姉はすべてを支配する。さればわれらも姉に従おう。

さいきごそ

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シナリオ

姉弟

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 もうどれくらいの時間が経ったのだろう。
 一週間、半月、一ヶ月。あるいはまだ一日といわれても納得してしまうかもしれない。
 それくらい時間感覚は混濁していた。
 日付の確認をしようと、端末に手を伸ばしたけど、すぐに切ったままだったと気づいてやめる。今は電源を入れたくない。
 ベッドから起き上がり、停滞したままの思考をむりやり稼働させた。
 デスク横にあるラックに置かれたデジタル時計に目を向ける。
 目覚ましと電波修正機能を搭載した黒いそれはシンプルですごく気に入ってる。あとは時刻と日付の交互表示するくらいの取り柄しかないけれど、その潔さがむしろいい。
 そんなお気に入りのちいさな漆黒ボディを眺めながら、亡失した時間の欠片をたぐり寄せる作業は容易かったけれど、けっして愉快なものではなかった。
 羽二生さんから徹底拒絶された日は悶々した気分を抱え込んだまま寝てしまった。
 翌日の夜、帰って来た姉に「休んだの?」とドア越しに訊かれた。
 その翌日、つまり昨日の夜はシギが三苫さんと一緒にやって来たと訊いた。
 そうか、もう三日も経ったんだなとひとりごちる。
 姉はいっさい理由は訊かず、部屋に入っても来ない。むかしからそういう人だ。放任とか無関心とかではなく、常に僕の言動を――不定期に付き合わされるスパーリングのときにやさしく・・・・誘われる以外は――尊重してくれる。両親にも報告はしていないのだろう。
 休みなのか、今日はずっと人の気配がする。
 顔を会わせたところで姉は問い詰めるとか責めるとかしないのは分かってはいるけれど、どうしても下へ行くのは不在時や就寝時にしたい。
 ふたたびベッドに横になる。
 週明け、昼休みに羽二生さんから受けた言動が鮮明に甦る。週の半分も過ぎれば薄れると考えていたけれど、薄れるどころかむしろ輪郭が日増しにはっきりとしてきて僕を苦しめ続けている。

「汚らわしい」
「もう、私に近づかないで」

 そのふたこととグロテスクなものを見るような目。たったそれだけのことで僕は心を折られ、こうして部屋にこもりっきりになっている。その理由を知ったらみんなは脆弱な神経の持ち主だと哀れむのだろうか。片想いの女子に告白する前に嫌われた惨めなやつだと大笑いするのだろうか。いっそみんな忘れてしまいたい。いや、忘れられてしまいたかった。この世に僕がいなかったことになってしまえば羽二生さんだって不愉快な思いから解放されるのだ。

 ごめんなさい。

 何に対してのごめんなさいなのか分からないままそんなことをアタマの中で反芻する。

「ごめんなさい」

 今度は口に出してみる。何に対しての詫びなのかやはり理解することもできず、説明のしようのない情けなさから涙があふれそうになる。いっそ泣いてしまえればとは思うのだけれど、直前で何かに阻害をされ泣くに泣けない。ここ三日間はずっとこの繰り返しだ。おかげで泣きたくても泣けない苦しみというものがあることを僕は知った。
 けっきょく未だに羽二生さんから受けた仕打ちの根源は不明なままだ。家に来てくれたあとには普通に、むしろ以前よりもほんの少しだけど、心を開いてくれていたようだったし、原因はそこにはなさそうに思えるけれど、それは勝手なイメージだったのだろうか。
 彼女との距離がわずかだけど縮んだなどと勘違いし、どこか調子に乗ってしまって、その態度に問題があったのかもしれない。あるいは向こうから話かけてくれるようになって、知らず知らずのうちに、気をつけていたつもりではあったけれど、薄気味悪いにやけ顔で不快にさせてしまっていたのかもしれない。あるいはクラスが一緒になった小学生の頃から実はすでに嫌われていて積もりに積もった僕への拒否反応があの日たまたま破裂しただけなのかもしれない。
 一度、思考をマイナスな方面に向けてしまうと、それらはまるで翼が生えたように勝手気ままにアタマの中を飛び回り、ただでさえ脆弱になっている精神の腐食を加速させる。
 まだ思いすら伝えていない好きな人から手痛い拒絶をされた人たちはこういうときどうやって気持ちを落ち着かせ、整理し、日常を取り戻しているのだろう。
 こうしてベッドにうずくまったところで現状は打破できるはずもなく、それどころか空き腹がいい加減に何かを送れと催促し出す。人はどんなに悩んでいようと、気取っていようと、激しく怒っていようと生理現象には抗えないようにできているようだ。本当に面倒な生き物なんだなとうんざりしてくる。
 姉が眠る時間まで持ちそうにない。そういえば今日はもちろん、昨晩から何も摂っていなかった。
 意を決し、大きくため息をつくと、ダイニングへ下りていった。

 ロングヘアを白いサテンのシュシュでまとめ、左肩から垂らした姉はテーブルに座って洋書らしき厚い、美術関連と思われる本を開き、ノートを取っていた。
 その向かいには艶かしい黄色の艶を放つオムライスが出来たての証である湯気を立てながら鎮座している。
 てっきり食事をしながら勉強しているのかと思ったけれど、僕を認めた姉はいつものようにやさしい笑みと声で、ご飯できてるわよと三日ぶりに顔を会わせた愚弟にいった。
 まるで空腹に抗えずに降りてくることを想定していたみたいな言動は、僕を軽い思考停止に陥らせる。
 何かをいおうと思っても声にならず、かといってここまで来て部屋に引き返すのも躊躇われる状況の中、覚悟を決めて椅子を引き、姉の斜め向かいに座ると、スプーンを手に黄色い小山に取りかかった。
 ケチャップライスはとても熱くて、空っぽの胃には堪えたけれど、旨さがそれを上回ってスプーンは止まらなかった。
 姉のお気に入りである鉛筆みたいな0・5ミリのボールペンの先から流れ出る黒はフランス生まれのノートにすばやく、リズミカルに定着してゆく。
 筆記の音と、スプーンが皿にぶつかる音しか聞こえないダイニングで僕たち姉弟は互いに無言だった。
 姉弟だから客観的には見れないけれど、ロクや五十棲君たちが力説するように姉は美人なのかなとぼんやり思ったりする。
 厚くて重そうでついでに高そうな美術の本を片手にペンを走らせる姉はいつもの柔和な眼差しであった。
 テーブルの隅に所在なさげにしているウォーターポットに付いた無数の水滴がどんどん流れ落ち周囲に水溜りを作っている。
 オムライスを消化し終わると、ポットを手にしてグラスに注ぐ。飲み終えると同時にごちそうさまというと、姉はおそまつさまでしたと答えた。
「お姉ちゃんが洗っておくから流しに置いたままでいいわよ」
 ペンを走らせながら顔を上げずにいう。
 その様子を眺めながら、いっそ姉に全部ぶちまけてしまえばいいのかもしれないと都合のいいことを考えたりした。羽二生さんのことは誰にも、特に姉には明確な理由もなく知られたくはなかったのに、本当、調子のいいことだと自分で自分がいやになる。
 身勝手な理由で学校を休んで三日。このままでいいわけがない。何もいわず、ましてや責めることも怒ることもなく、見守ってくれている姉に対して僕はどうしたらいいのだろう。身体は持たないだろうけれど、ラウンド数無制限のスパーリングの相手を一週間ぶっ続けで気の済むまでつき合う、とかこちらから買って出れば大喜びしてくれるだろうか。

「姉さん」

 特に考えもなく呼んでいた。
 姉は手を休めると「なあに?」とこちらを見つめていた。
「あ、あの、勝手なことして、その……ごめんなさい」
 計画性のない発言なのは丸分かりだった。
「お姉ちゃん、何も謝られるようなことはされてないわよ?」
 皮肉じゃないのは分かっている。父も母も人を責めたり貶したり陰口悪口の類をいうようなことはなく、姉もその遺伝子をしっかりと受け継いでいる。基本怒らない人なのだ。
 例外があるとすれば中学に上がってすぐに起こした中途半端な反乱を拳で制圧されたときと瓊紅保の図書館で十鳥さんが巻き込まれた事件のときくらいだ。もちろん、僕の知らないところで激情に身を委ねたことがあるかもしれないけれど、そんなに多くはないことはなんとなく分かる。
「でも、学校やすんだり、迷惑かけて……」
 それにも姉は迷惑してないわよと笑うだけであった。
 ひとこと、明日からちゃんと学校へ行くからとか意思表示をすればいいものを未だに決心がつかないのが情けない。
 空腹を満たす以外の成果をけっきょく残すこともなく、何ごともなかったようにふたたびペンを走らせる姉を残し、部屋に戻ろうと廊下に出かけたときだった。

ナナギ・・・

 思考が止まった。
 ナナギ。
 それは紛れもなく僕の名前だ。当たり前のように僕の名前。問題は姉が・・そう呼んだことにある。いつからだったのか覚えていないけれど、姉は僕を名前で呼ばない。シモベ君とか君とかあなたとか、そんな感じで外ではあの子とかうちの弟とかとにかく名前で呼ばない人だ。
 小さい頃に「シモベ」の意味を調べてすごくやるせない気分になったことがあった。どうして名前で呼んでくれないのか姉におそるおそる訊いたことがあったけれど、
「だってあなたはお姉ちゃんのシモベなんだもの。シモベ君に名前はいらないでしょう」と理由にもなっていない答えに押し切られた。
 そう。僕は姉のシモベで彼女の中ではナナギではない、はずだった。
 振り返ると、姉は本とノートを交互に見遣りながらペンを走らせている。
 顔を上げることなく久しぶりに名前を呼んでくれた姉はこう続けた。

「お姉ちゃんはいつだってナナギの味方だから」

 風景がぼやけている。その原因が、やがて頬を伝い、顎を伝ってこぼれる落ちる寸前のあたたかな滴の前兆だからだと理解するのに時間はかからなかった。
 それを見られたくなくて、僕は部屋に急いで戻った。ドアを閉めてその場にへたり込むと腕で顔を覆いながら声を押し殺して泣いた。

 悲しみからでも恐怖からでもない涙というものがあるんだと僕はこの日知った。
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