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2章 賢者と魔王

#7-2.ハニートラップ配置談義

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「……という訳で、新たに展開される予定のハニートラップ要員の配置はその報告書に記されているとおりになっております」
魔王城、魔王の私室にて。
最近調べ物やら何やらで忙しく、私室から出る事の無い魔王は、ラミアからの報告を自室で受ける事にしていた。
今日もまた、ラミアが訪れ、定期報告と急を要する報告を伝えてきたのだが、最後にスパイの配置の確認を取ろうとしていたのだった。

 それまではこの手の人事処理は各軍団の長が処理をしていたのだが、『アンバレン・タグレスト』後、指揮系統の見直しを図った際に、これら手続きを一部ラミアが請け負う事にしていた。
権力の集中というか、指揮系統の一元化によって人事的なリスクを少しでも減らす為に考えられた措置であったが、戦略的な見識だけでなく、純粋に人間世界に対する知識が必要なスパイの配置に関しては、ラミアも単独で考えるのは困難であった。
その為、魔族としてはかなり人間の文化・性質に詳しい魔王の意見を仰ぐ事にしたのだ。

「ふむ、まず、君の見立てたターゲット候補は、大体は的を射た、必要な情報を得るに効果的な相手だと思える」
椅子に腰掛けた魔王は、ラミアから渡された書類を眺め、顎をさすりながら始める。
「ありがとうございます。ですが、大体は、という事は……」
「エルフィルシアのターゲット候補だが、君の報告書に書かれている通りなら、かなり聖職者として微妙なようだね」
書類には、かなり事細かにターゲット候補の人間の詳細が書き込まれている。
それら詳細は事前に各国に配置していたスパイが獲得した情報を元に作られたものであるが、これを加味してみても、やはりその人材を陥落させる必要性を感じなかった。
「その聖職者達は、聖職者としてあるまじき、欲に溺れた行為に耽ってばかりいる、と聞きます。聖職者というのがどんなものかは私は詳しくは存じませんが、彼の宗教組織としては、それは善くないものであるのだとか」
「うむ。確かにそういった人間は人からの誘いに乗りやすいから、スパイを入れること自体は容易いのだろうが、同時に人からの信用がないのも解りきっている」
陥ちやすいターゲットなど何の意味も無い、という訳である。
「ですが混乱させる事はできると思うのです。仮にも聖職者。それもかなり高位のものばかりです」
ラミアとしてもそれは解っているのか、それでも効果的だと判断して狙いをつけていたらしい。
「こういった連中がのさばっているような中では、それほど混乱は望めないと思うぞ。私なら、人から信用のある、誰が見ても真面目で、本来そういった性質の悪い連中を押さえ込む側にこそ、スパイを回すがね」
「それは、一体どのような考えによってそのように?」
魔王の考えに興味があるのか、ラミアはじっと魔王を見つめていた。
「組織として教会を弱体化させたいなら、堕落させるよりは内部で争いを激化させた方が楽だからな」
教会とは、今魔王のカップの中で揺れている紅茶のようなもので、その中に追加で紅茶を足してもさほど変化は訪れない。
だが、その中に一滴、ミルクを落とすだけで、驚くほどの変化がカップの中に発生するのだ。
「何より、教会は弱体化させないほうがいいかもしれん。北の竜信仰の組織がやたら拡大しはじめている。これは強いぞ」
「対抗馬を作らないとまずい、という事ですか? ですが、それなら中央諸国が――」
「いいや、中央諸国は対抗馬足り得ん。無神論者というのは、つまり、敵も味方もしない、という事だからな」
侵略をしようとしなければ、それは敵になりえないのが無神論者達の考えである。
一線を引き、それ以上踏み込まなければ互いに無干渉でいよう、という暗黙の了解を、魔王は把握していた。
それも人間の朋友から聞いて知った事なのだが、それはラミアには言わない。
「だが教会は違う。宗教的にも歴史的にも、竜信仰を否定しなければ存在ができないのが今の神信仰だ。敵対は避けられない」

 それに、教会側は致命的なミスを犯している。
自分達の立ち位置を確保せんが為に起こしたタルト皇女誘拐事件。
これによって、明確に他宗教に対する排他的な思想を表面化させてしまったのだ。
実際問題教会側から自国の宗教観に関わる警告を受け、怒りを爆発させる国家が出始めたりと、様々な方面で余計な事をしては立場を危うくしている始末である。

「だが神信仰は今の時代において勢いを衰えさせつつあるようだね」
「はい。陛下の仰るように竜信仰の対抗馬にするというなら、もう少し教会側の情勢を落ち着かせませんと……」
同一宗派内での争いなどさせている場合ではない、というのはラミアにも伝わったようだった。
「では、陛下の仰った通り、教会内部を安定させるつもりで配置した場合、どのようになるとお思いですか? 参考までにお聞かせ願えれば」
「まず一番に考えないといけないのは、急進的な思想を持った連中がどれだけいるかの把握だ。それがまっとうな連中であれ欲にかまけた連中であれ、急進的っていうのはそれだけで厄介だからな」

 組織の安定を図るなら、保守派層が一定以上居なければいけない。
良くも悪くも組織の刷新を図ろうとする急進的な者達は、一見革新的で全体のことを考えているように見受けられもするが、その実視野はとても狭く、やりたいことをやるだけやったら後は何も考えていないという事も多々ある。
正義の名目で動いている人間などは特に厄介で、こういった芽は早々に摘まなければ、組織的に悲惨な目に合う事に繋がりかねない。
全体の為であれ自分の地位の為であれ、保守派層はそれを守る為ならば全力を出す。
余計な変化も望まない為無駄も少なく、反発も少ない。
内部を知ってしまえば絶望するほどにドロドロであろうが、それを知らない多くの者にとって彼らは偉大な聖者である。
利用するなら、こちらの方が都合が良かった。

「まず最初は、保守派ばかりになるように仕向ける。つまり、ハニートラップを仕掛けるのは急進的な連中に対してだ」
「急進派を潰し、その後に保守派によって安定させるのですね」
ラミアの返答に、満足げに魔王は笑った。
「そういう事だ。だがもう一つ気をつけないといけないことがある。これを忘れると痛い目に合う」
「はい、何でしょうか?」
「スパイを活用する組織が、何も我ら魔王軍だけではない、という事だ」
魔王軍では、古の昔より情報に重点をおいて考えられた結果、積み上げられた多大な経験が今日の諜報能力の高さに強い影響を与えているのだが、だからとあぐらをかいてもいられない。
「人間同士で諜報を行っている可能性があると?」
「ああ、十分に有り得る。何せ人間だからな。化ける必要も無い。魔族よりも容易く入り込めるはずだ」
人間が魔族にスパイを仕掛けるのは不可能に等しいが、人間同士ならばスパイも容易なはずであり、今まで魔族相手で辛酸を舐め続けていた人間側としても、この有効な手段を用いないとは思えなかった。
「既に人間のスパイが先回りしている可能性もある。そうなれば、後はスパイの技量次第で任務の失敗も考えられるからね」
スパイを使えるのは魔族だけではない、という事は念頭に置かなければならない事である。
これは、今までの歴史ではあまり考えられなかった事であるが、人間同士が対立し始めている今のこの世界において、スタンダードになりうる事柄でもあった。
「肝に銘じておきます。では、今一度配置の考慮をしますので、またその際にはご確認お願いします」
一歩下がり、ラミアが一礼する。
「うむ。私もしばらくは部屋から出るつもりがない。ゆっくりと考えたまえ」
「かしこまりました。では」
ずず、と紅茶を啜りながら喋る魔王。ラミアは静かに部屋を出ていった。


『人間側もスパイを使うようになるだなんて、まるでお話の世界みたいですわね』
「アリスちゃんもそう思うかね? 私もちょっとワクワクしてきちゃったよ」
一人きりになると、アリスがおもむろにちょこちょこと歩いてきて、魔王の机の上に腰掛けた。
話の種は先日魔王が人形達に読んで聞かせたスパイ小説である。
大分昔に人間世界で手に入れたものなのだが、読むのを忘れ積んでしまっていたのを、つい先日、何気なく見つけ、読みふけってしまったのだ。
本当は調べ物で忙しいはずなのだが、そんな時ほど何故か掃除をしたくなってしまい、人形達と大掃除なんかをしていたのだ。
「物語の中ならスーパースパイが大活躍して、たった一人で国家の抱える問題を解決したりするんだが、果たして人間はどこまでやれるものやら」
人間の想像力は魔族のそれとは比べ物にならない。
時として人間にとってすら異常な出来事を生み出したりするのだが、かくして物語から現実に変移した人間のスパイは、どの程度まで動けるようになるのか。
魔王としても中々気になる所であった。
『やっぱり七つ道具は外せませんわ』
「追い詰められた時には高所からでも飛び立てるように空を飛ぶマジックアイテムも用意してないとな」
まるで自分達がスパイになったかのようなはしゃぎっぷりである。アリスもお気に入りらしかった。
「そして最後は――」
『爆発、決めポーズ、大勝利、ですわね』
スパイ小説における一流スパイの大切なポイントらしかった。
「さすがアリスちゃん、良く解ってる」
とても心強い相棒だった。
『うふふふ、旦那様。またスパイごっこしましょうね』
「ああ、あれは中々白熱したな。暇があったらやろう。今度はエルゼも巻き込んで」
巻き添え確定の愛弟子であった。

「それはそうとアリスちゃん。最近は忙しくてあまり手入れをしてあげられてなかったし、もう少ししたらひと段落着くから、そうしたら数日かけて君たちのメンテナンスをしたいと思うんだが」
『あら、そうなのですか? でしたら仕度をしませんと』
「うむ。そうだね。それと、その前に、出来る事ならネクロマンサーの所にも行こうと思うのだが」
『お父様の所ですか? 承知しました。ご一緒いたしますわ』
ネクロマンサーというのは、アリスたちの生みの親。自動人形の造り手である。
魔王同様に魔界において数少ない一人一種族の魔族で、マクロな意味での『世界』的に見ても珍しい、魂を扱う術に秀でた稀有な魔族である。
「では、急いで調べ物を終えないとな。元気なら良いのだが」
『最後にお会いしたのは、旦那様がお父様の窮地を救って以来ですから、もう大分昔ですわね』
「そうだね。まああいつは食わなくても死なないというか、元から死んでるような奴だからほっといても大丈夫だろうと思ってたが」
そんなネクロマンサーの特技は死者の魂を操る事である。
かつては単身人間世界に殴り込み、殺した人間を操って死者の軍団を率いて大混乱に陥らせたりと、中々にあくどい事をやっていた魔族なのだが、これがゾンビと違い、まだ魂の残った死体を操る為、操られた死体は動きもすばやくとても強かった。
『ですが、何故今更お父様に? 旦那様が会う用事は、既に全て終えてある、と以前聞きましたが……』
「別の用事が出来たからね。私としても、できればあんまりあいつとは会いたくはないんだが、必要が生まれた以上仕方ない」
あくまで嫌々である。アリス達を造った功績こそあれ、あまり性質の善くない相手なので、魔王としてもできれば避けていたい相手であった。
『用事について訊ねはしませんが……我がお父様ながら旦那様、どうかご注意くださいませ』
アリスは、上目遣いで心配そうに主人を見つめていた。
「ああ、気をつけるよ。あいつは何を考えているのか、本当に解らないからな……」
実力だけは間違いなく魔界でもトップクラスなのだが、その思考はどこか破綻していて、正直魔王ですら読めない。
創造物であるはずのアリスからも気味悪がられる程度には、創造主ネクロマンサーは不気味な存在であった。
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