50 / 126
シナリオ
晩餐
しおりを挟む
家について端末の電源を入れると、メールが届いていた。
上四元クシナからのそれは、『アルバイト採用』という短いメッセージと連絡先が記されていた。ずいぶんとあっさりしたものだなとちょっと拍子抜け。
勤務先は場所は国道沿いにある、ショッピングセンター内の書籍の売り場が全体の半分を占める大型複合店。こちらの希望通り、裏方の仕事が中心のようだった。
リンクされてある先方に電話を入れると、さっそく明日からでも来て欲しいといわれた。用意するのもはと訊くと、動きやすい着替えがあればいい、履歴書は予備のがあるからこっちで書いてもらってもかまわないとのことだった。
通話を終えたあと、不安と緊張の中、高鳴る胸を押さえる。上四元クシナにはいい忘れていたけれど、姉には知られたくなかったので、手早く連絡が取れて助かった。
姉が帰宅したのは九時過ぎで、めずらしく夕飯をテイクアウトしてきた。
先に食べていてもいいからと連絡はあったので、軽く済ませてはいたけれど、五目チャーハンや青椒肉絲、エビと玉子の炒めものの彩り、鉄板棒餃子の焼き目を見ているうちに食欲が出てきて、姉の一緒に食べましょうという誘い文句も手伝って、お相伴に与ることした。
並べられた料理に合わせたのか、姉が出した箸は長めのものである。こういうカタチから入る的なところは母に似ている。
姉に取り分けてもらった棒餃子を齧る。その熱さと食感は焼き立てを感じさせるにはじゅうぶんだった。
続いて五目チャーハンに取りかかる。エビ嫌いのロクがこの場にいたら、メニューの半分は堪能できていなかったことであろう。
玉子をたっぷり使ったチャーハンの歯応えを味わいながら残業だったの? とエビと玉子の炒めものを頬張っている姉に訊く。
「病院に行っていたの」
「……どこか、調子悪いの?」
風邪ひとつひかないほど健康体の姉の口から飛び出した病院という不釣合いな単語に反応したのが顔に出ていたのか、お姉ちゃんが罹ったわけじゃないのよと小さく笑った。
となると、
「アツミさんのところ?」
妹である上四元クシナから数時間前に聞いた気になっていたことのひとつ。彼女は自分のせいだといっていた。
「知っていたの?」
「今日、上四元さんに会った」
姉はそう、と頷くと思案顔で僕を見つめいた。
「アツミさん、病気なの?」
「ちょっと体調を崩しただけみたい。その辺の心配はないから安心して」
その言葉に安堵する。姉は憂いを溶かしたような声で続けた。
「じゃあ、クシナちゃんに聞いたのね」
どこか慎重に慎重を重ねたかのような重み。それがどういうことかは分かっている。上四元クシナが告白したもうひとつの気になる話。
「……うん。あの噂を羽二生さんに流したって」
姉は視線をテーブルに落としていた。でも、本当に見ているものは違うのだろう。
「あなたはどう思った?」
目を伏せたまま訊いてくる。姉さんこそどうしたのと訊き返したい衝動に駆られたけれど、それは飲み込んだ。姉の性格を考えれば怒らない気がする。友人の妹だからとかではなく、一ナナミとはそういう人だ。
「きっと姉さんと同じ反応だったと思う」
姉は顔を上げるとそっと首肯し、微笑んでみせた。
想像でしかないけれど、アツミさんの入院と羽二生さんに対する一連の行動原理はきっと繋がっているはずだ。
「クシナちゃん、アツミのこと大好きだから、あなたや私に嫉妬したんだと思うの」
箸同様、料理に合わせて出されたウーロン茶をひとくち飲む。姉はこういう機会じゃない限りお茶関係はまず口にしない。
放課後に襲来を受けていた頃、アツミさんの話をするたびに機嫌を損ねた上四元クシナが思い出される。さらにアツミさんに対する異常なまでの腐し方。
てっきりその逆、アツミさんへの憎しみ、まではいかないまでも不仲がそうさせているのだとばかり思っていた。むしろ慕っているからこそ生まれる憎悪、可愛さ余って、ということなのか。
「いつも遊びに行く相手は私、家ではあなたや私の話を楽しそうにしているのがすごくいやだったっていっていたの。私、知らないうちにクシナちゃんを傷つけていたのね」
「だけど」
自分を責める姉をさえぎるように思わず声が大きくなる。つられるように僕は上半身を乗り出していた。
「ね、姉さんはアツミさんと親友なんだし、それ自体は何もおかしなことはないよ」
姉はありがとうと笑ったけれど、どこか後ろめたさが伴うさみしい笑顔であった。
「いつだったか彼女、アツミが私の悪口をいっているって、そんなことをいったことがあったのよ」
チャーハンを口に運ぶ。それは食べるためというよりも、何かを必死に押し殺すためのように思えた。
「クシナちゃん、あの頃からやきもちを焼いていたのね。それがきっかけというわけでもないんだけれど、一時期、アツミと距離を取ったことがあったの。もっとクシナちゃんと遊んであげて欲しかったからなんだけれど、当のアツミの方は理由もなく避けられていると思って日増しに元気がなくなっていって、けっきょくクシナちゃんからお姉ちゃんが可愛そうだから前みたいに仲よくしてあげてってお願いされたの」
アツミさんと上四元クシナのことを思っての行動が友情にひびが入る直前までいったとか皮肉にもほどがある。いつも穏やかに過ごしているように見える姉も知らないところでかなり苦悩していたのだ。
「それ以降はアツミと出かけるときにはクシナちゃんを誘うように気をつけてはいたんだけれど、結果的にまたクシナちゃんを苦しませていたのね。今回の引き金になったのは、配慮が足りなかった私のせいなの」
とことん打ちのめされたかのようなその表情と声音には慙愧の念がほの揺らいでいるみたいだった。こんなに弱弱しい姉は今まで見たことがない。
「姉さんのせいじゃないよ」
すごく無責任であまり好きないい方ではないけれど、誰が悪いということではない。
「上四元さん自身もすごく反省していたし、姉さんも僕もそれに対して気にしていないというスタンスならそれでいいと思う。羽二生さんだって、この件のことはもう誰も責めるつもりはないはずだよ」
さすがに羽二生さんの気持ちをいかにも分かっている風に代弁したのはやりすぎだったかもしれない。
姉は僕の顔をまじろぎもせずに見ていた。そして立ち上がると、背後から包むようにそっと抱きしめた。
ありがとう。
消え入るくらい小さな、だけどやさしい声だった。
何度も何度も頬をすり寄せ、何度も何度も頬にキスをする。
「………ね、姉さん、く、くすぐったい………」
愛撫をやめた姉は至近距離、互いの鼻のアタマがくっつきそうなくらいの位置で息を潜めていた。気のせいか目も潤んでいる。
「お姉ちゃん、もう我慢できない」
潤んだ眼差しは次第に情欲を帯び、いくぶんか湿ったささやきは鼓膜の奥で淫靡な音となって沁み込み、本能を否応なく刺激する。
「今日、しよっか」
羽二生さんが謝罪にやって来た日の夜、ガレットを作りながら姉が口にした冗談が鮮明によみがえり、顔の熱がどんどん上がってゆく。
「………姉さん、ダメだよ。姉弟でそういうの、ぜ、絶対、よくない」
くすっと品のいい笑いがこぼれる。姉は僕の頬をなでながら、いつもしてるじゃないと官能的な口調でいった。
…………………………いつも?
「久しぶりにしましょう、スパーリング。ここのところずっとご無沙汰だったからお姉ちゃん溜まってるの。今夜はくたくたになるまでたっぷりつき合ってもらうから、ね?」
語尾にハートマークを十個くらい付けて、姉はとてもいい笑顔でいうのだった。
上四元クシナからのそれは、『アルバイト採用』という短いメッセージと連絡先が記されていた。ずいぶんとあっさりしたものだなとちょっと拍子抜け。
勤務先は場所は国道沿いにある、ショッピングセンター内の書籍の売り場が全体の半分を占める大型複合店。こちらの希望通り、裏方の仕事が中心のようだった。
リンクされてある先方に電話を入れると、さっそく明日からでも来て欲しいといわれた。用意するのもはと訊くと、動きやすい着替えがあればいい、履歴書は予備のがあるからこっちで書いてもらってもかまわないとのことだった。
通話を終えたあと、不安と緊張の中、高鳴る胸を押さえる。上四元クシナにはいい忘れていたけれど、姉には知られたくなかったので、手早く連絡が取れて助かった。
姉が帰宅したのは九時過ぎで、めずらしく夕飯をテイクアウトしてきた。
先に食べていてもいいからと連絡はあったので、軽く済ませてはいたけれど、五目チャーハンや青椒肉絲、エビと玉子の炒めものの彩り、鉄板棒餃子の焼き目を見ているうちに食欲が出てきて、姉の一緒に食べましょうという誘い文句も手伝って、お相伴に与ることした。
並べられた料理に合わせたのか、姉が出した箸は長めのものである。こういうカタチから入る的なところは母に似ている。
姉に取り分けてもらった棒餃子を齧る。その熱さと食感は焼き立てを感じさせるにはじゅうぶんだった。
続いて五目チャーハンに取りかかる。エビ嫌いのロクがこの場にいたら、メニューの半分は堪能できていなかったことであろう。
玉子をたっぷり使ったチャーハンの歯応えを味わいながら残業だったの? とエビと玉子の炒めものを頬張っている姉に訊く。
「病院に行っていたの」
「……どこか、調子悪いの?」
風邪ひとつひかないほど健康体の姉の口から飛び出した病院という不釣合いな単語に反応したのが顔に出ていたのか、お姉ちゃんが罹ったわけじゃないのよと小さく笑った。
となると、
「アツミさんのところ?」
妹である上四元クシナから数時間前に聞いた気になっていたことのひとつ。彼女は自分のせいだといっていた。
「知っていたの?」
「今日、上四元さんに会った」
姉はそう、と頷くと思案顔で僕を見つめいた。
「アツミさん、病気なの?」
「ちょっと体調を崩しただけみたい。その辺の心配はないから安心して」
その言葉に安堵する。姉は憂いを溶かしたような声で続けた。
「じゃあ、クシナちゃんに聞いたのね」
どこか慎重に慎重を重ねたかのような重み。それがどういうことかは分かっている。上四元クシナが告白したもうひとつの気になる話。
「……うん。あの噂を羽二生さんに流したって」
姉は視線をテーブルに落としていた。でも、本当に見ているものは違うのだろう。
「あなたはどう思った?」
目を伏せたまま訊いてくる。姉さんこそどうしたのと訊き返したい衝動に駆られたけれど、それは飲み込んだ。姉の性格を考えれば怒らない気がする。友人の妹だからとかではなく、一ナナミとはそういう人だ。
「きっと姉さんと同じ反応だったと思う」
姉は顔を上げるとそっと首肯し、微笑んでみせた。
想像でしかないけれど、アツミさんの入院と羽二生さんに対する一連の行動原理はきっと繋がっているはずだ。
「クシナちゃん、アツミのこと大好きだから、あなたや私に嫉妬したんだと思うの」
箸同様、料理に合わせて出されたウーロン茶をひとくち飲む。姉はこういう機会じゃない限りお茶関係はまず口にしない。
放課後に襲来を受けていた頃、アツミさんの話をするたびに機嫌を損ねた上四元クシナが思い出される。さらにアツミさんに対する異常なまでの腐し方。
てっきりその逆、アツミさんへの憎しみ、まではいかないまでも不仲がそうさせているのだとばかり思っていた。むしろ慕っているからこそ生まれる憎悪、可愛さ余って、ということなのか。
「いつも遊びに行く相手は私、家ではあなたや私の話を楽しそうにしているのがすごくいやだったっていっていたの。私、知らないうちにクシナちゃんを傷つけていたのね」
「だけど」
自分を責める姉をさえぎるように思わず声が大きくなる。つられるように僕は上半身を乗り出していた。
「ね、姉さんはアツミさんと親友なんだし、それ自体は何もおかしなことはないよ」
姉はありがとうと笑ったけれど、どこか後ろめたさが伴うさみしい笑顔であった。
「いつだったか彼女、アツミが私の悪口をいっているって、そんなことをいったことがあったのよ」
チャーハンを口に運ぶ。それは食べるためというよりも、何かを必死に押し殺すためのように思えた。
「クシナちゃん、あの頃からやきもちを焼いていたのね。それがきっかけというわけでもないんだけれど、一時期、アツミと距離を取ったことがあったの。もっとクシナちゃんと遊んであげて欲しかったからなんだけれど、当のアツミの方は理由もなく避けられていると思って日増しに元気がなくなっていって、けっきょくクシナちゃんからお姉ちゃんが可愛そうだから前みたいに仲よくしてあげてってお願いされたの」
アツミさんと上四元クシナのことを思っての行動が友情にひびが入る直前までいったとか皮肉にもほどがある。いつも穏やかに過ごしているように見える姉も知らないところでかなり苦悩していたのだ。
「それ以降はアツミと出かけるときにはクシナちゃんを誘うように気をつけてはいたんだけれど、結果的にまたクシナちゃんを苦しませていたのね。今回の引き金になったのは、配慮が足りなかった私のせいなの」
とことん打ちのめされたかのようなその表情と声音には慙愧の念がほの揺らいでいるみたいだった。こんなに弱弱しい姉は今まで見たことがない。
「姉さんのせいじゃないよ」
すごく無責任であまり好きないい方ではないけれど、誰が悪いということではない。
「上四元さん自身もすごく反省していたし、姉さんも僕もそれに対して気にしていないというスタンスならそれでいいと思う。羽二生さんだって、この件のことはもう誰も責めるつもりはないはずだよ」
さすがに羽二生さんの気持ちをいかにも分かっている風に代弁したのはやりすぎだったかもしれない。
姉は僕の顔をまじろぎもせずに見ていた。そして立ち上がると、背後から包むようにそっと抱きしめた。
ありがとう。
消え入るくらい小さな、だけどやさしい声だった。
何度も何度も頬をすり寄せ、何度も何度も頬にキスをする。
「………ね、姉さん、く、くすぐったい………」
愛撫をやめた姉は至近距離、互いの鼻のアタマがくっつきそうなくらいの位置で息を潜めていた。気のせいか目も潤んでいる。
「お姉ちゃん、もう我慢できない」
潤んだ眼差しは次第に情欲を帯び、いくぶんか湿ったささやきは鼓膜の奥で淫靡な音となって沁み込み、本能を否応なく刺激する。
「今日、しよっか」
羽二生さんが謝罪にやって来た日の夜、ガレットを作りながら姉が口にした冗談が鮮明によみがえり、顔の熱がどんどん上がってゆく。
「………姉さん、ダメだよ。姉弟でそういうの、ぜ、絶対、よくない」
くすっと品のいい笑いがこぼれる。姉は僕の頬をなでながら、いつもしてるじゃないと官能的な口調でいった。
…………………………いつも?
「久しぶりにしましょう、スパーリング。ここのところずっとご無沙汰だったからお姉ちゃん溜まってるの。今夜はくたくたになるまでたっぷりつき合ってもらうから、ね?」
語尾にハートマークを十個くらい付けて、姉はとてもいい笑顔でいうのだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
俺は陰キャだったはずなのに……なぜか学園内でモテ期が到来した件
こうたろ
青春
友人も恋人も居ないボッチ学生だった山田拓海が何故かモテだしてしまう。
・学園一の美人で、男女問わず憧れの的。
・陸上部のエースで、明るく活発なスポーツ女子。
・物静かで儚げな美術部員。
・アメリカから来た金髪碧眼でハイテンションな留学生。
・幼稚園から中学まで毎朝一緒に登校していた幼馴染。
拓海の生活はどうなるのか!?
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる