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9章 変容する反乱

#5-2.彼らの信仰の在るべき理想

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「大司教様、お砂糖は?」
「七つだ。沢山甘くしてくれんと味が感じられん」
ロザリーの私室にて。のんきにお茶の時間を過ごす二人。
このときばかりは聖職者そのもののような、穏やかな時がその場に流れていた。
「相変わらずの味覚障害ですこと……そのお年で砂糖ばかり摂っていると、その内大病を患いますわよ?」
目が見えなくなってしまうかも、と、師の不摂生を心配する。
「なに、構わんさ。目が見えずとも、耳が聞こえれば……最悪、肌で何がしか感じられれば、空気の流れで大概の事は察知できる」
五感のひとつがつぶれる程度は大した問題ではないのだ、と、大司教は笑った。
「んん、いいな。この舌に感じるピリピリとした――」
「あら、お砂糖ではなくてジンジャーキューブを入れてしまったようですわ。失礼」
「……」
おほほ、と笑いながら、悪びれもせず別のカップにポットのコーヒーを注いでいく。
今度こそ砂糖のキューブを七つ入れ、師へと差し出す。
「う、うむ……良い香り、だな」
「本当に、そう」
自身はさほど構いもせず、ブラックのままコーヒーを愉しんでいるのだ。
デフも多少居心地悪そうにしながら、砂糖色に染まったコーヒーのような何かを啜っていた。

「それで、大司教様。本日は一体どのような御用向きで?」
ただ用事がある、というだけで部屋まで訪ねてきたのだ。
師とはいえ、このようなことは今まで一度も記憶になく、ロザリーは気になっていた。
用事があれば呼びつけるのが今までのあり方であり、違和感が強かったのだ。
「ロザリー。前線の状況はどうなっておる? 魔王軍の動きは?」
「完全に止まっておりますわ。我が方は大帝国の強力な牽制によってリダよりの北上が難しくなっております。ただ、魔王軍も沈黙し、南東部より先に動き出す様子はないようですが」
その位はいつも報告差し上げているはずですわ、と、澄ました様子で答える。
「君自身の、体調はどうかね?」
「万全ですわ。ご命令とあらばいつでも出陣できますね」
「そうか……」
どうにもはっきりしない様子に、ロザリーは軽く苛立ちを感じていた。
「大司教様、まさかそんな愚にもつかない事を聞くためにおいでになった訳でもないでしょう? はっきりと申してくださいまし」
ロザリーは、曖昧な事が嫌いであった。はっきりとしてくれないとイライラして仕方ないのだ。
「……こうして君とコーヒーを飲むのも、久しぶりだ」
しかし、デフは年寄りじみて曖昧な、思わせぶりな調子で語りだす。
外を見ながら、「ああ、今日は曇りであったか」などと呟きながら。


「思えば、君と初めて出会ったのもこんな天気の日であった。あれはまだ地方統括を仰せつかっていた司教時代の事であったか。巡視した先で、君を見かけたのだったか?」
「まあ、おおむね合ってますわね。天気は雨でしたが」
「違うよ。最初は曇りだったのが雨になったのだ。大雨にね」
あれはひどい雨だった、と、からから笑う。
ロザリーは面白くもなさそうに、カップに唇をつけ、黙りこくった。

「確か、たまたまあのあたりを移動中に大雨に遭い、逃げ込むように近くにあった孤児院に立ち寄ったのだ。あの雨がなければ、君と出会うこともなかったか。人の縁というのは奇妙なものだ」
愉快そうに思い出そうとするデフであったが、弟子が露骨に不機嫌になっていくのも、やはり解った上でのことであった。
その辺り、この師弟は良く似ていた。
「クコの孤児院は、本当に酷かった。まだ幼い孤児たちを、金を得るため、援助を受けるためにと、上役や土地の有力者に好きにさせていたのだからな。自身は何も働かず、楽に金を稼ぎ、豪奢に暮らしていたというのも聖職者としてあるまじきものであった」
「……ええ」
「あの孤児院で客を取らされていた娘達も、今では立派に社会に出て、それなりに幸せに暮らしている者が多いと聞く。辛い過去に負けず、今を生きようというのだ。女神への愛も、当然忘れていまいが」
「そうですわね」
デフの言葉に、ロザリーは平静を装いながらも早口で答える。
感情は、手先指先に出ていた。
持っていたカップをテーブルに置き、隠そうとする。震えていた。か弱く、繊細に。

「だが――君だけは、やはりまだ克服できていないと見える。女神を信じている訳でもなし、何故そうまでして信仰にすがろうとするのだ。ロザリーよ」

 デフの瞳は、慈愛に満ちていた。可愛い弟子を見る師のそれであった。
師の言葉に、ロザリーはハッとし、しかしこらえて瞳を震わせる。
「何故、私が克服できていないとお思いなのですか? もう、七年も昔の話ですわ」
「君の信仰は投げやりだからなあ。命がけで任務を果たそうとはするが、それは別に女神に殉じようとしている訳ではない。むしろ『神などいない』と、そう思っているのではないかと、時たま感じていた」
残念な事だがな、と、デフもカップを置く。
「……違いますわ大司教様。私は、『神などいらない』と思っているのです。あの時、神は私やあの子達を助けてはくれなかったですから。私達が汚らしい大人にいいように玩具にされるのをただ見てるだけ、知っているだけの神だなんて、いてくれないほうが良いと思っていました」
「私が来るのがもっと早ければなあ。いや、結果論になってしまうか」
「ええ。そうでしょうね。結果的に私たちは散々弄ばれて壊れかけてましたから。取り返しがつかないほど壊れて海に捨てられた子もいましたけど。でも、後から後から新しい子が入ってきましたからね」
孤児には困らない世界でしたわ、と、皮肉げに語る。
「今、あの時生き残っていた子達がどのように生きているのかは興味もありませんわ。幸せに暮らしているなら結構。だけれど、私はあの地獄を見て、この世の無情さを悟ってしまいました」
毎日が地獄でしたもの、と、再びカップを手に取る。
手の震えは止まっていた。
「昔は服なんて着られませんでしたもの。裸の上に毛布だけ羽織っていて。お客の相手をする前だけお風呂に入れてもらえて、脱がされるために綺麗なおべべを着せられたんですのよ。ご飯だって三日に一度しか食べられなかった。それも、孤児院の先生方の残飯ばかり。酷いと豚の残飯まで食べさせられましたわ」
私たち豚さん以下でしたのよ、と、苦笑する。
「そんな君たちの日々ですら、南部ではまだ人として扱われている部類の生活ではあったが、な……」
「ええ。性奴隷でも家畜でも、生きるために雨風しのげる場所と、最低限のご飯があるだけで全然マシでしたもの。飢えたまま餓死するよりは、外をうろついて獣や魔物の餌になるよりは、まだいくばくかは」
南部を蝕んでいた毒は、今も決して薄れている訳ではないが。
それでも、そんな時代でもやはり、ただ死ぬよりはどんな目にあってでも生きていたほうが良いと、そう感じている人間はいたのだ。
「……死ぬのが怖かったですわ。ただただ生きたいと思っていた。壊れてしまって、孤児院の先生方に淡々と布袋に詰められていく女の子を見て、『ああはなりたくない』と心の底から思っていました」
ああなってしまったらおしまいですもの、と、鮮やかな金髪を掻き分ける。

「――私の趣味に、失望したかね?」
「失望?」
「私は、女性が壊れていく様を見るのにたまらなく興奮してしまう。何故、いつからそうなったのかは解らないが、これはどうにも、変える事が出来ない性分のような物だと思っているのだ」
「ああ、あの気持ち悪い趣味ですわね。大司教様の、あんまり見たくない裏の部分」
腫れ物を障るような気持ちでぷつぷつと語ろうとしていた師を、ロザリーは容赦なくばっさりと斬り捨てていった。
「別に気にしませんわ。あの地獄から私たちを助けてくれたなら、それがどんな悪党でも、外道でも、私達にとっては神様みたいなものですから」
そう、彼女たちの神は、ここにこそいたのだ。
「大司教様が、孤児院の先生方に怒鳴りつけてくださったのも、怒りのまま先生方を皆殺しにしていったのも、胸がすくような気持ちでみていましたわ。いいえ、あの頃の私にはそんな感情すらろくに残ってなかったかしら? まあ、洗い流されていくようなモノを感じていましたわ」
気分爽快でした、と、深く息を吐き、肩の力を抜いていく。

「ですから、大司教様がどんな特殊な性癖を持っていようとさほど感情は湧きませんわぁ。だって、神様がどんな変態だろうと、信仰には関係ないでしょう? 幸い、私にはそういった感情を向けようとしないようですし?」

 向けてきたら全力で拒みますが、と、笑いながら。
ロザリーは師匠の懸念をどこかへと放り投げた。
「信仰なんて、そんなものだと思いますが。大司教様が女神様大好きでどうしようもなく壊れてるのも、私が大司教様推しなのも、そんなに大した違いはないと思いますわよ?」
何を悩んでるんですの? と、師の瞳を覗きこむ。が、驚いてしまっていた。
「ちょ、大司教様?」
「う……そ、そうだな……信仰とは、そのようにあるべきなのだ……ああ、そうだとも。これこそが宗教なのだ。私の求めた、ただ一つの正解だ……」
泣いていた。良い歳してグシグシと、みっともなく感極まって泣いていたのだ。
これにはロザリーも動揺してしまう。
「な、何泣いてるんですのっ!? ちょっと、待ってくださいまし、ああ……と、とりあえずハンカチーフですわっ」
混乱しながら、スカートのポケットから薄緑色のハンカチーフを渡す。
「うぐっ……すまない。いや、嬉しかったのだ。君は私の宗教を体現できている。ただ惜しむらくは、女神様の事を全く信じていないことだが」
「当たり前ですわ。知識の女神だか何だか知りませんが、こんな不幸塗れの世界を放置してる奴なんてロクな奴じゃありませんもの。全知全能なら、最初から人が幸せに生きられるようにしてみせなさい、と思いますわ」
「……君は誤解しがちだがな。女神とは、別に人々の為に在る存在ではないのだ。むしろ、人々が女神の為に在る存在なのだと、私は思っている」
「冗談じゃありませんわ。私は私の為に生きていますのよ。どこの馬の骨とも知れない女神なんかの為に生きてるわけじゃございませんわ」
勘違いなさらないで、と、ロザリーは不満げに頬を膨らませ、そっぽを向いてしまう。
「はは、ほんとうに困った弟子だな、君は」
「なんなら女神への不敬で処刑してくださっても結構ですわ。生憎と地獄は幾度も見ていますから、火あぶりにされても性根を入れ替える事はないでしょうが」
二人、ぷっと吹き出し笑い出す。この位は気にもならない付き合いだった。

「ロザリー。近く、大帝国と衝突するつもりだ。エルフィルシアの事は気にせずともよい、君には、隊を率いてリダルートから大帝国へと攻め上って貰う事になる」
「――そのお言葉を待っておりましたわ。えぇ、不肖ロザリー、大司教様の命を謹んでお受けいたします」

 そして、本来の役目を前に、二人は頬を引き締め、元の大司教と聖女へと戻っていた。
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