上 下
374 / 474
9章 変容する反乱

#5-1.愛天使パトリオット

しおりを挟む

 人間世界南部・エルフィルシアの大聖堂、その一室にて。
小さな女神像のしつえられたその部屋は、薄暗く、蝋燭の炎が数本、静かに揺れるばかりであった。
部屋の中心には、女神像に向けて祈りを捧げる影が一つ。デフ大司教がいるのみであった。
「愛しき女神よ。どうぞこの世界に、人々の心に救済を。彼らはまだ幼い、何も知らぬのです」
両の手を組み、静かに祈りを捧げる。
この部屋は特別に用意された彼専用の祈りの間であった。
他の何人も立ち入りを許されておらず、大司教はただただ、深く祈っていた。
そうして、不意に蝋燭の炎が大きく揺れ――消えてしまう。
部屋は完全な闇に落ちたが、大司教は目を閉じたまま、心を捧げ続ける。

「――思わしくない方向に進んでいるようですね」

 部屋にこだまする女の声に、大司教はピクリ、と、身を震わせた。
姿勢はそのままに、ただ、わずかなその反応が、声の主に対しての彼の立ち位置を示す。
「デフ大司教。女神リーシアは、より多くの『愛』を求めていますわ。人々の愛を。絶え間ない、たくさんの愛を」
やがて、声が収束してゆき――まばゆい光を生み出す。
何もない空間に金色の束が現れ、部屋を光で満たしていく。
ほどなく、桃色がかった四枚の美しい羽を持つ天使が、そこに顕界けんかいした。

熾天使してんしパトリオット。じきに大きな戦いとなる。人々は死に、苦しみ、そうして女神を求めるはずだ。今までより、より強固に、確かな愛が、女神への信奉がそこに生まれるはずだ」
ゆっくりと目を開きながら、デフは宙に浮くその天使をジロリと見つめていた。
「デフ大司教。私は貴方に『女神への愛を広めろ』と命じたはずです。なのにエリーシャは台頭し、未だ大帝国は健在。貴方は思ったより女神の役に立てていないようですね?」
「何を言うか。私は女神の役に立ちたいと願っているだけだ。貴様の役に立ちたい等とは夢にも思っておらんよ」
天使の問いに、しかしデフは「勘違いしてくれるな」と、笑って流そうとする。
「我らは戦う。命を賭け、命以外のモノも賭け。全てを賭して女神の愛が為戦おう。血を流し、涙を枯らせ、欲を捨て、人々に『もっとも尊い信仰』を思い出させるのだ。安っぽい表面の愛など要らぬ。真なる宗教を、この世に広めねばならぬ」
「その割には、大帝国相手に遅れを取っているではありませんか。西部諸国は制圧され、遠からず、南部諸国の経済は破綻する。貴方達はもう、何も出来なくなる」
その自信に不満を感じてか、天使は皮肉たっぷりにデフを見下していた。
「逆だ。死力を尽くせるではないか。後がなくなる? それでいいのだ。我らは常に崖の前に立たねばならん。さもなくば、そこに慢心が生まれてしまう。我ら宗教家は、常にこうでなくてはならんのだ」
じゃなければ説得力がなかろう? と、デフはせせら笑っていた。
パトリオットの皮肉など意に介さない。
「……相変わらずネジの外れた――まあいいですわ。一つ、策があります」
呆れたようにため息をつきながら、パトリオットは床へと降り立った。
「それは、貴様の案か?」
「まさか。女神リーシア直々の『天啓』ですわ。リーシアは、自らを愛し信仰するものを決して見捨てないという事ですわ」
喜んで聞きなさい、と、尊大に振舞う天使であったが、デフは『女神の天啓』という言葉に目の色を変えていた。
「女神の御言葉か……聞かぬ理由はないな。言ってみよ」
「……偉そうに。まあ、いいです」
一々癪に障るらしく、いらだたしげに眉をひそめるパトリオットであったが、気を取り直して右手の指をデフの足元へと向けた。

「まず、貴方はこれから東にある『トリュフの森』に向かいなさい。そこにいる者達と盟を結ぶのです」
「――者達? 複数いるのか? 一体誰が?」
天使の指先から水滴が落ちたように波紋が広がり、床に映像が映し出されていく。
小さな地図と、森の中の明確なポイント。詳細な情報が瞬く間に書き出されていった。
「一人は、『聖竜の揺り籠』の象徴、金竜エレイソン」
「……異教の長ではないか」
「もう一人は、悪魔王ガードナー。ヤギ頭の大悪魔よ」
「人類の敵ではないかっ!? 貴様、そんなやつらと盟を結べというのか!?」
そんな馬鹿な事があるのかと、デフは激昂する。
「黙って聞きなさい。女神リーシアは、貴方一人ではもう、この世界を変える事が出来ないとお考えよ。それでも、女神の教えに沿って動くなら、まだ役に立つと考えてらっしゃる」
「……むぐ」
女神の名を出されては、熱狂者フリークスには辛いものがあった。黙らざるを得なかった。

「今挙げた二人は、どちらも私が女神の命に沿ってその意を理解させてある。貴方から見れば敵でも、私にとっては貴方の同類、同胞とも言える存在だわ」
「女神が……異教の象徴や悪魔に、私と同じ役目を遣わされたというのか……?」
「そうよ。貴方も、金竜も、悪魔王も、最終的に倒さねばならない目的は同じはずだもの。盟を結びなさい。悪魔の力を使えば人間世界では展開が難しい大規模転送陣の活用も容易い。それを用いて北部諸国と交易をすれば、南部諸国には再び活力が戻る。そうして北部とともに大帝国を撃滅し、魔族世界へと攻め上るの」
簡単でしょう? と、パトリオットは哂う。
「……敵の敵は、味方という事か」
「味方と考える必要はないわ。利用なさい。向こうも貴方達を利用しようとするでしょう。信頼関係を育む必要等ないわ。都合の良いときに切り捨て、貴方達が生き残ればいいじゃない」
「貴様が女神の遣いでなければ、この場で斬り捨てている所であったが、な」
女神に感謝しろ、と、デフは怒りの混じった瞳で天使を見つめる。
その口調、態度からは、天使の言葉に含まれる矛盾に対しての強い憤りがにじみ出ていた。
「私は、この世界でもっともっと女神への愛が広まるにはどうすればいいかを考えているだけだわ。その為には、宗教など関係なしに暴れまわる大帝国や、女神に近すぎる魔王は邪魔になると考えているだけ」
「……」
「戦争を続けたいのでしょう? 悲劇の中にこそ希望は生まれるものね。純粋なる愛を求めるなら、もっともっと、人は苦しまなきゃいけない。貴方の持論ではそうなのでしょう?」
「そうだ。人は悲惨な中でこそ、追い詰められてこそ目覚める事が出来るのだ。本能すら超えた、欲望すら乗り越えた、深なる愛に」
「なら、戦争を続けるために手段は選べないでしょう? 何を戸惑う必要があるの? 貴方の愛を女神にお見せすればいいでしょうに」
「……ふんっ」
心底腹立たしいとばかりに、デフは目を背ける。
肯定したくない。この女にそれを言われたのが、どうしても納得が行かないとばかりに。

 その後、天使は一言二言女神ではなく『自身の見地からみた助言』をデフに遣わしたが、デフは興味なさげに聞き流していた。
彼の崇拝対象は知識の女神リーシアであり、その配下たる天使の言葉などは聞くに値しないのだ。
意味を成さないと感じた天使はそう経たずにその場を去り、また、消えた炎が蝋燭に点いた為部屋は明るくなった。
後には、不機嫌そうに顔をしかめるデフが一人きり。
(ふん、似非天使め。どこまでが女神の御言葉なのか、それすらも人の身には解らんが――ただ言われるまま生きていると思うなよ!)
良いように利用されて堪るかと、デフは憤慨していた。


 結局、彼は天使の言葉のままにトリュフの森へ向かったりせず、弟子のロザリーと時を過ごす事を選んだ。
女神よりの指示であると語った天使の言葉が、偽りであると彼は判断したのだ。
皇女の誘拐に始まり、帝国にまつわる情報やゴーレム精製術等、人知の及ばぬところで彼の天使の知識が役立ちはしたが、いよいよもってたもとを分かとうと考えたのだ。
それがどんな結果を生むかなど解った上で。
彼は、己が思想を何より重視した。
しおりを挟む

処理中です...