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二章.フィア―
十二話.パゾはエリーに食べられた
しおりを挟む王都の西を流れるカグラ川。
これは南の湖から西の海へと通じる河川で、国内西部の穀倉地帯に大きな影響を与える母なる川でもあった。
当然、その豊穣は農民にのみ与えられる訳ではなく。
川べりでは日夜、熱心な釣り人達の姿を見る事ができた。
「……釣れんな」
そんな中、退屈そうにじ、と、糸先を眺めている男が居た。ベルクである。
そろそろ旬の魚が出回る時期なので、と、なんとなしに気が向きこうして釣り師の真似事をしているのだが、朝から続けて半日経った今でも釣り果はゼロである。
最早釣り餌の方が尽きてしまいそうな程であった。
「まさか釣りがこんなに難しいとは」
むう、と、唸りながらも、動かぬ糸を凝視する。
刹那、ピクリと糸が揺れる。
「むっ」
ベルクはここぞとばかりに竿先を跳ね上げる。
――確かな手ごたえ、大物か。
ようやくにして得られた感触。待ち望んだソレにベルクは珍しく興奮気味であった。
「よっ、と――せやぁっ」
しかし、敵もさるもの。そう易々とは釣られてはくれない。
必死の抵抗が続く。ベルクと獲物との根比べであった。
「私の――勝ち、だぁぁぁぁっ」
全身に力を込め、踏ん張りながら竿を捻り上げる。
ずぱん、という派手な音と共に糸は水面から弾け跳び――ベルクは、勝利した。
「……うん?」
盛大に空を舞った獲物は――鉄靴であった。
戦時中にでも川底に埋もれていたのか。
なるほど、手ごたえなりの確かな重量感がある。
相手が歴戦の猛者だったというならこの奮戦も納得行くというものである。
「……帰ろう」
ベルクは馬鹿馬鹿しくなっていた。嫌になっていた。
やはり自分には釣りの才能はないらしい、と。
夕闇でもなしに、その背には哀愁が漂っていたのだ。
「中々、面白いモノを釣り上げよる」
鉄靴のベルトについた針を外そうと近づいたベルクに、釣り師らしき老爺が話しかけてきた。
左手には数多の釣り果の収まった魚袋。
右手には素人目にも業物と思えるような見事な手彫りの釣竿が揺れる。
「生憎と、私には釣りは向いていなかったらしい。もう帰ることにしたんだ」
失敗を笑われるのはあまり良い気分がしない。
ベルクは、さっさと針を外してその場から去ってしまいたかったのだ。
「まあ、そう言いなさるな。その手の履物にはな、このように――」
中々針が外せず苦戦するベルクに笑いかけながら手のモノを置き、老人は鉄靴を持ち上げ逆さまにする。
ごぽごぽと鉄靴の中にたまった水が妙な音を立てながら落ちていく。
そして――
「なっ――」
最後に、おまけとばかりに靴の中から大き目のカニが出てきた。
「こうして川に捨てられたモノも、川の生き物からすれば立派な住処になるという事じゃ」
ほれ、と、もがくカニを掴んでベルクへと渡す。
「……いいのか?」
「良いも何も、君の釣り果じゃろう? 君は頑張ってこのカニを『住処ごと』釣り上げたのじゃよ」
大したもんじゃ、と、カニの大きさを褒めたてる。
「……私が」
暴れるカニを放さぬように両の手で掴みながら、ベルクは歓喜に震えていた。
「私が、釣ったのか……」
望んでいた魚とは違うが、これだけ大きければ喰い手もある。
塩茹でにしてくれようか、それとも丸焼きか。
どうしようか悩んでいると、老人がカニを指差し一言。
「川カニは、酒蒸しに限るぞ」
今夜のメニューが決まった瞬間であった。
「ご老輩は、この川での釣りは長いのか?」
街への帰りすがら。同じ道を往くのだという老爺と並び歩きながら、二人、雑談などしていた。
老爺が重そうに持っていた魚袋は今、ベルクの背にある。
「うむ。子供の頃からこの川が儂の遊び場じゃったからのう」
釣竿の先をくるくる回しながら、老爺が懐かしむように道沿いの川を見つめる。
緩やかな水面に陽射しが反射し、これがまた、キラキラと美しい。
羽の黒いトンボなどが蝶々のようにヒラヒラと飛ぶ様などは、まるで幻想のようであった。
「それに、儂らの若い頃は物流も今ほどしっかりとしておらんかった。街に届くはずの積荷が賊に襲撃されたり、のう……ひもじい時は、この川で釣れた物、採れた物が何よりのごちそうだったんじゃ」
貴重な戦時中の話である。ベルクも思うところがあり、頷きながら聞いていた。
「魚介は肉の代わりとなり、川草は干すと菜物のように食べることができるものもある。ほんに、この川は儂らの命綱だったんじゃよ」
「水草が食べられるとは初めて聞いたな……あんなものでも工夫次第では口に入れられるものなのか……」
川底でふよふよと揺れている緑を見ながらに呟く。
「まあ、食えるから食ったというよりは、食わざるをえなかったから毒にならなければ何でも食った、というのが正しいがのう」
照れくさそうに頭を掻きながら、老爺は笑っていた。
「川魚は塩を振って焼いて食うのが一番だが、カニやエビなら酒蒸し、貝なら酒と麦粉を使って人参と煮るとなかなかの逸品になる。後、意外とイケるのがガガラゴじゃな」
話は戻り、今度は釣り果をどのように調理して食すか、という話になる。
川に通じているこの老爺はその辺りも詳しくレクチャーしていたのだが、聞いた事もない単語にわずかばかり首をかしげた。
「ガガラゴ……というのは?」
「川底の岩場なんぞに潜んでおる川虫じゃよ。こいつを油で揚げて塩を振ると酒の肴にいいし、砂糖と酒で煮詰めると保存も利くようになる」
「……虫を食うのか」
「若いもんには抵抗があるかもしれんがね、これが意外とイケるんじゃ。何より精がつく」
長生きできるぞ、と、老爺はにやりと笑うのだが。
流石に虫を口に入れるのは抵抗があるというか、それがどういうものなのかが想像できないため、ベルクは難しい顔をしてしまう。
「まあ、機会があったら試してみると良い……ああ、ここまでで結構だ。ありがとうな兄さん」
街の中心部と西側との分かれ道。
ここで老爺は立ち止まり、ベルクの持つ魚袋を受け取る。
「いや、助かったよ。釣ったはいいが最近は歳なのか、こんなものでも重く感じていかん」
「まあ、折角釣れたのだから、その分は持ち帰りたいだろうしな。それに、ご老輩には色々と面白い話を聞けた。また会えたら頼む」
「ああ、こちらこそ。最近は釣り仲間も減っているからな。こうして若いもんと話が出来るのは嬉しいんじゃ」
またな、と、竿を持つ手を挙げながら、老爺は中心部へと去っていく。
ベルクもまた、そんな老爺の背を見、西側へと歩いた。
「――なるほど、私が来たというのに家にいなかった理由は、そのカニですか」
「あんたはもう少し人の話を聞くべきだと思うんだ」
家に帰ったベルクは、いや、クロウは、待ち構えていたフィアーによる尋問を受けていた。
カニは部屋の隅の水壷に放り込んだが、その後はひたすら質問攻めである。
「私だって釣りくらいしたかったのだ。気が向いただけだが」
「別に貴方がどんな趣味を持とうが構いませんが、食事時は特別な用が無い限りは家にいてくれないと、私も困ってしまいます」
いつものようにベッドの上に腰掛け、とても皮肉げに高圧的に返して来るフィアーに、クロウはやや疲れを感じていた。
「そもそも、釣りなんてのは敗者の趣味ですよ。ただひたすら待ってるだけ、自分からはアクションを取らずに偶然食いついた魚を得るだけなんて、何が楽しいのか私には理解できませんね」
加えて人の趣味の領域にまでケチをつけてくる始末である。
一体釣りの何が彼女をここまで苛立たせているのか。クロウにはこちらの方が理解できなかった。
「その時間を使ってフィールドワークでもした方がよほど仕事のタメになるんじゃありません?」
「だが街を歩く時の私は『ベルク』だ。そう演じろと命じたのは他でもないあんただろうが」
クロウとしても何故ここまでフィアーが怒っているのか解らないし、いい加減イライラしてきたのではっきり言い返してしまう。
「でも、だからって釣りを――」
「あんたの何が釣りをそこまで嫌わせてるのか知らんが、それは私が釣りをする事と何か関係があるのか?」
「……ありませんが」
「ならいいではないか。そうではないだろう。仕事の話をしにきたのではないのか?」
「そうですが……」
「なら早く話してくれ。あんただって暇じゃないんだろう?」
「……むむ。なんででしょうか。なんで私が言いくるめられてるんでしょうか」
いつの間にか形勢は逆転。クロウがフィアーを押し込んでいた。
「今回の目標は、街の西に屋敷を構える高利貸し『シュッテン』。これを、人目に付かぬよう始末してください」
面白くなさそうな顔をしていたフィアーだったが、仕事の話ともなるとそれが嘘のように元の冷たい雰囲気を漂わせる。
クロウもその変わり様には慣れていたが、張り詰めた空気には適度な緊張を感じてもいた。そしてそれが心地よかった。
「仕事に関して、条件は?」
「殺す方法そのものに指定はありませんが、始末した後、彼の屋敷を焼き払って欲しい、という条件があります。それと、屋敷を燃やす邪魔をする者は構わず斬り捨てて構わないそうです」
「ほう」
随分と過激なクライアントであった。
クロウもつい、口元を歪めてしまう。
「屋敷そのものの詳細な情報はこちらに。目を通しておいてください」
既に屋敷の間取り等は情報として手に入っているらしく、フィアーはスカートのポケットから紙を取り出し、クロウに投げる。
クロウは伸びたままひらひらと飛んできたそれを受け取り、内容に目を通した。
「……意外とでかいな」
「商人ギルド傘下の高利貸しですからね。誰に怯える事無く大きなお屋敷を構えています」
大陸各国の寡占を押し進める商人ギルドの傘下なら、なるほど、殺されるなりの理由には困らなさそうであった。
商売敵なり、元の客なり、この手の商人に死んで欲しいと願う者はそう少なくは無い。
「だが、これだけの屋敷を焼くとなるとかなりの手間だな……油が必要か」
木組みの古びた屋敷ならともかく、一部なりとも石材やレンガが組み合わさった屋敷ともなるとこれを一夜で焼くのはかなり難しい。
これを補うため、どうしても大量の油が必要だった。
「すぐに手に入りそうか?」
「そう思って油は既に手配してあるんですが、まとまった量を使うにはまだ心許ないかなあと」
油は食用・灯用共に専売業者によって売り買いされているので、これをクロウ自身が用意するのは難しくなっていた。
少量ならともかく、仕事で使うような量を自前で買ってしまうと、何かの際にこれを元に騎士団や衛兵隊といった警察組織に疑いの目を向けられる事となりかねない。
これに限った話ではないが、特別な仕事に使う為の『小道具』に関してはギルドを通して集めてもらうのが常道であった。
だが、流石に大量の油をすぐにとはいかないらしい。
「明日の夜まで待ってください。必要なのは油だけですか?」
「では、その油とは別に、油を染みこませた藁紙を百枚、縄を一束用意しておいてくれ。私がやってもいいが一人だと時間がかかるからな……」
「油集めと平行してやらせておきます」
目を閉じながら、フィアーは小さく息をついていた。
「他には?」
「特には無いな。確認だが、屋敷の使用人やなんかは巻き添えにしてしまっても構わないのだな?」
「ええ。一に目標の始末、二に屋敷の全焼。これらが叶うならそれ以外の誰が死のうと構いません」
大雑把ながら、だが、とても解り易い仕事であった。
余計な頭を使う必要が無い。言ってしまえば『楽そう』な仕事なのだ。
「了解した。ではまた明日だ」
方針は決まった。やる事も決まった。もう用事はないとばかりに、クロウはドアを開け、フィアーの退室を促す。
「……明日は居てくださいよ。夕方に来ますから」
「無論だ。それが仕事であるならば」
先ほどの事を思い出してか、フィアーは複雑そうに唇を尖らせていたが、クロウはそ知らぬ顔でやりすごしていた。
「それじゃっ、また来ますね、お兄さんっ♪」
去り際、ドアから出た途端振り向き、こう言いながら背伸びし、『ベルク』の首筋にキスした。
(いなかったら今度は殺しますからね?)
そうして耳元で物騒なことを囁きながら、そ知らぬ顔で『エリー』は帰っていった。
なんとも器用な二面性。クロウは呆れながらも「あれは真似できんな」と感心してしまっていた。
翌朝、する事の無いベルクは、なんとなしにまた川が気になり、こうして釣りをしていた。
今日こそはという意気込みと、とりあえず昼前まで、という制限を設けてのものであったが。
「釣れているかね?」
「……ご老輩、私は今着たばかりだ」
川面に糸先をつけた辺りで、昨日の老爺がベルクの後ろに立っていた。
「隣、失礼するよ」
「どうぞ」
ベルクの顔を見るや嬉しそうに笑ったが、どうもその表情は浮かない。
「どうかしたのかご老輩。気分が優れないようだが」
まださほど親しくもなってないはずだが、それでもその表情から見て取れる。
どうにも疲れているような、焦燥しているような顔をしていたのだ。
「ん……いや、大したことではないよ。釣りの場に持ち込むような話ではない。まして、釣り仲間の前ではのう」
老爺は強がっている風ではあったが、黙して語らず、そのまま流れるような動作で釣り餌をつけ、投げ込んでいった。
無理に聞くのも良くないかと、ベルクもそれ以上は聞かず、水面を見つめる。
その後、二、三匹小ぶりなヤマモが釣れただけで昼前となってしまったので、老爺とは一言二言かわし、そのまま帰ってしまった。
昨日のように雑談を楽しむ雰囲気でもなかったというか、どうにも昨日とは違い、あの老爺が『釣りに逃げていた』ように見えたのだ。
だから、ベルクもそそくさと家へと帰っていた。
そうして、夜となると『仕事』の開始であった。
街の西側のはずれ、川辺から上がる黒煙を背に、クロウは目標の屋敷へと近づく。
次第に街外れは騒ぎになりはじめるが、これがクロウには都合がよかった。
屋敷の外周部は貴族の屋敷のように私兵がうろついている事も無く、シン、としていた。
庭に放し飼いされている番犬だけが気になったが、どうにもやる気が無いのか、クロウが塀の上を歩いていても吼え騒ぐ様子すらなかった。
ただ、妙なタイミングで吼えられ家人を呼ばれても困るので、犬殺しのネギ肉団子を近くに投げ転がしておく。
すると肉の臭いに反応し、しばしその臭いを嗅いでいたが、そのままぺろりと口に入れ飲み込んでしまった。
ほどなく犬は白目を剥きビクビクと痙攣しながら倒れ、動かなくなる。
そのまま犬の傍を離れ内部に降り立つ。
家の者がやる気の無い眠そうな様子で見回りしていたが、これも物陰のクロウに気づく様子はなく、部屋へと戻りそのまま出てこなくなる。
全体的にやる気が無い。だらけきった屋敷であった。
そうして、目標の高利貸しもまた、だらしがなさそうな男であった。
上身をはだけさせ、ベッドから片足を突き出して眠っているのだが、口からは涎が垂れ、幸せそうに眠っていた。
顔だちそのものはそこまで崩れてはいないのだが、部屋はどこか汚く、寝間着もあまり清潔とは言い難い、様々な意味で台無しな有様である。
「――よき次の明日を、な」
腰元の短剣を抜き、上向きにして一秒。
祈りを捧げ終わるや、目標の喉元にそろりと向きを変え――突き刺した。
(問題はここからだ……)
第一の目的を果たしたクロウは、一旦屋敷から出る。
目標を始末する際に全くと言っていいほど音が出なかったので、これに気づき様子を見に来る者はいないはずであった。
なので、来た道を引き返し、今度は道端に隠した縄、小樽に詰め込めるだけ詰め込んだ油、それから藁紙を運び込む。
油に加え縄も藁紙も油をたっぷりと吸っている為大層重かったが、なんとか音が出ないように細心の注意を払い、再び屋敷の内部に侵入する。
そうして屋敷の廊下から、少しずつ縄を置いていくのだ。
縄が届かない場所には藁紙を置き、これを道筋として引火するように仕向ける。
更に井戸の中には油を落としていく。
最後にありったけの油を燃えにくいレンガや岩造りにぶちまけ、手はずが整った。
全ての準備が整うまでにかなりの時間を使ってしまったが、幸い家の者がこれに気づく事は無かったため、容易に点火する事ができた。
火打石に反応して勢いよく燃え始める縄、そして縄から伝わり道筋どおりに燃え広がっていく藁紙。
これらによって木組みの部分は延焼し、そう掛からず巨大な火事へと成長していく。
「か、火事だっ!! 水、水をっ!!」
流石にここまでの状況となると家の者は気づくらしく、あわてて屋敷から出ようとする者、火の手をなんとか止めようと水を探す者、ただ混乱のまま走り回る者と、三様に分かれていた。
「誰か水をくれっ!! このままじゃ屋敷がっ」
「逃げろっ、もう無理だっ」
「ひぃぃぃぃっ!! あついあついあついあついっ!!」
絶叫とも言える様々な声はしばし続いていた。
必死に井戸の中の水を投げかける者もいたが、油交じりの水では逆効果であり、より強くなった炎に巻かれ、哀れ逃げ遅れたまま焼き殺されてしまう。
炎は屋敷のいたるところにまで届き、やがてその場にいた全てのモノを焼き焦がしていった。
本来ならこのような時に機能するはずの衛兵隊や民間の火消しは、そのほとんどが街外れ、川辺の小火騒ぎに人手を割かれていた。
これにより、突如街中で発生した屋敷の火事には対処できず、周囲の家屋を巻き込み大炎上。
後に残ったのは消し炭となった木屑と黒く焼けたレンガ、そして人のような形をした何かであった。
「おっかねぇ話だよな。今時分は夜になると風も強くなるし、飛び火で巻き添え食らった商家も何件かあったらしいぜ」
昼も軽く過ぎた時刻。
ベルクはロッキーと二人、昼食をとりながらに先日の火事の話などを喋くっていた。
「商人の屋敷から出た火だというのは聞いたが、一体何があってそんなことに?」
自分でもわざとらしいかもしれぬと思いながらも、ベルクはそしらぬ顔でロッキーに問う。
そう、ベルクは、この一件を『今朝初めて聞いた』のだ。
だが、ロッキーは手を横に振りながら口の中のパンを飲み込み、一言。
「わかんねぇ。騎士団が確認してるらしいけど、ただの蜀台が原因なんじゃって噂だぜ。たまにあるし」
「なるほどな。やはり、寝る前には火の元は全て消しておくに限るな」
「違いねぇ。その点この家はいいよな。飯まで食っちまえば、後は暗くなったらそのまま真っ暗だ。火事になる心配なんてねぇ」
軽い口ぶりでロッキーが茶化す。いつの間にか、ベルクの食べようとしていたヤマモのソテーがロッキーの皿に移っていた。
「ロッキー。そのヤマモは私のものだぞ」
「そう言うなよベルクさん。こないだなんてでかいカニ釣ったんだろ? エリーちゃんが言ってたぜ」
「……なんだと」
「でかいカニをどうにかして食ったんだろ? ベルクさん、俺の好物がカニだって解ってるよな?」
「知らん」
完全に初耳であった。
「因みにヤマモも好物なんだ。だからこれでチャラな」
などと訳の解らない理屈をかざしながら、止めるのも聞かず乱暴にフォークを突き刺しまるっと口の中に放り込んでしまう。
折角のヤマモのソテーであったが、釣り上げたベルクは一口も食べる事無くロッキーの腹の中に消えていった。
「んぐ……んむ……うめー」
幸せそうなロッキー。少しばかり悔しくはなったが、まあ、美味しいと思ってくれるならと、ベルクは諦める事にした。
ヤマモくらいなら、運がよければまた釣れるだろうから、と。
「釣れておるかね?」
そうして川にて釣りをしていたベルクは、背後からした声に振り向く。
「ご老輩。隣は空いている。どうぞ」
慣れたもので、ベルクは自分の隣を指し、促す。
「ふぉふぉ……すまんのぅ。では失礼して」
昨日とは異なり、老爺は機嫌よさげにベルクの隣へと腰掛けた。
「憑き物が落ちたような顔をしてらっしゃる。いい事があったのか?」
昨日よりも手早く糸に仕掛けを作っていくその手業を見ながら、ベルクは糸先から眼を逸らし話しかけた。
「解るかのう? いや、兄さんは良く見ておるなあ」
照れくさそうに頬を掻きながら、老爺は慣れた様子で仕掛けの済んだ糸先を軽く振り――川の中ごろへと落とす。
「実は、お恥ずかしい話なんじゃが、息子が商売に失敗して、借金する羽目になってしまってのう」
「借金……それはまた」
商売とは始めるにも終わらせるにも金の掛かるモノである。
駆け出しや小規模な行商くらいだと、ただ仕入れて売り歩くだけでも容易ではなく、仕入れたものが売れなければ先の生活すらおぼつかない事も多々あった。
「儂からも少ない貯め金を送ったりしてなんとか返済させようとしたんじゃが、どうも借りた相手が善くなかったようでのう……利子ばかりが膨らんでしもうた」
「高利貸しに借りたのか?」
「そのようじゃ。払えないと知るや、まだ年端も行かぬ孫娘を質に出せと言われたらしくてのう」
あまり善くない話ではあるが、借金のかたとしてはそう珍しくも無い話であった。
例えば質の対象となる娘が美しかったなら、その娘ほしさに金を借りさせ、法外な利子で払えなくさせて娘を手に入れる、といった事例もあるほどで、このような手で連れて行かれた娘は、多くは商人の下で弄ばれ悲惨な人生を送るか、人買いに売られ娼婦として生きる道を余儀なくされる。
「これに関しては知らずに借りた方も悪いから、お上に言うても手は借りられぬ。じゃが、どうも幸運な事に、その高利貸しめ、バチが当たったらしいのじゃ」
「ほう」
老爺は楽しげであった。
憂さが晴れてすっきりとしたというか、やはり、悪者がひどい目にあう、というのは理にかなって笑えるのだろう。
「おかげで借金は帳消し。孫娘も息子夫婦も、これからは何に怯えるでもなく暮らせるじゃろうて……」
「ご老輩も、気兼ねなく釣りを楽しめるという事か」
「そういう事じゃ。さあ、沢山釣り上げよう――おっと」
言ってる矢先から老爺の糸先が揺れる。一回、二回、と小さく引くように水の中に仕掛けが飲み込まれ……それが大きく揺れた瞬間、老爺はわずかな動きで竿をシュパ、と引き上げる。
「……おおっ」
針先には中々のサイズのパゾ。今が旬のご馳走であった。
ぐつぐつと煮込むとプルプルのゼラチン状になり絶品なのだ。
「負けてはいられんな!」
ベルクも意気込み、早速揺れた糸を力技で引き上げ――老爺に負けぬ大物を釣り上げた。
「良く履物を釣り上げるのう」
「……」
今度は女物のブーツであった。
ベルクは、自分の釣りの才能の無さを呪った。
せめてカニでも出ればとためしに逆さまにしてみたのだが、大量のおぞましい姿の川虫がびちゃびちゃと零れ落ち、さしものベルクも鳥肌を立て飛び退いてしまった。
「おお、ガガラゴじゃないか。一度にこんな沢山とは……お前さん、引きが良いのぅ」
「これがガガラゴなのか? これが!?」
とても食えるものには見えず、ベルクは思わず二度見してしまう。
「何をどうやったらこんなものが食えるんだ……?」
がさがさと無数の足を動かす様はグロテスク。
色々なものを食べた事があるベルクであったが、これには食指は動かなかった。
「カニやエビだって似たようなもんだと思うがのう……いらんのなら儂にくれ。酒には最高に合うんじゃ」
「まあ、欲しいというなら構わんが……」
「代わりにこのパゾを兄さんにやろう。なに、今の時期はこれくらいならいくらでも釣れるしのう」
今夜の夕食が決まった瞬間であった。パゾの煮込みである。
その後も景気良く釣り続ける老爺の隣、ベルクはほとんど釣り果もなく、その年季の差を思い知らされることとなった。
応援ありがとうございます!
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