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2章 賢者と魔王

#7-1.追い詰められた旧人類達

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 ある秋の日の事である。
戦争の変革によりこれまでの常識が通じなくなった世界には、新たな時代に適応しようとする者と、適応しきれず、元の世界に戻そうとする者が生まれていた。
自身らの生み出した『神』にしがみつき、古のよき時代を振り返る事しか出来ない宗教組織『教会』は、新たに生まれた時代の流れに翻弄され、窮地に立たされていた。

 大陸南西部、リーシア特別領・エルフィルシア。
その中心にそびえ立つ大聖堂で、老齢の大司教は、歳若い女性の司教と会談していた。
「間者が、我が教会内部にも入り込んでいるというのか……?」
卓に付き、話を聞く老大司教――グレメアは、苦渋の面持ちで問う。
「はい。私の配下の者によれば、デフ大司教を始めとして、レイド枢機卿やセレッタ大司教もそれに関わっている可能性が高いのだとか」
それは、獅子身中の虫が、更なる厄病の種を抱え込んだという話だった。
「間者というのは……魔族のかね?」
「解りかねます。魔族であるかもしれませんが、あるいは――」
エレナ司教は、それが同胞であるはずの人間より放たれた可能性も示唆していた。
「エレナ司教、あの欲深い者共が、間者と通じていたなどと民衆に知れれば……」
「はい。多くの貴族が民衆からバッシングを受けたのと同様に、今度は我ら教会組織そのものがガタガタになるでしょうね」
エレナと呼ばれた女性司教は冷ややかに笑う。
とても笑い事ではないのだが、笑わないではやってられない位には腹立たしく、そして深刻な事態なのだ。
それが良く解るグレメア老は、それを嗜める事はせず、額に手を当てていた。
「全く、清く正しく生きておれば、欲に付け入れられる事などなかろうに。その間者はどうしたのだ?」
「まだ配下の者には手出しはさせておりません。その判断を付ける為、こうして大司教様にご報告に上がったのです」
間者を殺すべきか、殺さず逆手にとって利用すべきか。そう、言葉の内に秘めていた。
「……アルガスめがいなくなり、ますますもって我ら良識派は不利な状態になっておる。あまり使いたくは無いが、彼奴らを失脚させる為ならば、敵の間者も利用せねばならんか……」
「では、大司教様……」
迷いながらも、判断を下す老人。
エレナは立ち上がり、その判断を確認する。
「エレナよ、間者の存在、決して民衆には覚られるな。だが、関わっている者共の情報は逐一余に伝えよ。情報がまとまり次第、攻勢に出るぞ」
「はい。お任せ下さい」
一歩下がり、一礼する。エレナ司教は張り詰めた面持ちで、その場を立ち去っていった。


「ふぅ、最近、ますます状況が悪くなっていくのう」
エレナが離れてからいくばくか。老人は一人ごちる。
バルバロッサがいた頃と違い、その言葉に返してくれる者はいない。一人ぼっちだった。
彼の腹心であるバルバロッサは、北部を中心に広がり始めている竜信仰組織に身を潜めている。
それが元で北部やその組織の情報が漏れ伝わるのだが、どうにもその組織による軍事変革が世界中で起きているらしいことを耳にして以来、どうにも不安が尽きなかったのだ。

 その不安は的中し、宗教的価値観によって三分割された世界は、北から南に下るに従って軍事能力の格差が開き始めていった。
の宗教組織が広まった国家は、その多くが軍事・教育レベルが跳ね上がり、治安も安定した上で、経済という血の巡りも良くなっていったのだ。
無神論の広まった中央諸国は、元々軍事に限らず幅広い分野で世界最高峰な国が多かった為に依然高い水準を維持し、変革の起きた世界においても辛うじて対応が追いついている状態である。
それに引き換え、神への信仰が根付いている南部、及び西部の一部の国家はそうは行かず、特に南部に至っては頑なに古よりの伝統的戦術を守ろうとする化石化された国家もあるほどである。

 元々南部も南西部と南東部に分かれ、文化圏も大きく違っていたのだが、今まで対魔族戦争の前衛であり壁でもあった南東部諸国が、ヴァンパイアを中心とする魔王軍最強の軍団によって滅亡させられた為、それまでは戦う事の少なかった南西部の軍勢が戦争に赴く事になってしまったのだ。
それでもこのエルフィルシアのテンプルナイツを始め、強力な軍を擁する国家はいくつもあったのだが、その虎の子のはずの軍隊までもがどこからか湧いて出たキメラの対応に追われ、変革どころではない騒ぎとなっている。
現状は、言ってみれば女神信仰の広まった国家のみが割を喰っているようなもので、このままでは民衆に限らず、国家単位で信仰心を失ってしまう事になりかねないのだ。
挙句の果てに組織そのものが内部から蚕食されている状況である。
老人の気苦労は尽きる事が無い。
ごほ、と、小さくむせ、老人は執務室から見える信者達の列を眺めていた。
「人々の支えとなる為に、教会はあったはずなんだがのう」
ぽつり、そう呟いて、グレメア老は今日も、虚しさと戦っていた。


 老人が苦しんでいる事など露ほども知らず、大聖堂の一室では別の一団が会合を開いていた。
グレメア老曰く『腐信者』である俗物達である。
「グレメアめ、最近は随分と大人しくなったな。アルガスが失脚したのがよほど堪えたと見える」
一番豪華な椅子に座っている、豪華な装飾の司教服に身を包んだ肥満ぎみの中年男が笑う。手にはゴブレット。
ゆらゆらと揺れる赤い液体を楽しげに見ていた。
「ですがご注意下さいデフ大司教。最近何やら、エレナ司教が色々かぎまわっているようですから」
同じ卓につく眼鏡の、やや細顔の中年司教が忠告する。
「ふむ、エレナがか。全く、あの女め忌々しい。グレメアの孫娘でなければとっくに潰しておるのにな」
上機嫌で笑っていたデフ大司教は、しかしその忠告に、腹立たしげにゴブレットの中のワインを飲み干す。
「ですがエレナ司教は中々美しい。上手い所グレメアを失脚させられれば、良い玩具となるでしょうよ」
別の、顔立ちの整った歳若い大司教が小卑た笑いを浮かべる。
「相変わらずセレッタ殿はお若いですな。私などはもう枯れてしまっていて、金と食い物にしか興味がありません」
デフ大司教も同じような笑いを浮かべていた。
「何を仰いますデフ大司教。聞いていますよ。最近若い踊り子に入れ込んでるそうではないですか?」
「おや、もう耳に入りましたか。いや、エレイソンという娘なんだがね、これが中々――」
やはりというか、俗物である彼らは、自身がしている事にそれほど悪意を感じず、どちらかと言えば欲望に忠実に生きていた。
「実を言いますとデフ大司教、私も最近、熱を上げている娘がいましてね。信者の娘なのですが、普段は食堂の看板娘をやっておりましてな」
「ほう、食堂の看板娘ですか。歳若いのでしょう? 中々良いのを見つけたではないですか」
「ふふふ、そうなのです。お見せできないのが申し訳ないくらいに良い娘なのですよ。いろんな意味でね」
にやにやと笑う男達は、自分の欲望を躊躇いもなく同胞に晒す。
ここは人の心の闇の世界。その闇をどれだけさらけ出せるかで認められるか否かが変わる。
穢れきった欲望まみれの人間ほどすばらしく、逆に聖人君子などはネズミの餌にもならない。

 普段聖人めいた言動で人々を導く彼らは、しかし誰よりも深い心の闇を抱いており、何より、誰よりも強い欲望で成り上がった者達である。
その権力を彼らなりに有効に活用し、自身の尽きる事の無い欲望を満たし続けるのだ。
その為の努力は決して絶やさず、その為の苦労は何であろうとこなしてみせる。そんな筋の通った俗物達である。
「デフ大司教様。実は最近、神殿を建てたいと申している者がおりましてな」
笑いあう二人に乗ってか、眼鏡の司教が別の話を持ち出す。
「ほう。寄付はどれ位集まったのだ?」
「金貨八万枚程です。これを九割デフ大司教様に、一割を紹介料として私にくれる、というのですが」
「八万か。悪くないな。当然神殿の建造費用は信者が出すのだろう?」
デフ大司教は、わざとらしく考えるように顎に手を当てるが、口元はにやついたままである。
「はい。建造の暁には多くの信者が押し寄せ寄進していくでしょうから、集まった金の何割かはこちらに回すのも条件に加えております」
司教の言葉に、難色を示していたフリをした大司教もぱん、と手を打つ。
「すばらしいな。よし、早速許可を出そう」
「では私は反対勢力を抑えようか」
セレッタ大司教も、その整った口元を歪ませ、混ざる。
「おお、助かりますセレッタ大司教様。近いうちにでも、お好みの若い娘でも――」
「ふふ、頼んだよリータ司教。できれば亜麻色の髪の女がいいな。当然髪は長く美しくなければいかんよ」
細かく注文をつけ、セレッタ大司教は卓に置かれていたゴブレットを傾け、唇をつけた。
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