えめとはいえ、確実に赤らめていた。
 今ここでむせび泣いても誰も僕を咎められない。それだけの破壊力がそのありとあらゆるものを容赦なく弾き飛ばすようなハリのある健康的な肌に差した赤みには宿っていた。
 羽二生さんが素敵だといっていた姉の格好、ライトブルーのミリタリージャケットとエキゾチックなミニスカート、ブーツ姿を思い出し、モデルを羽二生さんと掏り替える。
 妄想の中のジャケットを纏った羽二生さんはいやになるくらいチャーミングでセクシーだった。
 くるりと回転した羽二生さんのカギ編みのスカートがふわりと慣性にしたがって風に舞う。
 ミリタリー系アイテム特有の無骨なディテールをどっしりと受け止めた黒のブーツは最上部まできっちりと編み上げられ、ミニスカートとのミスマッチさ加減にコケティッシュな魅力を添付している。
 ブーツフェチとか見えそうで見えないフェチとか、なにかそういう嗜好が分かるような気がしてきた矢先、
「………」
 のぞき込んでる羽二生さんが疑わしそうにしていた。いわゆるジト目。探るようなふたつの眼がこちらに向けられている。その中に見え隠れするいたずらっ子を髣髴とさせる屈託のなさは抱きしめたい情動を催させるには充分だった。
 もちろん、実行には移さないけれど。
 こんなにも接近したなんて過去になかったはずだ。本気で時間が止まってくれればと思うけれど、さすがにいい加減にすべきだろう。
 世の中には急場しのぎのための誤魔化すテクニックがいろいろあるけれど、相手が羽二生さんの場合はたった一つ、それも強力なのがある。
 ジト目の羽二生さんに、それを唱える。
「姉さんがあのアイスが美味しかったっていってた。羽二生さんがコンビニで見つけたあの、ちょっと高いやつ」
 もう何度目か分からない、歪められた眉がまた元の位置に戻る。効き目が抜群だ。そして何か苦いような思いも込み上げてくる。
「あ、あれ? ナナミさん、食べてくれたんだ? よかった!」
 姉しか眼中にない羽二生さん。羽二生さんが好きな僕。そして姉は……。
「……必ず伝えるから、じゃあ」
 話しかけてくるのも、話を打ち切るのもいつもイニシアチブは羽二生さんが持っていた。でも今日は僕から動いた。今までないくらい羽二生さんと話し、いろんな顔を見れ、リアルな妄想に溺れたりもしたけれど、しょせん元を辿れば姉がらみだ。
 自分の気の弱さと狡猾さとに苛まれながら、極力、口元を緩めるように努めて羽二生さんと別れた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

俺は陰キャだったはずなのに……なぜか学園内でモテ期が到来した件

こうたろ
青春
友人も恋人も居ないボッチ学生だった山田拓海が何故かモテだしてしまう。 ・学園一の美人で、男女問わず憧れの的。 ・陸上部のエースで、明るく活発なスポーツ女子。 ・物静かで儚げな美術部員。 ・アメリカから来た金髪碧眼でハイテンションな留学生。 ・幼稚園から中学まで毎朝一緒に登校していた幼馴染。 拓海の生活はどうなるのか!?

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...