追う者

篠原

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第五章 あの日以降 ~事件翌日からの真子の物語~

第五章 ⑭

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その瞬間、だった!
後ろから、タッタッと走ってくる足音が
聞こえてきた。
真子は、後ろを振り向いた。
濃い赤色の制服を着た
JAS(日本エアサービス)の
グランドスタッフが、こっちの方に、
向かってくる。


AYAの手荷物カウンターの列に並んで
いた真子は、まさか、そのJASの
グランドスタッフが、自分の傍で、
立ち止まるとは考えもしてなかった!
だが、彼女は、真子のすぐ前で、
立ち止まった。
そして、「おしっこ!」と連発している
女の子の母親に言った。
「あの、大丈夫ですか?よろしければ、
私がお子様をトイレに、
お連れしましょうか?」
真子はびっくり仰天した。
その母親も驚いたようだ。
「えっ?良いんですか?
あの……、私たち、AYAの
飛行機に乗るんですけど、今日は……」
と言う。

でも、20歳ぐらいの、目元がパッチリ
していて、キレイなグランドスタッフは、
「大丈夫です。今日は、夏休みで、
空港全体が混んでいて、AYAさんの
人たちも、大忙しのようで、動ける人、
見当たりませんので…。私が、お子さん
をお連れして、すぐにここに戻ります!
ですから、このまま、この列にお並び
ください」と、優しく答えた。

それから、膝をかがめて、ニコッと笑う。
そして、女の子に話しかけた。
「大丈夫?おしっこなの?よく、今まで
我慢できたね!じゃあ、今からね、
お姉さんと一緒におトイレいこっか?」。
優しく、キレイな白い手を女の子に差し
伸べた。


女の子は「ウン」と頷いて、
目の前のグランドスタッフの手を握る。


真子は、「良かった~!」と、自分のこと
のように安心した。
本当にホッとした。

向こうから走って来て、頬が赤くなって
いるグランドスタッフは、女の子の手を
しっかりと握り、立ち上がった。
そして、女の子の母親に、「それでは、
すぐに戻りますので、このままどうぞ。
もし、戻る前に、お手荷物の手続きが、
終わりましたら、こちらでお待ちになって
いてください。私が、すぐに、お子さんを、
こちらにお連れしますから!」、
そう言って、女の子と駆けて行った。


真子は、そのグランドスタッフの
お団子ヘアの後姿を見つめながら、
感動した!!
おそらく、あっちの離れた、JASの
カウンターの方で、こっちの女の子の
事態に気づいて、飛んできたんだ…。
他社便の乗客なのに……。
そして、女の子を、それからこのお母さん
のことも助けてくれた。
JASの方だって混んでいるのに、
困っている女の子の方に、駆け寄って来て
くれた。
自分もああなりたい…、真子は思った。
真子は、彼女に憧れを感じた。
「下木高穂さん……。あんな優しくて、
美人で、空港で活躍する、そんな女性に
なりたいな!」と心の中で繰り返した。
―実は、目の前にいる母親と
グランドスタッフが話している時、
真子はいつもの癖で、彼女の身分証を
じっと観察したのだった。
それは、やっぱりJASの身分証で、
その女の人の写真もついてて、
名前は『下木高穂』とあった。―




その日からだ。
真子は誰にも言いはしなかったけど、
JASのグランドスタッフの
下木高穂さんのような女性になりたい、
いつかは、空港で働きたいと、
考え出した。


真子は、何度も思い返した。
あのポニーテールの女の子は、
下木さんの優しさのおかげで、
助かった。
自分にも、小3のあの日 下木さん
みたいな、『助けてくれる人』が、
いれば……。
自分の場合は、そんなヒーローは、現れ
てくれなかった。
もし、あの、みどりちゃんあたりが、
自分を助けてくれていたら、今では、
笑い話にしてたんだろうに……。


だからこそ、真子は決めた。
自分が、下木さんのようになろう、と。
空港には旅行に出かける子どもたちが、
いっぱい来る。
ワクワクしてる子、緊張している子、
それから、迷子になってしまう子、
一人だけで田舎のおじいちゃんたちを
訪ねに行く子もいるんだ。
そんな子たちを笑顔でむかえ、
助けてあげる……。
素晴らしい仕事!


真子は、自分が、松山空港で下木さんと
一緒にグランドスタッフとして働いて
いる姿を想像してみた。
その大人の自分は輝いていた!
早く、早く、グランドスタッフに、
なりたい!




その日-真子が、母に『将来の夢』を
打ち明けた日-、奥中母娘は、
夕食の時に、葡萄ジュースで乾杯した。
真子は、ジュースを飲みながら、
「いつか、お母さんと雪子おばさんが、
飛行機に乗る時、私が担当してあげる
からね!出来たらだけど……。
そう、お母さんたち、私のいる空港から
出発して、その空港に、到着してね!
それが良いよ!」と話した。
真子は、その日、珍しく弁舌だった。
峯子は、本当に幸せだった。
娘と大喧嘩、言い争ったあの日の
ことは、もう忘れようと、決めた。
今は、娘のこの夢を、全力で応援して
あげようと……。


次の週から、真子は、英語教室に
通い出した。
また、学校でも、時間があれば、
それまで以上に勉強や復習に励んだ。
「真子ちゃんは、暇さえあれば、
勉強してるねぇ」と、よく女子に
言われた。
「復習屋さん」と言うのが、中三の頃の、
真子のあだ名となった。
色々とクリアすべき問題は多かったし、
人間関係が苦手気味と言う弱さは
あったけれど、『将来の夢』に向かって、
真子は一歩一歩進んで行った。
少しずつ、話せる人も出来ていく。
充実した毎日、だった……。


だけど、その充実した、『上り坂』の
ような日々は、突然、終わった。
幸せの衣は瞬時に剝ぎ取られ、
悲しみを担うことに、なる。




……
 ある日、奥中峯子が、勤め先の
郵便局で倒れたのだった。
1月の寒い日、だった。
真子は、あと2か月で、中学校の卒業式
だった。
将来に向けて進むべき道も決まっていた。

学校で数学の授業中だった。
突然教員室に呼び出された真子は、
教頭から衝撃の知らせを受けて、
立ち尽くした…。
一瞬、映画の世界のように周囲の声も、
音も、すべて耳に入らなくなった。

ハッと気づいた時、生活指導の
西野牧葉先生が、「奥中さん、
奥中さん!」と言いながら、自分の肩を
叩いていた…。


真子は、町で唯一の総合病院に、
自転車で向かった。
これ以上ないほど全力で漕いだ!
「神様!!いるんですか?いるなら、
お母さんを助けてッ!!」。
そう唱えながら、真子は、一心に
ペダルを漕いだ。





そして、その日の夜。
郵便局で心筋梗塞を起こし、
倒れた峯子は、目を閉じた……。

翌日、朝一番で、雪子が駆けつけて
くれた。
真子は、病院の廊下で、雪子に
抱き着いて、泣いた。
しばらく泣いた。
雪子は、黙って、真子を抱きしめて
くれた。


母の葬儀の日。
とても晴れた日だった。
中学の先生たちも来てくれた。
でも、真子は椅子から
立ち上がれなかった。
必死に涙を堪える。
「眠ってるみたい……。
安らかな表情ね」と言う囁き声が、
よく聞こえてくる。
その声が聞こえるたびに、
「本当にお母さんは死んだんだ」と、
思い知らされ、真子は辛かった……。



前夜式も告別式も終えた、その夜。
真子はアパートの自分の部屋で、
母を想った。
母のことを「うるさい人だなぁ」とか
「おせっかいしすぎだよ、この人は」と、
よく思っていた。

でも、母が死んでしまったとたん、
母が恋しくて恋しくてしょうがない……!
母との思い出が、溢れて来る。


真子は、立って、母のハンカチと、
母のパジャマを箪笥から取り出した。
母の匂いがする…。
真子は、母のハンカチとパジャマを、
顔に押し付けて、泣いた。
声を出すまいと、我慢した。
隣の部屋で寝ている雪子おばさんに、
泣いてるのを知られたくない……。

外からは、強い雨の音が聞こえる。
部屋は真っ暗で、ストーブの灯だけが
オレンジに輝く。
その灯を見ていると、真子はいっそ孤独に、
思えた。
隣の部屋に雪子がいると分かっていても、
「いつか、灯がフッと消えるように、
誰しも、スッと消えていなくなっちゃう
んだ」と思って、孤独感に襲われる。

眠る気持ちになれない!
母との日々を出来る限り、
想い出したかった。
そうしていなければ、本当に、
母がこの世界から消えてしまう、
そんな気がしてならなかった…。



(著作権は、篠原元にあります)
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