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ノービレ・アルテ
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「やあ、ルーキー」
十二月晩日先輩は電話を通しても腹立たしいくらい快活であった。いや、掴みどころのないあの飄々とした本体が見当たらないぶん、余計な情報が入ってこないことでよりくっきりと声の輪郭が浮き出ており、リアルさが増している気がした。思わず背後に突っ立っているんじゃないかと振り返ったくらいだ。
「昨日はお疲れ」
「……はあ」
「なんだい、まだ疲れが抜けきっていない感じじゃないか」
「……まあ」
こちらのペースなど関係なく、好き勝手に話をつづけるのは分かっていたつもりではあったが、この人の揺るぎのない性質なのだろう。
「これから出れるかい」
「……唐突ですね」
「そうかい?」
昨日の今日でまた出かけるのはやぶさかではないのだが、先輩とはいえ昨日はじめて会った人の誘いに素直に従うのもなにか癪だ。
「誘ったのはこちらだし、足は出すよ」
足は出すと来たよ。
「車でも回してくれるんですか?」
皮肉のつもりだったが、先方はあっさりそうだよと答えた。
「よく分かったな」
……まじか。
「まじまじ♡」
観念して、どこへ行くのか訊くと瓊紅保だという。
「瓊紅保の……どこです」
「それはのちほど」
あのとぼけた顔が目に浮かぶ。
「じゃあ、瓊紅保で拾ってもらえますか」
「誘ったのはこっちだし、家まで迎えに行ってもいいんだが」
俺は行きたいとこもあるし、そこはやんわりと断り、時間と場所を伝えて通話を終えた。なんとなく家を知られたくないということもあるにはあった。
「……ふう」
人知れずため息をつくと、クローゼットからブルーのチェックと胸のワニがワンポイントの半袖シャツを引っ張り出した。昨日のポロシャツにつづいてこの夏のために思い切って購入を決めたワードローブその二だ。財布や端末など持っていくものをチョイスしていると、テーブルに置かれた真新しいタブレットが目に入った。昨晩、四苦八苦しながら設定を済ませたそいつを眺めているうち、昨日のことを、読書会が終わったあとのことをぼんやりと思い返していた。
☜
十二月晩日先輩が祝勝会の場所として選んだ喫茶店は於牟寺駅前にあるちょっとあやしげなビルの地下にひっそりとあった。おそらくはアーケード街といわれる通りはじつに薄暗い雰囲気で、少なくとも学生が学校帰りに寄るようなところではない気がする。おばちゃんがメインターゲットと思われる洋品店、店頭に大昔のテレビゲーム機のポスターが貼られたままの電器店、色あせた箱がぞんざいに積み上げられたプラモデル屋、扱っている商品にめぼしいものがなさげなスポーツ用品店、未成年はお断りのすさまじいまでにあやしげなオーラを放つおもちゃ屋など高度経済成長期で時が止まったままと見紛うくらいの店が身を寄せ合っていた。お世辞にも繁盛とは無縁のどこも死に体といった感じだが、ちらほらとお客とすれ違うのを見るに、需要はあるにはあるようだ。
「……………」
書店とおぼしき店頭に目の覚めるようなショッキングピンクのビキニ姿のモデルの等身大ポスターを見つけた。これには見覚えがあった。
「甘原ウズメか。ファンなのかい」
声に振り返ると、十二月晩日先輩が鑑定人みたいな顔で品定めするようにポスターを凝視していた。
「知ってるんですか」
「そりゃあ、われわれが生まれる前に活躍していたとはいえ、瓊紅保が生んだスターだからね。女優に転身して大成功したのに、あっさり引退したことも含めてもはや伝説だ。無名のモデル時代に撮ったグラビア誌の高騰ぶりからも若い世代にも人気があるみたいだぜ?」
なるほどこの店でもタカさん宅で見た例のグラビア誌の買取りをしていたが、美品だと5万とある。客寄せと思われる等身大ポスターは要相談らしい。いったい幾らで売るつもりなんだか。
「ルーキーもいい趣味してるじゃないか」
……ファンってわけでもないんだがな。
「欲しくて見ていたわけじゃないですよ」
「そうなのかい」
伝説のモデルにして女優の目の覚めるような姿態に後ろ髪を引かれつつ、悪い意味で目新しくも陰気なアーケード街をしばらく歩くと十字路があった。
「ここだ」
右手に電飾看板がぽつんと置かれた店があった。店の名は『ヘメレ』。色あせた軒出しテントや店頭のサンプルメニューともども年月を感じさせる。かつてはこのエリアには通路向かいの空き店舗を含めて6つほど店が入っていたようだが、今は喫茶店のみであった。
「向かいは写真屋だったんだけど、あたしたちが生まれる何年も前に閉めちゃって、次に入ったコンビニは一年も経たずに撤退したんだ。それ以降はずっと空さ」
他の空き店舗は布団屋だったり、バーだったり、アダルトな玩具屋だったりしたというから相当カオスな空間である。左に曲がった反対のエリアはすべて水商売の店で営業時間前ということで静まり返ってはいたが、すべての店舗は埋まっており、時間になれば賑やかになるというのだから分からないものだ。
「タラッタ! タラッタ!」
ドアを開けるなり、十二月晩日先輩が呪文のような言葉を叫んだ。
「今日はねえ、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ、珈琲は止しにするぜ!」
ドアベルがまだカランコロン鳴りやまない中、十二月晩日先輩は女店主に向かって畳みかけた。……誰だよ、プラスコー……、オーシポブ、なんちゃらって。
「ここはいつから海になって、あたしゃ、いつから床屋の女房になったんだい」
彼女はサイフォンと呼ばれる抽出器具で、コーヒーを淹れているところであった。
「今のあたしにとってここは敗走中のギリシア軍が見つけた黒海そのものなのさ」
十二月晩日先輩の意味不明な解説を鼻をであしらうと、いかにもやり手、といった風貌の年の頃、50代後半といった茶色がかった髪を後ろでまとめた中年女性は俺を品定めするような目線をぶしつけに送って寄こした。
「見ない顔だね」
しかし見れば見るほどこの人、いかにもむかしのサスペンスドラマに出てくる場末のバーのやさぐれた女店主といった風情である。こういうキャラは聞き込みにやって来た刑事に対して「開店前だよ」だの「何か注文はないのかい」だの嫌味をいって煙草をふかしつつ、邪険に扱うのが定番だ。
「有望な後輩だ。よろしく頼むよ」
店内の客席はほぼ埋まっており、地下街に点在する店から漂う閑古鳥的な雰囲気など気のせいだと思い知らされる。
俺たちは通路を挟んだふたつのテーブルに落ち着いた。十二月晩日先輩以下、十代田さんと二合半さん、他校の女子を含めて8人というけっこうな大所帯だ。
「いやあ、ルーキーは人気者だな。祝勝会にこんなに来てくれたんだぜ?」
お冷とおしぼり、メニューを置いた店主がなんの祝勝会だと怪訝な顔を見せた。
「読書会。初参加の我が後輩が殊勲を賜ったのだよ」
「へえ」
女店主が片眉を吊り上げて、俺を見る。彼女がさっき屈んだとき、生成りのサマーニットから覗く胸の谷間ががっつり見えてしまったのだが、よく観察すると薄いくちびるに引かれたピンクのルージュがなかなかに艶っぽく、それら性的な印象のせいでこういう母親以上に歳の離れた女性の魅力的なものに触れた気がしてちょっぴり落ち着かなかった。
「よく見ると、なかなかいい男じゃないか」
「さすがだな、ルーキー。ママまでとりこにするとか」
お冷を口に含みつつ、メニューを眺めていた十二月晩日先輩がとぼけたことをいい出す。
「あたしはカツレツにライス。ルーキーはどうする」
といわれても、特に空腹でもないんだよな。ここは……、
「……ホットサンドで」
無難に軽いものにした。
「ん。みんなは? 今日は奢っちゃうよ、ルーキーのめでたい日だからな!」
メニューとにらめっこ中の女子たちから歓声が上がる。
「いいですか?」
「いいんですよ!」
驕りとなれば話は別、とばかりにさっきまでは財布の中身と相談しつつおっかなびっくり見ていたのが一転、食い入るような表情でメニューと格闘をはじめた。
「いやあ、道行く市民に気前が良かったという陽気な部隊と呼ばれた大ロレンツォの気持ちが少しばかり分かる気がするな!」
「スケールは段違いですけど」
十代田さんはひとり、冷めていた。
「月持ちも好きなの頼みなよ」
「私はアルバイトのお金がありますから」
……へえ、十代田さんはアルバイトしてるんだ。てか、彼女は瓊紅保第一だよな。わざわざ於牟寺までやって来たのか。
「泣けるだろ? ルーキーを祝いたくてやって来てくれたんだ。健気だよなあ!」
「…………ッ!」
十二月晩日先輩の軽口に抗議しようと十代田さんがするどい視線を飛ばすものの、当人は気にするでもなく、天井をぼんやりと眺めていた。
店内にはクラシック同様、タイトルは分からないもののメロディはどこかで耳にしたことのあるスタンダードナンバーを多く生み出した英国出身の偉大なる四人組の楽曲が会話を邪魔しない音量で流れている。世代的に特に詳しくも興味もなかったが、タカさんが全アルバムを網羅したCDボックスを所有しており、何度か聴かせてもらっているうちに覚えていった。流れているのはなんともさわやかなメロディで途中でワルツっぽく転調するのが特徴的であった。
「渋いなルーキー、この曲を知っているのかい」
俺のわずかな反応を察した十二月晩日先輩が訊いてきた。友人の従伯父にあたる人のところで聴いたことがある程度だと答えると交友関係まで渋いんだなと妙な感心のされ方をした。
「人生はとても短い、文句を言ったり争ってる暇なんてない、か」
この曲の歌詞なのだろうか、そんなことを誰ともなくつぶやく十二月晩日先輩はどこか神妙な面持ちであった。
外回りの仕事の途中なのかやたらとくたびれたサラリーマン風や主婦仲間と思しき女性たち、いかにも近所の常連さんといった感じの老人などがそれぞれの時間を楽しんでいた。そうしたBGMや客層、もはや集客に寄与していないであろう表のサンプル、天井からぶら下がっているシェードランプ、テーブルやソファーのセット、花柄の箸立てや星座が描かれた円形のおみくじ器といった小物に至るまでありとあらゆるすべてが古色蒼然とした店の独特の雰囲気を形作っていた。こういう店ははじめてだが、フランチャイズの小綺麗な店とは違う雰囲気で悪くない。
ほどなく、注文の品が運ばれてきた。
「十代田さんもホットサンドだったんですか」
「ええ、何か真似したみたいでごめんなさい」
謝ることでもないと思うのだが、そのやり取りを見ながら十二月晩日先輩はずっとにやにやとしている。……感じの悪い人だな。
それにしても。いざ、来てみるとホットサンドのボリュームは異常であった。軽くつまむつもりだったのだが、これでは多すぎだ。
「……あの、先輩、よかったらどうですか?」
「私も。さすがにこれは」
十代田さんとふたりでシェアを提案したが、当の十二月晩日先輩はフォークとナイフをカチャカチャいわせながら、そっけなく返してきた。
「いやあ、ルーキー! わたしはライスとカツレツに取り組んでいるところですのでね、恋愛の方はあなたが取り組んでください」
……なに、いってるんだ。この人は。
けっきょく俺はホットサンドを他の女子に、十代田さんも文庫本片手にナポリタンを食していた二合半さんと分けていた。それにしてもこんなときまで読書とか、ほんとうに本好きなんだな。
こうしてあやしげな喫茶店での祝勝会という名の食事会は賑々しく終わり、お開きと相成った。
「先行っててくれ」
地下街を脱出する前、買い物があるという十二月晩日先輩を待って、他市の女子を駅まで見送ったあと街中をブラついた。時計は五時を回っていたがまだ明るい。
「はじめての読書会。何か得るものはあったかい」
「……まだよく、実感はないんですね」
そう。まだ答えは出そうにない。というよりも、それは今後分かることだろう。
「読書会というはその名の通り、本を読み、魅力なり感想なりをを語り合うっていうのが一応の体裁なんだけど、国や時代によってはインテリゲンチャといわれる知識階層による知的普及活動だったりしたんだ」
「インテリ……ゲンチャ?」
「インテリの語源になった言葉。当初こそ読み書きが覚束ない労働者階級に向けた、本を読んだり配布したりとしていたボランティア活動だったのが、いつしか啓蒙活動に発展していったんだ。参加者は貴族階級や富豪が当たり前のように所属していて、資金をフルに使って各地に支部のようなものをどんどん支持者を増やしていくんだ。時代や国の事情もあるけど、いつの時代もお上に不満を持つものはいる。とうぜん彼らもそういうものたちの集まりだった。それはやがて革命組織へと発展していき、国どころか世界を揺るがすムーブメントとなるんだ。ほら、むかしのヒット曲にもあっただろ? 時には起こせよ、ムーブメントって」
「……そのムーブメントとやらを婀徳会が起こそうとしているんですか?」
深く考えずにそんなことを口にすると、そうかもなあと心の底からおかしそうに笑うのだった。
「十二月晩日先輩は……、ふだんからたくさん本を読んでるみたいですけど、何かきっかけみたいなのがあったんですか」
「はじめてだな、そういうこと訊かれたの」
俺の質問は意外だったらしく、めずらしく口をつぐんだ。いいたくないことだったのかと別の話題を振ろうかと逡巡していると、しばしの沈黙のあと、むかしの歌にね、と継いだ。
「海外の歌なんだけど、本を読めって連呼する箇所があってさ、『本を読め、隅から隅まで読め、読むべき本はある』って歌っていたんだ。曲自体よかったし、深く考えずに聴いていたんだけど、素直にそれを受け取って、そうだな、本をたくさん読もうって。単純といえばそれまでだけど、名作といわれるものはとにかく読んでみようって誓ったんだ」
ずいぶんと可愛らしい時代もあったんだな。
「なんだい、ルーキー。何かいいたげじゃないか」
十二月晩日先輩はでも、と夢から覚めた少女みたいな達観した顔でつづけた。
「でもさ、少ししてから、その曲の背景みたいなことを調べていたら、「みんなで本を読みましょう」ってかわいい標語じみた歌じゃなくて、知識を身につけろって意味合いだったと分かってさ。歌っていたアーティストの国の首相はその時代の他のミュージシャンがこぞって批判するくらいの嫌われ者だったらしいんだ。それに対抗する手段として本を読めってことだったんだと分かったときは、ああそうなんだって」
「……後悔、したんですか」
「それはないよ」
即答だった。嘘ではないだろう。
「本は、読む本によるんだろうけど、基本いろんな知識が身につく行為だし、むしろ感謝してるよ。意外とくだらないと一笑に付すような本でも何かしら意味があったりするものだし」
神妙な顔でそんなことをいうと、手にしていた紙袋を突き出した。
「ルーキー、MVRおめでとう」
「……なんです?」
「優秀な読者への祝いの品だ」
なんでもMVR受賞者は毎回、婀徳会から図書券なり商品券なりを受け取るらしいのだが、今回は十二月晩日先輩が代表して受け取り、あのアーケード街の電器店で交換したらしい。さっきはこれを買いに行っていたのか。ご丁寧にスタンドにもなるハードカバーまで付いている。
「……これは」
それは最新型のタブレットであった。値段も気になるが、失礼ながらあの古びた電器店にこんなデジタル機器を扱っていたことに驚く。
「まだブラウン管のテレビを扱ってそうなのに穴場なんだよ、あそこ」
「それにしても、いい値段するんじゃないんですか」
「んー、まあ、そこは巧妙なるネゴシエーションの腕前がなせる技ということで」
商品券とやらが実質、いくら分なのか判然としないが、最新型のタブレットと交換できるほど高額ではないだろう。
「貰っておいてくれよ。いらないというのなら、売り飛ばせばいい。けっこうな小遣いになるぞ」
身も蓋もないことを宣う。
「じゃあ、今日はお疲れだったな、ルーキー」
そういうと、十二月晩日先輩は軽く手を上げて、背を向けた。
「アデュー、モン・プレジール!」
その後ろ姿を見送りながら、こんなにも心身ともに疲弊しているのはじつははじめての読書会ではなく、十二月晩日先輩が原因なんじゃないかと思っていた。
☞
期せずして二日連続、瓊紅保に行く羽目になった俺は着いてすぐ、やはり二日連続アシュコへと足を向け、やはり書店へと向かうのだった。俺の行動原理はじぶんで思っている以上に情けないほど単純らしい。
「……ん?」
目的もなく店内をうろついていると、見慣れた夏服に身を包んだ女子に気づいた。キャラ的にこういう場所にいるのは不思議ではないどころか、あまりにはまりすぎている。ふだんからここにビバークしているとしても納得するだろう。その切れ長の目といい固く結ばれた口元といい、いつも以上に堅物を地で行くオーラをぞんぶんにまとっていた。知らないやつじゃないが、親しいというわけでもない。ここはスルーが互いのためだろう。
そう思って踵を返そうとしたとき、隣の本棚に視線を移した彼女と目が合ってしまった。
「…………」
彼女、十鳥オガミは表情を一ミリたりとも変えることなく、冷然たるまなざしを焦っているであろう俺の上にじっと注いでいた。
十二月晩日先輩は電話を通しても腹立たしいくらい快活であった。いや、掴みどころのないあの飄々とした本体が見当たらないぶん、余計な情報が入ってこないことでよりくっきりと声の輪郭が浮き出ており、リアルさが増している気がした。思わず背後に突っ立っているんじゃないかと振り返ったくらいだ。
「昨日はお疲れ」
「……はあ」
「なんだい、まだ疲れが抜けきっていない感じじゃないか」
「……まあ」
こちらのペースなど関係なく、好き勝手に話をつづけるのは分かっていたつもりではあったが、この人の揺るぎのない性質なのだろう。
「これから出れるかい」
「……唐突ですね」
「そうかい?」
昨日の今日でまた出かけるのはやぶさかではないのだが、先輩とはいえ昨日はじめて会った人の誘いに素直に従うのもなにか癪だ。
「誘ったのはこちらだし、足は出すよ」
足は出すと来たよ。
「車でも回してくれるんですか?」
皮肉のつもりだったが、先方はあっさりそうだよと答えた。
「よく分かったな」
……まじか。
「まじまじ♡」
観念して、どこへ行くのか訊くと瓊紅保だという。
「瓊紅保の……どこです」
「それはのちほど」
あのとぼけた顔が目に浮かぶ。
「じゃあ、瓊紅保で拾ってもらえますか」
「誘ったのはこっちだし、家まで迎えに行ってもいいんだが」
俺は行きたいとこもあるし、そこはやんわりと断り、時間と場所を伝えて通話を終えた。なんとなく家を知られたくないということもあるにはあった。
「……ふう」
人知れずため息をつくと、クローゼットからブルーのチェックと胸のワニがワンポイントの半袖シャツを引っ張り出した。昨日のポロシャツにつづいてこの夏のために思い切って購入を決めたワードローブその二だ。財布や端末など持っていくものをチョイスしていると、テーブルに置かれた真新しいタブレットが目に入った。昨晩、四苦八苦しながら設定を済ませたそいつを眺めているうち、昨日のことを、読書会が終わったあとのことをぼんやりと思い返していた。
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十二月晩日先輩が祝勝会の場所として選んだ喫茶店は於牟寺駅前にあるちょっとあやしげなビルの地下にひっそりとあった。おそらくはアーケード街といわれる通りはじつに薄暗い雰囲気で、少なくとも学生が学校帰りに寄るようなところではない気がする。おばちゃんがメインターゲットと思われる洋品店、店頭に大昔のテレビゲーム機のポスターが貼られたままの電器店、色あせた箱がぞんざいに積み上げられたプラモデル屋、扱っている商品にめぼしいものがなさげなスポーツ用品店、未成年はお断りのすさまじいまでにあやしげなオーラを放つおもちゃ屋など高度経済成長期で時が止まったままと見紛うくらいの店が身を寄せ合っていた。お世辞にも繁盛とは無縁のどこも死に体といった感じだが、ちらほらとお客とすれ違うのを見るに、需要はあるにはあるようだ。
「……………」
書店とおぼしき店頭に目の覚めるようなショッキングピンクのビキニ姿のモデルの等身大ポスターを見つけた。これには見覚えがあった。
「甘原ウズメか。ファンなのかい」
声に振り返ると、十二月晩日先輩が鑑定人みたいな顔で品定めするようにポスターを凝視していた。
「知ってるんですか」
「そりゃあ、われわれが生まれる前に活躍していたとはいえ、瓊紅保が生んだスターだからね。女優に転身して大成功したのに、あっさり引退したことも含めてもはや伝説だ。無名のモデル時代に撮ったグラビア誌の高騰ぶりからも若い世代にも人気があるみたいだぜ?」
なるほどこの店でもタカさん宅で見た例のグラビア誌の買取りをしていたが、美品だと5万とある。客寄せと思われる等身大ポスターは要相談らしい。いったい幾らで売るつもりなんだか。
「ルーキーもいい趣味してるじゃないか」
……ファンってわけでもないんだがな。
「欲しくて見ていたわけじゃないですよ」
「そうなのかい」
伝説のモデルにして女優の目の覚めるような姿態に後ろ髪を引かれつつ、悪い意味で目新しくも陰気なアーケード街をしばらく歩くと十字路があった。
「ここだ」
右手に電飾看板がぽつんと置かれた店があった。店の名は『ヘメレ』。色あせた軒出しテントや店頭のサンプルメニューともども年月を感じさせる。かつてはこのエリアには通路向かいの空き店舗を含めて6つほど店が入っていたようだが、今は喫茶店のみであった。
「向かいは写真屋だったんだけど、あたしたちが生まれる何年も前に閉めちゃって、次に入ったコンビニは一年も経たずに撤退したんだ。それ以降はずっと空さ」
他の空き店舗は布団屋だったり、バーだったり、アダルトな玩具屋だったりしたというから相当カオスな空間である。左に曲がった反対のエリアはすべて水商売の店で営業時間前ということで静まり返ってはいたが、すべての店舗は埋まっており、時間になれば賑やかになるというのだから分からないものだ。
「タラッタ! タラッタ!」
ドアを開けるなり、十二月晩日先輩が呪文のような言葉を叫んだ。
「今日はねえ、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ、珈琲は止しにするぜ!」
ドアベルがまだカランコロン鳴りやまない中、十二月晩日先輩は女店主に向かって畳みかけた。……誰だよ、プラスコー……、オーシポブ、なんちゃらって。
「ここはいつから海になって、あたしゃ、いつから床屋の女房になったんだい」
彼女はサイフォンと呼ばれる抽出器具で、コーヒーを淹れているところであった。
「今のあたしにとってここは敗走中のギリシア軍が見つけた黒海そのものなのさ」
十二月晩日先輩の意味不明な解説を鼻をであしらうと、いかにもやり手、といった風貌の年の頃、50代後半といった茶色がかった髪を後ろでまとめた中年女性は俺を品定めするような目線をぶしつけに送って寄こした。
「見ない顔だね」
しかし見れば見るほどこの人、いかにもむかしのサスペンスドラマに出てくる場末のバーのやさぐれた女店主といった風情である。こういうキャラは聞き込みにやって来た刑事に対して「開店前だよ」だの「何か注文はないのかい」だの嫌味をいって煙草をふかしつつ、邪険に扱うのが定番だ。
「有望な後輩だ。よろしく頼むよ」
店内の客席はほぼ埋まっており、地下街に点在する店から漂う閑古鳥的な雰囲気など気のせいだと思い知らされる。
俺たちは通路を挟んだふたつのテーブルに落ち着いた。十二月晩日先輩以下、十代田さんと二合半さん、他校の女子を含めて8人というけっこうな大所帯だ。
「いやあ、ルーキーは人気者だな。祝勝会にこんなに来てくれたんだぜ?」
お冷とおしぼり、メニューを置いた店主がなんの祝勝会だと怪訝な顔を見せた。
「読書会。初参加の我が後輩が殊勲を賜ったのだよ」
「へえ」
女店主が片眉を吊り上げて、俺を見る。彼女がさっき屈んだとき、生成りのサマーニットから覗く胸の谷間ががっつり見えてしまったのだが、よく観察すると薄いくちびるに引かれたピンクのルージュがなかなかに艶っぽく、それら性的な印象のせいでこういう母親以上に歳の離れた女性の魅力的なものに触れた気がしてちょっぴり落ち着かなかった。
「よく見ると、なかなかいい男じゃないか」
「さすがだな、ルーキー。ママまでとりこにするとか」
お冷を口に含みつつ、メニューを眺めていた十二月晩日先輩がとぼけたことをいい出す。
「あたしはカツレツにライス。ルーキーはどうする」
といわれても、特に空腹でもないんだよな。ここは……、
「……ホットサンドで」
無難に軽いものにした。
「ん。みんなは? 今日は奢っちゃうよ、ルーキーのめでたい日だからな!」
メニューとにらめっこ中の女子たちから歓声が上がる。
「いいですか?」
「いいんですよ!」
驕りとなれば話は別、とばかりにさっきまでは財布の中身と相談しつつおっかなびっくり見ていたのが一転、食い入るような表情でメニューと格闘をはじめた。
「いやあ、道行く市民に気前が良かったという陽気な部隊と呼ばれた大ロレンツォの気持ちが少しばかり分かる気がするな!」
「スケールは段違いですけど」
十代田さんはひとり、冷めていた。
「月持ちも好きなの頼みなよ」
「私はアルバイトのお金がありますから」
……へえ、十代田さんはアルバイトしてるんだ。てか、彼女は瓊紅保第一だよな。わざわざ於牟寺までやって来たのか。
「泣けるだろ? ルーキーを祝いたくてやって来てくれたんだ。健気だよなあ!」
「…………ッ!」
十二月晩日先輩の軽口に抗議しようと十代田さんがするどい視線を飛ばすものの、当人は気にするでもなく、天井をぼんやりと眺めていた。
店内にはクラシック同様、タイトルは分からないもののメロディはどこかで耳にしたことのあるスタンダードナンバーを多く生み出した英国出身の偉大なる四人組の楽曲が会話を邪魔しない音量で流れている。世代的に特に詳しくも興味もなかったが、タカさんが全アルバムを網羅したCDボックスを所有しており、何度か聴かせてもらっているうちに覚えていった。流れているのはなんともさわやかなメロディで途中でワルツっぽく転調するのが特徴的であった。
「渋いなルーキー、この曲を知っているのかい」
俺のわずかな反応を察した十二月晩日先輩が訊いてきた。友人の従伯父にあたる人のところで聴いたことがある程度だと答えると交友関係まで渋いんだなと妙な感心のされ方をした。
「人生はとても短い、文句を言ったり争ってる暇なんてない、か」
この曲の歌詞なのだろうか、そんなことを誰ともなくつぶやく十二月晩日先輩はどこか神妙な面持ちであった。
外回りの仕事の途中なのかやたらとくたびれたサラリーマン風や主婦仲間と思しき女性たち、いかにも近所の常連さんといった感じの老人などがそれぞれの時間を楽しんでいた。そうしたBGMや客層、もはや集客に寄与していないであろう表のサンプル、天井からぶら下がっているシェードランプ、テーブルやソファーのセット、花柄の箸立てや星座が描かれた円形のおみくじ器といった小物に至るまでありとあらゆるすべてが古色蒼然とした店の独特の雰囲気を形作っていた。こういう店ははじめてだが、フランチャイズの小綺麗な店とは違う雰囲気で悪くない。
ほどなく、注文の品が運ばれてきた。
「十代田さんもホットサンドだったんですか」
「ええ、何か真似したみたいでごめんなさい」
謝ることでもないと思うのだが、そのやり取りを見ながら十二月晩日先輩はずっとにやにやとしている。……感じの悪い人だな。
それにしても。いざ、来てみるとホットサンドのボリュームは異常であった。軽くつまむつもりだったのだが、これでは多すぎだ。
「……あの、先輩、よかったらどうですか?」
「私も。さすがにこれは」
十代田さんとふたりでシェアを提案したが、当の十二月晩日先輩はフォークとナイフをカチャカチャいわせながら、そっけなく返してきた。
「いやあ、ルーキー! わたしはライスとカツレツに取り組んでいるところですのでね、恋愛の方はあなたが取り組んでください」
……なに、いってるんだ。この人は。
けっきょく俺はホットサンドを他の女子に、十代田さんも文庫本片手にナポリタンを食していた二合半さんと分けていた。それにしてもこんなときまで読書とか、ほんとうに本好きなんだな。
こうしてあやしげな喫茶店での祝勝会という名の食事会は賑々しく終わり、お開きと相成った。
「先行っててくれ」
地下街を脱出する前、買い物があるという十二月晩日先輩を待って、他市の女子を駅まで見送ったあと街中をブラついた。時計は五時を回っていたがまだ明るい。
「はじめての読書会。何か得るものはあったかい」
「……まだよく、実感はないんですね」
そう。まだ答えは出そうにない。というよりも、それは今後分かることだろう。
「読書会というはその名の通り、本を読み、魅力なり感想なりをを語り合うっていうのが一応の体裁なんだけど、国や時代によってはインテリゲンチャといわれる知識階層による知的普及活動だったりしたんだ」
「インテリ……ゲンチャ?」
「インテリの語源になった言葉。当初こそ読み書きが覚束ない労働者階級に向けた、本を読んだり配布したりとしていたボランティア活動だったのが、いつしか啓蒙活動に発展していったんだ。参加者は貴族階級や富豪が当たり前のように所属していて、資金をフルに使って各地に支部のようなものをどんどん支持者を増やしていくんだ。時代や国の事情もあるけど、いつの時代もお上に不満を持つものはいる。とうぜん彼らもそういうものたちの集まりだった。それはやがて革命組織へと発展していき、国どころか世界を揺るがすムーブメントとなるんだ。ほら、むかしのヒット曲にもあっただろ? 時には起こせよ、ムーブメントって」
「……そのムーブメントとやらを婀徳会が起こそうとしているんですか?」
深く考えずにそんなことを口にすると、そうかもなあと心の底からおかしそうに笑うのだった。
「十二月晩日先輩は……、ふだんからたくさん本を読んでるみたいですけど、何かきっかけみたいなのがあったんですか」
「はじめてだな、そういうこと訊かれたの」
俺の質問は意外だったらしく、めずらしく口をつぐんだ。いいたくないことだったのかと別の話題を振ろうかと逡巡していると、しばしの沈黙のあと、むかしの歌にね、と継いだ。
「海外の歌なんだけど、本を読めって連呼する箇所があってさ、『本を読め、隅から隅まで読め、読むべき本はある』って歌っていたんだ。曲自体よかったし、深く考えずに聴いていたんだけど、素直にそれを受け取って、そうだな、本をたくさん読もうって。単純といえばそれまでだけど、名作といわれるものはとにかく読んでみようって誓ったんだ」
ずいぶんと可愛らしい時代もあったんだな。
「なんだい、ルーキー。何かいいたげじゃないか」
十二月晩日先輩はでも、と夢から覚めた少女みたいな達観した顔でつづけた。
「でもさ、少ししてから、その曲の背景みたいなことを調べていたら、「みんなで本を読みましょう」ってかわいい標語じみた歌じゃなくて、知識を身につけろって意味合いだったと分かってさ。歌っていたアーティストの国の首相はその時代の他のミュージシャンがこぞって批判するくらいの嫌われ者だったらしいんだ。それに対抗する手段として本を読めってことだったんだと分かったときは、ああそうなんだって」
「……後悔、したんですか」
「それはないよ」
即答だった。嘘ではないだろう。
「本は、読む本によるんだろうけど、基本いろんな知識が身につく行為だし、むしろ感謝してるよ。意外とくだらないと一笑に付すような本でも何かしら意味があったりするものだし」
神妙な顔でそんなことをいうと、手にしていた紙袋を突き出した。
「ルーキー、MVRおめでとう」
「……なんです?」
「優秀な読者への祝いの品だ」
なんでもMVR受賞者は毎回、婀徳会から図書券なり商品券なりを受け取るらしいのだが、今回は十二月晩日先輩が代表して受け取り、あのアーケード街の電器店で交換したらしい。さっきはこれを買いに行っていたのか。ご丁寧にスタンドにもなるハードカバーまで付いている。
「……これは」
それは最新型のタブレットであった。値段も気になるが、失礼ながらあの古びた電器店にこんなデジタル機器を扱っていたことに驚く。
「まだブラウン管のテレビを扱ってそうなのに穴場なんだよ、あそこ」
「それにしても、いい値段するんじゃないんですか」
「んー、まあ、そこは巧妙なるネゴシエーションの腕前がなせる技ということで」
商品券とやらが実質、いくら分なのか判然としないが、最新型のタブレットと交換できるほど高額ではないだろう。
「貰っておいてくれよ。いらないというのなら、売り飛ばせばいい。けっこうな小遣いになるぞ」
身も蓋もないことを宣う。
「じゃあ、今日はお疲れだったな、ルーキー」
そういうと、十二月晩日先輩は軽く手を上げて、背を向けた。
「アデュー、モン・プレジール!」
その後ろ姿を見送りながら、こんなにも心身ともに疲弊しているのはじつははじめての読書会ではなく、十二月晩日先輩が原因なんじゃないかと思っていた。
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期せずして二日連続、瓊紅保に行く羽目になった俺は着いてすぐ、やはり二日連続アシュコへと足を向け、やはり書店へと向かうのだった。俺の行動原理はじぶんで思っている以上に情けないほど単純らしい。
「……ん?」
目的もなく店内をうろついていると、見慣れた夏服に身を包んだ女子に気づいた。キャラ的にこういう場所にいるのは不思議ではないどころか、あまりにはまりすぎている。ふだんからここにビバークしているとしても納得するだろう。その切れ長の目といい固く結ばれた口元といい、いつも以上に堅物を地で行くオーラをぞんぶんにまとっていた。知らないやつじゃないが、親しいというわけでもない。ここはスルーが互いのためだろう。
そう思って踵を返そうとしたとき、隣の本棚に視線を移した彼女と目が合ってしまった。
「…………」
彼女、十鳥オガミは表情を一ミリたりとも変えることなく、冷然たるまなざしを焦っているであろう俺の上にじっと注いでいた。
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