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拳塔町に行くの巻
懇願
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「いろいろ悪かったな」
ニノマエナナミを宿泊先まで送り届ける道中、顔を見ずに詫びた。これもごまかしの一つかもしれない。
「とても楽しかったですよ」
思い出しているのか、心底楽しげに笑う。具体的に何に対して可笑しいのか聞くのはやめておこう。
月夜が頼りの道すがら、心地のいい風に身を任せながら眼下に広がる拳塔の街並みを堪能するひとときは悪くなかった。早くもなく遅くもないニノマエナナミの足取りが奏でるサンダルの音も不思議と耳障りがいい。
横顔をそっと盗み見る。薄明かりとはいえ、微笑んでいるのは手に取るように分かる。
出会ってからまだ半日も経っていないだろう。なのに、ずいぶんと昔からの知り合いのような気がしてくる。シャツ越しにぷるんと揺れるカタチのいい胸はほどよい大きさで、本来なら情欲を駆り立てるはずの部位なのに品が勝って下卑て見えないから不思議だ。それはやはりカタチのいいヒップも同様である。何かこう、自分の手でどうこうしようとするよりもずっと見ていたくなるような芸術的色っぽさというか。
気がつくと、彼女の視線を感じた。見惚れていたらしい。慌てて前を向いたが、いかにもバツが悪いといった体で気まずいどころじゃなかった。
「……す、すなまい。あんまりスタイルがいいから、その、すまない」
すまない、ともう一度いうと、ニノマエナナミは口に両手をあてて吹き出した。それだけで救われた気がしてくる。
「あんたの彼氏に殺されちまうな、こんなことしてたら」
彼氏はいませんよ、と囁く声がした。聞き間違いでないことを願ったのはたぶん男の狡さだと思う。
「もしいたとして、そんなことで暴力に訴えるような人とはつき合いません」
まじめな口調だったが、すぐに男性とボクシングをする女がいっても説得力はないと思いますが、と自嘲気味に声を落とす。
「暴力とボクシングは違うだろう。あんたはリングのルールに則って拳を揮ったんだ」
返事を待つつもりはなかったが、それ以上言葉は続かず、けっきょく互いに無言になってしまった。
「青川さんがボクシングを始めたきっかけはなんだったんですか」
何分経ったのか、ニノマエナナミがそんなことを訊いてきた。何かをごまかすみたいな振りに彼女らしくないなと感じたのは深読みし過ぎだろうか。
「桃姐だよ。どこで覚えたのか、誰から教わったのか知らないけど、小さい頃から近所の悪ガキ集めては殴りかかってた。性格が性格だから、女と遊ぶよりも俺たちと遊んでる方が圧倒的に多かった。高校んときは長らく廃部だったボクシング部復活させて初の女部長やってたんだぜ。だからいつの間にか好きになってボクシングにのめり込んでたってより、夢中にならざるを得なかったといった方が適当かもしれないな」
そんなことを語りながら、そういうあんたはどうやってあんな尋常じゃない拳闘技術を身につけたんだと訊きたい衝動に駆られる。
「ところであんた、兄弟はいるのか」
我ながら情けないなとは思う。だが、なんとなく触れない方はいいような気がした。思考が追いつかないような壮大なドラマが背景にあるなんて思わないが、なんつうのか、年齢や体重みたいに女にタブーな事柄に似た匂いをそこに感じた気がして、結果的に当たり障りのないことを訊いていた。
「この春高校に上がった六つ下の弟がいます」
思わぬ情報までついてきたのはもっけの幸いか。なんとなくそんな気がしてはいたが年下だったとはな。赤湖が知ったら更なるショックを受けることになるだろう。まあ、年齢云々以前に女にノックアウトされた時点で拭い切れない屈辱感に苛まれているんだろうが。
「あんたの弟ならさぞいい男なんだろうな」
「いい男なのか客観的には見れませんが、私にとってはかけがえのない弟です」
かけがえのない、か。慈しむような愛情にあふれたその物言いに肉親とはいえ、顔も知らない、おそらくいい男だろう弟に軽い嫉妬を覚えずにはいられない。
「……よほど大事にしてるんだな」
「はい」
あまりの即答っぷりに無性に腹が立った。甚だ身勝手な感情を滾らせている自分に失笑を禁じ得ない。
ホテルの絢爛な明かりが見えてきた。そろそろお役御免の頃合。
「明日、帰るのか」
なぜそんなことを訊いたのか自分でも分からない。ニノマエナナミがいつ帰ろうが、俺には関係ないことだ。
「いえ、二泊三日なので明後日になります」
「……そう、か」
なぜかホッとしていることに驚き、戸惑う。
そしてその驚き、戸惑いはやがてささやかな悦びとなって俺を鼓舞し、心の奥底に蟠っている想いがにわかに膨らむのを感じた。
それはちょっとしたタイミングで消えてしまいそうなものではあったが、そうかんたんに諦められる類のものでもなかった。
そうだ、俺はまだ納得しちゃいない。
だから、彼女が拳塔町を去る前に、自分の本心を、例え無様な結果になろうとも晒すしかない。
人を殴るためとは違う思いで拳をしずかに握り込むと、俺はニノマエナナミに向き直った。
◇
「ロクちゃん、子供の心配するお父さんみたい」
あの半ケツお姉さんにナナミさんが連れ出されたと聞いて気が気じゃなかった。おかげでシギヤにそんな突っ込みまでされる始末だった。
だから日付が替わろうかという時間帯になって、ようやく帰ってきたと知らされたときはホッとしたし、同時に巨大化しつつあった不安がもはや破裂寸前で、正直、アタマがおかしくなりそうだった。
そして不安は的中する。
「青川さんと会っていたの」
顔も思い出せない、例の男だ。ナナミさんがなんだか意味あり気に口にし、かっこいいと評判の色男。こんな夜に、初めてやって来た町の男と何時間も何をしていたというのか。
「ナナミ殿も年頃のレディーですからなァ、艶っぽい話のひとつやふたつあってもおかしくはないでしょう」
余裕をかます五十棲に怒りを覚えたが、一方の羽二生は冷静なもので、取り乱すどころか帰ってきたナナミさんと談笑していた。
確かにナナミさんだって年齢を考えれば恋人がいてもおかしくはないし、男とそういう関係になっていたとして、むしろ健全と見るべきではある。あんなにきれいな人に恋人がいないということの方が異常事態なのだ。が、やはり俺はそんなの認めたくはないし、認めるつもりもない。
「子供ね」
五十棲のように余裕をかます羽二生にも腹が立った。あいつのことだから、涙目で気を揉んでいると思っていただけに余計に。
「ナナミさんは青川さんと会っていただけでしょう、何の問題があるっていうのよ」
ナナミさんはすでにアツミさんと部屋に戻っていた。今は自販機コーナーで不本意ながらこいつとふたりきりだ。
「ナナミさんが男と何時間もいたんだぞ、それも今日会ったばかりの男と。何かあったって思うのが普通だ」
「何かって何よ」
「……そ、そりゃあ、年頃の男と女がすることに決まってんだろ」
羽二生はキッと俺を一瞥すると、発想が下品だと吐き捨てた。
「そんなこといってもナナミさんだって女だ、俺もそんなわけはないって信じてるけど」
「信じてないからそんな低俗なことを平気で口走ることができるんでしょう」
ぐうの音も出ないとはこういうことなのか。
「ナナミさんが初めて会った人と、そういう、関係になるなんて侮辱してる証拠よ」
ふんと鼻を鳴らすと、羽二生は踵を返した。
「分かってるんだよ、んなこと」
ぶつけようのない怒りとも屈辱とも分からないもやもやを抱え込んだまま、ひとりごとにしては大きなぼやきを吐くと俺も部屋へと戻った。
ニノマエナナミを宿泊先まで送り届ける道中、顔を見ずに詫びた。これもごまかしの一つかもしれない。
「とても楽しかったですよ」
思い出しているのか、心底楽しげに笑う。具体的に何に対して可笑しいのか聞くのはやめておこう。
月夜が頼りの道すがら、心地のいい風に身を任せながら眼下に広がる拳塔の街並みを堪能するひとときは悪くなかった。早くもなく遅くもないニノマエナナミの足取りが奏でるサンダルの音も不思議と耳障りがいい。
横顔をそっと盗み見る。薄明かりとはいえ、微笑んでいるのは手に取るように分かる。
出会ってからまだ半日も経っていないだろう。なのに、ずいぶんと昔からの知り合いのような気がしてくる。シャツ越しにぷるんと揺れるカタチのいい胸はほどよい大きさで、本来なら情欲を駆り立てるはずの部位なのに品が勝って下卑て見えないから不思議だ。それはやはりカタチのいいヒップも同様である。何かこう、自分の手でどうこうしようとするよりもずっと見ていたくなるような芸術的色っぽさというか。
気がつくと、彼女の視線を感じた。見惚れていたらしい。慌てて前を向いたが、いかにもバツが悪いといった体で気まずいどころじゃなかった。
「……す、すなまい。あんまりスタイルがいいから、その、すまない」
すまない、ともう一度いうと、ニノマエナナミは口に両手をあてて吹き出した。それだけで救われた気がしてくる。
「あんたの彼氏に殺されちまうな、こんなことしてたら」
彼氏はいませんよ、と囁く声がした。聞き間違いでないことを願ったのはたぶん男の狡さだと思う。
「もしいたとして、そんなことで暴力に訴えるような人とはつき合いません」
まじめな口調だったが、すぐに男性とボクシングをする女がいっても説得力はないと思いますが、と自嘲気味に声を落とす。
「暴力とボクシングは違うだろう。あんたはリングのルールに則って拳を揮ったんだ」
返事を待つつもりはなかったが、それ以上言葉は続かず、けっきょく互いに無言になってしまった。
「青川さんがボクシングを始めたきっかけはなんだったんですか」
何分経ったのか、ニノマエナナミがそんなことを訊いてきた。何かをごまかすみたいな振りに彼女らしくないなと感じたのは深読みし過ぎだろうか。
「桃姐だよ。どこで覚えたのか、誰から教わったのか知らないけど、小さい頃から近所の悪ガキ集めては殴りかかってた。性格が性格だから、女と遊ぶよりも俺たちと遊んでる方が圧倒的に多かった。高校んときは長らく廃部だったボクシング部復活させて初の女部長やってたんだぜ。だからいつの間にか好きになってボクシングにのめり込んでたってより、夢中にならざるを得なかったといった方が適当かもしれないな」
そんなことを語りながら、そういうあんたはどうやってあんな尋常じゃない拳闘技術を身につけたんだと訊きたい衝動に駆られる。
「ところであんた、兄弟はいるのか」
我ながら情けないなとは思う。だが、なんとなく触れない方はいいような気がした。思考が追いつかないような壮大なドラマが背景にあるなんて思わないが、なんつうのか、年齢や体重みたいに女にタブーな事柄に似た匂いをそこに感じた気がして、結果的に当たり障りのないことを訊いていた。
「この春高校に上がった六つ下の弟がいます」
思わぬ情報までついてきたのはもっけの幸いか。なんとなくそんな気がしてはいたが年下だったとはな。赤湖が知ったら更なるショックを受けることになるだろう。まあ、年齢云々以前に女にノックアウトされた時点で拭い切れない屈辱感に苛まれているんだろうが。
「あんたの弟ならさぞいい男なんだろうな」
「いい男なのか客観的には見れませんが、私にとってはかけがえのない弟です」
かけがえのない、か。慈しむような愛情にあふれたその物言いに肉親とはいえ、顔も知らない、おそらくいい男だろう弟に軽い嫉妬を覚えずにはいられない。
「……よほど大事にしてるんだな」
「はい」
あまりの即答っぷりに無性に腹が立った。甚だ身勝手な感情を滾らせている自分に失笑を禁じ得ない。
ホテルの絢爛な明かりが見えてきた。そろそろお役御免の頃合。
「明日、帰るのか」
なぜそんなことを訊いたのか自分でも分からない。ニノマエナナミがいつ帰ろうが、俺には関係ないことだ。
「いえ、二泊三日なので明後日になります」
「……そう、か」
なぜかホッとしていることに驚き、戸惑う。
そしてその驚き、戸惑いはやがてささやかな悦びとなって俺を鼓舞し、心の奥底に蟠っている想いがにわかに膨らむのを感じた。
それはちょっとしたタイミングで消えてしまいそうなものではあったが、そうかんたんに諦められる類のものでもなかった。
そうだ、俺はまだ納得しちゃいない。
だから、彼女が拳塔町を去る前に、自分の本心を、例え無様な結果になろうとも晒すしかない。
人を殴るためとは違う思いで拳をしずかに握り込むと、俺はニノマエナナミに向き直った。
◇
「ロクちゃん、子供の心配するお父さんみたい」
あの半ケツお姉さんにナナミさんが連れ出されたと聞いて気が気じゃなかった。おかげでシギヤにそんな突っ込みまでされる始末だった。
だから日付が替わろうかという時間帯になって、ようやく帰ってきたと知らされたときはホッとしたし、同時に巨大化しつつあった不安がもはや破裂寸前で、正直、アタマがおかしくなりそうだった。
そして不安は的中する。
「青川さんと会っていたの」
顔も思い出せない、例の男だ。ナナミさんがなんだか意味あり気に口にし、かっこいいと評判の色男。こんな夜に、初めてやって来た町の男と何時間も何をしていたというのか。
「ナナミ殿も年頃のレディーですからなァ、艶っぽい話のひとつやふたつあってもおかしくはないでしょう」
余裕をかます五十棲に怒りを覚えたが、一方の羽二生は冷静なもので、取り乱すどころか帰ってきたナナミさんと談笑していた。
確かにナナミさんだって年齢を考えれば恋人がいてもおかしくはないし、男とそういう関係になっていたとして、むしろ健全と見るべきではある。あんなにきれいな人に恋人がいないということの方が異常事態なのだ。が、やはり俺はそんなの認めたくはないし、認めるつもりもない。
「子供ね」
五十棲のように余裕をかます羽二生にも腹が立った。あいつのことだから、涙目で気を揉んでいると思っていただけに余計に。
「ナナミさんは青川さんと会っていただけでしょう、何の問題があるっていうのよ」
ナナミさんはすでにアツミさんと部屋に戻っていた。今は自販機コーナーで不本意ながらこいつとふたりきりだ。
「ナナミさんが男と何時間もいたんだぞ、それも今日会ったばかりの男と。何かあったって思うのが普通だ」
「何かって何よ」
「……そ、そりゃあ、年頃の男と女がすることに決まってんだろ」
羽二生はキッと俺を一瞥すると、発想が下品だと吐き捨てた。
「そんなこといってもナナミさんだって女だ、俺もそんなわけはないって信じてるけど」
「信じてないからそんな低俗なことを平気で口走ることができるんでしょう」
ぐうの音も出ないとはこういうことなのか。
「ナナミさんが初めて会った人と、そういう、関係になるなんて侮辱してる証拠よ」
ふんと鼻を鳴らすと、羽二生は踵を返した。
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