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パラサイト
来訪
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「じゃあ、家に一旦帰ってから行くわ」
このまま来てもいいぞとロクを誘ったけれど、さすがにそうはいかないと返された。
「着替えたいしな」
土曜日の昼すぎ。シギに触発されて泊まる気満々のロクは気合いが入っていた。そのシギはやはり準備があるのだろう、一足先に帰っていた。
帰宅すると、まだ肌寒いというのに幅広のストラップキャミソールを纏った食客たる姉の親友の妹君はリビングの応接セットの奥、アームチェアに両ひざを抱きかかえるように丸まっていた。ハイウエストのマリンスカートから下着が見えそうである。
「ナナギ、おかえり」
ひざ頭に横たえた顔を乗せたまま僕を出迎える。
素直に帰ってきたからであろうか、妙な余裕を感じる。
シギが先かロクが先か。招待客たる友人たちが来るまでの間、どうして時間を過ごそうかと思案し始めたそのとき、電話が鳴った。
「俺」
その声は妙に沈んでいる。
「悪い、行けなくなった」
一瞬よぎった不安の影が形となって現実を突きつける。
「……どうしたんだ」
「留守番しなきゃなんなくなった」
ロクのお母さんが急に親戚の家に行くことになったとかで、妹たちの面倒を頼まれたのだという。先ほどからかすかに賑やかな声が聞き漏れてくる。
ちなみに妹たちとはコノハちゃんとサクヤちゃんの双子である。まだ幼稚園に行っていない彼女たちはロクに似ず、とても可愛らしい。まだ数えるくらいしか会ってはいないけれど、姉や僕にもよく懐いている。
余談ではあるけれど、ロクは小学生の頃に両親の営みを見てしまったことがあるらしく、「あのとき出来たのが妹たちだったんだ」と虚ろな目で話してくれたことがある。
本来ならばおめでたいことのはずなのに、見たことのない親友の落ち込みっぷりはなんとも気の毒でとても声をかけてやれる雰囲気ではなかった。
「親父は出張中だろ。ばあちゃんは町内会の旅行からまだ帰ってないし」
まるで絵に描いたかのような負の連鎖ぶりはコントのようでもある。
「お袋が向こうに行くのに小さいのは連れていけないっていうし、留守番を名目にこいつらの面倒押し付けられちまった」
あの日の告白のように落ち込んでいるのが手に取るように分かる。おそらく目に涙でも浮かべているのではないだろうか。
「そういうわけでせっかくのお泊まり会には参加できない」
まだシギが残っているとはいえ、男であるロクの不参加は痛い。
「なんだったらコノハちゃんとサクヤちゃんも一緒でいいぞ。姉さんも喜ぶと思うし」
「……ナギ、お前は本当、いいやつだなあ。でも俺にもプライドがある。そりゃナナミさんは歓迎してくれるだろうさ。だけどナナミさんやお前に迷惑はかけられないよ」
親しき中にも礼儀ありっていうしな。ため息交じりにつぶやく。後ろ髪を引かれる思いとはまさにこういう状況なのであろう。
「また誘ってくれよ」
受話器を置く寸前、もう一度ため息が聞こえた。訪れる静粛。
「ナ、ナ、ギ」
ゆっくりと僕を呼ぶ媚笑を含んだ声がした。
てっきり詮索されたり、冷艶な視線の餌食になるかもしれないなどとと警戒したのだけれど、電話の相手が誰だったのか、興味もなさげであった。
「ナナギってば」
上四元クシナが悩ましげに身体を揺するのと同時であった。
ドアチャイムが鳴った。
「ナギちゃん、来たよ」
聞き慣れた、幼い声がスピーカーからこぼれてくる。極力、リビングの上座に坐すお姫様を意識することなく、ひと呼吸置き、応答する。
「どうぞ」
門扉が開けられ、複数の人が入ってくる気配がした。
ロクは来れないというのにいったい誰と来たのだろうと訝しながら玄関へ向かう。
「いらっしゃ……」
ドアを開けると、オーバーダイの花柄ブラウスにデニムの切りっぱなしショートパンツを穿いたシギの他に見慣れた女子たちの顔があった。
「こんにちは、一君」
半袖ワンピース姿の左衛門三郎のお嬢様が仰々しい辞儀をしてみせる。オフホワイトのシルク生地に胸元に配された6つの丸ボタンとパフスリーブがそれぞれ上品さと愛らしさを醸し出している。
その後ろにはレザーを着込んだ三苫さんが恥ずかしそうに会釈を見せた。フロントジッパーの左右と袖にフリルが施されたハードなブルゾンで刺繍の入ったミニスカートを合わせている。三苫さんがコンパクト過ぎるゆえ、サイズが若干合っておらず着られている感が滲み出ていた。それにしても姉の見合いの日に会ったときもライダースにミニスカートだったけれど、普段の彼女からは想像もできない大胆さだ。そして、
「突然、ごめんなさい」
襟や裾にレースをあしらったサックスブルーのチュニックブラウスに包まれた羽二生さんが困惑気味に微笑んだ。何かしらの期待を含んだような笑み。その根源は姉であろう。フラワープリントのフレアミニスカートから伸びる足がとても美しかった。
思わぬ珍客に戸惑っていると、シギが経緯を説明してくれた。
昨日、三苫さんと昼食を摂っているときに僕の家に行く話になり、一緒に行かないかと誘ったらしい。さすがにシギみたいに泊まるわけではないけれど、遊びに行くなら、ということになったのだという。
その流れで姉の話になり、そこへレーダーに引っ掛かったのか羽二生さんが現れ、さらにそのあと三苫さん経由で話を聞いた左衛門三郎のお嬢様がそれならわたくしもということになった、ということだった。
三次を伴わなかったのは、彼女と僕、両方を気づかったのだと思う。
「たくさんいた方が楽しいかなあって」
いけなかった? と幼なじみが小首を傾げる。こんな状態でいけないだなんていえるはずなどない。むしろ歓迎したいところだ。
「とにかくみんな入って」
人数分のスリッパを出し、ダイニングの入り口を指し示しながらゲストを上げる。
「はい、ナギちゃん」
シギが手にしていた紙袋を差し出した。印刷された店名は瓊紅保駅前にあるデパートのテナントとして入っている洋菓子店であった。いつぞやロクから聞いたお気に入りのスイーツなのだろう。もう一つ抱えているエコバッグにはなにやら食材が詰まっているようであった。
「わたくしの贔屓にしているお店の菓子なのですが。ご笑納いただければ幸いです」
「……あの、これ、どうぞ」
左衛門三郎のお嬢様と三苫さんからもそれぞれ土産を受け取る。
「ナナミさんが喜んでくれるといいんだけど」
羽二生さんは紅茶の詰め合わせのようだった。姉は家ではコーヒーは飲んでも紅茶は飲むことはないのだけれど、外では違うのかもしれない。
「ありがとう」
期せずして両手いっぱいの手みやげを抱えながら、彼女たちの後についてダイニングに入ると、全員が固まったように一方を見つめていた。
いうまでもなく、リビングにいる上四元クシナだ。
「ナギちゃん、お客さんいたの?」
この中では唯一、彼女に初めて会ったシギがこちらを向く。当の上四元クシナは不敵で挑発的な視線を送って寄越している。
「ナナギ、お友だち呼んだんだ」
鷹揚とした声ではあるけれど、その不気味なほど見開かれた目は侮蔑と憤怒をない交ぜにしたかのような負の情念であふれ返っていた。
「……彼女、アツミさんの妹で上四元クシナさん」
その説明にシギはやっと会えたとばかりに、初対面の女子に近づいた。
「こんにちは、ナギちゃんの幼なじみの七ツ役シギヤといいます」
上四元クシナはじっと僕を見ていた。射るような眼差しは状況を説明しろといっている。しかしそれが声となって口から出ることはなく、すっと立ち上がり、
「上四元クシナです」
と丁重な辞儀を返した。
ふたたび着座して横を向く彼女の目には怒りしか浮かんでいない。
「……今、お茶を出すからみんな座ってて」
ごまかすようにもてなしの準備に取りかかろうとすると、シギが私がするよとダイニングに戻ってくる。
「私も手伝います」
三苫さんがシギに続くと、自分が動かないでどうするとばかりに左衛門三郎のお嬢様が僕を見て、ティーセットを使わせて頂きますと棚を開けた。羽二生さんもそれに倣う。
にわかに慌しくなったダイニングを横目に、我関せずと無表情の上四元クシナが廊下へと身を滑らせ、消える寸前、手だけ出し、ちょっと来いと人差し指を動かした。
後について行くと、果たして、現在彼女の部屋である寝室だった。このあとの展開も容易に想像がつく。
なにやらごそごそとしていた彼女は振り向きざま、狡猾なフットワークで僕の目の前まで飛び込むと、右ストレートを放ってきた。
まっすぐ飛んできた鋭く重い緋色は僕の顔面を遠慮なく潰しにかかった。痛みが引く間もなく二発目が右頬を抉る。
基本のコンビネーションで足を止められ、直後にきつい一発をボディに食らいあえなく身体を折られた。
「どういうこと」
カーペットに顔面を押しつけ息も絶え絶えな僕に冷徹な声が降ってくる。グローブの収縮音は獣の唸り声に似て、返答次第では再度、獲物の顔や身体を陵辱せんと襲い掛かってくることを予見させた。
「……こ、ここは僕の家なんだし、友人を呼ぶのに君の許可はいらないと思うけれど」
ぐぐっと小さくグローブがしなる音が聞こえた。憐憫の欠片もない声音で立てと命じるか、強制的に胸倉でも掴んで起き上がらせるのか、どちらにしても凄惨なお仕置きは続くのだろうと思っていたけれど、気色ばんだ一瞥をくれただけでくるりと背を向けるとグローブを外して出て行った。
ダイニングに戻ると、シギたちがティータイムの準備に勤しんでいた。母が愛用している芍薬をモチーフにしたカップ&ソーサー、ティーポット、プレートが並んでいた。
僕をノックアウトしたばかりのかりそめの同居人はリビングの上座に収まってる。
「素敵なティーセットをお持ちですね」
左衛門三郎のお嬢様はカップの内側やソーサーの外側が黒と金で縁取られた、特に母が大事にしている一品を愛おしそうに見ていた。
けっこうなお品だと聞いてはいたけど、彼女の態度を見るに、さすが価値が分かっているのだろう。
シギと三苫さんは各自の御持たせをプレートに乗せるべく化粧箱から取り出したり切り分けたりし、羽二生さんはティーポットとカップを温めるため耐熱ガラス製の電気ケトルでお湯を沸かしていた。母がいた頃は頻繁に使われたティーセットも最近は出番もなかったし、喜んでいるかもしれない。
「ロクちゃん遅いね」
苺のロールケーキをプレートに乗せながらシギが訊く。
「留守番頼まれたって。コノハちゃんとサクヤちゃんも連れてくればいいっていったけど、悪いからって断られた」
シギがそっかあと残念がる横で左衛門三郎のお嬢様が呆れたように首を振った。
「妹さんたちも六反園君のようなお兄様ですと色々と気苦労が絶えないでしょうね」
まだ幼い彼女たちが兄の振舞いにどう気苦労を覚えるのか不明ではある。
さまざまな菓子の乗ったプレートがリビングに運ばれて行く。
「よかったら、これ使う?」
母が友人たちとお茶を愉しむときに使っていたいた三段のケーキスタンドを出すと、左衛門三郎のお嬢様が華やいだ声を上げる。
「それはお誂え向きですね」
ロールケーキに高級チョコレート、ミニケーキやクッキーなどを乗せたプレートをスタンドにセットしていくと、リッチで優雅なひとときを過ごせそうな気さえしてくる。
「わー、おいしそー」
腑抜けた声を出したのは上四元クシナ。美味しそうといいながら、顔はずっと背けたままである。
ふたつある三人掛けソファーの左手に左衛門三郎のお嬢様と三苫さん、右手にシギと羽二生さんがそれぞれ着席する。
「ナギちゃん、座らないの?」
空いているアームチェアはテーブルを挟んで上四元クシナの真向かいである。不思議そうな顔をするシギと羽二生さんの間に目が行く。僕にとってはこれ以上ない絶好ポジションではあるけれど、そこに割り込むのはもちろん、不自然極まりない。
「……えっ、うん」
覚悟を決めて相対すると、そっぽを向いたまま上四元クシナは視線だけをこちらに寄越した。
女性陣が各々がカップに紅茶を注いで、好みのお菓子を銘々皿に取り分ける様子を眺めていると、自分の家なのに違和感を覚える。
「ナナギ、私、牛乳が欲しい」
僕から目を逸らすことなく、上四元クシナがいう。ミルクティのことかと思い、冷蔵庫からご所望の牛乳を取り出すと、左衛門三郎のお嬢様が立ち上がった。
「それでしたら、低温殺菌のものがよいのですが」
ダイニングの棚からクリーマーを出しながらアドバイスしてくれる。
「そのままがいいの」
リクエストした本人がむくれる。そして、
「ナナギ、昨日買って来てくれたパンある?」
突然、そんなことをいいだす。
「カレーパン?」
なんだか不快なものでも見るかのような態度だったけれど、いきなりどうしたのだろう。
「違う、カスクルート!」
子供みたいにごねる。食べたいといっても、昨晩は見向きもしないので、軽く済ませた夕食のあと、姉とともに頂いてしまって、もうない。それは知っているはずなのだけど。
「上四元さん、昨日も遊びに来たの?」
ミニケーキを摘んでいたシギの手が止まる。その反応に上四元クシナの口元が歪んだ。
「ずーっといるよ。今ここに住んでるから」
ね、ナナギ、とこちらに破顔してみせる。すでにあるはずのない昨日のパンを持ち出した意図が分かった。
「えっ」
今度は三苫さんの手が止まった。シギはそうなの? と僕の方を向く。その奥に座る羽二生さんはなるべく意識しないように努める。
「……電車通学をしてみたいからって、今ここから学校に通っているんだ」
「それはまたずいぶんと物好きな」
ミルクティの準備をしようと動いていた左衛門三郎のお嬢様が呆れた声を上げる。
その皮肉に噛みつくかとも思ったけれど、当人は涼しい顔でいただきまーすとチョコを頬張っていた。
要望通りの牛乳をマグカップに注ぐべく、棚に目をやると、左衛門三郎のお嬢様がどうぞと差し出してくれた。今ティータイムで使っている芍薬がモチーフのマグカップだった。
「ありがとう」
こういう気配りは女子だなと感心しながら、上四元クシナにそれを与えると、彼女もそれを汲み取ったらしく、
「合わせてくれたんだ、一応」
と牛乳を飲みはじめる。
「そっか、あのときのお弁当、上四元さんが作ったんだね」
疑問が解けたからかシギが嬉しそうな声を上げた。
「あのサンドイッチ、すごく美味しかった」
マグカップに口をつけたまま上四元クシナがするどい視線を飛ばしてくる。感激しているシギの方を向くことなく、マグカップを置くと不快さを隠すことなく吐き出した。
「あれ、ナナギのために作ったんだけど」
「……ごめんなさい。美味しそうだったから、ナギちゃんに食べたいってわがままをいって分けて貰ったの」
「違う」
しょんぼりするシギを気遣いながら、慌てて立ち上がった。
「量も多かったし、美味しいからシギにも食べて欲しくて僕からあげたんだ」
こちらに向けた流し目に鋭利な光が宿る。
「優しいんだ」
優しいとかじゃなく、事実そうなのだ。
「お腹空いた」
もうどうでもよいとばかりにアームチェアの上でひざを抱えると身体を揺する。目に浮かんでいた不穏な光はもう消えていた。
「ナナギ、お腹空いたってば」
そういえばホットドッグ用のロールパンがあったはずだ。冷蔵庫を開けると、ロングウインナーもある。
「ちょっと待ってて」
フライパンにバターを溶かして、ウインナを炒める。キャベツを取り出し、千切りにするとそこに放り込んで、塩コショウ、カレー粉で味を調える。バターを塗ったパンに炒めたものを挟んでオーブントースターに入れた。
「子供の頃にナギちゃんのお父さんが作ってくれたのだ」
いつの間にか後ろにいたシギが目を輝かせる。切りっぱなしのデニムから、そういうデザインなのだろう、ポケットの布がちらっと見えた。そこから伸びる太ももがまぶしい。高校に上がってからシギの私服は数えるくらいしか見てないけれど、こういう格好するようになったんだなと妙に感慨深い心境になる。
チン、とトースターが完成を知らせる。
皿に乗せて空腹を抱えるお姫様の目の前にケチャップとマスタードと共に置く。
「居候角な座敷を丸く掃き、とは申しますが……上四元さんは本当、ご自分では何もなさらない方なのですね」
左衛門三郎のお嬢様の皮肉を聞いているのか、いないのか上四元クシナはじっと作られたばかりの父直伝のホットドッグを見つめていた。
「いらない」
皿をこちらに突き返すと、リビングに緊張が走った気がした。
内心、冷や冷やしつつ、成り行きを見守りながら、いったい誰がこの家の住人なんだろうという情けない自問をひとり、くり返していた。
このまま来てもいいぞとロクを誘ったけれど、さすがにそうはいかないと返された。
「着替えたいしな」
土曜日の昼すぎ。シギに触発されて泊まる気満々のロクは気合いが入っていた。そのシギはやはり準備があるのだろう、一足先に帰っていた。
帰宅すると、まだ肌寒いというのに幅広のストラップキャミソールを纏った食客たる姉の親友の妹君はリビングの応接セットの奥、アームチェアに両ひざを抱きかかえるように丸まっていた。ハイウエストのマリンスカートから下着が見えそうである。
「ナナギ、おかえり」
ひざ頭に横たえた顔を乗せたまま僕を出迎える。
素直に帰ってきたからであろうか、妙な余裕を感じる。
シギが先かロクが先か。招待客たる友人たちが来るまでの間、どうして時間を過ごそうかと思案し始めたそのとき、電話が鳴った。
「俺」
その声は妙に沈んでいる。
「悪い、行けなくなった」
一瞬よぎった不安の影が形となって現実を突きつける。
「……どうしたんだ」
「留守番しなきゃなんなくなった」
ロクのお母さんが急に親戚の家に行くことになったとかで、妹たちの面倒を頼まれたのだという。先ほどからかすかに賑やかな声が聞き漏れてくる。
ちなみに妹たちとはコノハちゃんとサクヤちゃんの双子である。まだ幼稚園に行っていない彼女たちはロクに似ず、とても可愛らしい。まだ数えるくらいしか会ってはいないけれど、姉や僕にもよく懐いている。
余談ではあるけれど、ロクは小学生の頃に両親の営みを見てしまったことがあるらしく、「あのとき出来たのが妹たちだったんだ」と虚ろな目で話してくれたことがある。
本来ならばおめでたいことのはずなのに、見たことのない親友の落ち込みっぷりはなんとも気の毒でとても声をかけてやれる雰囲気ではなかった。
「親父は出張中だろ。ばあちゃんは町内会の旅行からまだ帰ってないし」
まるで絵に描いたかのような負の連鎖ぶりはコントのようでもある。
「お袋が向こうに行くのに小さいのは連れていけないっていうし、留守番を名目にこいつらの面倒押し付けられちまった」
あの日の告白のように落ち込んでいるのが手に取るように分かる。おそらく目に涙でも浮かべているのではないだろうか。
「そういうわけでせっかくのお泊まり会には参加できない」
まだシギが残っているとはいえ、男であるロクの不参加は痛い。
「なんだったらコノハちゃんとサクヤちゃんも一緒でいいぞ。姉さんも喜ぶと思うし」
「……ナギ、お前は本当、いいやつだなあ。でも俺にもプライドがある。そりゃナナミさんは歓迎してくれるだろうさ。だけどナナミさんやお前に迷惑はかけられないよ」
親しき中にも礼儀ありっていうしな。ため息交じりにつぶやく。後ろ髪を引かれる思いとはまさにこういう状況なのであろう。
「また誘ってくれよ」
受話器を置く寸前、もう一度ため息が聞こえた。訪れる静粛。
「ナ、ナ、ギ」
ゆっくりと僕を呼ぶ媚笑を含んだ声がした。
てっきり詮索されたり、冷艶な視線の餌食になるかもしれないなどとと警戒したのだけれど、電話の相手が誰だったのか、興味もなさげであった。
「ナナギってば」
上四元クシナが悩ましげに身体を揺するのと同時であった。
ドアチャイムが鳴った。
「ナギちゃん、来たよ」
聞き慣れた、幼い声がスピーカーからこぼれてくる。極力、リビングの上座に坐すお姫様を意識することなく、ひと呼吸置き、応答する。
「どうぞ」
門扉が開けられ、複数の人が入ってくる気配がした。
ロクは来れないというのにいったい誰と来たのだろうと訝しながら玄関へ向かう。
「いらっしゃ……」
ドアを開けると、オーバーダイの花柄ブラウスにデニムの切りっぱなしショートパンツを穿いたシギの他に見慣れた女子たちの顔があった。
「こんにちは、一君」
半袖ワンピース姿の左衛門三郎のお嬢様が仰々しい辞儀をしてみせる。オフホワイトのシルク生地に胸元に配された6つの丸ボタンとパフスリーブがそれぞれ上品さと愛らしさを醸し出している。
その後ろにはレザーを着込んだ三苫さんが恥ずかしそうに会釈を見せた。フロントジッパーの左右と袖にフリルが施されたハードなブルゾンで刺繍の入ったミニスカートを合わせている。三苫さんがコンパクト過ぎるゆえ、サイズが若干合っておらず着られている感が滲み出ていた。それにしても姉の見合いの日に会ったときもライダースにミニスカートだったけれど、普段の彼女からは想像もできない大胆さだ。そして、
「突然、ごめんなさい」
襟や裾にレースをあしらったサックスブルーのチュニックブラウスに包まれた羽二生さんが困惑気味に微笑んだ。何かしらの期待を含んだような笑み。その根源は姉であろう。フラワープリントのフレアミニスカートから伸びる足がとても美しかった。
思わぬ珍客に戸惑っていると、シギが経緯を説明してくれた。
昨日、三苫さんと昼食を摂っているときに僕の家に行く話になり、一緒に行かないかと誘ったらしい。さすがにシギみたいに泊まるわけではないけれど、遊びに行くなら、ということになったのだという。
その流れで姉の話になり、そこへレーダーに引っ掛かったのか羽二生さんが現れ、さらにそのあと三苫さん経由で話を聞いた左衛門三郎のお嬢様がそれならわたくしもということになった、ということだった。
三次を伴わなかったのは、彼女と僕、両方を気づかったのだと思う。
「たくさんいた方が楽しいかなあって」
いけなかった? と幼なじみが小首を傾げる。こんな状態でいけないだなんていえるはずなどない。むしろ歓迎したいところだ。
「とにかくみんな入って」
人数分のスリッパを出し、ダイニングの入り口を指し示しながらゲストを上げる。
「はい、ナギちゃん」
シギが手にしていた紙袋を差し出した。印刷された店名は瓊紅保駅前にあるデパートのテナントとして入っている洋菓子店であった。いつぞやロクから聞いたお気に入りのスイーツなのだろう。もう一つ抱えているエコバッグにはなにやら食材が詰まっているようであった。
「わたくしの贔屓にしているお店の菓子なのですが。ご笑納いただければ幸いです」
「……あの、これ、どうぞ」
左衛門三郎のお嬢様と三苫さんからもそれぞれ土産を受け取る。
「ナナミさんが喜んでくれるといいんだけど」
羽二生さんは紅茶の詰め合わせのようだった。姉は家ではコーヒーは飲んでも紅茶は飲むことはないのだけれど、外では違うのかもしれない。
「ありがとう」
期せずして両手いっぱいの手みやげを抱えながら、彼女たちの後についてダイニングに入ると、全員が固まったように一方を見つめていた。
いうまでもなく、リビングにいる上四元クシナだ。
「ナギちゃん、お客さんいたの?」
この中では唯一、彼女に初めて会ったシギがこちらを向く。当の上四元クシナは不敵で挑発的な視線を送って寄越している。
「ナナギ、お友だち呼んだんだ」
鷹揚とした声ではあるけれど、その不気味なほど見開かれた目は侮蔑と憤怒をない交ぜにしたかのような負の情念であふれ返っていた。
「……彼女、アツミさんの妹で上四元クシナさん」
その説明にシギはやっと会えたとばかりに、初対面の女子に近づいた。
「こんにちは、ナギちゃんの幼なじみの七ツ役シギヤといいます」
上四元クシナはじっと僕を見ていた。射るような眼差しは状況を説明しろといっている。しかしそれが声となって口から出ることはなく、すっと立ち上がり、
「上四元クシナです」
と丁重な辞儀を返した。
ふたたび着座して横を向く彼女の目には怒りしか浮かんでいない。
「……今、お茶を出すからみんな座ってて」
ごまかすようにもてなしの準備に取りかかろうとすると、シギが私がするよとダイニングに戻ってくる。
「私も手伝います」
三苫さんがシギに続くと、自分が動かないでどうするとばかりに左衛門三郎のお嬢様が僕を見て、ティーセットを使わせて頂きますと棚を開けた。羽二生さんもそれに倣う。
にわかに慌しくなったダイニングを横目に、我関せずと無表情の上四元クシナが廊下へと身を滑らせ、消える寸前、手だけ出し、ちょっと来いと人差し指を動かした。
後について行くと、果たして、現在彼女の部屋である寝室だった。このあとの展開も容易に想像がつく。
なにやらごそごそとしていた彼女は振り向きざま、狡猾なフットワークで僕の目の前まで飛び込むと、右ストレートを放ってきた。
まっすぐ飛んできた鋭く重い緋色は僕の顔面を遠慮なく潰しにかかった。痛みが引く間もなく二発目が右頬を抉る。
基本のコンビネーションで足を止められ、直後にきつい一発をボディに食らいあえなく身体を折られた。
「どういうこと」
カーペットに顔面を押しつけ息も絶え絶えな僕に冷徹な声が降ってくる。グローブの収縮音は獣の唸り声に似て、返答次第では再度、獲物の顔や身体を陵辱せんと襲い掛かってくることを予見させた。
「……こ、ここは僕の家なんだし、友人を呼ぶのに君の許可はいらないと思うけれど」
ぐぐっと小さくグローブがしなる音が聞こえた。憐憫の欠片もない声音で立てと命じるか、強制的に胸倉でも掴んで起き上がらせるのか、どちらにしても凄惨なお仕置きは続くのだろうと思っていたけれど、気色ばんだ一瞥をくれただけでくるりと背を向けるとグローブを外して出て行った。
ダイニングに戻ると、シギたちがティータイムの準備に勤しんでいた。母が愛用している芍薬をモチーフにしたカップ&ソーサー、ティーポット、プレートが並んでいた。
僕をノックアウトしたばかりのかりそめの同居人はリビングの上座に収まってる。
「素敵なティーセットをお持ちですね」
左衛門三郎のお嬢様はカップの内側やソーサーの外側が黒と金で縁取られた、特に母が大事にしている一品を愛おしそうに見ていた。
けっこうなお品だと聞いてはいたけど、彼女の態度を見るに、さすが価値が分かっているのだろう。
シギと三苫さんは各自の御持たせをプレートに乗せるべく化粧箱から取り出したり切り分けたりし、羽二生さんはティーポットとカップを温めるため耐熱ガラス製の電気ケトルでお湯を沸かしていた。母がいた頃は頻繁に使われたティーセットも最近は出番もなかったし、喜んでいるかもしれない。
「ロクちゃん遅いね」
苺のロールケーキをプレートに乗せながらシギが訊く。
「留守番頼まれたって。コノハちゃんとサクヤちゃんも連れてくればいいっていったけど、悪いからって断られた」
シギがそっかあと残念がる横で左衛門三郎のお嬢様が呆れたように首を振った。
「妹さんたちも六反園君のようなお兄様ですと色々と気苦労が絶えないでしょうね」
まだ幼い彼女たちが兄の振舞いにどう気苦労を覚えるのか不明ではある。
さまざまな菓子の乗ったプレートがリビングに運ばれて行く。
「よかったら、これ使う?」
母が友人たちとお茶を愉しむときに使っていたいた三段のケーキスタンドを出すと、左衛門三郎のお嬢様が華やいだ声を上げる。
「それはお誂え向きですね」
ロールケーキに高級チョコレート、ミニケーキやクッキーなどを乗せたプレートをスタンドにセットしていくと、リッチで優雅なひとときを過ごせそうな気さえしてくる。
「わー、おいしそー」
腑抜けた声を出したのは上四元クシナ。美味しそうといいながら、顔はずっと背けたままである。
ふたつある三人掛けソファーの左手に左衛門三郎のお嬢様と三苫さん、右手にシギと羽二生さんがそれぞれ着席する。
「ナギちゃん、座らないの?」
空いているアームチェアはテーブルを挟んで上四元クシナの真向かいである。不思議そうな顔をするシギと羽二生さんの間に目が行く。僕にとってはこれ以上ない絶好ポジションではあるけれど、そこに割り込むのはもちろん、不自然極まりない。
「……えっ、うん」
覚悟を決めて相対すると、そっぽを向いたまま上四元クシナは視線だけをこちらに寄越した。
女性陣が各々がカップに紅茶を注いで、好みのお菓子を銘々皿に取り分ける様子を眺めていると、自分の家なのに違和感を覚える。
「ナナギ、私、牛乳が欲しい」
僕から目を逸らすことなく、上四元クシナがいう。ミルクティのことかと思い、冷蔵庫からご所望の牛乳を取り出すと、左衛門三郎のお嬢様が立ち上がった。
「それでしたら、低温殺菌のものがよいのですが」
ダイニングの棚からクリーマーを出しながらアドバイスしてくれる。
「そのままがいいの」
リクエストした本人がむくれる。そして、
「ナナギ、昨日買って来てくれたパンある?」
突然、そんなことをいいだす。
「カレーパン?」
なんだか不快なものでも見るかのような態度だったけれど、いきなりどうしたのだろう。
「違う、カスクルート!」
子供みたいにごねる。食べたいといっても、昨晩は見向きもしないので、軽く済ませた夕食のあと、姉とともに頂いてしまって、もうない。それは知っているはずなのだけど。
「上四元さん、昨日も遊びに来たの?」
ミニケーキを摘んでいたシギの手が止まる。その反応に上四元クシナの口元が歪んだ。
「ずーっといるよ。今ここに住んでるから」
ね、ナナギ、とこちらに破顔してみせる。すでにあるはずのない昨日のパンを持ち出した意図が分かった。
「えっ」
今度は三苫さんの手が止まった。シギはそうなの? と僕の方を向く。その奥に座る羽二生さんはなるべく意識しないように努める。
「……電車通学をしてみたいからって、今ここから学校に通っているんだ」
「それはまたずいぶんと物好きな」
ミルクティの準備をしようと動いていた左衛門三郎のお嬢様が呆れた声を上げる。
その皮肉に噛みつくかとも思ったけれど、当人は涼しい顔でいただきまーすとチョコを頬張っていた。
要望通りの牛乳をマグカップに注ぐべく、棚に目をやると、左衛門三郎のお嬢様がどうぞと差し出してくれた。今ティータイムで使っている芍薬がモチーフのマグカップだった。
「ありがとう」
こういう気配りは女子だなと感心しながら、上四元クシナにそれを与えると、彼女もそれを汲み取ったらしく、
「合わせてくれたんだ、一応」
と牛乳を飲みはじめる。
「そっか、あのときのお弁当、上四元さんが作ったんだね」
疑問が解けたからかシギが嬉しそうな声を上げた。
「あのサンドイッチ、すごく美味しかった」
マグカップに口をつけたまま上四元クシナがするどい視線を飛ばしてくる。感激しているシギの方を向くことなく、マグカップを置くと不快さを隠すことなく吐き出した。
「あれ、ナナギのために作ったんだけど」
「……ごめんなさい。美味しそうだったから、ナギちゃんに食べたいってわがままをいって分けて貰ったの」
「違う」
しょんぼりするシギを気遣いながら、慌てて立ち上がった。
「量も多かったし、美味しいからシギにも食べて欲しくて僕からあげたんだ」
こちらに向けた流し目に鋭利な光が宿る。
「優しいんだ」
優しいとかじゃなく、事実そうなのだ。
「お腹空いた」
もうどうでもよいとばかりにアームチェアの上でひざを抱えると身体を揺する。目に浮かんでいた不穏な光はもう消えていた。
「ナナギ、お腹空いたってば」
そういえばホットドッグ用のロールパンがあったはずだ。冷蔵庫を開けると、ロングウインナーもある。
「ちょっと待ってて」
フライパンにバターを溶かして、ウインナを炒める。キャベツを取り出し、千切りにするとそこに放り込んで、塩コショウ、カレー粉で味を調える。バターを塗ったパンに炒めたものを挟んでオーブントースターに入れた。
「子供の頃にナギちゃんのお父さんが作ってくれたのだ」
いつの間にか後ろにいたシギが目を輝かせる。切りっぱなしのデニムから、そういうデザインなのだろう、ポケットの布がちらっと見えた。そこから伸びる太ももがまぶしい。高校に上がってからシギの私服は数えるくらいしか見てないけれど、こういう格好するようになったんだなと妙に感慨深い心境になる。
チン、とトースターが完成を知らせる。
皿に乗せて空腹を抱えるお姫様の目の前にケチャップとマスタードと共に置く。
「居候角な座敷を丸く掃き、とは申しますが……上四元さんは本当、ご自分では何もなさらない方なのですね」
左衛門三郎のお嬢様の皮肉を聞いているのか、いないのか上四元クシナはじっと作られたばかりの父直伝のホットドッグを見つめていた。
「いらない」
皿をこちらに突き返すと、リビングに緊張が走った気がした。
内心、冷や冷やしつつ、成り行きを見守りながら、いったい誰がこの家の住人なんだろうという情けない自問をひとり、くり返していた。
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