姉はすべてを支配する。さればわれらも姉に従おう。

さいきごそ

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姉の居ぬ間に

必然

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 翌日のアルバイトは早番であった。
 僕が休みのうちに新しいアルバイトの女性が入っていた。フシカタさんというその人は瓊紅保第一高等学校一年だそうで、セミロングの髪の左右に三つ編みを施した見た感じ優等生タイプであった。
「可愛い子が来たねえ」
 さっそく意味ありげにシオノさんが微笑んだ。ショートヘアに軽くパーマをかけていたアタマは最近、まっすぐになっていた。どういう風の吹き回しかうっすらと化粧も施されている。
「失礼だな」
 シオノさんは軽く睨むと、私だって女だぞと息巻いた。
「妊娠だってできるんだからな」
 独特ないい回しで反論する。それと髪型や化粧の変化がどう関係するんだろう。
「男漁りに本腰を入れたってサインだ」
 きらりと目が光った気がした。それはさながら狩人の目といったところ。
「ヤボテンもさ、どんどん君みたいな若い男入れてくれりゃいいのにさあ」
 確かにここは女性の比率は高い気はする。以前の店長は女性だったらしいけれど、なんでもその人のときからの慣例らしい。男、それも学生等の若い連中は連絡もなく平気で休む辞めるが当たり前だからだ、という話は聞いていた。力仕事がメインでもないし、コスメも扱ってい関係からむしろ女性メインで固めた方がいいということになっていたらしい。
「だから君が入るってときの女性陣の騒ぎようはすごかったんだ」
 それはニカイドウさんから聞いていていた。
「もうひとりパートの方が入ったんですよね」
「ああ、ミサキさんな」
 シオノさんによればミサキさんはバツイチでお子さんとご両親とで生活しているらしい。
「バツイチで現在は男の影もなし。恋に落ちるのに障害はないな、一君」
「恋に落ちるの前提なんですか」
「美人だったぞ、彼女」
 シオノさんの冷やかしを浴びながら、先ほどからチラつき始めたニカイドウさんに苦慮する自分がいた。このバックルームで一緒に仕事をしたのはそんなに長くないはずなのにすごく濃密な時間を過ごした気がする。
「休憩終了っと」
 気だるそうに入ってきたのはアイカワさんだった。ニカイドウさんのことがあって以来、彼女とは微妙な空気になっていたけれど、そのことでシオノさんに一喝されたらしく以前のように接してくれていた。最近、恋人と別れたとかで肩まであった髪を切っていた。
「一君の大好きな三つ編みカチューシャできなくなっちゃった」
 そんなことをいいながらいつものアヒル口を作って僕の腕に顔をすり寄せてきたときはドキッとしたものだった。
「一君を本格的にターゲットに絞るために身軽になったんだな」
 シオノさんは大事件のように騒いでいたけれど、真相は不明だ。ともかく円滑な人間関係が維持できるのならそれに越したことはないわけで、アイカワさんと普通に会話ができることはうれしかった。
 外で食べてきたらしいアイカワさんは僕の肩をしどけなく叩きながら休憩と囁いた。
 アイカワさんと含み笑いを覗かせるシオノさんに見送られながら、今日はどうしようかと店内を突っ切ってエントランスへ向かう途中、件のフシカタさんが本のコーナーにいるのが見えた。冗談の類は一切、受けつけないような生真面目さで動き回る様はいかにも委員長といった感じがした。と同時に上手くいえないけれどはかなげさも併せ持っている気がして妙に胸がかきむしられる思いもした。
 けっきょくその日は国道を挟んだコンビニで食料を調達して、バックルームでお腹を膨らませることにした。シオノさんとアイカワさんにはその量じゃ足りないんじゃないのと突っ込まれたけれど、確かに退勤の頃には早くも胃袋が何か送れと騒ぎだしていた。
 家に帰るまで我慢ができないわけでもなかったけれど、雰囲気のいい喫茶店探しにはまってる身としてはいい新規開拓のチャンスだからと瓊紅保の街を探索してみることにした。
 駅とアルバイト先の足として買っていたアルミフレームのスポーツタイプ26型に乗って瓊紅保市の探索すること十数分、新築らしき白いマンション一階に電飾を仕込んだスタンド看板を確認した。近づくと果たしてそれは喫茶店であった。その店、『アナンケ』は厳密には一階ではなく、半地下といえばいいのか店へ入るには階段を下りて行くようだった。
 ドアベルと明るい店員さんの声に出迎えられて、まず窓際や店の隅に目を走らせる。生憎、好ポイントはどこも押さえられていた。と、窓際奥の席に見知った制服姿に身を包んだ女子がいた。
 彼女はいつもの涼しげな眼差しで文庫本を開いている。その佇まいは控えめなボリュームで流れているクラシックとよく調和していた。
「十鳥さん」
 まだ右目の上に残る若干の腫れが痛々しいけれど、鋭くも透明感あふれる相貌は紛れもなく十鳥さんであった。
「こんにちは、一君」
 特に驚く様子も見せずにそっと本を閉じる。臙脂色の布製ブックカバーが彼女らしい気がした。
 彼女は立ち上がると、空いている向かいの席を勧めてくれた。
「読書の邪魔をしちゃったかな」
「かまわないわ」
 邂逅に戸惑いつつ、お冷とともに渡されたメニューを開いた。何か食べようと思っていたけれど、お茶を楽しんでいた十鳥さんに悪いかなとおかしな気を回す自分に軽い嫌悪感を抱く。
「私のことは気にしないで」
 見透かしたような十鳥さんの言葉に後押しされるようにナポリタンランチを注文した。
「十鳥さんはここの常連なの?」
 彼女は常連の概念を照らし合わせた場合、その域に達しているのか微妙なところね、とらしい笑みを見せた。
「以前に祖母の友人を見舞った帰りにここに立ち寄ったの。それ以来、気に入ってひとりでやって来てはこうやって読書を楽しんでいるのよ」
 十鳥さんの手元には日本茶の入った丸湯呑みと団子の乗った木の葉を模った小皿があった。団子はつぶあん、胡麻、刻み海苔の乗ったいそべと思われる三種類。串には通されず、単体のそれは各三個づつ身を寄せ合うように小粋なお皿の上に鎮座している。なるほど、こういう喫茶店然とした場所にはめずらしく和風なメニューを提供している点が彼女に気に入られた所以なのだろう。
 店内に流れていた曲が変わった。瞬間、ぞくっと背筋に悪寒が走る。
「ラフマニノフね、確かラプソディー。ここ何番だったかしら」
「……えっと、第18変奏かな」
 嫌な汗が吹き出る錯覚に苛まれつつ、なんとか言葉を押し出してみる。
「クラシックには明るいのかしら、一君」
 尊敬の眼差しにも似た視線が痛かった。まさか姉とのスパーリングの際にかけられるBGMだとはとてもいえない。第18変奏というのも最近、姉に教えられたばかりの情報だ。
「く、詳しくはないよ、たまたま知ってただけというか」
 なんでもこの曲は父が子供の頃にコマーシャルで効果的に使われたらしく、耳にする度に当時を思い出すそうだ。我が家は常にクラシックが流れているような環境ではないけれど、よく父の書斎から漏れ聞こえてはいた。姉がお気に入りなのはその影響なのだろう。
「お待たせしました」
 白いシャツと七分丈パンツ、黒いエプロン姿の店員さんが運んできた鉄板に乗ったナポリタンにはハンバーグとエビフライが添えられていて他にスープ、コーンサラダが付いていた。ナポリタンランチのお伴は日替わりで、カツレツだったりメンチカツだったり唐揚げだったりに替わるそうだ。
 お茶と和菓子を楽しむ十鳥さんの目の前でランチを消費するひとときは悪くはないけれど、ちょっと照れくさかった。
「美味しそうに食べるのね、一君」
「そ、そうかな」
 照れ隠しにスープのカップに手を伸ばす。コンソメベースの刻みパセリの浮いたスープはまだじゅうぶん熱くて僕の舌を容赦なく痛めつけた。
「何を読んでいたの」
 スープのカップだけでは心細いので彼女の愛読書に助けを求める。スッとテーブルの上を滑らせてきたそれをめくるとプラトンとあった。僕にはまったく縁もゆかりもない偉人だ。父の書斎に文学全集として刊行されたうちの何冊かとして並んであったはずだけれど、もちろん手にしたことはないし、これからもないであろう著作。
 聞いておいて、なんの反応もないのは甚だ無礼だけれど、それに対して何かひとことでも添えて返せるだけの知識が欠如しているのだから如何ともしがたい。
「もし任意に姿を消せる指輪があったら一君は欲しいかしら」
 どう対処すべきか苦慮していると、十鳥さんにそんなことを訊かれた。
「ある王に仕えていた羊飼いが天災に遭ったの。驚く彼の目の前には大きな穴ができてその中に入っていくと、そこには不思議なものがたくさんあった。特に目を引いたのが青銅製の馬で付いていた窓から中を覗くと人間よりも大きな屍体が見えたの。裸体だったけれど指に黄金の指輪をしていて、彼はそれを持ち帰った。後日、羊飼いの集会に出席した彼はあるとんでもない事実に気づいたの。指輪の玉受けを手前に回すと自分の姿が消え、戻すと姿を現すという不思議な効力に。彼は集会の報告を担っている王の使者と妃を取り込んで王を殺害すると、そのまま自分が王の位についたの」
 突然の問いに唖然としていると、愛おしそうに撫でている文庫本の話なのだろう、概要をいい終えた十鳥さんはひとこと、私は欲しいわねと笑った。
 手に入れてどうするの、とは訊けなかった。今このときを楽しんでいるような十鳥さんを見ていると、三日前にリングに臨場して上四元クシナ相手にボクシングで血と汗を流したことが信じられない。
「今日は何か用があったの?」
 満足げにランチの余韻に浸っていると、十鳥さんがふいにこちらを見た。確かに地元じゃない僕がわざわざ隣市まで来るには理由があるだろうという読みは特におかしなことではないし第一、十鳥さんに隠しておくことではない。アルバイトの帰り、といえばいいだけであった。
「最近、喫茶店巡りに凝ってて」
 嘘はついていない。けれど後ろめたさがつきまとう。
「ずいぶんと情趣のある余暇を過ごしているのね」
 お茶を啜りながら感心したようにいう。
「おすすめの場所とかあるのかしら」
 意外なひとことだった。
「十鳥さんもいろんな喫茶店に行ってるの?」
 人のことはいえないけれど、十鳥さんも外食は縁がないといっていた。
「そうね。近頃は出歩いては落ち着いてそうなお店に入るのが楽しみになっているかしら。最近見つけた為間護いまごにある二階建てのお店もいい雰囲気だったわね」
「そこって児童公園の近くにあるシュンポシオンっていうところ?」
「ええ」
 十鳥さんは小さく頷くと僭越だったかしらと笑った。何でもあそこは近所なので最近よく行っているらしい。知らないうちに彼女の家の方までいっていたのか。
「あのお店は白玉とつぶあんのパフェがおいしいの」
 思い出したのか、うれしそうにそう話す。
「あのお店は瓊紅保この町の女学生には人気があるみたいね」
「そうなんだ」
 なんでも瓊紅保女子を始め、商科大学付属、瓊紅保第一、うちの於牟寺や八百板さんやイッちゃんたちの通う愛貴亜などの女子生徒もよく見かけるらしい。なるほどずいぶんと周辺の女子生徒たちには贔屓にされているようだ。
「聖アウトン女学園の女生徒もいたわね」
 名前だけはおぼろげに知っていた。確か名門といわれているところだ。なんでも十鳥さんは最近あの喫茶店でその名門女学園の生徒から話しかけられたらしい。
「むかし読んだ小説の表現を借りるならば、現世的な容貌に彼岸的な空気を濃く漂わせているといった感じかしら。いかにもお嬢様然とした方で現在二年生だそうよ」
 十鳥さんの好きな本やクラシックなどお互いの趣味が合い、とても話が弾んだのだそうだ。
「名前は」
 なぜかその次に出てくる名前の予想がついた。そしてそれは当たることになる。
「アオイさんといったわね」
 あのぞっとするほど冷たく美しい危険な匂いのする、隙を見せた相手の懐に入り込んだら最後、翻弄し、徹底的に嬲り続けるような鋭利な視線が強烈に甦って僕を居竦ませた。
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