つきが世界を照らすまで

kiri

文字の大きさ
25 / 72
日本美術院奮闘するの事

肆―続

しおりを挟む
 美術院の前に宿舎が建てられている。そこは谷中やなか八軒家はっけんやなんて言われて、秀さんや観山さんも住んでいるんだ。祝言しゅうげんを挙げた僕らも皆に祝われてそこへ住むことになった。

 谷中鶯やなかうぐいす 初音の血に紅梅花こうばいか 堂々男子は死んでもよい

 ああ、また始まった。絵を描いていると聞こえてくる。何度も何度も繰り返される。岡倉先生の歌は心に響く。

 気骨きこつ侠骨きょうこつ 開落栄枯かいらくえいこは何のその 堂々男子は死んでもよい

 秀さんはこれを歌うと本当に死んでもいい気持ちになる、なんて言っているくらいだ。
 僕もこれが聞こえてくると意気が揚がる。

 新しい絵画を作り出すのは、いつだって心躍るものなのだから。
 画家としての僕らの前には困難もあるけれど希望もある。この歌のような気概で取り組んでいこうと思っている。


 岡倉先生は美術院の創設にあたって、日本絵画協会に共進会を開くことを提案してくださっていた。大きな発表の場が決まっているかどうかは皆の心配の種だから吉報を期待しているところだ。

「共進会として一緒にやることに決まったよ」

 にこにこと戻ってこられた先生のひと言に僕らは歓声を上げた。
 ご近所の人達は学校と言うけれど、日本美術院は美術に関する研究所だから、ひと月に弐拾伍にじゅうご円の給料が出る。それも含めた運営費は描いた絵を売ることでまかなおうという計画だったから、作品を出せる場所が決まったのは何よりのことだった。

 その嬉しい騒ぎの中、岡倉先生が僕を呼ばれた。

「菱田君、ちょっと来てくれないか。実は新しい試みについて頼みたいことがあるのだ」

 熱のこもった先生の声に惹きつけられる。
 先生がこんな風に話をされるということは、なにを見つけられたのだろう。いつだって先生のお話は考えさせられることが多くて面白い。どういうお考えがあるのだろう。なにか難しいことだろうか。 

「新しい試み、ですか?」

 声がうわずってしまった。どんなお話なのか楽しみで仕方がない。喜んでたずさわらせていただくつもりだ。

「そうだ」

 詳しいことは皆の前でと言われ、行ってみると秀さんも観山さんもそこにいた。なんだろう。まだ何についての話かはわからないけれど、先生の目を見ているだけで胸が高鳴る。
 先生の口から語られたのは、日本画でやるには革新的なものだった。

 例えば、自然界にこぼれる光や空気を表現するにはどうしたらいいのか。
 例えば、わたくしと自然の境界はどうやって描けばいいのか。
 日本画は線で描かれるが、自然そのものを線で描くことに不自然さは感じないのか。

 これは美校の時に言われた写実の考えの一歩先だ。
 西洋画の描き方を日本画に取り入れろ、っていうことだろう。卒業制作の時に一部に取り入れてみたけれど、あれを画面全部で対応するということか。

 そもそも表現の仕方が全然違うのだから、そのまま取り入れるわけにはいかないだろう。それなら西洋画を描けばいいだけだ。それを取り入れた上で仕上げるのは、なかなか難しいのではないか。どうしたって今の日本画とはずいぶん離れているのだから。

「君達は」

 岡倉先生は息をつめて深刻な顔をしている僕らを見回す。

「日本画を描くにあたって、自分の考えをどう伝えるかに知恵を絞っているだろう。それを絵画に表すという点においては今までと変わらないのだよ」

 言葉を切った先生は、ふっと呼吸を外すように柔らかに微笑まれる。その笑顔にほっとして少し肩の力が抜けた。
 そうして先生はしばらく目を閉じて顔を仰向けておられた。どこか遠くに思いをはせるような、祈りのような時間が過ぎる。

「描くための技術というものは、考えを伝えるための手段だ。例えばそれが西洋画の手法であっても、日本画という芸術の中に落とし込めれば『こころもち』は自ずから絵に表れてくる」

 再び僕らを見つめた遠い視線のその先には何が見えているのだろう。

「試行はいくらでも重ねていけばいいのだ。それは必ず君達の糧になる。自分がやりたいと思ったことを存分にやってみなさい」

 この急進的な課題を成し遂げたら、いつか先生が言われたように日本画が世界に通じる芸術となるのだろうか。

 明治という時代は政治や技術、機械、文化、新しいものがどんどん入ってくる。
 ともすれば、全てに押し流されそうにもなるけれど。僕らはこの中で日本画を進化させていかなくてはならない。

 そのために西洋画の流れに踏み止まって、その技術を取り込むのだ。
 新しい表現のためにこの課題を成し遂げなくては。この研究は試行錯誤の戦いになるだろう。

 面白い。
 心が震える。
 心が熱くたぎる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...