41 / 72
五浦にて絵画制作をするの事
肆 賢首菩薩
しおりを挟む
三人に交代で頼み込んで、ようやく納得できるだけの写生ができた。さてと、これを描くにはどうしたものか。
岩絵の具は塗り重ねると混濁する。胡粉を混ぜると色自体が厚くなる。絵絹を湿らせ空刷毛でぼかしていくと、空気に柔らかさや湿度を持たせることはできる。
いつもの描き方では駄目だ。
この場面は日本ではない。空気は乾いているだろうし、色はもっと明晰に見えるだろう。どうにか明るく濁らない色で描きたい。
色、色か。
……欧州で見たな。違う色を並べて明るく見せていた西洋画があった。あんな風に点描で色を置くのは日本画でもできるんじゃないか。
繰り返し描いた小下絵の上に点描で色を置いてみた。
これなら濁らずに色同士が馴染む。色調を変えると距離や立体感も出た。これは面白い効果がある。よし、これでいこう。
下絵を絵絹に写して、ほうっと息を吐く。
少し根を詰めて描いていたからか体が固まっていた。凝りをほぐそうと体を動かして大きく深呼吸をする。
続きを始めようと絵に目を向けた僕は首を傾げた。
……おかしいな。経机や曲録の脚の線が曲がっていないか? まっすぐ引けたはずなんだけれど。参ったな、これをそのままにするわけにはいかないぞ。
「木村君、これ曲がっていないか見てくれないか」
ちょうど隣で片付けをしていた木村君に声をかける。
「なんですか?」
「曲録とか経机の線だよ。曲がってないか」
「曲がってませんよ、真っ直ぐ描けてるじゃないですか」
そうなのか。もう一度見直してみると真っ直ぐな気もする。なぜだ? なにかおかしい。
「疲れるとそういうことありますよ。ちゃんと寝てます? 心配なら明日もう一度確認してみてくださいよ、絶対大丈夫ですから」
「……そうか? 本当に大丈夫かな」
「大丈夫です。ちゃんと真っ直ぐ引けてますから。休むのも仕事のうちでしょう。早く寝るんですよ」
「君は僕の母親かい」
睨む木村君と目が合う。その瞬間、僕らは吹き出してしまった。
確かにその通りだ。もう目が霞んでよく見えないから早く休もう。
翌日見てみると、なんのことはない。木村君の言った通りだった。やはり疲れていたのだろうな。今日からは色を置いていくのだから気をつけよう。
袈裟の色は青と橙、それから掛布の意匠は黄と紺、色を対比させることで鮮やかさを際立たせる。西洋顔料のほうが明るいだろうから少し使ってみたい。
顔や手は薄墨と色線で輪郭を取る。瞼や皺は線ではなく色の調子で表情をつける。写実に寄せた人物の、厳しい中にも柔らかい心があることを感じてもらいたい。
文展が近づいてくる。
八月には日本画の審査委員が内閣によって任命された。美校の校長である正木直彦さんや、岡倉先生や雅邦先生の名前もあった。というか、ほとんど馴染みのある名で占められていた。秀さんや観山さんも審査委員になる。
僕も審査委員に呼ばれたいとは思うけれど、名前を見るだけでわかる。これだけ新派に偏っていたら僕が入る余地はない。旧派からも苦情が出そうだ。
端的に言うと新派は僕ら美術院、旧派はそれ以外の伝統的絵画を描く人達のことなのだけれど、あちらの分野はないがしろにできないと思うぞ。
作風もよほど違うのだし、半々の人数を割り振ればいいんじゃないか。
それで新派の入賞が多ければ、これからの時代は新派の作風だということがわかるだろう。
「旧派は文展に出さない? どうしてですか」
僕が聞くと審査委員の件でと秀さんが言った。
これは初回から難しい展開になったなあ。
「正派同志会として自分達で展覧会を開くんだとさ」
秀さんが両手を広げて、ため息交じりに言った。
そうか、旧派の画家で会を結成したのか。
「そもそも流派や団体の枠を超えて、日本画、洋画、彫刻の三部構成ってことだったはずなんだがねえ。これじゃあ、片手落ちの感が拭えないよ」
観山さんの言う通りだ。それに新派に対する反発はあるにせよ、普段絵を見ない人にも見てもらえる絶好の機会なのだから、文展に出さないのは勿体ないぞ。
岩絵の具は塗り重ねると混濁する。胡粉を混ぜると色自体が厚くなる。絵絹を湿らせ空刷毛でぼかしていくと、空気に柔らかさや湿度を持たせることはできる。
いつもの描き方では駄目だ。
この場面は日本ではない。空気は乾いているだろうし、色はもっと明晰に見えるだろう。どうにか明るく濁らない色で描きたい。
色、色か。
……欧州で見たな。違う色を並べて明るく見せていた西洋画があった。あんな風に点描で色を置くのは日本画でもできるんじゃないか。
繰り返し描いた小下絵の上に点描で色を置いてみた。
これなら濁らずに色同士が馴染む。色調を変えると距離や立体感も出た。これは面白い効果がある。よし、これでいこう。
下絵を絵絹に写して、ほうっと息を吐く。
少し根を詰めて描いていたからか体が固まっていた。凝りをほぐそうと体を動かして大きく深呼吸をする。
続きを始めようと絵に目を向けた僕は首を傾げた。
……おかしいな。経机や曲録の脚の線が曲がっていないか? まっすぐ引けたはずなんだけれど。参ったな、これをそのままにするわけにはいかないぞ。
「木村君、これ曲がっていないか見てくれないか」
ちょうど隣で片付けをしていた木村君に声をかける。
「なんですか?」
「曲録とか経机の線だよ。曲がってないか」
「曲がってませんよ、真っ直ぐ描けてるじゃないですか」
そうなのか。もう一度見直してみると真っ直ぐな気もする。なぜだ? なにかおかしい。
「疲れるとそういうことありますよ。ちゃんと寝てます? 心配なら明日もう一度確認してみてくださいよ、絶対大丈夫ですから」
「……そうか? 本当に大丈夫かな」
「大丈夫です。ちゃんと真っ直ぐ引けてますから。休むのも仕事のうちでしょう。早く寝るんですよ」
「君は僕の母親かい」
睨む木村君と目が合う。その瞬間、僕らは吹き出してしまった。
確かにその通りだ。もう目が霞んでよく見えないから早く休もう。
翌日見てみると、なんのことはない。木村君の言った通りだった。やはり疲れていたのだろうな。今日からは色を置いていくのだから気をつけよう。
袈裟の色は青と橙、それから掛布の意匠は黄と紺、色を対比させることで鮮やかさを際立たせる。西洋顔料のほうが明るいだろうから少し使ってみたい。
顔や手は薄墨と色線で輪郭を取る。瞼や皺は線ではなく色の調子で表情をつける。写実に寄せた人物の、厳しい中にも柔らかい心があることを感じてもらいたい。
文展が近づいてくる。
八月には日本画の審査委員が内閣によって任命された。美校の校長である正木直彦さんや、岡倉先生や雅邦先生の名前もあった。というか、ほとんど馴染みのある名で占められていた。秀さんや観山さんも審査委員になる。
僕も審査委員に呼ばれたいとは思うけれど、名前を見るだけでわかる。これだけ新派に偏っていたら僕が入る余地はない。旧派からも苦情が出そうだ。
端的に言うと新派は僕ら美術院、旧派はそれ以外の伝統的絵画を描く人達のことなのだけれど、あちらの分野はないがしろにできないと思うぞ。
作風もよほど違うのだし、半々の人数を割り振ればいいんじゃないか。
それで新派の入賞が多ければ、これからの時代は新派の作風だということがわかるだろう。
「旧派は文展に出さない? どうしてですか」
僕が聞くと審査委員の件でと秀さんが言った。
これは初回から難しい展開になったなあ。
「正派同志会として自分達で展覧会を開くんだとさ」
秀さんが両手を広げて、ため息交じりに言った。
そうか、旧派の画家で会を結成したのか。
「そもそも流派や団体の枠を超えて、日本画、洋画、彫刻の三部構成ってことだったはずなんだがねえ。これじゃあ、片手落ちの感が拭えないよ」
観山さんの言う通りだ。それに新派に対する反発はあるにせよ、普段絵を見ない人にも見てもらえる絶好の機会なのだから、文展に出さないのは勿体ないぞ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる