完璧なあなた

藍音

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いつもと同じ朝。

生まれたての日差しが僕の頭の上で揺らめきながら踊る。

くすくすくす‥‥‥
朝だよ。朝だよ。

羽のように僕の耳をくすぐる、笑い声。
それはまるで、捉えようとすれば逃げるいたずらな猫のよう。

昔は、そうだった。
君がいた頃は。

君もそうだった。
いつも僕の目の周りを指でくすぐり、軽くキスをする。

「もう朝よ。起きて、愛しい人」

笑いを含んだ優しい声を聞くたびに、僕は君の愛を知る。
そして、僕の中にある愛も大きく膨れ上がり、フワフワとした気泡となって弾け飛ぶ。

もう少しだけ、あと少しだけ、夢を見ていたい。
あとすこし、ほんの5分だけでもいいから。
寝返りを打ち、固く目をつぶる。

くすくす。彼女の楽しそうな笑い声。
そう、僕たちは朝のちょっとしたゲームを楽しんでいるんだ。

「もう、あなたったら」

彼女は僕を布団の上からぎゅっと抱きしめる。
まるで、愛しくてたまらないとでもいうように。

「さ、もう起きて。朝食が冷めちゃうわ」

軽く体を伸ばすと、彼女は胎児のように体を丸めている僕の髪に素早くキスを落とす。
まるで、天使の祝福のように。
彼女の重みが、僕の上から消える。
見ていないのに朝食を整えるためにキッチンに向かったと僕は知っている。

もう一度、念を押すように僕はぎゅっと強くまぶたを閉じた。
光の一滴でも入ってはダメだ。
また朝が来れば、今日という1日が始まってしまう。
そして僕はまた、打ちのめされる。

君のいない日々。
永遠に失われた、あの愛しい日々。
目を開ければいつものように僕は途方にくれてしまうだろう。
今日という長すぎる一日をどう過ごしたらいいのか。
この長い人生をどう過ごしていったらいいのか。
君はここにいないのに。二度と戻ることはないのに。
深い深い絶望の水底から水面に上がり、顔を出した瞬間に、肺が破れ、心が砕け散ると知っているのに。

あと少し。
あと少しだけ、君の夢を見ていたい。

僕は体を丸め、布団に潜り込む。
とうの昔に死んだはずの心は、空っぽすぎて痛みすら覚えるほど。
心臓が動く音すら、薄ら寒い偽物のようだ。
命あるものとは思えない。

ただただ機械仕掛けの僕。

毎日同じ時間に起きて、味のしない食事をとり、電車に揺られて仕事に向かう。
食べて排泄して寝るだけ。

ただ、それだけ。

いつから?いつからこうなった?

もう取り返しはつかないのか?

もう無理だ。
君が、君がいないから。

僕は頭を抱え、ぎゅっと体を丸めた。もっともっと小さくなってしまいには消えてしまえるように。
1人では辛すぎる。
涙も出ないほど、枯れきった心を抱えたまま、どうしたらいいんだ。
愛しい人。
愛しい人。

どうか、戻ってきて。

「ぐ‥‥‥っ」

心臓をえぐり取られたような声が聞こえる。
悲しみと苦しみで息もできない人の声。
爪の間から泥と塩と悲しみが入り込み、心まで侵食されていくことを知っている人の声。

「ぐっ‥‥‥あああああああ」

血を吐くような痛み。
身体中から血を垂れ流し、もがき苦しんでいる。
かわいそうに。あの声の持ち主はあと少しで息絶えるのだろう。
死は解放になるのだろうか。

地を這うようなうめき声。

突然、気がつく。一体なぜ、気がつかなかったんだろう。この、声の主は、僕だ。
今にも息絶えそうな叫び声を上げ続けているのは僕だ。

「あなた、起きて」

優しい声と手が僕を揺さぶった。
夢の中でだけ与えられる温もりに、もう一度夢の奥底に戻りたくなる。
そこならきっと邪魔されない。ほんの少しの時間であったとしても。

「ねえ、起きてよ」

耳をくすぐる、笑いを含んだ声。鈴のように僕の耳を撫でる。
君の笑顔がもう一度見られるならば、どんな代償でも払うよ。
たった一度でもいいんだ。
今日の夢は、まるで現実のように僕を温かく包み、揺さぶる。
でも、そんなはずはない。
僕は知っている。
君の目から命の輝きが失われていった瞬間を。
僕は知っている。
もう力が入らなくなり、だらりと四肢を投げ出した、あの瞬間を。
僕はもう一度固く目を閉じた。
あと3つだけ。3つだけ数えたら朝を迎える覚悟ができるだろう。
そしてまた、今日という一日が始まる。

「3‥‥‥」

もう起きないと。

「2‥‥‥」

現実と向き合う。

「1‥‥‥」

覚悟を決めろ。

「0!」

目を開けて、勢いよく布団を跳ね除けた。

「きゃあ」

小さな叫び声が聞こえた。とうとう、幻覚が現実のように思えてきたらしい。

「もう‥‥‥!おはよう」

そこには、はねのけた布団に少し髪を乱された君が、屈託のない笑顔で笑っていた。
僕の目玉は爆発しそうな勢いで、膨れ上がる。
まさか、そんなはずはない。
ぶるぶると体の中を電流が走り抜け、膝がガクガクと笑い出す。
手が震え、息が止まる。

「な、なんで‥‥‥」

声が裏返り、頭のてっぺんから出てきたような妙な音が聞こえた。

「どうしたのよ。おっかしいの」

そこに、彼女がいた。
いるはずのない彼女が。
僕の大事な愛する人。
でも、ここにいるはずのない人。

何度願っても、戻ってきてくれなかった君。
僕をおいてひとり去った君。

なぜ、今ここにいるの?
まるで今までずっとここにいたように、当たり前のような顔をして笑ってるの?
昨日の延長に今日があるような、そんな顔をして笑っているのはなぜ?

「どうしてここに」
「あなたのいるところが私のいるところだからよ」

日差しが彼女の笑顔を照らした。
朝日に輝く彼女の瞳。白い顔、桃色の頬。
その魅惑的なあかい唇も以前のままだ。

「でも‥‥‥でも、君は‥‥‥僕の腕の中で確かに‥‥‥冷たくなって‥‥‥死んでしまったじゃないか」



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