120 / 126
PVC
母子
しおりを挟む
「ただいま」
読書会などという俺の人生において、決して足を踏み入れることなどなかったはずの未曾有のイベントに参加したにとどまらず、MVRなどというやはりじぶんには無縁な褒賞などというものまで授与され、あげく祝勝会にまで駆り出された俺は心身ともに良くも悪くも疲弊していた。
「……ずいぶんと充実した一日だったようじゃないか」
帰宅した俺を見るなり、台所で調理中のお袋は本気とも冗談ともつかない感想を漏らした。黒いキャミソールに白のパンティ姿の我が母上は油跳ね対策だろう、さらにアームカバーを装着していたが、あまりにもちぐはぐな組み合わせゆえ、滑稽極まりない。全裸に近い恰好のくせに腕だけはしっかりと覆うって何かおかしくないか。
「なんだい、それは」
俺の手にはMVRの副賞だという、タブレットがあった。
「お前が? 最優秀読者?」
笑いをこらえるように、わざとらしく口元に手を添える。
俺は隠すことではないものの、かといって詳細に説明するのもめんどうなので、かいつまんで経緯を話した。
「へえ、それじゃあ、妹たちに感謝しなきゃだね」
今になって気づいたが、その真のMVRであるチビどもがいない。
「ナナミちゃんの家に行ったよ」
「……へえ」
お袋が鍋を豪快に振ると、細切りのピーマンやタケノコが躍った。オイスターソースや胡麻油、紹興酒などの調味料が醸す香ばしくも食欲をそそるいい匂いが居間まで届いてくる。夕飯は青椒肉絲らしい。……いや、待て。
「……ッ、なッ、なにッ!」
明日の天気でも話題にするみたいにさりげなく話すお袋の口から出た単語を思わず聞き流しそうになった。なッ、ナナミさん……だとぅ?
「なんだい、いきり立っちゃって。ここは寝室じゃないんだ。TPOをわきまえな」
鉄製のお玉をガンガンと鳴らしながら、息子を宥めにかかる。このお玉は例の門扉を作ってくれたナギの親父さんの知り合いが手掛けた逸品だ。このヘヴィー級の特製お玉は男の俺でも扱いに困る、重量のある代物だが、お袋は箸でも扱うように器用に振る。ふだん鍛えている様子など見せない女だが、上腕二頭筋の頼もしいまでの発達ぶりを見るに、主婦のそれではない。あれはビルダー、いやボクサーの腕だ。
「……ッ、どッ、どういうことだよ?」
「だから、ナナミちゃんの家に遊びに行ったんだよ。花火に誘われたんだ」
「聞いてないぞッ!」
「そりゃそうだ。ついさっきナナミちゃんから連絡があったんだから。友達の、アツミさんっていったかね。彼女がナナミちゃんの家に泊まりに来るってんで、たくさん花火を買い込んで来たんだって。それで連絡があって、よかったらどうですかって」
「…………ッ!」
「なんだよ、お前は。さっきから盛りのついた何かみたいにそわそわと」
「……なぜッ、なぜッ、俺はッ、ここにいてッ、チビどもがナナミさんといっしょにいるんだよッ!」
「そりゃあ、お前は出かけていたし、ナナミちゃんが誘ったのはサクヤとコノハなんだから当たり前だ」
いいながら、大皿に青椒肉絲を移しはじめた。こんなときだってのに、旨そうな匂いをさせやがって。
「ちくしょう!」
「うるさいね、さっきから」
完全体にさえなれば最強になれると地団駄を踏む人造人間のように叫ぶと、お袋の膝蹴りがみぞおちに飛んできた。大皿や受け皿を両手に持ちながら、ずいぶんと器用なものだ。
「さっさとご飯をよそって、ちゃっちゃと座りな」
それとも、とお袋が俺の顔を覗き込む。
「食べて来たのかい」
「……喫茶店に行って、かるく」
「喫茶店ねえ。めずらしいこともあるもんだ。で、食べるのかい」
「食べる!」
俺はやけくそ気味に叫んだ。
「だから、うるさいってんだよ」
アームカバーを外すと、今度はボディブローを俺のみぞおちにめり込ませた。やはりボクサーの腕だ。
「いただきます」
食べ盛りの胃袋は耐え難い現実などおかまいなしに、食い物を送れと元気いっぱいにせっついていた。いつにもまして今日の青椒肉絲は旨かった。腹立たしいくらい旨かった。こんなときだってのに順調に飯は進み、みるみる大皿を消化してゆく。悲しいかなこれも現実なのだ。俺はお代わりをすべく、台所に向かうとお袋が感心したようなまなざしを向けた。
「成長したじゃないか」
「……成長したって、なに」
指についた米粒を口先で拾いながら訊くと、下着姿の名コックはくちびるをひん曲げた。
「ナナミちゃんのこととなると、見境ないお前だ。以前だったら、じぶんも行くとか相手の迷惑も考えずにぐずっただろうにさ」
ったく、じぶんの息子をなんだと思っているんだ。とはいえ、感心するお袋には口が裂けてもいえないが、じつはタイミングを失っただけで、今からでも俺も行こうと考えていたのは内緒だ。
……いや、待てよ。チビどもに迎えが必要ではないのか? チャンス到来、「ナウゲッタチャンス!」とむかしのクイズ番組の司会者が俺のアタマの中で微笑んだ。
「ああ、いい忘れたけど、そのまま泊まるってさ」
……あァァァァァあッ!
最後の望みまで無残に絶たれ、無念のあまり血涙をさめざめと流す息子を無慈悲に眺めながら、お袋はしっかりと釘を刺した。
「ナナミちゃんは口にこそ出さないけれど、私に気を使ってくれたんだよ。無粋な真似は許さないからな」
確かに仕事と育児。まだ手のかかるチビども相手に連日気の休まる暇もないお袋は愚痴こそこぼさないが、心身ともに疲弊しているだろことは、想像に難くない。ナナミさんは友人のアツミさんが泊りに来るから、チビたちもいっしょにと提案してくれたのだろう。いつもだったらこういうことには先方に失礼だからと頑なに固辞するお袋が受け入れたのは、夏休み中で休まる暇もなく、疲れが溜まっている何よりの証拠だ。ナナミさんはそれを見抜いたのだろう。
「心おきなく、夫婦生活に励んでくださいってさ」
……そっちかよ。
「てか、思春期の俺は無視かよ」
「お前は別に気にしないだろう。こちとら年中発情してるんだ。夫婦生活を愉しんで何が悪い」
開き直りやがって、この恥知らずな色情狂ババアめ。
「そういえば」
お袋は怒らせた右肩をぐるぐると回しながら、薄く笑った。きっと現役時代、敵対する相手を半殺しにする前にはこういう笑みを浮かべていたのだろう。
「母ちゃん、さいきん人をぶん殴ってないからさ、欲求不満なんだよ。誰かを思い切り殴ったら発情も治まりそうなんだが、お前、相手してくれるかい?」
「……けっこうです」
「遠慮するんじゃないよ。母ちゃんのストレスは解消される、お前は母親を忌まわしい色情狂から解放できる。それだけじゃない、母ちゃんのためにサンドバッグになれば孝行にもなるし、家庭円満、家内安全、いいことだらけだよ。たかだか数十発の我慢だ、気のすむまでぞんぶんに殴らせろ」
母上、それは孝行という名の、純然たる虐待ですよ。
「おらッ、歯ァ食いしばりな」
このおばさまは何が何でも息子を殴り殺したいらしい。
「……ほんとうにかんべんしてください」
お袋は意気地のないやつだねと吐き捨てると、旨そうに麦茶を呷った。そしてしみじみと、ほんとうにナナミちゃんはやさしい子だよとつぶやいた。とても数十秒前に息子を殴り殺す気満々だった女には見えない。
「ナナミちゃんもだし、ナナギ君もね」
それには心の底から同意しかない。そう、やさしいんだ、ナナミさんも、ナギも。やさしすぎるともいうが。とはいえ、チビどもが羨ましくてしょうがない。一緒に花火をして、一緒に食事をして、一緒に風呂に入って、一緒に寝て……ッ、あぁッ、ああァあッ!
「俺もッ、ナナミさんとッ、一緒に遊んでッ、風呂に入ってッ、寝たいぜ!」
「お前、声に出てるぞ」
食事も済んで、ひと息ついていると、だいぶ落ち着いてきた。
「で、どうだったい、読書会」
食器を洗い終わったお袋が訊いてきた。
「……どうって」
「むりに訊きゃしないよ。いいたくなけりゃ、別にいいさ」
「そういうわけじゃないけど」
俺は一番乗りだと思ったら、出席者では一番最後だったこと、さらに男は俺ひとりだけで、しかもみな制服だったことなど、思い返すだけで切なくなることを切々と語るのだった。
「……ずいぶんとまあ、つくづく間の悪い男だね、お前は」
いいたこといてくれるぜ。俺は他にあった出来事、ティラミスなる業務用チョコレートが配られたことや妖艶なる女教師がらみのことなど、話したものかと思ったが、さしてお袋の興味を引くとも思えなかったし、何よりもめんどうなのであえて口にするのはやめておいた。
……そういえば。
俺は今日、偶然の再会がもたらした、むかし話で気になったことを訊いてみることにした。
「あのさ、子供のころ、ナギとシギヤが遊びに来た日のことだけど」
子供のころは頻繁ではなかったものの、ふたりはそれなりに遊びに来ている。俺の問いかけにお袋がいつの話だと考え込んだので、家に門を設置するきっかけになった日のことだと補足すると、ああ、と眉をひそめた。お袋からすれば、あれだけの怒りを爆発させた忌まわしい出来事のはずだ。ひょっとすると、禁忌に近い、いや禁忌そのものなのかもしれない。
「あのときの職員、八重垣さんに会ったのかい」
「……えッ、なんで?」
顔に出たらしい。お袋は婀徳関連の施設で会が行われたから、会ったとしても不思議じゃないと冷静に口にした。
「婀徳会の人だって気づいていたの?」
「お前は覚えて……いや、それ以前に知らないか、婀徳会の会花のこと。あのとき純銀のネクタイピンをしていたんだよ。コスモスの飾りのついためずらしいやつ。婀徳会のトレードマークだからね、コスモスは」
お袋は機嫌を損ねるどころか、穏やかだった。八重垣氏のこともさん付けで呼んでるし、わだかまりはないのかもしれない。……いや、あの一件でナギの親父さんと知り合えたからむしろ感謝しているのかもしれないが、確認するのはやめた。
「で、それが?」
「あ…ッ、あァ、それでさ、お袋が怒ってあの人……八重垣さんの首を殺す勢いで絞めていただろう?」
「じっさい、殺すつもりだったんだよ」
さらっと怖いことをいう。
「けっきょく、途中でやめたけど、何かきっかけがあったのかなって」
あのとき、お袋は車内にあった何かを見て、戦意、いや殺意を喪失したのだ。
「ああ、そのことかい。お前もよく覚えているね、そんなつまんないこと。写真立てがあったんだよ。お前くらいの娘さんと写ってる写真が入ったやつがさ」
真実が分かれば、拍子抜けするくらいに人間味あふれる理由である。狂暴な元ヤンキーのお袋も人の親ってことか。
「で、けっきょく楽しめたのかい、あの話」
お袋は照れからか、単にどうでもいい案件だからか、過去の話の真相などには興味を失くしたように、俺にとってはじめての読書体験の顛末に水を向けた。……まあ、母親の過去の凶行をつぶさに辿ることよりも、こちらの方がじつに健全で真っ当な親子の会話ではあるとは思う。
「出てくる人間、出てくる人間、腹の立つやつばっかりで苦痛だった」
お袋はだろう? と頷いた。
「でも、一か所だけ、面白いと思ったとこはあったな」
「へえ」
「もうひとりの主人公、真の主人公か、リョーヴィンっているだろ」
「ああ」
不快な、十二月晩日先輩がいうところの肉体パートより精神パートはいくぶんマシではあった。
「肉体パートに精神パートか。上手い表現するじゃないか、その先輩」
俺の母親が十二月晩日先輩の喩えを絶賛していると知ったら、あの人はどういう顔をするんだろう。
「まあ、あれは人妻の不貞から着想を得た作品とはいえ、その人妻を書くのが苦痛だと吐露していたのは知られた話だし、ほんとうに書きたかった精神パートか、そっちに心血を注いでいたとしても何もおかしくはないさ。ほとんどの読者はタイトルにもなっている肉体パートにこそ価値を見出して絶賛しているんだろうけれどさ。じっさい、精神パートは退屈だって評価ばかりだし、お前みたいな見方は貴重かもしれないね」
じじつ、人妻パートは腹の立つことばかりで、ほんとうに苦痛だったのだ。だから退屈とはいえ、精神パートには何度助けられたかしれない。それにしても、お袋までこの作品を読んだだけではなく、作者のスタンスまで熟知しているとは驚きだ。
「で、その……えっと、リョーヴィンか、出産の近づいた奥さんのために医者のとこまで駆けつけるじゃない。初めての出産で慌てふためく主人公をよそに、医者からすればとくにめずらしいことでもないからずっと悠然としてて、いらいらと急かす相手に世間話を振ったり、のんきにコーヒーを飲んだり、パンをむしゃむしゃと食べてるところが、何か……妙におかしかったな」
俺の感想を聞き終えたお袋はしばらくきょとんとしていたが、我に返ったように大口を開けて笑い出した。
「そうかい、おかしかったかい。そうかい」
子供のひいき目で見れば、こんな取るに足りない感想でも、ふだんは漫画ばかりの息子が文字だけの、それなりの長編作品を踏破したことがは彼女にはうれしかったのかもしれない。
心の底からの、ほんとうにおかしそうな笑い声を聴きながら、俺はこんなお袋を見れただけでも、あの苦痛を経験してよかったんだとタブレットを眺めながらしみじみと思うのだった。
読書会などという俺の人生において、決して足を踏み入れることなどなかったはずの未曾有のイベントに参加したにとどまらず、MVRなどというやはりじぶんには無縁な褒賞などというものまで授与され、あげく祝勝会にまで駆り出された俺は心身ともに良くも悪くも疲弊していた。
「……ずいぶんと充実した一日だったようじゃないか」
帰宅した俺を見るなり、台所で調理中のお袋は本気とも冗談ともつかない感想を漏らした。黒いキャミソールに白のパンティ姿の我が母上は油跳ね対策だろう、さらにアームカバーを装着していたが、あまりにもちぐはぐな組み合わせゆえ、滑稽極まりない。全裸に近い恰好のくせに腕だけはしっかりと覆うって何かおかしくないか。
「なんだい、それは」
俺の手にはMVRの副賞だという、タブレットがあった。
「お前が? 最優秀読者?」
笑いをこらえるように、わざとらしく口元に手を添える。
俺は隠すことではないものの、かといって詳細に説明するのもめんどうなので、かいつまんで経緯を話した。
「へえ、それじゃあ、妹たちに感謝しなきゃだね」
今になって気づいたが、その真のMVRであるチビどもがいない。
「ナナミちゃんの家に行ったよ」
「……へえ」
お袋が鍋を豪快に振ると、細切りのピーマンやタケノコが躍った。オイスターソースや胡麻油、紹興酒などの調味料が醸す香ばしくも食欲をそそるいい匂いが居間まで届いてくる。夕飯は青椒肉絲らしい。……いや、待て。
「……ッ、なッ、なにッ!」
明日の天気でも話題にするみたいにさりげなく話すお袋の口から出た単語を思わず聞き流しそうになった。なッ、ナナミさん……だとぅ?
「なんだい、いきり立っちゃって。ここは寝室じゃないんだ。TPOをわきまえな」
鉄製のお玉をガンガンと鳴らしながら、息子を宥めにかかる。このお玉は例の門扉を作ってくれたナギの親父さんの知り合いが手掛けた逸品だ。このヘヴィー級の特製お玉は男の俺でも扱いに困る、重量のある代物だが、お袋は箸でも扱うように器用に振る。ふだん鍛えている様子など見せない女だが、上腕二頭筋の頼もしいまでの発達ぶりを見るに、主婦のそれではない。あれはビルダー、いやボクサーの腕だ。
「……ッ、どッ、どういうことだよ?」
「だから、ナナミちゃんの家に遊びに行ったんだよ。花火に誘われたんだ」
「聞いてないぞッ!」
「そりゃそうだ。ついさっきナナミちゃんから連絡があったんだから。友達の、アツミさんっていったかね。彼女がナナミちゃんの家に泊まりに来るってんで、たくさん花火を買い込んで来たんだって。それで連絡があって、よかったらどうですかって」
「…………ッ!」
「なんだよ、お前は。さっきから盛りのついた何かみたいにそわそわと」
「……なぜッ、なぜッ、俺はッ、ここにいてッ、チビどもがナナミさんといっしょにいるんだよッ!」
「そりゃあ、お前は出かけていたし、ナナミちゃんが誘ったのはサクヤとコノハなんだから当たり前だ」
いいながら、大皿に青椒肉絲を移しはじめた。こんなときだってのに、旨そうな匂いをさせやがって。
「ちくしょう!」
「うるさいね、さっきから」
完全体にさえなれば最強になれると地団駄を踏む人造人間のように叫ぶと、お袋の膝蹴りがみぞおちに飛んできた。大皿や受け皿を両手に持ちながら、ずいぶんと器用なものだ。
「さっさとご飯をよそって、ちゃっちゃと座りな」
それとも、とお袋が俺の顔を覗き込む。
「食べて来たのかい」
「……喫茶店に行って、かるく」
「喫茶店ねえ。めずらしいこともあるもんだ。で、食べるのかい」
「食べる!」
俺はやけくそ気味に叫んだ。
「だから、うるさいってんだよ」
アームカバーを外すと、今度はボディブローを俺のみぞおちにめり込ませた。やはりボクサーの腕だ。
「いただきます」
食べ盛りの胃袋は耐え難い現実などおかまいなしに、食い物を送れと元気いっぱいにせっついていた。いつにもまして今日の青椒肉絲は旨かった。腹立たしいくらい旨かった。こんなときだってのに順調に飯は進み、みるみる大皿を消化してゆく。悲しいかなこれも現実なのだ。俺はお代わりをすべく、台所に向かうとお袋が感心したようなまなざしを向けた。
「成長したじゃないか」
「……成長したって、なに」
指についた米粒を口先で拾いながら訊くと、下着姿の名コックはくちびるをひん曲げた。
「ナナミちゃんのこととなると、見境ないお前だ。以前だったら、じぶんも行くとか相手の迷惑も考えずにぐずっただろうにさ」
ったく、じぶんの息子をなんだと思っているんだ。とはいえ、感心するお袋には口が裂けてもいえないが、じつはタイミングを失っただけで、今からでも俺も行こうと考えていたのは内緒だ。
……いや、待てよ。チビどもに迎えが必要ではないのか? チャンス到来、「ナウゲッタチャンス!」とむかしのクイズ番組の司会者が俺のアタマの中で微笑んだ。
「ああ、いい忘れたけど、そのまま泊まるってさ」
……あァァァァァあッ!
最後の望みまで無残に絶たれ、無念のあまり血涙をさめざめと流す息子を無慈悲に眺めながら、お袋はしっかりと釘を刺した。
「ナナミちゃんは口にこそ出さないけれど、私に気を使ってくれたんだよ。無粋な真似は許さないからな」
確かに仕事と育児。まだ手のかかるチビども相手に連日気の休まる暇もないお袋は愚痴こそこぼさないが、心身ともに疲弊しているだろことは、想像に難くない。ナナミさんは友人のアツミさんが泊りに来るから、チビたちもいっしょにと提案してくれたのだろう。いつもだったらこういうことには先方に失礼だからと頑なに固辞するお袋が受け入れたのは、夏休み中で休まる暇もなく、疲れが溜まっている何よりの証拠だ。ナナミさんはそれを見抜いたのだろう。
「心おきなく、夫婦生活に励んでくださいってさ」
……そっちかよ。
「てか、思春期の俺は無視かよ」
「お前は別に気にしないだろう。こちとら年中発情してるんだ。夫婦生活を愉しんで何が悪い」
開き直りやがって、この恥知らずな色情狂ババアめ。
「そういえば」
お袋は怒らせた右肩をぐるぐると回しながら、薄く笑った。きっと現役時代、敵対する相手を半殺しにする前にはこういう笑みを浮かべていたのだろう。
「母ちゃん、さいきん人をぶん殴ってないからさ、欲求不満なんだよ。誰かを思い切り殴ったら発情も治まりそうなんだが、お前、相手してくれるかい?」
「……けっこうです」
「遠慮するんじゃないよ。母ちゃんのストレスは解消される、お前は母親を忌まわしい色情狂から解放できる。それだけじゃない、母ちゃんのためにサンドバッグになれば孝行にもなるし、家庭円満、家内安全、いいことだらけだよ。たかだか数十発の我慢だ、気のすむまでぞんぶんに殴らせろ」
母上、それは孝行という名の、純然たる虐待ですよ。
「おらッ、歯ァ食いしばりな」
このおばさまは何が何でも息子を殴り殺したいらしい。
「……ほんとうにかんべんしてください」
お袋は意気地のないやつだねと吐き捨てると、旨そうに麦茶を呷った。そしてしみじみと、ほんとうにナナミちゃんはやさしい子だよとつぶやいた。とても数十秒前に息子を殴り殺す気満々だった女には見えない。
「ナナミちゃんもだし、ナナギ君もね」
それには心の底から同意しかない。そう、やさしいんだ、ナナミさんも、ナギも。やさしすぎるともいうが。とはいえ、チビどもが羨ましくてしょうがない。一緒に花火をして、一緒に食事をして、一緒に風呂に入って、一緒に寝て……ッ、あぁッ、ああァあッ!
「俺もッ、ナナミさんとッ、一緒に遊んでッ、風呂に入ってッ、寝たいぜ!」
「お前、声に出てるぞ」
食事も済んで、ひと息ついていると、だいぶ落ち着いてきた。
「で、どうだったい、読書会」
食器を洗い終わったお袋が訊いてきた。
「……どうって」
「むりに訊きゃしないよ。いいたくなけりゃ、別にいいさ」
「そういうわけじゃないけど」
俺は一番乗りだと思ったら、出席者では一番最後だったこと、さらに男は俺ひとりだけで、しかもみな制服だったことなど、思い返すだけで切なくなることを切々と語るのだった。
「……ずいぶんとまあ、つくづく間の悪い男だね、お前は」
いいたこといてくれるぜ。俺は他にあった出来事、ティラミスなる業務用チョコレートが配られたことや妖艶なる女教師がらみのことなど、話したものかと思ったが、さしてお袋の興味を引くとも思えなかったし、何よりもめんどうなのであえて口にするのはやめておいた。
……そういえば。
俺は今日、偶然の再会がもたらした、むかし話で気になったことを訊いてみることにした。
「あのさ、子供のころ、ナギとシギヤが遊びに来た日のことだけど」
子供のころは頻繁ではなかったものの、ふたりはそれなりに遊びに来ている。俺の問いかけにお袋がいつの話だと考え込んだので、家に門を設置するきっかけになった日のことだと補足すると、ああ、と眉をひそめた。お袋からすれば、あれだけの怒りを爆発させた忌まわしい出来事のはずだ。ひょっとすると、禁忌に近い、いや禁忌そのものなのかもしれない。
「あのときの職員、八重垣さんに会ったのかい」
「……えッ、なんで?」
顔に出たらしい。お袋は婀徳関連の施設で会が行われたから、会ったとしても不思議じゃないと冷静に口にした。
「婀徳会の人だって気づいていたの?」
「お前は覚えて……いや、それ以前に知らないか、婀徳会の会花のこと。あのとき純銀のネクタイピンをしていたんだよ。コスモスの飾りのついためずらしいやつ。婀徳会のトレードマークだからね、コスモスは」
お袋は機嫌を損ねるどころか、穏やかだった。八重垣氏のこともさん付けで呼んでるし、わだかまりはないのかもしれない。……いや、あの一件でナギの親父さんと知り合えたからむしろ感謝しているのかもしれないが、確認するのはやめた。
「で、それが?」
「あ…ッ、あァ、それでさ、お袋が怒ってあの人……八重垣さんの首を殺す勢いで絞めていただろう?」
「じっさい、殺すつもりだったんだよ」
さらっと怖いことをいう。
「けっきょく、途中でやめたけど、何かきっかけがあったのかなって」
あのとき、お袋は車内にあった何かを見て、戦意、いや殺意を喪失したのだ。
「ああ、そのことかい。お前もよく覚えているね、そんなつまんないこと。写真立てがあったんだよ。お前くらいの娘さんと写ってる写真が入ったやつがさ」
真実が分かれば、拍子抜けするくらいに人間味あふれる理由である。狂暴な元ヤンキーのお袋も人の親ってことか。
「で、けっきょく楽しめたのかい、あの話」
お袋は照れからか、単にどうでもいい案件だからか、過去の話の真相などには興味を失くしたように、俺にとってはじめての読書体験の顛末に水を向けた。……まあ、母親の過去の凶行をつぶさに辿ることよりも、こちらの方がじつに健全で真っ当な親子の会話ではあるとは思う。
「出てくる人間、出てくる人間、腹の立つやつばっかりで苦痛だった」
お袋はだろう? と頷いた。
「でも、一か所だけ、面白いと思ったとこはあったな」
「へえ」
「もうひとりの主人公、真の主人公か、リョーヴィンっているだろ」
「ああ」
不快な、十二月晩日先輩がいうところの肉体パートより精神パートはいくぶんマシではあった。
「肉体パートに精神パートか。上手い表現するじゃないか、その先輩」
俺の母親が十二月晩日先輩の喩えを絶賛していると知ったら、あの人はどういう顔をするんだろう。
「まあ、あれは人妻の不貞から着想を得た作品とはいえ、その人妻を書くのが苦痛だと吐露していたのは知られた話だし、ほんとうに書きたかった精神パートか、そっちに心血を注いでいたとしても何もおかしくはないさ。ほとんどの読者はタイトルにもなっている肉体パートにこそ価値を見出して絶賛しているんだろうけれどさ。じっさい、精神パートは退屈だって評価ばかりだし、お前みたいな見方は貴重かもしれないね」
じじつ、人妻パートは腹の立つことばかりで、ほんとうに苦痛だったのだ。だから退屈とはいえ、精神パートには何度助けられたかしれない。それにしても、お袋までこの作品を読んだだけではなく、作者のスタンスまで熟知しているとは驚きだ。
「で、その……えっと、リョーヴィンか、出産の近づいた奥さんのために医者のとこまで駆けつけるじゃない。初めての出産で慌てふためく主人公をよそに、医者からすればとくにめずらしいことでもないからずっと悠然としてて、いらいらと急かす相手に世間話を振ったり、のんきにコーヒーを飲んだり、パンをむしゃむしゃと食べてるところが、何か……妙におかしかったな」
俺の感想を聞き終えたお袋はしばらくきょとんとしていたが、我に返ったように大口を開けて笑い出した。
「そうかい、おかしかったかい。そうかい」
子供のひいき目で見れば、こんな取るに足りない感想でも、ふだんは漫画ばかりの息子が文字だけの、それなりの長編作品を踏破したことがは彼女にはうれしかったのかもしれない。
心の底からの、ほんとうにおかしそうな笑い声を聴きながら、俺はこんなお袋を見れただけでも、あの苦痛を経験してよかったんだとタブレットを眺めながらしみじみと思うのだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
俺は陰キャだったはずなのに……なぜか学園内でモテ期が到来した件
こうたろ
青春
友人も恋人も居ないボッチ学生だった山田拓海が何故かモテだしてしまう。
・学園一の美人で、男女問わず憧れの的。
・陸上部のエースで、明るく活発なスポーツ女子。
・物静かで儚げな美術部員。
・アメリカから来た金髪碧眼でハイテンションな留学生。
・幼稚園から中学まで毎朝一緒に登校していた幼馴染。
拓海の生活はどうなるのか!?
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる