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5章 『勇者に勝ってしまった魔王』のその後

#5-1.エルフィルシアに吹き荒れるセムス

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 ある雲がかった晩春の日の事。
例年この時期に南西部沿岸から吹き荒れる強風『セムス』を受け、宗教都市エルフィルシアは沿岸から巻き上げられた金色の砂にまみれていた。
流石にこのような砂嵐の中では敬虔な巡礼者達も屋外に出る事はなく、しばし宿屋で一時を過ごす外ないのだが、そのような中でも聖地を守る巨兵・ゴーレムは悠然と門前に立ち、外敵を警戒していた。

 ゴウ、と唸り声をあげ、こころなしか悲鳴のようなものまで感じさせながら揺れる窓の外を見やりながら、踊り子風の娘は肩に纏った透き通るショールを脱ぎ捨てる。
ここは大聖堂の一室。デフ大司教の為の寝室である。
「すごい風ですわ。毎年の事ながら、セムスの到来は雄大すぎて……ワクワクしてしまいます」
目を細め、ゆったりと呟く。
「自然とはかくも恐ろしいものなのだ。我々人間は、それにより豊かになりはしたが……一度対処を誤れば滅びへの道を歩む事にもなりかねん」
ベッドに腰掛けた大司教デフは、娘の腰つきを眺めながら、それらしい事をのたまう。
「大司教様、何故この期に及んで、まだ中央部の制圧に拘るのですか……? 南部も各地で魔王軍のスパイが暴れていて、戦争所ではなくなってきているはずですけど」
艶やかな赤髪を左手でそっと分けながら、デフの隣に腰掛ける。
「私、確かに野心家な大司教様は大好きですけど、だからって、無謀な戦争を繰り返してたら……国が持たなくなるのではなくって?」
そしてデフの頬にチュ、とキスをし、豪奢な上着を脱がしていく。
「中央部には、戦争が必要なのだ」
しかし、娘の言葉には靡かず、デフは笑う。
「彼奴ら、無神論だなんだと騒いでおいて、結局北部に尻尾を振るようになったがな。中央諸国の信仰を取り戻す必要がある」
「宗教的な理由で、引くに引けないっていう事ですのね」
ぎゅっと抱きつき胸を背中に押し付ける。大司教は哂った。
「ふふ、本質はそんなものじゃない。人が人と戦う事に、そんな大層な理由は要らんのだ」
「……どういう事ですの?」
その言葉の意味が理解できない。そう思い、娘は大司教の顔をみやる。
「私はなエレイソン。世界中に戦争が広がれば良いと思っていたのだ。もっともっと戦争尽くしになればいい。これまで安穏と暮らしていた豚どもに、戦火と戦禍を味わわせてやりたいのだ」
それは、鬼畜外道の目であった。
「そうして地獄を見て、人は初めて信仰の尊さを理解できるようになる。人は己の無力を知り、ようやく誰かにすがる事が出来るのだ、心の底からな」
垣間見せたのは狂った思想であった。そら恐ろしくなり、エレイソンはデフから離れようとする。
しかし、その肩を掴まれ、ベッドに押し倒されてしまった。
「あっ――そんな……貴方は、自分の欲望の為に戦争をしていたのでは――」
「私利私欲で動いていると思ったか? 浅はかな娘だ。あんなものは、物事を動かす為の『手段』に過ぎないと言うのに」
驚愕し目を見開くエレイソン。デフはにやつきながらその瞳をざらりと覗き込んでいく。
「だから言っただろう? 『私を見誤るな』と。お前は、何も考えずただ私の玩具で居ればよかったのだ。欲をかいて私の真意など探ろうとするから……こうなる」
言いながらに、娘の細い首に手を伸ばす。太く長いその指が、エレイソンの首を絞め始める。
「ぐっ……がっ」
デフのやろうとする事に気付いたエレイソンが苦しみに足掻こうとするも、そんなものは気にもせず、デフは腕に力を込めていき……それがある点で震えると、そのままバキ、と短く小さな音が鳴り……エレイソンの抵抗は途絶えた。
「バカな娘は大好物だが、これ以上飼っていても、私の都合どおりには情報を流してくれないようだから、仕方ないな」
ふう、と一息。動かなくなった踊り子風の間者を見下ろし、デフは哂っていた。


 寝室から出たデフを待っていたのは、全身鎧を纏った衛兵達であった。
「大司教様。直ちに避難を。セムスに紛れ、魔族の軍勢がエルフィルシアに襲来しているようです」
「魔族が、なあ……」
先ほどから私室の外で聞こえていた悲鳴のようなものは、紛れもなく犠牲者達の最後の叫びだったのだろう。
大司教デフは苦笑する。
そんな中、先ほどまで間者と情事に及ぼうとしていたのだ。
間者を騙し情報を流す為の行為だったとはいえ、無防備なまま襲撃でも受けて死にでもしたら生涯の恥である。
そのような事にならずに済んでよかったと、死んだ間者に感謝しながら、大司教は歩き出す。
「大司教様、一体どちらへ!? 地下への通路はそちらでは――」
あわてて止めには居る衛兵を気にもせず、デフは歩き続けた。
「猊下はどうしている?」
仕方無しに周囲を固め守り歩く衛兵達に、デフは問うた。
「はっ……教皇猊下のおわす謁見の間は、逃げるには不自由な場所にあり……」
「つまり、まだ避難が済んでいないという事か。私が逃げている場合ではないではないか」
深い溜息をつく。国のトップを放置して自分を守ろうとするなど。
「猊下をお守りする者達は必死の役目を果たしております。我らは大司教様の護衛を任されております故」
このような状況下だというのににやにやと口元をゆがめる衛兵達。戦いたくないという真意が透けて見えていた。
「……猊下の元へ向かうぞ。今ならまだ無事やもしれん」
「し、しかし――」
「愚か者どもが。私一人生き延びても、国を動かす象徴なしには何も意味もないのだ!」
デフは、命惜しさに職務を放り投げたこの衛兵達に呆れてしまっていた。
恐らく自分ならば何よりも優先して逃げ出すに違いないと踏んでの事なのだろうが、そのバカさ加減には怒りすら覚えていた。
ともあれ、事このような状況下、余計な事を話している暇などなく、デフは教皇のおわす謁見の間へと急いだ。



「魔族めがぁっ!!」
「教皇猊下をお守りしろっ!!」
謁見の間は、凄惨な戦場と化していた。
教皇を守ろうとする多くの衛兵がゾンビやグールと戦い、これを足止めする中、聖者達が後方で支援魔法や奇跡を展開し、これらを殲滅していく。
教皇に襲い掛からんとするヴァンパイアを決死の思いで押さえつけるテンプルナイツ。
しかし、彼らの奮戦むなしく、所々で断末魔が響き渡り、その度に死者が敵となって襲い掛かる。
死者との戦いとは全くもって分の悪いものであり、教皇の護衛部隊はジリジリとその数を減らしていった。

「愚かな……わずかこればかりの兵士に何が出来る。エルフィルシアもここまで。全く、手間取らせてくれたものよ」

 謁見の間の入り口、グールらの後方にて悠然と戦況を眺める銀髪黒目の上級吸血族。
吸血王の側近の一人で、かつて魔王軍南部方面軍の総司令官を務めていた貴族『アルバ=トロッソ』であった。
対ゴーレム戦における敗退の連続の末、今では南部方面軍の総司令官は吸血王直々に務めることとなり、結果アルバは一部隊の隊長にまで成り下がることとなってしまっていた。
この度の襲撃は、その復讐でもあり、彼にとっては名誉挽回のチャンスであった。
普段面倒くさがりで気分屋な彼も、自分に辛酸を舐めさせた教会組織の殲滅の為に全力をかけていた。
流石に教皇を守る護衛部隊は頑強で手間取らされているが、これも長くは持つまい、と。

「邪魔だ、どけ」
背後から聞こえた声にアルバが気を向けると、側仕えの下級吸血族が斬り捨てられていた。
悲鳴すらあげる暇なく崩れ落ちる側仕えを一瞬だけ見て、斬り捨てた相手の方を見る。
司教服を着た壮年男と護衛兵の一団。増援か、と、アルバは哂った。
「よりによって私の前に来るとは、折角の増援が一瞬で全滅だぞ。哀れだな教皇よ」
この位の相手は運動代わりにもならぬとばかりに、アルバはとんとん、と靴の先端を整えるように蹴る。
「上級ヴァンパイアか、面倒な」
その殺気を読み取ってか、司教服の壮年は口元をゆがめる。やけに落ち着いていた。
「だ、大司教様っ」
「こ、このっ、魔族めぇっ!!」
周りの衛兵は彼ほど落ち着いてもおらず、鋼の槍をアルバに向け必死に威嚇する。
「ふん……人間風情が私に槍を向けるとは……度し難いな」
そのままゆったりと歩いていく。一歩、二歩……三歩目でブレる。
「う、うわぁっ!!」
何が起きたのか解らない衛兵達は叫び声を挙げながら突進し、槍を振り回す。
しかしそんなものが当たるはずもなく、次には首にあてがわれた手の感触。
「ひ、ひぃっ!?」
「臭いな……貴様らの血などいらぬわ!!」
そのまま首を締め上げられ、ぐちゃりという嫌な音の後、動かなくなる。
やがて、その手も霧散してしまい、またどこにいるのか解らなくなる。
「ど、どこだっ!?」
「うぅっ、うわぁぁぁぁぁっ!!!!」
戦意などとっくに喪失してしまっていた兵士達は、泡を食って次々に逃げ出してしまった。

 気が付けば、デフのみが彼の前に立っていた。
「腰抜けばかりだと思っていたが、やはり何の役にも立たんかったわ」
自嘲気味に息を吐くデフが、再び形を取り戻し目の前に立ったアルバを見やる。
「貴様は違うのか? 私の前では貴様とてただの肉袋にしか見えんのだがな?」
「どうだろうな。肉袋だというのは自覚があるが。あのような腰抜けと一緒にされるのは……少々遺憾ではある」
この期に及んでもこの大司教は何かをする様子がなかった。
奇跡の発動に時間が掛かるのか、あるいは全てを諦めたのか。
何にしても、所詮は人間である。どうという事はない。
アルバは哂った。やはり、自分は強いのだと。人間などただの虫けらではないかと。
「貴様もここまでだ。お祈りは済んだか?」
「懺悔なら毎日している。気にする事はないさ」
殊勝な事だ、と悪態をつき、アルバは襲い掛かった。
「ならばもう死ね!!」
早すぎる動きに身体がブレていく。
そしてそれは壮年大司教の胸元に詰め寄り――

『遅い――ヴィヴェル――ブラッド!!』

――デフの放った十字の斬撃により斬り捨てられていた……!

「なっ――」
驚愕。何が起きているのか。掴んでやろうと思った相手の顔がどこまでも遠く感じられた。手が、届かない。
霧散していたはずの身体が諸共破壊し尽され、ばらばらと崩れ落ちていく。一全全一。その全てが崩壊していく。
「バ……カ、な」
有りえない。物理的要因も魔法的要因も、それら全てを無視できる自分が、『ただの斬撃』で死ぬ事になるなど。
しかし、そんな認めたくない事実は、消え去っていく自分の手足を見て理解できてしまっていた。
自分は、死ぬのだと。
そう感じている間に、顔に向けて靴の裏が降りてくる。
「相手が悪かったな。塵に還れ」
グシャリ。つぶれる音と共に、彼はデフの言うまま塵と化し、滅びた。
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