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十鳥オガミと上四元クシナ
邂逅
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「もうあきらめていたんだ、これ。手に入るとは思わなかったからすっごくうれしい!」
名前も知らない子が嬌声を上げる。歓天喜地の至境に達するとはこういうことなのかというくらいのはしゃぎっぷりに言葉もない。
「本当にありがとう、クシナ」
名前も知らない子に呼び捨てにされる不思議な感覚。あの児童公園で初めて出会った日、一ナナギもこういう気持ちだったのだろうか。
「いいなあ~、私も何か頼めばよかった~」
名前も知らない子の友人が妬ましげに身悶えする。もちろん、この子の名前も知らない、一面識もない相手だ。
於牟寺駅前のコーヒーショップで「うれしい」と「ありがとう」を繰り返す名前も知らない子は手にしたTシャツを何度も何度も自分の身体に合わせ、二種類のネームタグを満足げに撫で、証明書をうっとり眺めていた。
私たちのテーブルを横切る何人かがそれを認め、あっと小さく驚嘆するたびに友人の子はあの人見てるよと小声で知らせ、名前も知らない子はその度にささやかな優越感に浸っていた。
この子から連絡があったのは数日前。
あるブランドのTシャツが欲しいけど、枚数限定で入手が難しいからなんとかならないかということであった。ショップ限定のそれは他のブランドとのコラボ商品だとかで、証明書まで付いたご大層な一品だった。箱入りの上、ブランドロゴがこれでもかとプリントされたエコバッグまでセットになっているそれは、Tシャツともどもプレミアが付いているらしい。
伯父さんに訊いたら、持っている商業ビルにテナントとして入っているショップで取り扱いがあったけれど、当然のようにすでに在庫はなく、それならと膨大な人脈を駆使して手に入れたそうだ。
「本当にお金は通常価格でいいの?」
彼女の懸念もむりはない。オークションでは未使用品なら三倍まで跳ね上がっていたし、オマケのエコバッグ単品ですらけっこうなお値段になっていた。
「一万もしないTシャツに三倍のお金を出すとかおかしいよねえ。ただ同然のエコバッグも万超えてたよ」
ティナじゃなくても失笑したくなる。子供の頃だったか、高級バッグのメーカーがエコバッグを出して話題になっていたけど、すぐにありがちなプレミアが付いて現地価格で千円ちょっとの安っぽい手提げが何万にもなっていたことがあったっけ。もはや成り行き自体がエコじゃない気がする。
「うん、それでいい」
上目遣いにお金を差し出す名前も知らない子におかしくもないのに笑って見せる。
事実、伯父さんは正規の料金で手に入ったといっていた。お金に糸目をつけないなら、それこそオークションとか法外な値段をつけている非正規ショップから入手すればいいのだ。伯父さんにもそこは守って欲しいとお願いしていた。
「本当、ありがとね、クシナ」
何度目かのありがとうと口にした名前も知らない子は愛おしそうにTシャツと証明書を箱に仕舞うと、アイスキャラメルマキアートを幸せそうにつつきだした。
「本当、クシナは頼りになるなあ」
「だよねえ」
名前も知らないふたりの賞賛を他人事のように聞く。ふたりの着ている制服は見たことがない。どこのだろう。
「中途半端な友達百人持つよりクシナひとりの方が絶対いいよね」
「うんうん」
中途半端な友達って何だろ。というか、あなたたちはどこの誰なの。
「また何かあったらお願いしてもいいかな」
もちろん、といいながら席を立つ。
「……えっ、もう帰るの?」
だってもう用はないから。
本音を押隠しておかしくもないのにまたねと笑うと、店を出た。
こういうのを追従笑いというのだろうか。ちょっと自分にうんざり。
充実感より徒労感の方が大きかった所用を済ませて駅に向かう途中、端末を取り出して名前も知らない子のメールを確認をした。
やっぱりどういう経緯で知り合った子か思い出せなかった。そして今後も思い出すことも名前を記憶することもないのだろう。
友達の友達はなんとやら。
はじめまして、そしてさようなら。名も知らないお嬢さん方。
*
「さっきからなんだ、ガキのくせに偉そうに」
走り出してどれくらい経った頃か、鉄と鉄のぶつかり合う、線路の繋ぎ目が醸す揺れと音に身を委ねていると、品のない奇声によって心地よいひとときが破られた。
発生源は隣りの車両。ひとりの女子高生と男が言い争っている。
見慣れた緑のジャケットを着込んだ女子高生は何ごとを喚き散らしている男を前に怯む様子もなく、端然としていた。
「そのガキに注意されるのが嫌なら、ごく当たり前のことは守って下さい。それとこちらは偉そうにいっているつもりはありません。そう感じるのなら、それはあなた自身に問題があるのでしょう」
誰に対してもああなんだなと感心する。
ため息を一つ吐くと乗降口のデッキに移動した。ドアの前に立つと、言い争いの内容がさらに鮮明に聞こえてくる。
「口答えしてんじゃねえよ」
「口頭で注意を促しているだけです」
優先席の前。男の手には端末らしきもの。経緯は把握できた。
「屁理屈いってんじゃねえ!」
鈍い音が響き渡り、静まり返る車内。おそらく車両全体に緊張感が漂っているのだろう、居合わせた人たちに同情を禁じえない。
手の甲で頬を張られた女子高生はしばらく殴られた状態でじっとしていたけど、逆再生でもしたかのように上半身を起こし、やはり手の甲で頬を張り返した。
よほど威力があったのか、男は後方によろめいていた。
フォトTシャツにジレを合わせ、下はダメージデニムと破廉恥なくらい先の尖ったレザースニーカー、首にはおそらくブラックスピネルらしきネックレスを身につけているから若いのかと思ったけれど、近くで見るとしっかり中年。オーバーサーティー、いやフォーティーかもしれない。そこはかとなく漂うむりしてる感が切なくも哀しい。きっと悪趣味な香水も装備しているのだろう。
何を着ようがもちろん個人の自由だと思うけど、でも相応の格好、振る舞いというものがある。特に後者を履き違えると周りが迷惑するのだ。場所も弁えずに電話をする人、飲食店に下品な匂いを漂わせてやって来る人、書店やコンビニで延々と立ち読みをする人。最後のは誰にも迷惑はかけてはいないと強弁する人もいるだろうけど、見ていて気持ちのいいものではない。もちろん、こっちの勝手な感情だ。でも、大人、犯罪を犯せば顔も名前も公表されてしまう年齢に達した人が周りの目を気にすることなく一心不乱に漫画雑誌に被りついている姿はみっともいいものではない。おかしい事じゃない、時代は変わったんだとか反論もあるけれど、それは変われない、変わりたくないモラトリアム人間のみっともない言い訳にすぎない。読むなとはいわないけれど、いい歳した大人が漫画片手にこれは泣けるとかムキになって力説するご時世というのはやっぱり異様だし、滑稽だ。少なくとも未成年がお手本にしたい、なりたい大人の姿ではないだろう。
車内アナウンスが目的地が近いことを知らせる。
まだぽかんとしたままへたり込んでいる若作りのジレ男に娘くらいの歳の差はありそうな女子高生が侮蔑と憐みを混ぜたような視線を落とす。
「……ん、んだあ、こらァァァァァあ」
我に返ったジレ男は勢いよく立ち上がり、絶叫しながら女子高生に迫った。
とても大人の言動とは思えない。ファッションだけではなく、心持ちもお若いようだ。
「てンめえ、ふざけてんじゃねえぞ!」
「何を怒っているのですか」
「……ああ? ひとのこと殴っておいてただで済むと思ってんのか!」
「先に手を出したのはそちらです。やり返されるのが嫌ならば、安易に手を出すのはお止めになった方が賢明です」
「なめてんじゃねえぞ、ガ……」
キ、と続けるつもりだったみたいだけど、それは言葉にならずに、相対している女子高生の冷徹な視線によって遮られた。あらゆるものを切り裂くような、どこまでも鋭利なその目は心と見た目、精神年齢と実年齢が残酷に乖離し始めた若作り中年を威圧するのにじゅうぶんな効力を持っていた。
「もう一度申し上げます。私みたいなガキに直言されたくのないでしたら、大人に相応しい振舞いをなさって下さい。それと」
いやな横揺れのあと、圧縮空気の音と共に乗降口が一斉に開く。
「何とかの一つ覚えのように大きな声を出せば誰でも黙ると思ったら、大間違いです」
いつものような切れのいいターンを見せると、彼女はホームに降り立った。
まだたった今起こった出来事に騒然となる車内やジレ男を横目に私もあとに続く。
彼女は駅構内やペデストリアンデッキ、そして街中を何にも興味がないといった体でひたすら歩き進む。
街は本格的な夏を前に涼しげで軽やかなディスプレイが散見できた。
よくも悪くも開放感あふれる季節はもう、すぐそこまで来ている。ティナは今年こそ絶対に海に行くからねと張り切っていたけど。
しばらくして住宅街に入る。瓊紅保に越してきて数年、この辺りは未だに知らない。近頃あちこちにできている新興住宅街とは違って、旧市街地と呼ばれる地域だろう。
大きな建物が見えてくる。彼女を追って右に曲がると、駐車場が目に飛び込んできた。
市内に何店舗もある県内最大のチェーン数を誇るスーパーだ。右手前には自販機が二台、反対側には植え込みで囲われた小さな砂場がある。
しかし彼女が目指しているのは右手奥で口を開けているその入り口ではなく、ほぼ正面、同じ敷地内に構えている小さな洋品店であった。駐輪場やその空いているスペースに出店している焼き鳥の屋台を横切り、悠然と中へ消えてゆく。
年季の入った、おそらく元はピンクであったと思われる軒出しテントには白字で「おしゃれ工房 フレンド」と染め抜いてあった。店先からはラジオ――おそらく店の客層に合わせた中高年向け番組――が聞こえてくる。
私には今までも、そしてこれからも縁がないであろう店。
店から慎重に目を離さないように財布を取り出し、手前の自販機でアイスを買う。意識を数十メートル先のおしゃれ工房に飛ばしていたせいでじっくり選ぶ余裕もなく、直感で押して出てきたのは梅ミルク。……目の端で捉えたピンクや赤みをストロベリーと勘違いしたようだ。
ターゲットが着ている緑のジャケットが見えた。おそらく常連なのだろう、店のおばさんらしき人と楽しげに会話をしている。手にはエコバッグなのかさっきまでなかったスクールバッグとは違うトートを持っている。何かを買ったようだ。
そのままこちらに戻ってこられると正直、隠れる場所がないので焦ったけれど、彼女は国道が走る左手に歩き出した。
意外と美味しかった(!)梅ミルクに感激する間もなく、彼女はぐいぐい歩を速める。
見慣れない住宅街に点在する空きの目立つ古めのアパートや小料理屋、潰れて何年経つのか分からない駐車場のコンクリートの割れ目のそこここから雑草が顔を覗かせている巨大な空き店舗などを横目にひたすら南へ向かう。
大通りに出た。
早歩きで追うと、彼女は通りの交差点、数メートル先で信号待ちをしていた。
信号は渡らず、道を挟んだ斜め後方からあとを追う。
今度はドラッグ量販店に入った。店の中で遭遇しないとも限らないので、真向かいにあるガソリンスタンドの裏手に走る古い住宅が並ぶ小道で息を潜めて待機。
なにを買ったのか、ほどなく出てきた彼女はそのあとどこへも寄ることなく規則正しい歩幅と速さで歩き続けると、一軒の邸宅の前で止まった。
道路沿いに連なる家々は新築のようだけど、脇に逸れると風格のある家屋が目立つ住宅街である。その中でもこの家の大きさ、新しさは際立っていた。
家の前の道路は区画整理の賜物なのか道幅も広く、きれいな歩道や街灯、花壇が新興住宅街にも負けない華やかさを誇っている。電線類の地中化もされて、景観もいい。
数件先にはコンビニもできていたし、いいことか悪いことは別にしてこの辺も変わりつつあるのかもしれない。
門扉に手をかけたままじっとしている艶やかな黒髪のご令嬢の後ろに立つ。
表札には【十前イワ】と【十鳥オガミ】のふたつの名前だけ。
数日前、病院で会った際の言葉がよみがえる。
「お見舞いよ。祖母の友人の」
その祖母がこのイワさんなのだろう。
表札の件にひとり納得していると、いつもの持って回った口調の皮肉が飛んできた。
名前も知らない子が嬌声を上げる。歓天喜地の至境に達するとはこういうことなのかというくらいのはしゃぎっぷりに言葉もない。
「本当にありがとう、クシナ」
名前も知らない子に呼び捨てにされる不思議な感覚。あの児童公園で初めて出会った日、一ナナギもこういう気持ちだったのだろうか。
「いいなあ~、私も何か頼めばよかった~」
名前も知らない子の友人が妬ましげに身悶えする。もちろん、この子の名前も知らない、一面識もない相手だ。
於牟寺駅前のコーヒーショップで「うれしい」と「ありがとう」を繰り返す名前も知らない子は手にしたTシャツを何度も何度も自分の身体に合わせ、二種類のネームタグを満足げに撫で、証明書をうっとり眺めていた。
私たちのテーブルを横切る何人かがそれを認め、あっと小さく驚嘆するたびに友人の子はあの人見てるよと小声で知らせ、名前も知らない子はその度にささやかな優越感に浸っていた。
この子から連絡があったのは数日前。
あるブランドのTシャツが欲しいけど、枚数限定で入手が難しいからなんとかならないかということであった。ショップ限定のそれは他のブランドとのコラボ商品だとかで、証明書まで付いたご大層な一品だった。箱入りの上、ブランドロゴがこれでもかとプリントされたエコバッグまでセットになっているそれは、Tシャツともどもプレミアが付いているらしい。
伯父さんに訊いたら、持っている商業ビルにテナントとして入っているショップで取り扱いがあったけれど、当然のようにすでに在庫はなく、それならと膨大な人脈を駆使して手に入れたそうだ。
「本当にお金は通常価格でいいの?」
彼女の懸念もむりはない。オークションでは未使用品なら三倍まで跳ね上がっていたし、オマケのエコバッグ単品ですらけっこうなお値段になっていた。
「一万もしないTシャツに三倍のお金を出すとかおかしいよねえ。ただ同然のエコバッグも万超えてたよ」
ティナじゃなくても失笑したくなる。子供の頃だったか、高級バッグのメーカーがエコバッグを出して話題になっていたけど、すぐにありがちなプレミアが付いて現地価格で千円ちょっとの安っぽい手提げが何万にもなっていたことがあったっけ。もはや成り行き自体がエコじゃない気がする。
「うん、それでいい」
上目遣いにお金を差し出す名前も知らない子におかしくもないのに笑って見せる。
事実、伯父さんは正規の料金で手に入ったといっていた。お金に糸目をつけないなら、それこそオークションとか法外な値段をつけている非正規ショップから入手すればいいのだ。伯父さんにもそこは守って欲しいとお願いしていた。
「本当、ありがとね、クシナ」
何度目かのありがとうと口にした名前も知らない子は愛おしそうにTシャツと証明書を箱に仕舞うと、アイスキャラメルマキアートを幸せそうにつつきだした。
「本当、クシナは頼りになるなあ」
「だよねえ」
名前も知らないふたりの賞賛を他人事のように聞く。ふたりの着ている制服は見たことがない。どこのだろう。
「中途半端な友達百人持つよりクシナひとりの方が絶対いいよね」
「うんうん」
中途半端な友達って何だろ。というか、あなたたちはどこの誰なの。
「また何かあったらお願いしてもいいかな」
もちろん、といいながら席を立つ。
「……えっ、もう帰るの?」
だってもう用はないから。
本音を押隠しておかしくもないのにまたねと笑うと、店を出た。
こういうのを追従笑いというのだろうか。ちょっと自分にうんざり。
充実感より徒労感の方が大きかった所用を済ませて駅に向かう途中、端末を取り出して名前も知らない子のメールを確認をした。
やっぱりどういう経緯で知り合った子か思い出せなかった。そして今後も思い出すことも名前を記憶することもないのだろう。
友達の友達はなんとやら。
はじめまして、そしてさようなら。名も知らないお嬢さん方。
*
「さっきからなんだ、ガキのくせに偉そうに」
走り出してどれくらい経った頃か、鉄と鉄のぶつかり合う、線路の繋ぎ目が醸す揺れと音に身を委ねていると、品のない奇声によって心地よいひとときが破られた。
発生源は隣りの車両。ひとりの女子高生と男が言い争っている。
見慣れた緑のジャケットを着込んだ女子高生は何ごとを喚き散らしている男を前に怯む様子もなく、端然としていた。
「そのガキに注意されるのが嫌なら、ごく当たり前のことは守って下さい。それとこちらは偉そうにいっているつもりはありません。そう感じるのなら、それはあなた自身に問題があるのでしょう」
誰に対してもああなんだなと感心する。
ため息を一つ吐くと乗降口のデッキに移動した。ドアの前に立つと、言い争いの内容がさらに鮮明に聞こえてくる。
「口答えしてんじゃねえよ」
「口頭で注意を促しているだけです」
優先席の前。男の手には端末らしきもの。経緯は把握できた。
「屁理屈いってんじゃねえ!」
鈍い音が響き渡り、静まり返る車内。おそらく車両全体に緊張感が漂っているのだろう、居合わせた人たちに同情を禁じえない。
手の甲で頬を張られた女子高生はしばらく殴られた状態でじっとしていたけど、逆再生でもしたかのように上半身を起こし、やはり手の甲で頬を張り返した。
よほど威力があったのか、男は後方によろめいていた。
フォトTシャツにジレを合わせ、下はダメージデニムと破廉恥なくらい先の尖ったレザースニーカー、首にはおそらくブラックスピネルらしきネックレスを身につけているから若いのかと思ったけれど、近くで見るとしっかり中年。オーバーサーティー、いやフォーティーかもしれない。そこはかとなく漂うむりしてる感が切なくも哀しい。きっと悪趣味な香水も装備しているのだろう。
何を着ようがもちろん個人の自由だと思うけど、でも相応の格好、振る舞いというものがある。特に後者を履き違えると周りが迷惑するのだ。場所も弁えずに電話をする人、飲食店に下品な匂いを漂わせてやって来る人、書店やコンビニで延々と立ち読みをする人。最後のは誰にも迷惑はかけてはいないと強弁する人もいるだろうけど、見ていて気持ちのいいものではない。もちろん、こっちの勝手な感情だ。でも、大人、犯罪を犯せば顔も名前も公表されてしまう年齢に達した人が周りの目を気にすることなく一心不乱に漫画雑誌に被りついている姿はみっともいいものではない。おかしい事じゃない、時代は変わったんだとか反論もあるけれど、それは変われない、変わりたくないモラトリアム人間のみっともない言い訳にすぎない。読むなとはいわないけれど、いい歳した大人が漫画片手にこれは泣けるとかムキになって力説するご時世というのはやっぱり異様だし、滑稽だ。少なくとも未成年がお手本にしたい、なりたい大人の姿ではないだろう。
車内アナウンスが目的地が近いことを知らせる。
まだぽかんとしたままへたり込んでいる若作りのジレ男に娘くらいの歳の差はありそうな女子高生が侮蔑と憐みを混ぜたような視線を落とす。
「……ん、んだあ、こらァァァァァあ」
我に返ったジレ男は勢いよく立ち上がり、絶叫しながら女子高生に迫った。
とても大人の言動とは思えない。ファッションだけではなく、心持ちもお若いようだ。
「てンめえ、ふざけてんじゃねえぞ!」
「何を怒っているのですか」
「……ああ? ひとのこと殴っておいてただで済むと思ってんのか!」
「先に手を出したのはそちらです。やり返されるのが嫌ならば、安易に手を出すのはお止めになった方が賢明です」
「なめてんじゃねえぞ、ガ……」
キ、と続けるつもりだったみたいだけど、それは言葉にならずに、相対している女子高生の冷徹な視線によって遮られた。あらゆるものを切り裂くような、どこまでも鋭利なその目は心と見た目、精神年齢と実年齢が残酷に乖離し始めた若作り中年を威圧するのにじゅうぶんな効力を持っていた。
「もう一度申し上げます。私みたいなガキに直言されたくのないでしたら、大人に相応しい振舞いをなさって下さい。それと」
いやな横揺れのあと、圧縮空気の音と共に乗降口が一斉に開く。
「何とかの一つ覚えのように大きな声を出せば誰でも黙ると思ったら、大間違いです」
いつものような切れのいいターンを見せると、彼女はホームに降り立った。
まだたった今起こった出来事に騒然となる車内やジレ男を横目に私もあとに続く。
彼女は駅構内やペデストリアンデッキ、そして街中を何にも興味がないといった体でひたすら歩き進む。
街は本格的な夏を前に涼しげで軽やかなディスプレイが散見できた。
よくも悪くも開放感あふれる季節はもう、すぐそこまで来ている。ティナは今年こそ絶対に海に行くからねと張り切っていたけど。
しばらくして住宅街に入る。瓊紅保に越してきて数年、この辺りは未だに知らない。近頃あちこちにできている新興住宅街とは違って、旧市街地と呼ばれる地域だろう。
大きな建物が見えてくる。彼女を追って右に曲がると、駐車場が目に飛び込んできた。
市内に何店舗もある県内最大のチェーン数を誇るスーパーだ。右手前には自販機が二台、反対側には植え込みで囲われた小さな砂場がある。
しかし彼女が目指しているのは右手奥で口を開けているその入り口ではなく、ほぼ正面、同じ敷地内に構えている小さな洋品店であった。駐輪場やその空いているスペースに出店している焼き鳥の屋台を横切り、悠然と中へ消えてゆく。
年季の入った、おそらく元はピンクであったと思われる軒出しテントには白字で「おしゃれ工房 フレンド」と染め抜いてあった。店先からはラジオ――おそらく店の客層に合わせた中高年向け番組――が聞こえてくる。
私には今までも、そしてこれからも縁がないであろう店。
店から慎重に目を離さないように財布を取り出し、手前の自販機でアイスを買う。意識を数十メートル先のおしゃれ工房に飛ばしていたせいでじっくり選ぶ余裕もなく、直感で押して出てきたのは梅ミルク。……目の端で捉えたピンクや赤みをストロベリーと勘違いしたようだ。
ターゲットが着ている緑のジャケットが見えた。おそらく常連なのだろう、店のおばさんらしき人と楽しげに会話をしている。手にはエコバッグなのかさっきまでなかったスクールバッグとは違うトートを持っている。何かを買ったようだ。
そのままこちらに戻ってこられると正直、隠れる場所がないので焦ったけれど、彼女は国道が走る左手に歩き出した。
意外と美味しかった(!)梅ミルクに感激する間もなく、彼女はぐいぐい歩を速める。
見慣れない住宅街に点在する空きの目立つ古めのアパートや小料理屋、潰れて何年経つのか分からない駐車場のコンクリートの割れ目のそこここから雑草が顔を覗かせている巨大な空き店舗などを横目にひたすら南へ向かう。
大通りに出た。
早歩きで追うと、彼女は通りの交差点、数メートル先で信号待ちをしていた。
信号は渡らず、道を挟んだ斜め後方からあとを追う。
今度はドラッグ量販店に入った。店の中で遭遇しないとも限らないので、真向かいにあるガソリンスタンドの裏手に走る古い住宅が並ぶ小道で息を潜めて待機。
なにを買ったのか、ほどなく出てきた彼女はそのあとどこへも寄ることなく規則正しい歩幅と速さで歩き続けると、一軒の邸宅の前で止まった。
道路沿いに連なる家々は新築のようだけど、脇に逸れると風格のある家屋が目立つ住宅街である。その中でもこの家の大きさ、新しさは際立っていた。
家の前の道路は区画整理の賜物なのか道幅も広く、きれいな歩道や街灯、花壇が新興住宅街にも負けない華やかさを誇っている。電線類の地中化もされて、景観もいい。
数件先にはコンビニもできていたし、いいことか悪いことは別にしてこの辺も変わりつつあるのかもしれない。
門扉に手をかけたままじっとしている艶やかな黒髪のご令嬢の後ろに立つ。
表札には【十前イワ】と【十鳥オガミ】のふたつの名前だけ。
数日前、病院で会った際の言葉がよみがえる。
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