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ふたりの少女
反抗
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「シモベくーん、ちょっと来てー」
夕飯も済ませ、風呂上りに部屋のベッドで横になっていると、ノックと共に声が聞こえた。
一家長女であり、ハウスメントボクサーであり、支配者であり、つまり僕の姉である一ナナミが呼んでいる。
二日連続のお呼ばれは過去に例がない。背筋にうっすらと寒いもの感じ、警戒していると、追い討ちをかけるように、
「……お姉ちゃん、待ってるから。ずっと、信じて待ってるから」
と、虫歯になりそうなくらい甘くコーティングされた声質で続けた。中には有無をいわさぬ力強さがアーモンドのごとく埋め込まれている。情けない話だけど、こちらに拒否権はない。
僕ぐらいの年齢になると、ナントカという男性ホルモンの分泌作用のおかげで男子は身体的に女子を突き放し始めるという。もちろん個人差もあるだろうけれど、思春期を境に若者たちは望む、望まずに関わらず身体を使う活動、スポーツ競技等において男女分けという、非情で決定的な事実を提示されることになる。
そんなわけで姉とはいえ抵抗らしい抵抗も見せずにとあきれ返ったり、実はマゾヒストなんじゃないかと失笑するムキもあるかとは思うけれど、姉の強さは常軌を逸しているといっていい。
……いや、本当に。
とはいえ、今までずっとされるがままだったというわけではない。
中学に上がったばかりの頃だったか、姉のいいなりになっている状況に本気で嫌気が差し、怒り過ぎて吐き気まで込み上げ、一度だけ抵抗したことがあった。
何ごとかを指示されるとかパシリ的なことは別によかった。いや、よくはないけれど、それくらいなら姉弟なんだし、ちょっとくらい我慢できるレベルではある。
問題は人をサンドバッグ扱いし始めたことだ。
想像してみて欲しい。弟だからというだけで、気まぐれに部屋に呼びつけられ、半裸状態で鼻歌を歌いながら目の前でショッピングを楽しむかのようにボクシンググローブを選ぶのをただひたすら待ち、弾けるような笑顔でもって拳のみで制圧される屈辱はそうそう言葉に言い表せない。
理由ある反抗。
アタマの片すみでは勝てないだろうという諦めにも似た絶望感が燻っていたようにも思う。でも、男にはやると決めたら、勝敗の行方など顧みずに行動を起こさなきゃいけないときがあるんだとそのときは真剣に思ったものだ。
当時学生だった姉は博物館学とか僕には縁もなければ理解もできない見た目も中身もカタそうな本を広げてリビングで勉強していた。
この頃にはもう、自分の部屋をスパーリングルームとしてしか使っておらず、リビングと単身赴任中の父から譲り受けた書斎、つまり一階が姉の主な行動範囲であった。
僕が勝ったら、二度とシモベ扱いしない。
曲線が波打つ図解が掲載された展示論というページをなぜ美術館で働くのに物理みたいなことまで学ばないのいけないのかと不思議に眺めつつ、僕はおっかなびっくり条件を切り出した。
ただ黙って笑顔で聞いている姉は本当に優しそうに思えた。
反抗期の子供を暖かく見守る母のような、そんな笑み。
「男の子だものね」
そのとき姉が見せたとても嬉しそうな表情の意味を当時も、そして今でも僕は理解できないでいる。
それまでの一方的にやられっぱなしだったスパーリングなどではなく、本気の、少なくとも僕は大真面目に挑んだ、姉とのボクシング対決。
これから待っているであろう、楽しい中学校生活をかけた一世一代の勝負。
――そして。
結果は……現状がすべてを物語っている。
姉はほぼ全力だったと思う。ほぼというのは、認めたくはないけれど、僕がこうして生きているからだ。
自分では一撃、一撃、渾身を込めていた。圧勝は出来ずとも、姉に参ったはムリでも強くなったわねのひと言くらい引き出せると考えていた。
こちらの攻撃を容易にかわし続ける姉に「もうやめよう?」とか「無理しなくていいのよ」とか何度いわれたのか覚えていない。ただ、その上から目線的な発言にムキになって、勝つのは僕だといきり立ち、当たることなど永遠にないと思われる我が愚拳を振り乱しながら、いつしか泣いていたのははっきりしている。
情けなさから来るものか、逃げられない恐怖から来るものか、この時点では感知し得なかった何かから来るものなのか。
避けるだけでまるで打ってこない姉にバカにするなとろくに使いこなせもしない反抗心を剥き出しにして、パンチというよりただ腕を前に投げ出しているだけにしか見えないその様子は、さぞ滑稽であったろう。
姉は見せたこともないような同情とも違う、悲壮感のようなものを顔にうすく浮かべ、必死の涙目リクエストを腰と下半身をたっぷり使った拳でもって答えてくれた。
拳のみで陵辱された顔や身体に刻まれたあの日の痛みと恐怖は一生消えないのではいかと思えるほどの熱を帯びていた。
しかし、その凶行に反比例してあの日の姉の動きは矛盾した表現かもしれないけれど、慈愛に満ちていたように思えた。
一発、一発が我が子に食事を与える母のような温かさとやさしさがあったようながする。
姉からすれば反抗期の子供を躾けるような感覚だったのかもしれないし、ただ、いつものコミュニケーション特別編だったのかもしれない。
スパーリングで拳を振るうときはいつでも最初から最後まで笑顔を見せる姉はこの日だけは終始表情が沈んでいた。
すべてが終わったあと、朦朧としている僕に近づきながら姉は慣れた手つきで愚弟の血と涙をたっぷりと吸った真っ赤なグローブを外し、ぐったりとした身体をやさしくいたわるようになでながら、私のいうことを黙って聞いていればいいの、シモベはシモベらしくしてなさいといった。
しっとりと濡れたバンテージ越しに感じるそのぬくもりは子供をあやす母の情愛にも似ていたけれど、それはすぐに言い知れぬ恐怖に取って代わり、手足を頑強な拘束具で封じられたかのような絶望感を僕に植えつけもした。
その直後、成長期の僕よりも背が高い姉にきつくきつく抱きしめられ、「あなたには人を殴ることなんてできないんだから、もうこういうことしちゃダメよ?」としっぽり泣かれたときはさすがに演技だと思った。思いたかった。
涙というものに無縁だった姉だから驚きはしたけれど、ことあるごとに、あからさまなうそ泣きに翻弄され続けていた身としては、信じたくもないシチュエーションでもあった。
だが、しかし、これが本当だとしたらどうだろう。
普段から実弟をいいように弄び、ふれあいという名の下に拳ひとつでねじ伏せることに至福の喜びを見出しているような姉がこういう状況で本気の涙を流すような人間だとしたら。
生まれて初めて戦慄というのもを実感したとすれば、きっとこの瞬間だったのだろう。
そして生まれて初めて心が折れた瞬間でもあった。
モウ、コノヒトニハ、ゼッタイカテナイ。サカラエナイ。
有益な情報など蓄積したことは皆無といっていいような自分の頼りない脳にあの日のことが再生されるたびに色々な感情が複雑怪奇に絡み合い、出口なき迷路に放られたような気にさえなってなんだか泣きたくなってしまう。
こんなこと誰に相談できよう。
大きく息を吐き、覚悟を決め、市場に売られるかわいそうな子牛のごとく、泥沼を当て所もなく進む気分で姉の待つ隣室へ向かう。
姉はハミングしながらボクシンググローブをチョイス……してはいなかった。
普段は壁面に格納されているベッドに腰掛け、バンテージが巻かれていない手にはアイスがあった。それを見て思わず声を出してしまう。
苺とティラミスのカップアイス。
羽二生さんが話題にしていたアイスであり、彼女の機嫌を戻すのに成功した魔法のアイテムであり、そして今日、僕が買い忘れていたもの。
羽二生さんに話した時点で実はまだ姉はこれを食べていなかった。いや、家で口にしていないだけで出先で食している可能性だって、もちろんあるだろう。
「これ、好きなの?」
僕のわずかな反応に姉は驚きつつ、スプーンと一緒にアイスを渡してくる。数時間前の羽二生さんとのひとときがよみがえってきた。
「……は、羽二生さんが好きだっていってたんだ」
いいながら、自分で赤くなっているのが分かった。誤魔化すように顔を背けながら、「姉さんこそ、これ好きなの?」 と訊くと、姉はアツミに勧められたのといった。
アツミとは姉の友人で上四元アツミさんのことだ。姉に負けず劣らず女性にしては背が高く、センターで分けたクールミディアム系といった雰囲気の髪型がよく似合ういかにもキャリアウーマン然としたやさしい女性で家にもよく遊びに来ている。今は隣市に住んでいて、今年から女子高に通ってるいう僕と同学年の妹さんがいたはずだ。
「じゃあ、食べるの初めてなんだ」
つぶやくようにカップを眺めていると、姉が隣に座るよう促したのでちょっと距離を置いて腰を落とす。
「アツミがおいしい、おいしいっていうから買ってみたの」
ただの偶然。そりゃあそうかと思う反面、姉がこのアイスを食べたというつじつまはこれで合わさった。あとはこのアイスを気に入ってくれればと僕もふたを開けると、姉の低い呻き声が聞こえた。
「アツミってこういうの好きなのよね」
苦みばしった顔でいいつつ、姉はカップの中のピンクを消化してゆく。
これは困った。羽二生さんとの会話では美味しいといっていた、ということになっている。羽二生さんが姉に会ったとき、この話題が出たらと思うと、背中にいやな汗が噴出した。
その表情を小さな氷菓に対する感想と取ったのか、気に入らなかったら残していいのよと姉は手を伸ばしてきたけれど、僕は食べるからとやんわり拒否する。
ひょっとして部屋に呼んだのって、ただアイスを食べるためだったのだろうか。
そんなことを思いながら、下手なスポーツショップよりも品揃えばっちりな色とりどりのグローブ群を眺めていると、華やいだ声が上がった。
「あら、今日もしたいの?」
……しまった。
「だったらそういえばいいのに♡♡♡♡♡」
語尾にハートマークを(おそらく)5個ほど付けながら、嬉しそうに立ち上がる姉を全力で止める。
姉は遠慮しなくていいのにと拗ねたように口を窄めると、ふと思い出したように、
「さっきいっていたハニウさんって、誰?」
と訊いてきた。
思考が止まる。
「は、羽二生さんって、ほら、姉さんのこと慕ってる僕と同じ学年の子で」
「あなたと同じ学年の子って……シギヤちゃんやその友達の子ぐらいしか」
といいかけて、あのお嬢様はなんていったかしらと首を傾げ、自分であの子は違うかと答えを導き出しては再び首をひねっていた。
「姉さんが持っている、あの水色のジャケットが素敵だっていってたよ。覚えていない?」
姉は目を閉じ、しばしのシンキングタイムに突入していた。
なぜだろう、妙に芝居がかっているようにも見えなくもない。
姉がちらと視線を流してきた。「なにか……特徴とかないの?」
羽二生さんの端正な顔立ちが浮かぶ。
とてもきれいな、羽二生さんの顔。
「す、すごく」
「すごく?」
きれいな人、と続けようとして、どうしても言葉が継げない。
意識してしまう自分に自己嫌悪。
「か、髪がすごくきれいな人。たまに前髪を横に流してこう……ヘアピンで留めたりしてる、かな」
「あなたぐらいの年齢の娘はみんな髪の毛がつやつやしててきれいじゃない?」
取ってつけたような、どこか邪気を含ませた姉の言に口ごもってしまう。
「そ、そうだけど」
一瞬、姉がやわらかく微笑んだ……ように見えた。
「ああ、アツミやクシナちゃんと一緒のときに会ったかな、その子」
クシナとはアツミさんの妹さんのことだろう。
「うん、いた」
確認するように頷くと、すごくきれいな子よねと付け足す。
お世辞ではないだろう。ただ、さほど多くないとはいえ、何度か会ったりしてるはずなのに、ふたりの接点はその程度なのか。
「……ごめんね、気を悪くしちゃった?」
落ち込んでるように見えたのか、姉の声は多少、沈んでいるような気がした。
普段から僕をシモベ扱いし、気まぐれで部屋に呼んでは人をサンドバッグ扱いするような姉だけれど、こういう空気は読めたりする。
いや、むしろその一点さえ除けば、普段の姉はとても出来た人だと思う。誰に対しても優しく笑みを絶やさず、人の悪口や陰口、愚痴など聞いたことがない。姉に好意を抱く人はまさか実弟を部屋に呼んでは笑顔で拳をふるっているなどと思いもしないだろう。そこが余計、僕を不快にさせるのも事実だけど、もちろん、それに対する異議は申し立てたりしない。
「ううん、そういうんじゃないよ。ただ彼女、姉さんのこと本当に慕ってるみたいで」
つとめて明るく答える。
「今度、いつ遊びに行けるか気にしていたからさ」
姉は黙って聞いていた。こちらに向けてくる、口ごもる子供の言葉を根気よく待つ母親を思わせる探るような視線がいやだった。
「姉さんにも都合あるだろうけれど」
立ち上がってこちらから会話を打ち切ると、いつでもいいって伝えておいてという姉の声が追いかけてきた。
「……じゃあ、伝えておくから。お、おやすみ」
逃げるようにドアのノブに飛びつきに一気に回す。あなたも一緒に来る? とささやくようなひと言があった。
姉を見る。
姉も僕を見ている。
「僕は、いい」
邪魔になるだけだからといいそうになり、飲み込む。さすがにそれは惨めになるだけだ。
もう一度、おやすみといい、部屋を出た。ドアを閉じるとき、姉は何かいいたそうにしているのが見えたけれど、そのまま閉めた。
ため息をひとつ、吐く。
姉の中における羽二生さんのポジションはけっこう衝撃的だった。好いているのに、名前を覚えてもらっていない羽二生さん。そして僕も彼女に名前で呼ばれなくなって久しい。
夕方に堪能した羽二生さんの笑顔を思い出しながら、少し気分が重くなった。
伝えることは伝えたし、彼女が僕に求めている役割は果たしたといえる。僕の気持ちなど無意味なんだと、言い聞かせて、部屋に戻って、さっさと布団にもぐり込んだ。
意識が透明で不確定な時間の中に溶け込む頃、ふと、どうして姉が部屋に呼びつけたのだとうと考えてみた。
飲食に対して淡白な姉は三度の食事以外、まず口にすることは皆無で間食を摂ること自体めずらしい。
その姉が、このタイミングでなぜは羽二生さんがお気に入りだというあのアイスを振舞ったのだろう。そして彼女の特徴を待つ間の態度や一緒に来るかという誘いと何かをいいたげだった表情。
……まさかな。
限りなくゼロに近い可能性を打ち消して、僕は果てのない暗闇世界へ記憶の再構成に旅立つべくそっと身をゆだねた。
夕飯も済ませ、風呂上りに部屋のベッドで横になっていると、ノックと共に声が聞こえた。
一家長女であり、ハウスメントボクサーであり、支配者であり、つまり僕の姉である一ナナミが呼んでいる。
二日連続のお呼ばれは過去に例がない。背筋にうっすらと寒いもの感じ、警戒していると、追い討ちをかけるように、
「……お姉ちゃん、待ってるから。ずっと、信じて待ってるから」
と、虫歯になりそうなくらい甘くコーティングされた声質で続けた。中には有無をいわさぬ力強さがアーモンドのごとく埋め込まれている。情けない話だけど、こちらに拒否権はない。
僕ぐらいの年齢になると、ナントカという男性ホルモンの分泌作用のおかげで男子は身体的に女子を突き放し始めるという。もちろん個人差もあるだろうけれど、思春期を境に若者たちは望む、望まずに関わらず身体を使う活動、スポーツ競技等において男女分けという、非情で決定的な事実を提示されることになる。
そんなわけで姉とはいえ抵抗らしい抵抗も見せずにとあきれ返ったり、実はマゾヒストなんじゃないかと失笑するムキもあるかとは思うけれど、姉の強さは常軌を逸しているといっていい。
……いや、本当に。
とはいえ、今までずっとされるがままだったというわけではない。
中学に上がったばかりの頃だったか、姉のいいなりになっている状況に本気で嫌気が差し、怒り過ぎて吐き気まで込み上げ、一度だけ抵抗したことがあった。
何ごとかを指示されるとかパシリ的なことは別によかった。いや、よくはないけれど、それくらいなら姉弟なんだし、ちょっとくらい我慢できるレベルではある。
問題は人をサンドバッグ扱いし始めたことだ。
想像してみて欲しい。弟だからというだけで、気まぐれに部屋に呼びつけられ、半裸状態で鼻歌を歌いながら目の前でショッピングを楽しむかのようにボクシンググローブを選ぶのをただひたすら待ち、弾けるような笑顔でもって拳のみで制圧される屈辱はそうそう言葉に言い表せない。
理由ある反抗。
アタマの片すみでは勝てないだろうという諦めにも似た絶望感が燻っていたようにも思う。でも、男にはやると決めたら、勝敗の行方など顧みずに行動を起こさなきゃいけないときがあるんだとそのときは真剣に思ったものだ。
当時学生だった姉は博物館学とか僕には縁もなければ理解もできない見た目も中身もカタそうな本を広げてリビングで勉強していた。
この頃にはもう、自分の部屋をスパーリングルームとしてしか使っておらず、リビングと単身赴任中の父から譲り受けた書斎、つまり一階が姉の主な行動範囲であった。
僕が勝ったら、二度とシモベ扱いしない。
曲線が波打つ図解が掲載された展示論というページをなぜ美術館で働くのに物理みたいなことまで学ばないのいけないのかと不思議に眺めつつ、僕はおっかなびっくり条件を切り出した。
ただ黙って笑顔で聞いている姉は本当に優しそうに思えた。
反抗期の子供を暖かく見守る母のような、そんな笑み。
「男の子だものね」
そのとき姉が見せたとても嬉しそうな表情の意味を当時も、そして今でも僕は理解できないでいる。
それまでの一方的にやられっぱなしだったスパーリングなどではなく、本気の、少なくとも僕は大真面目に挑んだ、姉とのボクシング対決。
これから待っているであろう、楽しい中学校生活をかけた一世一代の勝負。
――そして。
結果は……現状がすべてを物語っている。
姉はほぼ全力だったと思う。ほぼというのは、認めたくはないけれど、僕がこうして生きているからだ。
自分では一撃、一撃、渾身を込めていた。圧勝は出来ずとも、姉に参ったはムリでも強くなったわねのひと言くらい引き出せると考えていた。
こちらの攻撃を容易にかわし続ける姉に「もうやめよう?」とか「無理しなくていいのよ」とか何度いわれたのか覚えていない。ただ、その上から目線的な発言にムキになって、勝つのは僕だといきり立ち、当たることなど永遠にないと思われる我が愚拳を振り乱しながら、いつしか泣いていたのははっきりしている。
情けなさから来るものか、逃げられない恐怖から来るものか、この時点では感知し得なかった何かから来るものなのか。
避けるだけでまるで打ってこない姉にバカにするなとろくに使いこなせもしない反抗心を剥き出しにして、パンチというよりただ腕を前に投げ出しているだけにしか見えないその様子は、さぞ滑稽であったろう。
姉は見せたこともないような同情とも違う、悲壮感のようなものを顔にうすく浮かべ、必死の涙目リクエストを腰と下半身をたっぷり使った拳でもって答えてくれた。
拳のみで陵辱された顔や身体に刻まれたあの日の痛みと恐怖は一生消えないのではいかと思えるほどの熱を帯びていた。
しかし、その凶行に反比例してあの日の姉の動きは矛盾した表現かもしれないけれど、慈愛に満ちていたように思えた。
一発、一発が我が子に食事を与える母のような温かさとやさしさがあったようながする。
姉からすれば反抗期の子供を躾けるような感覚だったのかもしれないし、ただ、いつものコミュニケーション特別編だったのかもしれない。
スパーリングで拳を振るうときはいつでも最初から最後まで笑顔を見せる姉はこの日だけは終始表情が沈んでいた。
すべてが終わったあと、朦朧としている僕に近づきながら姉は慣れた手つきで愚弟の血と涙をたっぷりと吸った真っ赤なグローブを外し、ぐったりとした身体をやさしくいたわるようになでながら、私のいうことを黙って聞いていればいいの、シモベはシモベらしくしてなさいといった。
しっとりと濡れたバンテージ越しに感じるそのぬくもりは子供をあやす母の情愛にも似ていたけれど、それはすぐに言い知れぬ恐怖に取って代わり、手足を頑強な拘束具で封じられたかのような絶望感を僕に植えつけもした。
その直後、成長期の僕よりも背が高い姉にきつくきつく抱きしめられ、「あなたには人を殴ることなんてできないんだから、もうこういうことしちゃダメよ?」としっぽり泣かれたときはさすがに演技だと思った。思いたかった。
涙というものに無縁だった姉だから驚きはしたけれど、ことあるごとに、あからさまなうそ泣きに翻弄され続けていた身としては、信じたくもないシチュエーションでもあった。
だが、しかし、これが本当だとしたらどうだろう。
普段から実弟をいいように弄び、ふれあいという名の下に拳ひとつでねじ伏せることに至福の喜びを見出しているような姉がこういう状況で本気の涙を流すような人間だとしたら。
生まれて初めて戦慄というのもを実感したとすれば、きっとこの瞬間だったのだろう。
そして生まれて初めて心が折れた瞬間でもあった。
モウ、コノヒトニハ、ゼッタイカテナイ。サカラエナイ。
有益な情報など蓄積したことは皆無といっていいような自分の頼りない脳にあの日のことが再生されるたびに色々な感情が複雑怪奇に絡み合い、出口なき迷路に放られたような気にさえなってなんだか泣きたくなってしまう。
こんなこと誰に相談できよう。
大きく息を吐き、覚悟を決め、市場に売られるかわいそうな子牛のごとく、泥沼を当て所もなく進む気分で姉の待つ隣室へ向かう。
姉はハミングしながらボクシンググローブをチョイス……してはいなかった。
普段は壁面に格納されているベッドに腰掛け、バンテージが巻かれていない手にはアイスがあった。それを見て思わず声を出してしまう。
苺とティラミスのカップアイス。
羽二生さんが話題にしていたアイスであり、彼女の機嫌を戻すのに成功した魔法のアイテムであり、そして今日、僕が買い忘れていたもの。
羽二生さんに話した時点で実はまだ姉はこれを食べていなかった。いや、家で口にしていないだけで出先で食している可能性だって、もちろんあるだろう。
「これ、好きなの?」
僕のわずかな反応に姉は驚きつつ、スプーンと一緒にアイスを渡してくる。数時間前の羽二生さんとのひとときがよみがえってきた。
「……は、羽二生さんが好きだっていってたんだ」
いいながら、自分で赤くなっているのが分かった。誤魔化すように顔を背けながら、「姉さんこそ、これ好きなの?」 と訊くと、姉はアツミに勧められたのといった。
アツミとは姉の友人で上四元アツミさんのことだ。姉に負けず劣らず女性にしては背が高く、センターで分けたクールミディアム系といった雰囲気の髪型がよく似合ういかにもキャリアウーマン然としたやさしい女性で家にもよく遊びに来ている。今は隣市に住んでいて、今年から女子高に通ってるいう僕と同学年の妹さんがいたはずだ。
「じゃあ、食べるの初めてなんだ」
つぶやくようにカップを眺めていると、姉が隣に座るよう促したのでちょっと距離を置いて腰を落とす。
「アツミがおいしい、おいしいっていうから買ってみたの」
ただの偶然。そりゃあそうかと思う反面、姉がこのアイスを食べたというつじつまはこれで合わさった。あとはこのアイスを気に入ってくれればと僕もふたを開けると、姉の低い呻き声が聞こえた。
「アツミってこういうの好きなのよね」
苦みばしった顔でいいつつ、姉はカップの中のピンクを消化してゆく。
これは困った。羽二生さんとの会話では美味しいといっていた、ということになっている。羽二生さんが姉に会ったとき、この話題が出たらと思うと、背中にいやな汗が噴出した。
その表情を小さな氷菓に対する感想と取ったのか、気に入らなかったら残していいのよと姉は手を伸ばしてきたけれど、僕は食べるからとやんわり拒否する。
ひょっとして部屋に呼んだのって、ただアイスを食べるためだったのだろうか。
そんなことを思いながら、下手なスポーツショップよりも品揃えばっちりな色とりどりのグローブ群を眺めていると、華やいだ声が上がった。
「あら、今日もしたいの?」
……しまった。
「だったらそういえばいいのに♡♡♡♡♡」
語尾にハートマークを(おそらく)5個ほど付けながら、嬉しそうに立ち上がる姉を全力で止める。
姉は遠慮しなくていいのにと拗ねたように口を窄めると、ふと思い出したように、
「さっきいっていたハニウさんって、誰?」
と訊いてきた。
思考が止まる。
「は、羽二生さんって、ほら、姉さんのこと慕ってる僕と同じ学年の子で」
「あなたと同じ学年の子って……シギヤちゃんやその友達の子ぐらいしか」
といいかけて、あのお嬢様はなんていったかしらと首を傾げ、自分であの子は違うかと答えを導き出しては再び首をひねっていた。
「姉さんが持っている、あの水色のジャケットが素敵だっていってたよ。覚えていない?」
姉は目を閉じ、しばしのシンキングタイムに突入していた。
なぜだろう、妙に芝居がかっているようにも見えなくもない。
姉がちらと視線を流してきた。「なにか……特徴とかないの?」
羽二生さんの端正な顔立ちが浮かぶ。
とてもきれいな、羽二生さんの顔。
「す、すごく」
「すごく?」
きれいな人、と続けようとして、どうしても言葉が継げない。
意識してしまう自分に自己嫌悪。
「か、髪がすごくきれいな人。たまに前髪を横に流してこう……ヘアピンで留めたりしてる、かな」
「あなたぐらいの年齢の娘はみんな髪の毛がつやつやしててきれいじゃない?」
取ってつけたような、どこか邪気を含ませた姉の言に口ごもってしまう。
「そ、そうだけど」
一瞬、姉がやわらかく微笑んだ……ように見えた。
「ああ、アツミやクシナちゃんと一緒のときに会ったかな、その子」
クシナとはアツミさんの妹さんのことだろう。
「うん、いた」
確認するように頷くと、すごくきれいな子よねと付け足す。
お世辞ではないだろう。ただ、さほど多くないとはいえ、何度か会ったりしてるはずなのに、ふたりの接点はその程度なのか。
「……ごめんね、気を悪くしちゃった?」
落ち込んでるように見えたのか、姉の声は多少、沈んでいるような気がした。
普段から僕をシモベ扱いし、気まぐれで部屋に呼んでは人をサンドバッグ扱いするような姉だけれど、こういう空気は読めたりする。
いや、むしろその一点さえ除けば、普段の姉はとても出来た人だと思う。誰に対しても優しく笑みを絶やさず、人の悪口や陰口、愚痴など聞いたことがない。姉に好意を抱く人はまさか実弟を部屋に呼んでは笑顔で拳をふるっているなどと思いもしないだろう。そこが余計、僕を不快にさせるのも事実だけど、もちろん、それに対する異議は申し立てたりしない。
「ううん、そういうんじゃないよ。ただ彼女、姉さんのこと本当に慕ってるみたいで」
つとめて明るく答える。
「今度、いつ遊びに行けるか気にしていたからさ」
姉は黙って聞いていた。こちらに向けてくる、口ごもる子供の言葉を根気よく待つ母親を思わせる探るような視線がいやだった。
「姉さんにも都合あるだろうけれど」
立ち上がってこちらから会話を打ち切ると、いつでもいいって伝えておいてという姉の声が追いかけてきた。
「……じゃあ、伝えておくから。お、おやすみ」
逃げるようにドアのノブに飛びつきに一気に回す。あなたも一緒に来る? とささやくようなひと言があった。
姉を見る。
姉も僕を見ている。
「僕は、いい」
邪魔になるだけだからといいそうになり、飲み込む。さすがにそれは惨めになるだけだ。
もう一度、おやすみといい、部屋を出た。ドアを閉じるとき、姉は何かいいたそうにしているのが見えたけれど、そのまま閉めた。
ため息をひとつ、吐く。
姉の中における羽二生さんのポジションはけっこう衝撃的だった。好いているのに、名前を覚えてもらっていない羽二生さん。そして僕も彼女に名前で呼ばれなくなって久しい。
夕方に堪能した羽二生さんの笑顔を思い出しながら、少し気分が重くなった。
伝えることは伝えたし、彼女が僕に求めている役割は果たしたといえる。僕の気持ちなど無意味なんだと、言い聞かせて、部屋に戻って、さっさと布団にもぐり込んだ。
意識が透明で不確定な時間の中に溶け込む頃、ふと、どうして姉が部屋に呼びつけたのだとうと考えてみた。
飲食に対して淡白な姉は三度の食事以外、まず口にすることは皆無で間食を摂ること自体めずらしい。
その姉が、このタイミングでなぜは羽二生さんがお気に入りだというあのアイスを振舞ったのだろう。そして彼女の特徴を待つ間の態度や一緒に来るかという誘いと何かをいいたげだった表情。
……まさかな。
限りなくゼロに近い可能性を打ち消して、僕は果てのない暗闇世界へ記憶の再構成に旅立つべくそっと身をゆだねた。
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颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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