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春のソナタ
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蕾が芽吹く。風が歌う。遠く雷が響く。花が綻ぶためのファンファーレ。
ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬
二月の空は低い。手を伸ばせば届きそうな雪雲が厚く垂れ込み、真下の街にその色を写している。そんな灰色の街に自身の影を溶け込ませ、凍えそうな温度に首元のマフラーを巻き直した。そっと息を吐き出せば、白く霞んだ色が空気を滲ませる。何時もなら耳を澄ませば聴こえてくる小さな野外コンサートの音色も、この季節ではひっそりとしたものだ。
オーストリアの片田舎であるこの街は、葡萄畑に囲まれた穏やかで美しい土地だ。バロック様式の建築物が数多く残る街並みは、路地へと続く石畳ですら一枚絵のようで筆舌に尽くしがたい。そんな歴史ある風景も生憎の空模様では出歩く人も珍しい。ともすれば世界に取り残されたようだ、なんて。あまりに詩的な考えに小さく笑みをこぼす。昔、そんな話をした。世界に独りぼっちで取り残される話。そこは世界の端で、静かで、寒くて。目を瞑るのに丁度良いのだと。ならばここは世界の端なのかもしれない。だったら、会えたら良いのに。そんなことを考えながら誰もいない道を目的地へとのんびり歩けば、目の端に白いものが散らついた。
「……降ってきたな。」
見る間に降り積もっていく雪は、灰色の街を真白に染めていく。その光景に『雪だね』とはしゃぐ声が耳の奥に響いた。そうだな、と口の中で呟いてマフラーに顔を埋める。寒いのが苦手なくせに、雪が降れば窓に張り付いていた横顔を思い出して小さく息を吐き出した。白い煙が映し出してくれないかと願いながら。そんな感傷に苦笑をこぼして、いまにも自身を覆い隠しそうな空に少しだけ足を早める。雪は嫌いじゃないけれど、こんな所で凍死はごめんだ。
大通りを離れ民家も疎になった頃、遠くの方にぽつりと小さな明かりが見えた。それに知らず息を吐き出す。ここに来るのは九年ぶりだろうか。手紙のやり取りはこまめにしていたけれど、思い出が色濃く残るあの家にはどうしても足が向かなかった。それも今日で終わる。うっすらと見えてきた蔦が絡まる古い煉瓦の外壁に、煩く鳴る心臓を抑えながら深呼吸をひとつ。肺が凍るような冷気に頭の芯まで冴えていくのを感じた。大丈夫。大丈夫だ。きっとちゃんと伝えられる。そう自分に言い聞かせて壊れかけの呼鈴に手を伸ばした。調子外れの高い音色の後に聞こえてくる、弾むような足音。そのまま少し待てば、飴色に磨かれた木の扉が音を立てて開いた。
「Grüß Gott(グリュースゴット)。……久し振りだな、ニコラウス。」
「……ソウセイ?もしかして、ソウセイか!?見ないうちに大きくなって……!早く入れ。外は寒いだろう!」
明るく出迎えてくれた金髪の男性は最後に会った時よりも白髪が増えていた。しかし優しく垂れ下がった碧眼は変わらない。相変わらず微妙にイントネーションの違う自身の名に笑いながら蒼生は手招かれるまま家の中へと足を踏み入れた。
「お前に会えるなんて何年振りだろう!最近は忙しいと聞いていたけれど、今日はどうしたんだい?」
「ちょっと招待状を渡しに来たんだ。ニコル。君の分と、ご婦人の分。」
「そりゃあいい!きっと彼女も喜ぶぞ!」
ニコラウスの弾んだ声が響く暖かな室内にほっと息を漏らす。ドライフラワーが飾られた玄関は甘い匂いと古い家の木の匂いが混じり合って一気に十年前へと時を戻すかのようだ。ふと隣を知った影が追い越していった。『今日のおやつはケーキだって』と楽しげな声が耳の奥を擽っていく。その声を追いかけるように奥を見つめていればニコラウスが不思議そうに蒼生を覗き込んだ。
「どうしたんだ、ソウセイ?疲れているのかい?」
「あ……。いや、なんでもないよ。」
緩く首を振ってもう一度廊下の奥に目を向ける。そこに探している影は勿論なかった。
「ソウセイ?大丈夫かい?」
「……ああ。大丈夫だ。」
ニコラウスの心配そうな顔に軽く笑ってそっと目を閉じる。十年前、丁度ここであの声を聞いた。寒さも本番になり始めた秋の終わり。あの時二人で帰って来たこの場所に今は一人だ。その事実に耐えられないと思っていたからずっとこの家に来るのを拒んでいた。だけど溢れ出した記憶は蒼生が怯えるまでもなく愛しい日々だった。一時も忘れたことはないけれど、より鮮明に映し出される幼い頃の自分達。何よりも大切だった、月明かりのような笑顔。
「本当に大丈夫かい?とにかく早く奥で休もう。コートと手袋はこっちだよ。……ああ、そうだ。マフラーはどうする?」
蒼生の調子が戻ってきたことを察したのか、マフラーを指差してニコラウスが揶揄うような笑みを浮かべた。その視線から顔を逸らしつつ自分の首元を見下ろす。十年間使い続けている灰色のマフラーは、大事に扱っているのにワンポイントの青いラインが少し色褪せてきていた。それでも蒼生がこのマフラーを手放すことは生涯ない。それが分かっていて聞いてくるのだから意地悪だ。
「自分で持っとく。悪いな。」
態と見せつけるようにゆっくりと外せば、ニコラウスがくつくつと喉の奥で笑った。相変わらずだな、という言葉に肩を竦めて見せる。それはそうだろう。何を隠そう十年もの年季が入った恋心だ。いや、もしかしたら二十年だったかも。
「……カルラ!カルラ……!お客様だ!飛び切り素敵な客人だよ!」
コート掛けの前にある姿見で服装を整えているとニコラウスの呼びかけに応えるようにふわりと甘い香りが漂った。それと共に穏やかな表情の老婦人がゆったりと廊下の奥から現れる。ニコラウス曰く『花のようだった』と讃えられる美貌は健在で、少女のように笑うさまは蒼生の目にも可愛らしく写った。
「まあ……!ソウセイ?貴方、ソウセイなのね?まあまあ、会いたかったわ……!」
「カルラさん。ご無沙汰しています。」
優しく抱きしめてくれる暖かい腕は変わらない。柔らかく香るケーキと香辛料の香りも。そしてその美しい瞳も。
「外は寒かったでしょう。お茶を淹れましょうね。丁度ケーキが焼けたの。」
「是非。」
手を引かれながらリビングへと招かれる。柔らかな暖炉の火が照らし出す室内は、時を止めたかのようにあの時のままだった。二人暮らしには少しだけ物の多いそこは、色とりどりのハンモックや揺り椅子が未だに多くのスペースを占拠している。ただ一人のために置かれたそれらにそっと目を細めた。懐かしい。懐かしくて、ほんの少しだけ寂しい。自然と探してしまう暖かな存在を見つけることが出来ないから。
「大きくなったのねぇ。さっき見た時、あんまり立派になっていたから私、それはもう驚いたのよ。」
「本当にね。懐かしいなぁ。ソウセイと初めて会った時はまだまだ子供だったのにね。」
カルラご自慢の甘いザッハトルテと紅茶を楽しみながら時間はゆっくりと流れていった。お互いの近況を報告し合い、昔話に花を咲かせ。取り止めもない話題を何度も挙げて、手持ち無沙汰にお茶をお代わりして。だけど永遠に続いて欲しいと願う時間にもいつか終わりが来る。
「そういえばこの前、あの子が夢に出てきてくれたのよ。一緒に庭にポピーを植えたわ。春が楽しみね。」
「それはいい!暖かくなったら庭でお茶をしよう。その時はソウセイも一緒に!」
「ああ。そうだな。」
会話が途切れ、束の間の沈黙が部屋を満たした。その静寂に自分の息遣いが響くようでそっと息を吸い込む。もう飲み物は底をついた。ケーキの一切れだって残っていない。話題すら思い付かなくなる程話し込んで。それでもまだ迷う心にこの静かな空間は優しかった。きっと聡い二人は気付いている。蒼生が今日ここに目的を持って来たことを。用もなくここに来れるほど、蒼生はまだ思い出を遠いものに出来てはいない事も。それでも話し始めるまで待ってくれている二人に、蒼生はようやく重たい口を開くことが出来た。
「……カルラさん。貴女と、ニコルに招待状を。自分が指揮を務めるコンサートです。場所は遠いですが日本で。飛行機のチケットも入っています。だから…だから、来ていただきたいんです。来月、あいつの……命日に。」
声は震えていただろうか。それすら認識できないほど、心が波打って二人の顔が見れなかった。俯き閉ざした瞼の裏で、鮮やかに浮かぶのは思い出ばかり。楽しそうな顔、怒った顔、滅多に見ることの出来なかった泣き顔。そして何よりも好きだった花が綻ぶような笑顔。忘れた時なんて1秒もない。蒼生の胸に今も色濃く残る、十年前静かに眠った最愛の人。
二人からの返答を待つ間、心臓は早鐘のように音を刻んでいた。自分の計画が間違っているとは思わない。何度も全員で考えて、努力してやっと手に出来たステージだから。だけどこの二人にとってそれが重荷にはならないだろうか。仕舞ったままの傷を抉るような真似になっていないだろうか。どんなに頑張っても哀しい思い出は覆らないのではないか。そんな疑問が頭を占拠して身体が凍りつくような心地がする。しかしそんな蒼生の思いに反して、そっと肩に乗せられた手はとても暖かった。
「そうなのね。やっと、2人の夢が叶うのね。……おめでとう、ソウセイ。是非参加させてもらうわ。」
「楽しみだね。もちろん僕も参加するよ!夢が叶う瞬間には是非とも立ち会わなくちゃ!」
口々に喜びを表してくれる二人に自分の視界が滲んでいくのを感じる。だけどまだ。まだここで泣くわけにはいかない。
「ありがとう……ございます。」
やっと絞り出せた言葉に顔を上げれば、柔らかな笑顔の2人と目があった。優しい人たちだ。強くて、暖かい。そういうところがやっぱりあいつに似ている。
「久しぶりにあの子の曲を生演奏で聴けるのね。それにソウセイが指揮者。なんて贅沢なのかしら……!」
「そうだね。ふふ、カルラ。沢山おめかししなくちゃね。」
「ご期待に添えるように頑張ります。」
楽しげな二人の様子に明るい笑い声が耳の奥を擽った。
窓から見える風景が暗闇に包まれた頃、蒼生はコートを羽織っていた。相変わらず降り続けている雪に全ての音が吸収されて静かな夜が更けていく。今夜はきっといい夢が見られるだろう。
「それじゃあまた、ひと月後に。」
「元気でね。必ず行くわ。」
「風邪を引くなよ、ソウセイ。」
手を振って見送ってくれる二人に、蒼生も手を振り返して家を後にした。少しの間のお別れ。きっとひと月後には、その笑顔を日本で見ることが出来るだろう。
空を見上げれば街灯に照らされた雪が淡く輝いて銀色を灯す。焦がれてやまないその色に蒼生は小さく呟いた。
「やっと……やっと夢が叶うよ、月……。」
春を待つ、蕾のように。待ち焦がれた時はすぐそこだ。
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
古いポストが不安と期待を乗せて軋んだ音を響かせた。昨晩より降り続いていた雪は広い庭を白く染め上げ、父親の大事な盆栽にも雪化粧を纏わせている。そんな美しい景色も逸る気持ちの前では意味を成さない。いま現在、己の心にただ1つ関心をもたらすのは、ポストの中に恭しくおさまる雪景色にも劣らない真白の封筒だけだ。それをそっと持ち上げて太陽へと翳すと、縁取りされた金色の模様が輝いて光の残滓が目に残る。眩いばかりの封筒に目を瞬かせながら家へと戻れば、自分よりも遥かに緊張した面持ちの母親と姉に迎えられた。そのまま2人と連れ立って奥の居間へと向かう。待ち構えていた父親の表情にも緊張の色が浮かんでいるのを横目で見ながらペーパーナイフへと手を伸ばした。丁寧に封を切り、折り畳まれた中の紙をゆっくりと広げる。誰かが喉を鳴らす音が大きく聞こえた。
「……結果通知。青山楓様、この度は貴殿の合格を……ご、合格……!!」
一瞬の静寂の後に歓声が上がる。姉に揉みくちゃにされながらもう一度確認するが、夢ではなくそこにはきちんと己の名と『合格』の二文字が刻まれていた。楓はこの春めでたく『私立東雲学園』高等部に入学出来るらしい。ずっと憧れていた音楽の舞台へ。今日が記念すべき1ページ目だ。
「ほら、これで全部よ。忘れ物はない?」
「大丈夫。ありがとう、お母さん。」
雪解けも終えた今日。楓は生まれ育った家から旅立つ。進学が決まった私立東雲学園は全寮制であり、家からも電車で3時間と遠い場所にあるからだ。そんな期待と不安が入り混じるバス停前、見送りに来てくれた家族の心配そうな顔に楓は笑ってみせた。
「ちゃんとゴールデンウィークには帰ってくるから。友達もきっと出来るよ。だから心配しないで。」
「分かってるわ。……風邪を引かないようにね。」
そう言ってマフラーを巻いてくれる母親にうっかり視界が滲んでくる。しかしこんなところで泣くものかと慌てて姉に目をやれば、しっかりとウィンクを返された。
「大丈夫。あんたならやれるわ。ま、最初『調律師』になりたいって言われた時にはびっくりしたけど……でも、こんな凄い学園に入学出来るんだもん。大丈夫よ。ね、父さん。」
「折角与えられたチャンスだ。しっかりと勉学に励みなさい。」
普段は揶揄ってくるばかりの姉の信頼と父親の激励に、今度こそ涙腺が崩壊してしまう。しかし時間は待ってくれず、振り向いた先には楓が乗るバスが来ていた。ほんの少し気圧される心を背中に回った温かい手のひらが押してくれる。
「頑張んなさいよ~!」
最後に姉の元気な声がドア越しに響いて、バスはゆっくりと発車した。窓の向こうでは家族全員が手を振ってくれる。その光景が見えなくなるまで楓も手を振り返した。もう泣いている暇はない。あとは夢に向かって前進するのみ。決意も新たに楓の順風満帆な学園生活が始まった、と思っていた。学園に着くまでは。
「ここ、どこ……?」
見渡す限りの森だ。森。鬱蒼とした森が目の前に広がっている。小さな萌芽と、まだ黄みの強い柔らかな葉。木漏れ日が優しく降り注いで穏やかな風が通り抜ける。芽吹く春、と言ったところだろうか。そんなどこからどう見ても森であるこの場所は、なんと学園の中にあるのだ。そして楓はいま、完全に迷っている。
「どうしてこんなことに……。」
思い返すは30分ほど前。家族と感動的な別れを終え、無事学園に辿り着いた時点だ。
楓が進学する『私立東雲学園』は、国内有数の音楽を専門とした音楽学校だ。学内は初等部、中等部、高等部に分かれ、それぞれが様々な学科を選択できるようになっている。楓のように調律師を目指すことも可能だ。また、全寮制であり生徒は例外なく寮生活を送る決まりとなっている。その為、学園内には食堂や生活雑貨を売る購買、生鮮品を扱う場所もあるらしく、しかも病院が併設されている為、生徒たちはここにいる限り何不自由なく暮らせるというお墨付きだ。国内最大規模と言葉にするのは容易いが、一見すれば圧巻の設備である。そんな学園内に入れるのは厳しい試験を通った選りすぐりのエリートばかりなわけで、楓もまた今日からその仲間入りというわけだ。
ということで、気合を入れつつ門をくぐった楓であったが、案内をしてくれる管理人に運悪く電話が掛かってきてしまった。しかも何やら緊急事態のようで慌てる様子に、楓は寮に行くだけだからと案内を辞退してきたのだ。そうして意気揚々と出てきたものの、気が付けば森の中へと足を踏み入れ幾星霜。完全に迷子になってしまったのである。
「……人がいない……。」
周りを見渡せど、歩けど人に出会わない。これでは寮への道を聞くことすら不可能だ。かといって闇雲に知らない場所を歩き回るのも限界がきている。このまま遭難なんて洒落にならない。情けなさすぎる。家族に知られれば姉は目を輝かせて楓を揶揄ってくるだろう。それだけはどうあっても避けたい。しかしこのままでは誰かに会うよりも楓が力尽きる方が先だ。どうしようと唸ったところで誰にも聞かれないのだから虚しいだけ。そろそろ涙も出てきそうだと重たい溜息を吐きつつ、休憩の為ひときわ大きな木の根元に腰掛けていると、ふと柔らかな音色が耳を擽った。
「この音……。」
もう一度耳を澄まして確信する。ピアノの音だ。誰かがピアノを弾いている。弾むような音色に自然と身体がその方向へ動き出した。あまりよく聞こえないけれど、途切れ途切れの音は楽しげに跳ねて美しく響いている。どんな人が弾いているんだろう。なんの曲だろう。こんな森の中にピアノがあるのだろうか。次々と湧いてくる疑問を胸に、足は疲れも忘れて立ち上がった。誰が弾いているのか知りたい。それだけが楓の足を動かす。そうやってしばらく歩いていると、なんとも奇妙なドーム型の建築物がある開けた場所に着いた。どうやら音はその中から聞こえてくるらしい。
ーーなんだろうこれ。……温室?
白い外壁はよく見れば中の植物の緑が透けて見える。それに上の方はガラス造りで陽の光がよく入るようになっていた。そんな不思議な温室から、これまた不思議なことにピアノの音がする。膜が張ったように少しだけ遠いけれど、柔らかく弾むような楽しげな音が。
ーーこれ、『春のソナタ』だ。
ベートーヴェン【ヴァイオリン・ソナタ第5番スプリング】。通称『春のソナタ』。本来ならヴァイオリンが主体の曲だが、アレンジをしているのか奏者はピアノだけで存分に弾きこなしている。まるで春が待ちきれないというような音色は自然と楓を惹きつけた。
ーー綺麗な音……。
ガラス越しでも分かる、柔らかな温かみを載せた音。こんな音色を響かせる人はどんな人なんだろう。この音のように温かくて優しい人だろうか。聞けば聴くほど抑えられなくなる好奇心に、せめてもっと近くで聴きたいと楓は温室の壁に耳を当てた。こつりと冷たい感触と共に、滑らかな音色が先程よりも大きく聞こえる。それに楓が感嘆の息を吐こうとしたその瞬間、ぴたりと音が止まった。それに驚くよりも先にこちらへと近づいてくる音が耳に入る。それが足音だと理解するのと楓が耳を当てていた壁が開くのは同時だった。
「いたっ、!」
「え……わ、大丈夫……!?」
鈍い音と共に頭に走る衝撃。ぐらりと倒れた楓の上から慌てた声が降ってくる。何が起こったのか分からないまま、何度も瞬きをしながら痛みを逃せば段々と思考が追いついてきた。どうも楓が壁だと思っていたところは出入り口だったらしい。そんなところに耳を当てていたものだから、扉が開けば当然ぶつかる訳で。咄嗟に反応できなかった楓は草の上に倒れ伏したというところだろう。
ーーは、恥ずかしい……!!
聞き耳を立てていた挙句、心配まで掛ける始末だ。弁明しようにも羞恥が勝って仕方がない。しかしその間にも心配そうな声は止まず楓の上に降ってくる。取り敢えずはこちらも謝って大丈夫なことを伝えなければと、楓は目線だけで声の主を伺い見て目を丸く見開いた。
「あ、こっち見た。大丈夫?動けない?先生呼んでこようか?」
困ったように眉を下げて楓に呼びかけているその人。きっと先程のピアノを弾いていたのだろうその人は陽光に反射して煌めいて見えるほど美しい顔をしていた。白木蓮のような真白の肌に、小振な桜色の唇。形の良い鼻と、風に乗って揺れる細い絹糸のような黒髪。何よりも特徴的な長いまつ毛に縁取られた色素の薄い瞳は、灰色というには輝いていて銀色に見える。制服姿から見るに上級生で男の人なのだろう。だけど中世的な容姿はどちらと言われても納得できる。
ーー綺麗な人……。
まるで絵本の中から飛び出してきた麗人のような風貌に楓は暫しの間見惚れてしまった。しかし惚けている己とは異なり、いつまでも転がったままの楓に目の前の麗人がにわかに焦り始める。
「え、え、反応ないけどこれもしかしてやばい?どうしよ。救急車、救急車呼ばないと……!」
「あ……だ、大丈夫です!」
その人が携帯を取り出したところで我に返った楓は、慌てて立ち上がるとその手を掴むことで止めた。驚いたその人はぱちりと瞬くと、ぐっとその顔を楓に近づける。至近距離で目が合えば楓の顔に熱が集まった。
「ほんとに大丈夫……?顔、赤いけど……打ったりしてない?」
「大丈夫です!!」
近すぎる顔を離しながら半ば叫ぶように首を振れば、安心したのかその人はほっと息を吐き出して柔らかく微笑む。そんな何気ない仕草まで綺麗で、楓の心臓は早鐘のように身体中に鳴り響いた。
「ごめんね。急に開けたからびっくりしたよね。頭も痛かったでしょ?」
「い、いいえ……!あの、僕の方こそ…聞き耳立てちゃってごめんなさい。」
「ふふ、いーよ。大丈夫ならそれで。でも、念のために保健室に行こうか。」
新入生でしょ、と首を傾げられて浮き足立っていた心が瞬時に我に帰る。そういえば忘れていたが楓は寮への道が分からなくて迷っていたのだった。これはもしかしなくても千載一遇のチャンスだ。
「えっと、あの……保健室はいいんですけど、その……寮ってどこでしょうか……?」
最後の方は尻すぼみになってしまった声に、目の前の人は目をぱちくりと瞬く。まさか迷子とは思っていなかったのだろう。楓の手に持たれた荷物を見て漸く合点がいったように、その人はぱちりと手を合わせた。
「もしかして、迷った?」
「う、……はい……。」
恥ずかしい。この歳になって迷子とか。しかし項垂れる楓にその人は綺麗な顔で笑ってくれた。
「それじゃ、一緒に帰ろうか。」
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
「……それであそこまで来たの?耳が良いんだね。温室、一応防音になってるのに。」
「そ、それ程でも……。というか、あそこやっぱり温室なんですね。」
「うん。中は結構広くて快適だよ。また今度遊びにおいで。」
他愛ない会話を交わしながら、寮までの道を並んで歩く。サクサクと草を踏む音が心地よく、陽光も穏やかで気持ちがいい。特に隣の人の男性にしては少し高めのテノールボイスは澄んでいて、耳を擽るたびに心が暖かくなるようで楓は少々浮かれていた。
「弾いてた曲って『スプリング』ですよね?」
「そうだよ。ヴァイオリン弾いてって頼んだのに、忙しいって断られちゃってさ。仕方なく1人で弾いてたんだ。」
「すごく綺麗な音でした。春が待ち遠しいなって感じで。」
「ふふ、分かる?あれ弾いてたら春が来そうでさ。冬も好きなんだけど、やっぱり早くお花見したいからね。」
柔らかな笑い声が胸をくすぐる。なんだかずっと笑っている人だ。迷子になってしまって落ち込んでいたがこの人に会うためだったと思えば悪い経験でもなかった気がする。
「あの、途中だったのに良かったんですか?送ってもらっちゃって。」
「いいのいいの。そろそろ帰らないと怒られるからさ。怖ーいやつがいるんだ。」
鬼みたいなやつなんだよ、と笑うその人に楓も笑っていればいつの間にか寮らしき建物が見えてきた。白い煉瓦造りの豪奢な4階建ての建物は入口を前にしてコの字型を九十度横にした形になっており、ここからでは見えないが多分奥の方まで続いているのだろう。全校生徒が集う場所とはいえこの広さ。改めてすごい場所に来てしまったのだと実感する。
「はい、到着!あそこの入口で受付したら自分の部屋に連れてってもらえると思うよ。」
「あ、ありがとうございます!」
白い指で差しながら説明してくれたその人に楓は深く頭を下げた。あそこで出会えていなければ楓は未だあの森を彷徨っていたことだろう。感謝しても仕切れない。そんな思いを込めたお礼だったが、その人にはそこまで伝わらなかったようだ。不思議そうな顔で目を瞬かせた後、優しく微笑まれた。
「ふふ、丁寧でいい子。ちゃんとお礼が言えて偉い偉い。」
伸びてきた手にくしゃりと髪をかき混ぜられる。まるで子供にするような仕草に恥ずかしくなるが、当の本人はにこにこと特に気にしていない。そのまま固まっていれば、満足したその人は楓の頭から手を離すと品よく横に振ってみせた。
「それじゃあね。」
「え、あ…はい。」
最後ににっこりと笑うと、その人は先に寮の入口へと向かってしまう。きっと帰りを待っている人がいるのだろう。楓に付き合わせてしまった手前、これ以上時間を取らせるのは悪いと分かっているがどうにも寂しくて、気が付けば楓はその背に声を掛けていた。
「あ、あの……!」
「ん?」
振り返ってくれたその人に、咄嗟のことで声が出ない。声を掛けて、どうしよう。まだ話したいとは流石に言えないし、楓だって荷解きがある。でもこのままお別れはどうしても嫌だ。そんな衝動のまま、なけなしの勇気を振り絞って楓は言葉を続けた。
「えっと、また……ピアノ、聴きに行ってもいいですか?」
緊張で声が震える。そんな情けない楓の様子にその人は驚いた表情をしていたが、すぐに破顔すると嬉しそうに頷いた。その笑顔に光が弾ける。
「うん!いつでもおいで!」
そう言って今度こそ去っていくその人の背に、楓は密かにガッツポーズをした。偶然出会えたあの綺麗な人と縁が出来たことが嬉しい。不安で仕方なかった学園生活にも明るい光が差し込んでいるようだ。楓は上機嫌で寮の入口へと足を向けた。
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
桜の花びらが風に乗って舞い落ちる、麗かな春の日差しが暖かい本日。待ちに待った東雲学園の入学式が執り行われる。一週間ほど前に入寮した楓も、合格通知が来た時から指折り数えてこの日を楽しみにしてきた。だがしかし。そんな期待に満ち溢れた佳き日に、楓は陰鬱な溜息を吐き出していた。それもこれも話は入寮日に遡る。
この『私立東雲学園』は全寮制の学校だ。全員が暮らす場である寮は外装からして英国ホテルのようであり、内装も申し分ない。自分達が暮らす部屋だけでなく、食堂や大浴場、図書館やテニスコート果ては簡易スーパーまで併設されており生活する上で不自由は感じない造りになっている。もちろん自室にも風呂やトイレは付いているし、キッチンも完備され、なんなら電化製品までひと通り揃っている有様だ。そんな徹底的に快適を突き詰めた寮ではあるが、最大の特徴として挙げられるのは、2人一部屋の相部屋という事だろう。勿論、自室には共用スペースの他に自分だけの寝室があるので完全にプライベートが無い生活というわけでは無いが、やはりルームメイトとは互いに顔を合わせる時間が、学園生活の中で最も長くなってくる。出来ることなら仲良く平和に生活がしたいと思うのが普通であろう。その例に漏れず、楓もルームメイトとある程度良好な関係を保ちたいと願っている。しかしそれがどうにも上手くいかないのだ。
楓のルームメイトは名を箱崎千夏という。出会いは丁度一週間前。楓があの綺麗な人と知り合ったその日だ。あの日、楓は柄にもなく浮かれていた。それは単にあの人と知り合えたという喜びであったが、それだけで全てが上手くいくようなそんな幸福感に満ちていた。そんな楓はルームメイトともこの調子で上手くやれるだろうと何の根拠もなく信じ込んでいた。しかし、ルームメイトである千夏はそう単純な人物ではなかった。
「青山楓です。今日からよろしくお願いします。」
そんな挨拶と共に差し出した楓の手を千夏は無言でもって迎え入れた。それに驚き固まる楓を横目に立ち上がると自室へと引込む。それは明確な拒絶であった。だが、楓にその理由は到底理解出来なかった。なにせ会って数分なのだ。楓の何を気に入らなかったのか、そもそもその時の楓には千夏の名前すら分からなかった。だから呆然とするしかなかったのである。そんな最悪のファーストコンタクトであった千夏だが、その後楓の数々の努力により名前を教えてもらう迄には改善できたと思いたい。ただし、それ以上の会話などは何ひとつ発生していないのだけど。そういう訳で、未だ会話らしい会話をしていないルームメイトに楓の心は入学式を前にしても意気消沈気味だ。それからもう一つ。
ーーあの人、昨日もいなかった……。
思い浮かべるのは一週間前に出会った麗人。ルームメイトの話を出来る人で他に浮かぶ人も居なくて、というよりももう一度会いたくて楓は毎日のようにあの温室に通っていた。しかしあの日以来温室からピアノの音色が漏れ聞こえることも、人の気配を感じることもなかった。そもそも入口すら分からない。いつでもおいで、と言ってくれていたのに。なんて恨みがましいことを思っても相手の名前すら聞いていないのだから学園初心者の楓にはお手上げだ。折角良い縁が出来たと思っていただけに、落ち込み具合もひとしおである。
そんなこんなで入学式を前にして、楓の気分は最底辺に萎んでいた。しかしこの佳き日に何時迄もこの調子じゃ戴けないことも分かっている。楓はひとつ溜息を吐き出すと、舞い散る桜の花弁を降り仰いだ。会場である講堂前で入場待ち状態の楓たちは、誰もが緊張感と期待感を滲ませている。この中の半分くらいは中等部からのエスカレーター組で、その分高等部から編入する楓みたいな編入組より幾分も進んだ立ち位置に立っているのだろう。そんな人たちに置いていかれないように、それから友だちが出来るように。そんな決意を桜に誓うように、楓は降り注いだ花弁をそっと一枚手に取った。
入学式は言葉で表すなら圧巻のふた文字だった。まずひとつ挙げるなら、入場に合わせた初等部生による可愛らしいマーチ演奏だろうか。鉄琴や木琴を多く使用した愛らしい音に負けないくらい技巧も素晴らしかった。あれで初等部というのだから世界は広い。それと中等部から贈られた歓迎のコーラス。透明感ある歌声のハーモニーが綺麗だった。そして何よりも心惹かれたのは高等部の生徒たちによるオーケストラ演奏だ。式最後のイベントだったその演奏はプロ顔負けの音色と迫力だった。うっとりとするような優雅さと、何処か明るく飛び跳ねるような曲調は聞いたことのないものだったけれど、言葉よりも雄弁に今日という日を祝福してくれているようで楓の耳は未だに余韻に浸っている。そんな心躍る、素晴らしい式だった。
その式も終わり、現在。楓たちは生徒会主催の各委員会と部活動の紹介を受けている。司会を務めるのは生徒会副会長で、厳格そうな雰囲気と少し色素の薄い黒灰色の髪が何処か近寄り難い雰囲気を与える少年だった。
「それでは、各部活動の紹介をーー、」
委員会紹介の後、凛とした声に急かされるように各部活動の紹介が行われる。よくある美術部や手芸部から始まり、茶道や華道、ダンス部に軽音楽部、果てはミュージカル部など多彩に富んだ部活動たちはどれも魅力的だ。また音楽学校では珍しく運動部の活動も盛んなようで、活気に満ち溢れている。様々な趣向が凝らされた紹介を見ながら、楓の心は高揚していた。部活動に参加するのは個人の自由らしいが、こんなにも興味が湧く紹介をされては入ってみたくもなるものだ。どれがいいだろう。運動は少し苦手だから文化部だろうか。それでも選択肢は沢山ある。どうせなら気になる全ての部活に体験入部してみるのも良いかもしれない。早速今日の放課後にでも、と頭の中で計画を練っていると最後の部活紹介が終わりを告げた。それに合わせて司会の副会長が終了の挨拶を述べる。結局最後まで一度も表情を崩さなかった副会長に楓はこっそりと生徒会に参加する可能性を打ち消した。流石にルームメイトと先輩両方の愛想が悪いのは、この先胃を痛める事になりそうなので。
「それではこれで各委員会と部活動の紹介を終わります。新入生の方々は各自担任の指示に従ってーー、」
「あれ?もう終わっちゃうの?俺まだ紹介してないよ?」
形式的な挨拶を流すように聞いていた楓は、突然割って入った聞き覚えのある声にはっと息を呑んだ。慌てて司会の方を向き、目を凝らす。司会の副会長が表情を崩して驚いている目の前に、楓があれほど会いたいと思っていたあの人は立っていた。
「……月、お前いつ帰って……。」
「さっきだよ。ただいま、蒼生。ちょっとマイク借りるね。」
漏れ聞こえるよく分からない会話と共に呆然としている司会からマイクを奪ったその人は、ゆっくりと舞台の真ん中へ進む。唐突な登場に周囲の生徒たちの騒めきが大きくなった。それもその人がマイクに声を吹き込む事でピタリと止まる。
「あー。お、ちゃんとマイク通ってるね。…どーも。園芸部です。と言っても部員は1人なんだけど。植物や花に興味がある人を募集してます。主な活動内容は草花の手入れかな。あ、でもこの広い学園内の花壇とか全部手入れしているわけじゃなくて普段は温室の植物たちのお世話をしてます。良かったら遊びに来てくれると嬉しいな。」
待ってる、と付け加えられた言葉に女子生徒が色めき立った。いや、女子だけではない。男子生徒も何処かそわそわと次の言葉を待っている。それも頷けるほど、その人は相変わらず絵画から出てきたように綺麗だった。何気ない仕草も言葉も全てが人を惹きつける。
「あ、でも温室はーー、」
「花宮月!!何をしている!!!」
殆どの生徒がその人の話に耳を傾けていたその時、講堂内に怒声が響き渡った。それと同時に全員の視線が講堂の入口へと向く。そこには先程の式で挨拶を述べていた生徒会長と、その後ろに背が高く体格の良い、いかにも生徒指導といった風体の厳格そうな教師が1人立っていた。
「げ、桂木のやつ、やまちゃん連れてきた。」
そんな焦った声がマイクを通して講堂内に響き渡る。苦々しい顔をした生徒会長を前に、その人は早々にステージの端へと戻ると、副会長に向かってマイクを放り投げた。
「俺逃げるから。あと頼んだ。」
「え?あ、おい…!ちょっと待て……!」
静止の声も無視してその人はステージの裏側へと駆けていく。それを猛然と追う教師という図は想像するより恐ろしかった。だからだろうか。その人たちが去った後も生徒たちは誰ひとり声を発する事なく講堂内は静寂に包まれた。そんな中、1人だけ憮然とした様子で生徒会長がステージへと上がる。先程放り投げられたマイクを片手に混乱しているのであろう副会長を差し置いて最後の挨拶を述べた。
「……これで各委員会と部活動の紹介を終わります。ハプニングもありましたが、皆さん気にせず担任の指示に従って退場してください。」
落ち着いた声に、生徒たちの騒めきも戻ってくる。式の荘厳さ、どの部活に入るか、先程のひと騒動。そんな話題が飛び交う中、楓は緩む表情を見られないように俯いていた。もう会えないと思っていたあの人にまさかもう一度会えるなんて。
ーー園芸部……。
それなら楓でも入部できそうだ。なんせ実家で庭仕事は楓と父親の仕事だったのだから。もう一度会いに行ったらあの人はどんな顔をするだろう。それを想像するだけで楓の気分は浮上する。逸る気持ちを胸にしつつ担任の呼びかけに合わせて席を立つと、丁度副会長の姿が見えた。会長に頭を下げつつも、その表情は何処か嬉しそうな雰囲気を纏わせている。そのままステージ裏へと急ぎ足で入っていく様が何故か目に焼き付いた。
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
放課後、息をきらせて温室まで走ってきた楓の目の前に広がっていたのは人の山だった。あまりの人数に一瞬間違えたのかと思うが、目の前の個性的な建物は一週間前あの人と出会った場所で間違いない。他にも魅力的な部活は山程あったというのに、あの声掛けだけでここまで人が集まったのかと思えば自然溜息が溢れ落ちた。
ーーちょっと浮かれてたから恥ずかしいかも……。
なんというか、先に接点があった分、自分は特別なんじゃないかと思い込んでいた。だからなんとなく園芸部志望は自分が一番なのだと。だけど蓋を開けてみれば入部希望者は自分だけではないし、一番最初という訳でもない。それにここに集まった人達を見渡せば、純粋な入部希望者など殆どいない事も分かる。要はあの人目当てという事だ。それに自分も少なからず該当するのだからどうにも居た堪れない。まあ、園芸部自体にも興味があるからこそここに居るのだけれど。しかしてこの状況は楓の心を落ち込ませるには十分だった。
ーー諦めて帰ろうかな。
あの人に会いたいならまた日を改めればいい。あの時助けてもらったお礼をしに、お菓子でも持って会いに行こう。そう心に決めた楓は立ち去る前にもう一度だけ人混みを見渡し、おかしな事に気が付いた。人が減らないのだ。いや、追加で大勢が詰め寄せているのならそれで説明がつくが楓が来たくらいを皮切りに人数は増えていないように見える。なのに誰も温室の中へと入らない。それを不思議に思いながらも楓の頭には一週間前の出来事が思い起こされていた。
ーーそういえば入口、分かりづらかったような……。
楓が頭をぶつけたあの入口。音色に気を取られて気づかなかっただけかと思っていたが、どうも他の壁の部分と大差ない造りだったように感じる。というか、いま遠目から見ても何処が入口か分からない。もしかして、ここに居る誰にも入口が分からないんじゃないだろうか。そう考えるとこの人はけの悪さにも納得がいく。そんな楓の思考を裏付けるように誰かが『妙な鍵があった』と叫び声をあげた。
「鍵……。」
なんだその魅惑的な響きは。しかも『妙』って。ちょっと気になってしまうじゃないか。騒めきが広がる人集りにすっかり帰る気も失くして、楓は件の鍵というものを見に雑踏の中へと踏み込む。見るからに不思議な入口の分からない温室とそこに鎮座する妙な鍵。そんなの興味をそそられない方が少ない筈だ。とは言っても、人の多さにその妙な鍵の近くまで辿り着くことは無謀に近い。楓はある程度の距離で諦めつつも目を凝らしながら、そっと生徒たちの声に耳をすませた。それでいくつか分かったことがある。どうも鍵は温室に備え付けのものらしく、ぱっと見では分かりにくいものらしい。また、鍵といっても鍵穴やダイアルがあるのではなくどうも鍵盤らしきものが付いているのだとか。試しに何人かが弾いてみた音は楓の耳にも聞こえてきたが、ちゃんと対応した音が鳴るところをみるに、正しい旋律を奏でる事で開く仕掛けになっているのではないか、と。そんな憶測が飛び交う中、何人もの生徒がその鍵に挑戦しては諦めていく。輪の中に入れない楓を置いて1人また1人と消えていき、最後に残るは楓のみ。既に日は傾き、目にも眩しい夕焼け色が空を覆い始めている。そんな中で楓はゆっくりとその鍵に近づいた。一見するだけでは分からないように内側に埋め込まれた鍵。この鍵が開くことで、壁にしか見えないドアも開くようになるのだろうか。
ーーでも、当てずっぽうじゃ無理だ……。
8つの鍵盤で奏でられる音色の組み合わせはそれこそ星の数程ある。それをひとつずつ試すには生憎だが時間も労力も足りない。ならばどうするか。楓は少しだけ考えると、一番左端の鍵盤をそっと押してみた。それと同時に響く、『ド』の音。もう一度押せば、同じ音がまた響く。さらにもう一度、と押してみたところで響いた音に楓は微かな違和感を感じた。本当に微妙な違いだが、最後に押した時だけ音の響きが異なった気がしたのだ。途端に期待で熱くなる胸を抑えつつ、楓はまた『ド』の鍵盤に向き直る。一回、二回、三回。やはり最後の音の響きだけがおかしい。何かが詰まったように音の響きがくぐもるのだ。それは周りに人が居たなら気づけないほど些細な違和感であったが、楓に希望を抱かせるには十分すぎるほどの違和感であった。
ーーこれなら解けるかも……。
時間は掛かるだろうが、解くなら人が居ない今しかない。というよりも、解けそうな確信を得たのだから今解きたい。園芸部のことも温室のあの人も綺麗さっぱり抜け落ちて、楓はただ目の前の鍵に夢中で取り掛かった。
楓が最後の一音を探し当てた頃には、辺りはすっかり薄闇に包まれていた。まだ春先の寒い夕暮れ。しかし高揚感に包まれた身体はそんな寒さなど打ち消すほどに熱を帯びている。童謡の『きらきら星』。その最初の一小節が鍵を開くための正しい旋律だった。澄んだ音を響かせてその音色が奏でられると同時に、音を立てて鍵が開く。震える指でそっと手を伸ばせば、鍵盤の裏が開く仕掛けになっていることに気が付いた。その奥から現れたドアノブに詰めていた息を吐き出す。此処こそが楓の求めていた温室への入口なのだと改めて分かり安心したのだ。その安堵感からか楓は躊躇する事なく、ドアノブを回して扉を開いた。
ーー眩しい。
開いた先から漏れる柔らかな光に目を細める。独特の爽やかな草の香りと、甘い花の香りに少しだけ視界が回るのを感じながら一歩踏み込めば、草を踏む軽い音が耳に響いた。
「芝生……?」
敷き詰められた緑色に目を見張る。温室には珍しい直植えの芝生と、人が2人入れるほどの小さな空間。そして、今しがた入ってきたのとは異なる木造製の扉に楓は目を瞬かせた。温室の外からでも分かるほどの広い空間が拡がっているものだと思っていた為、ほんの少し拍子抜けしてしまう。ここは入口、で合っているのだろうか。では園芸部の活動はこの奥か。そう考えながら扉に手を伸ばした所で楓は動きを止めた。
ーーこれ、勝手に入って良かったのかな……。
今更だがその思考に至ったのだ。そもそも鍵が掛かっているという事は、入られたくないのだろう。それを破ったばかりか、ここまで侵入している。時間的にもそろそろ寮に帰らなければならない頃合いだ。そこに楓が入っていったら相手はどう思うだろうか。サッと自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。ひとつのことに夢中になると後先を考えなくなるのが己の悪い癖だと認識していたが、今回はそのエピソードの中でも特に最悪だろう。いや、でもまだギリギリ不法侵入にはならない。筈だ。温室の中まで入っていないのだし、このまま何事もなかったかのように帰って後日改めることにしよう。というか逃げよう。そう決めるが早いか楓は踵を返し温室から出ようとした。が、しかし。無情にも楓の目の前で木製の扉が音を立てて開く。なすすべもない楓が心臓を凍らせていると、扉から顔を覗かせた年上らしき少年と目が合った。癖毛が目立つ、端正な顔立ちの少年だ。その少年は楓の姿に驚いたのか、僅かに目を丸くする。
「ほう……。あの鍵を破る奴がいるとはな。……おーい、月!入部希望者が来たぞ!」
そんな言葉を皮切りに、少年はまた奥へと引っ込んでしまった。固まったままの楓を残して。
ーーえ、え、これどうしたらいいの……!?
少年の反応から非難めいた色は感じなかったが、かといってどうすれば良いか分からない。というか誰だあの人。園芸部の部員は1人だって言ってたじゃないか。そもそも入部希望者を待っていたのならどうして鍵をしていたのか。様々な疑問が頭を飛び交う中、急いた足音が此方へと近づいてくる。『走るな!』という焦った声と目の前の扉が大きな音を立てて開いたのは同時だった。
「ようこそ入部希望者!……て、あれ?君……。」
ぱちりと瞬く不思議な色の瞳。少女かと見紛うほどの美しい容姿に、耳に心地よい少し高めのテノール。一週間ぶりに近くで見たその人は、楓の姿を認めるとぱあっと顔を明るくした。その反応に覚えていてくれたのかと楓の胸にも喜びが溢れていく。期待に満ちた瞳に応えるように楓は口を開いた。
「あの、高等部1年の青山楓です。……入部希望です。」
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
『温室』と呼ばれていたその場所は、温室というよりも庭園といった方が近い様相だった。ドーム型の広い空間は入口と同じように芝生が敷き詰められ、天井には柔らかな光を放つ照明が備え付けられている。そんな『温室』の中心を陣取っているのはアンティーク調の美しいグランドピアノだ。ひと目で大切にしているのが分かるほど丁寧に磨かれたそれは、明かりを反射し輝いている。そしてそのピアノを囲むように両側には大きな階段状の花壇があり、春の花や花木が所狭しと植えられては鮮やかな色彩で『温室』を彩っていた。それに目を奪われながら奥へと進めば、大きなテラステーブルが現れる。更には簡易的なシンクと食器棚まで置かれており、まるで海外にあるティーガーデンのようだった。そんな夢のように美しい温室で、楓は現在背筋に冷汗を流しながらテラステーブルに付いている。目の前では淹れてもらった紅茶が温かそうな湯気を甘い香りと共に漂わせているのに、楓の周りの温度だけ真冬のように低い。それは単に、楓に向けられている三人分の冷たい視線のせいだ。
「高等部2年の花宮月。園芸部部長です。改めてよろしくね。」
そう嬉しそうに自己紹介をしてくれた彼は楓の来訪を心の底から喜んでくれているようだった。手ずから紅茶を淹れてくれ、にこにこと笑みを絶やさない。それに楓が浮かれていられたのは最初のうちだけだ。入っておいで、と招き入れられた温室で楓を待っていたのは月だけではなかった。
「いやー、良かったよ。今年も入部希望者がいなかったらどうしようかと思って。」
そう笑って月が紅茶に角砂糖を落とす。1つ、2つ、3つ…5つ。溶けきれるか分からない量の砂糖の塊が水面に当たって跳ねる音を聞きながら、楓は居心地悪く縮こまっていた。折角淹れてもらった紅茶も、少し前から湯気が見えなくなっている。
「入部希望者など居なくとも、俺たちがいるだろう。」
カチャリと陶器がぶつかる音が響いた。それに肩が跳ねるのを感じながら、そっと視線だけで音の鳴った月の左隣を伺い見る。その視線に気付いたのか、音の主はうっそりとした笑みで楓を迎え入れた。酷く優雅にティーカップから紅茶を飲みながら、好意の欠片もない視線を向けてくる癖毛が目立つ端正な顔立ちの少年。九条夜、と名乗ったその人は楓が入口で出会った少年だ。
「ダメだよ。お前ら、いくら教えても花の名前ひとつ覚えないんだから。」
「それはそうだけどさ。俺らも心配してんだよ、月。」
もうすっかり冷めたであろう紅茶に息を吹きかける月に、今度は柔和な声が話しかけた。夜の左隣に座る、少し垂れ目で明るい茶髪の優しそうな人。唯一楓に同情の視線を向けてくる天ケ谷紫苑という名の先輩だ。彼は気遣うように眉を下げると、言いづらそうに口を開いた。
「また、一昨年みたいになったら困るだろ?」
「大丈夫でしょ。前も話したけど、良い子だったよ?」
ね、と同意を向けられてもどう反応すれば良いか分からない。そもそも楓には一昨年何があったのかも分からないし、分からなければ自分がそういう行動をしないとは断言しにくい。だからといってこの緊迫した雰囲気と楓に対する周りの警戒から、良くないことがあったことは流石の楓でも分かる。それを踏まえた上でなんと発言したものか。視線を彷徨わせながら思考を巡らせていると、苛立たしげな溜息が月の右隣から落ちた。その音に血の気が引いていく。この空間で楓が一番恐怖を感じている人物。温室に楓が入ってきた時から値踏みするように眉を寄せたまま、凍り付かせるような視線を向けてきた先輩。その人は、あの入学式の日に楓が怖いと感じていた生徒会副会長の少年だった。名を、清水蒼生という。
「……大丈夫かどうかなんて、お前が決めることじゃないだろ。何かあってからじゃ意味が無いんだ。そもそも鍵掛けてたのに破って入ってくるか?立派な犯罪じゃないか。」
少し色素の薄い髪を乱暴に掻き混ぜて、蒼生は眉間の皺を一本増やした。精悍な顔つきが苛立ちで歪んでいる。しかし言っていることは正論で、楓には反論する余地もない。犯罪だと感じていたのは自分も同じなのだ。心臓が嫌な音を立てて鳴り続け、足が竦む。変な汗が背中に滲むのを感じながら蒼生の視線に耐えかねていると、ふいに楓の頭に暖かい手が乗せられた。驚く楓の耳にふふ、と柔らかな笑い声が届く。いつの間にか楓の背後に立っていた月が、楓を守るように蒼生を睨め付けた。
「あんま苛めるなよ。てか、お前がどうやって希望者募るかちゃんと言わないからだろ。あと頼んだ、って言ったのに。」
「あんな状況で言えるわけないだろ。それに鍵掛かってても本気で入部したけりゃ教師に尋ねれば良いんだよ。今日来たやつなんて全部、客寄せパンダの客だ。ただの野次馬ーー、」
「え?俺、パンダなの?」
蒼生の言葉を遮って、月が驚きの声をあげる。先程までの頼もしい様子とは一転、見上げた楓の視線の先でくるりと丸くなる瞳は子供のようだ。その変化についていけない楓の前で蒼生が苦虫を噛み潰したような顔で息を吐き出した。
「あのな。そんな事ひと言も言ってないだろ馬鹿。お前目当ての奴が居るから自衛しろって俺は言ったんだよ。一昨年みたいな事になったら俺が会長に怒られるんだぞ。」
「なんで蒼生が桂木に怒られるんだよ。俺が文句言いに行ってやろうか?」
「そうじゃなくて……!」
楓を挟んで二人の言い合いはどんどんヒートアップしていく。しかし聞いていると、話の論点を月が変な方向に転がすのでどうにも真面目な雰囲気になりきれない。最終的に押し負け口数を減らしたのは蒼生の方だった。
「……っ、の馬鹿!」
「馬鹿って言う方が馬鹿なんだからな。ばーか。ばか蒼生。」
最早小学生の喧嘩である。収拾がつかなくなってきた遣り取りに楓はオロオロと視線を彷徨わせるが、夜は我関せずと紅茶を飲んでいるし紫苑は苦笑を浮かべているものの止める気は無いようだ。その間にも益々幼稚になっていく二人の喧嘩を止めたのは、意外にも夜の揶揄い混じりの声だった。
「素直に心配していると言ったらどうだ、蒼生。」
「……うるさい。」
それまでの勢いを無くし、蒼生がバツの悪そうな顔で目を逸らす。ほんの少しだけ染まった耳に先程までの恐ろしい印象が形を潜めた。怖い事に変わりはないがこれまでの話を聞いていた楓としても、蒼生が真剣に月を心配している事は分かる。もしかしたら思ったよりも悪い人じゃないのかもしれない。そんなことを考えていると、二人が落ち着いたのを確認した紫苑が柔らかく口を開いた。
「月。さっきも言ったけど、皆んなお前のこと心配してんだ。でもお前が入部希望者を楽しみにしてた事も分かる。だから取り敢えず、その子に話聞こーぜ。それから考えても悪くないだろ?」
その言葉に全員の視線が楓に注がれる。それに一瞬身体が強張るが、月が宥めるように楓の肩を軽く叩いてくれたのでなんとか落ち着くことが出来た。ゆっくりと深呼吸をすれば身体の強張りも解けていく。楓はもう一度深く息を吸い込むと、向けられた視線に真っ直ぐ向かい合った。
楓が園芸部に興味を持った一番のきっかけは月の呼びかけがあったからだ。この学園に来て初めて出会った先輩。迷子だった楓を見つけて、助けてくれた。そのお礼がしたくて、もう一度あのピアノが聴きたくてここまで来たのだ。だけどそれが蒼生たちの懸念に触れないかと言われれば微妙なところだろう。下心がないというわけでは無いのだから。勿論、蒼生たちが思う邪な気持ちは無いが仲良くなりたいという思いはあった。だからそれを責められたらどうしようもないけれど。
「……それに、ちゃんと園芸部にも魅力を感じているんです。実家で、庭仕事は父と僕の役目で…世話をした分ちゃんと育ってくれる植物が好きだなって。ここの、温室の植物を見たら凄く手を懸けているんだって分かります。大切にしているんだって。素敵な場所だって思いました。僕もそのお手伝いが出来たらなって。だから、本当に勝手に入って来て申し訳ないんですけど……僕、園芸部に入部したいです。」
緊張しながらひと息に言ったものだから、最後の方は声が掠れて震えてしまった。心臓は耳に響いて痛いほど鳴っているし、握りしめていた手のひらは汗で湿っている。それでも言えたことにほっとひと息ついていると、ふと楓の背後で空気が揺れる音がした。月が笑ったからだ、と気づくよりも先に優しい声が落ちる。
「そう。……嬉しいなぁ。君みたいな子が来てくれて。俺のピアノもこの温室も、好きだって思ってくれたんだろう?……だったらきっと大切にしてくれる。君が来てくれて良かった。歓迎するよ、楓。あ、そうだ俺の事は月でいいよ。みんなそう呼ぶんだ。」
振り向いた先で、楓の髪をくしゃくしゃにした月が嬉しそうに手を差し出してきた。慌ててその手に自分の手を重ねれば、温かさに泣きそうになる。それをなんとか堪え、楓は笑顔で応えた。
「はい!よろしくお願いします、花宮先ぱ…えっと、月…さん。」
まだ口に慣れない名前は、きっとこの先たくさん呼ぶ事になるのだろう。そんな未来に心を馳せていると、楓の背後で盛大に息を吐く音が響いた。それに驚いて振り返れば、月以外の三人が脱力したように椅子にもたれかかったり、テーブルに突っ伏したりしている。その変わりように楓が目を白黒させている隣で口を開いたのは紫苑だった。
「あ~~良かったぁ!!良い子が来てくれて!夜と蒼生まじでこえーんだもん。しかも蒼生、月と喧嘩しだすしさぁ……俺、もうどうしようかと…。」
「いや……あれは月が悪いだろ…。というか俺怖かったか?夜の方がやばいだろ?」
不思議そうな蒼生に対し、幾分落ち着いた様子の夜が溜息を吐く。呆れた表情は先程までの冷たい印象とは異なり、どことなく楽しげだ。
「お前は一度鏡を見た方がいいな。真面目な顔のつもりだろうが、不機嫌そうで近寄りがたい。初対面でそれでは相手が可哀想だ。」
「悪口だろ、それ。……いや、もういい。お前と話すと疲れる。」
ひらりと手を振って蒼生は諦めたように息を吐き出した。憮然とした表情は変わらないが、不機嫌というよりは少し拗ねているように見える。その様子は夜が言うような近寄りがたい印象とはかけ離れているようだ。そのまま蒼生は自分の紅茶に口をつけると、チラと楓の方に目を向けた。考え込むような素振りに内心緊張していれば、おずおずとした笑顔を向けられる。楓の後ろで月が押し殺したように笑う声が聞こえた。
「……その、怖がらせてたなら悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、月…そいつ、無駄に顔だけ整ってるだろ。」
「なんだよ蒼生。顔だけじゃないだろ。」
「お前は黙ってろ。……それでだな、園芸部入部希望者っていうと、そいつの顔に釣られて勘違いした奴がホイホイ来るんだよ。それで一昨年結構大事になって…。」
その時のことを思い出したのか、蒼生が苦々しく息を吐きだす。はっきりと分かるほどの嫌悪感に月の様子を覗き見れば、柔らかい笑みで返された。確かにこれでは周りにいる人間は気苦労が絶えないだろう。
「そっからはなるべく温室に鍵掛けるようにしたんだよ。そんで入部希望者は、月じゃなくて俺たち…俺と、蒼生と、夜な。そこを通してくれって事にしたんだけどさ。……今日はバタバタしてたからなぁ。」
黙り込んでしまった蒼生に代わり、紫苑が苦笑しながら説明を続けてくれる。思い返せば部活紹介の時、確かに月は何かを言いかけていた。それがこんな事情に繋がるなんて。鍵にしても、好意的でない雰囲気にしても、全ては仕方がない事だったのだろう。それが分かっただけで楓も安堵の息を漏らす事が出来た。
「ほら、やっぱり蒼生がちゃんと言ってないせいじゃん。」
「だから、あの状況で言える訳ないだろ……!お前こそ許可も貰ってないのに無茶苦茶しやがって……!!」
「仕方ないだろ。ああでもしなきゃ今年も誰も来なかったかもなんだからな!そもそもお前が毎回毎回入部希望者を追い返すから……!」
「それはお前が……!」
また言い合いが始まった二人を横目に、冷めてしまったからと紫苑が新しく紅茶を淹れてくれる。夜は相変わらず我関せずだが楽しそうなのも変わらない。どうもこれがこの人達の日常のようだ。
「あいつら何時もあんな感じだから気にしなくていーぜ。あ、茶菓子も食う?」
「俺にもくれ、紫苑。……まあ、これから先は俺たちともよく顔を合わせるだろうからな。よろしく頼む、後輩。」
「あー、俺ら何時もここにいるからなぁ。」
改めまして、と紫苑たちが歓迎の意を示してくれた。軽い世間話ついでに自分達のことも話してくれる。この四人は大抵この温室にいるらしいが、園芸部なのは月一人だけで他はそれぞれ別の部活や委員会に所属しているのだとか。蒼生は分かっていたが生徒会、夜は茶道部、紫苑は軽音部らしい。そう言われてみれば部活紹介で紫苑と夜の顔も見た気がする。世間は案外狭い。
「部活多かったろ?あれで新入部員確保すんの難しくてさー。軽音部、なかなか居ないんだよね。誰かクラスに良い子いたら紹介してくんない?」
「茶道部も最近は少ないな。まあ、こういうものは縁だから気にせずともいずれはどうにかなるさ。」
「……夜のそういうとこホント羨ましいわ…。」
そんな会話をしながらお茶を楽しんでいると、言い合いが終わったのか月が此方へと近づいてきた。テーブルの上のクッキーに目を輝かせる様子に、紫苑が笑いながら新しい紅茶を注ぐ。それにまた大量の砂糖を溶かす横で、蒼生が疲れたように息を吐き出した。多分今度も言い合いに負けたのだろう。見た限り、一番真面目そうな蒼生は月の奔放さに勝てないようだ。それでも気にかかるのか眉間に皺を寄せながら世話を焼いている。それが何処となく微笑ましい気がするのは、蒼生に対する恐怖心が払拭されたからだろう。
「あ、そうだ。楓は楽器の専攻なに?ピアノ弾ける?」
相変わらず紅茶に息を吹きかけながら月が首を傾げた。その表情にはありありと期待が浮かんでいる。それに苦笑しながら楓は小さく首を振った。
「すみません。僕、調律師を目指していて楽器はあんまり……。ピアノ、少しなら弾けるんですけど。」
「へえ。珍しいんだな。……いいな、そういう目標があって入学っての。しっかりしてるっていうか。」
ふ、と蒼生が軽く笑みを浮かべる。この人、本当に普段の表情で損しているかもしれない。柔らかな雰囲気は近寄りがたさなんて感じさせないのに。しかもさり気無く褒めてくれるのが嬉しい。蒼生の言葉に照れていると、紫苑が話を引き継ぐ形で口を開いた。
「そんじゃ、高等部入学か。調律師のコースって高等部からだもんね。入学式どうだった?初だろ。」
「あ、えと…凄かったです!豪華で、洗練されていて…!初等部のマーチは可愛らしかったし、中等部のコーラスもすごく素敵でした。それから高等部の演奏も!あんな演奏を聴けるなんて本当に贅沢で……。」
気さくな紫苑に乗せられながら、今日の入学式で感じたことを話す。マーチやコーラス、何よりオーケストラの演奏。初めての豪奢な入学式は一生の思い出に残るものだった。あの演奏は今でも耳に残っている。
「それから曲も…式に相応しい優雅さなのに明るくて、楽しげで。聴いていて心が暖かくなるような曲でした。」
初めて聴いた曲だったけれど、惹き込まれるような魅力が詰まっていた。例えるなら春が待ち遠しいと微笑む表情を見つめるような。息を呑みたくなる程美しいのに暖かい。
「ほう……。そうかそうか。だ、そうだ。月。良かったな。」
「え、」
「ふふ、ありがとう。やっぱ褒められると嬉しいね。」
「え?」
少し照れたように頬を紅潮させて月が笑った。その表情と言葉の意味が分からない。楓はただ入学式の感想を言っていただけなのに、それがどうして月の『ありがとう』に繋がるのだろう。そんな疑問が表情に透けていたのだろう。月は可笑しそうに笑うと、ほんの少し意地悪く目を細めた。
「いま君が褒めてくれた曲、作ったの俺だよ。」
「……え?」
ーーあの曲を、この人が、学生の月さんが作った……?
「え、えええ!?」
驚き過ぎて素っ頓狂な声をあげる楓に、月は相変わらず綺麗に笑うばかりだ。それでもその発言を訂正する人間はここには居ない。ならば本当にあの曲を作った人間は月なのだろう。固まる楓の前で月と夜は悪戯が成功したように笑い合っているし、紫苑と蒼生は溜息を吐き出している。そんな中で月はもう一度楓に目を向けると得意げに微笑んだ。
「俺、結構凄いんだぜ。知らなかったろ。」
「し、知りませんでした……。」
その答えに満足したのか、子供のような満面の笑みに楓まで脱力する。なんというか、凄い人と知り合いになってしまった。これからの学園生活、穏やかに過ごせることを願っていたけれどこの感じはどう転んでも劇的だ。なのに嫌じゃない。
あの曲のように弾む未来を想像して、楓は胸を高鳴らせた。
ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬
二月の空は低い。手を伸ばせば届きそうな雪雲が厚く垂れ込み、真下の街にその色を写している。そんな灰色の街に自身の影を溶け込ませ、凍えそうな温度に首元のマフラーを巻き直した。そっと息を吐き出せば、白く霞んだ色が空気を滲ませる。何時もなら耳を澄ませば聴こえてくる小さな野外コンサートの音色も、この季節ではひっそりとしたものだ。
オーストリアの片田舎であるこの街は、葡萄畑に囲まれた穏やかで美しい土地だ。バロック様式の建築物が数多く残る街並みは、路地へと続く石畳ですら一枚絵のようで筆舌に尽くしがたい。そんな歴史ある風景も生憎の空模様では出歩く人も珍しい。ともすれば世界に取り残されたようだ、なんて。あまりに詩的な考えに小さく笑みをこぼす。昔、そんな話をした。世界に独りぼっちで取り残される話。そこは世界の端で、静かで、寒くて。目を瞑るのに丁度良いのだと。ならばここは世界の端なのかもしれない。だったら、会えたら良いのに。そんなことを考えながら誰もいない道を目的地へとのんびり歩けば、目の端に白いものが散らついた。
「……降ってきたな。」
見る間に降り積もっていく雪は、灰色の街を真白に染めていく。その光景に『雪だね』とはしゃぐ声が耳の奥に響いた。そうだな、と口の中で呟いてマフラーに顔を埋める。寒いのが苦手なくせに、雪が降れば窓に張り付いていた横顔を思い出して小さく息を吐き出した。白い煙が映し出してくれないかと願いながら。そんな感傷に苦笑をこぼして、いまにも自身を覆い隠しそうな空に少しだけ足を早める。雪は嫌いじゃないけれど、こんな所で凍死はごめんだ。
大通りを離れ民家も疎になった頃、遠くの方にぽつりと小さな明かりが見えた。それに知らず息を吐き出す。ここに来るのは九年ぶりだろうか。手紙のやり取りはこまめにしていたけれど、思い出が色濃く残るあの家にはどうしても足が向かなかった。それも今日で終わる。うっすらと見えてきた蔦が絡まる古い煉瓦の外壁に、煩く鳴る心臓を抑えながら深呼吸をひとつ。肺が凍るような冷気に頭の芯まで冴えていくのを感じた。大丈夫。大丈夫だ。きっとちゃんと伝えられる。そう自分に言い聞かせて壊れかけの呼鈴に手を伸ばした。調子外れの高い音色の後に聞こえてくる、弾むような足音。そのまま少し待てば、飴色に磨かれた木の扉が音を立てて開いた。
「Grüß Gott(グリュースゴット)。……久し振りだな、ニコラウス。」
「……ソウセイ?もしかして、ソウセイか!?見ないうちに大きくなって……!早く入れ。外は寒いだろう!」
明るく出迎えてくれた金髪の男性は最後に会った時よりも白髪が増えていた。しかし優しく垂れ下がった碧眼は変わらない。相変わらず微妙にイントネーションの違う自身の名に笑いながら蒼生は手招かれるまま家の中へと足を踏み入れた。
「お前に会えるなんて何年振りだろう!最近は忙しいと聞いていたけれど、今日はどうしたんだい?」
「ちょっと招待状を渡しに来たんだ。ニコル。君の分と、ご婦人の分。」
「そりゃあいい!きっと彼女も喜ぶぞ!」
ニコラウスの弾んだ声が響く暖かな室内にほっと息を漏らす。ドライフラワーが飾られた玄関は甘い匂いと古い家の木の匂いが混じり合って一気に十年前へと時を戻すかのようだ。ふと隣を知った影が追い越していった。『今日のおやつはケーキだって』と楽しげな声が耳の奥を擽っていく。その声を追いかけるように奥を見つめていればニコラウスが不思議そうに蒼生を覗き込んだ。
「どうしたんだ、ソウセイ?疲れているのかい?」
「あ……。いや、なんでもないよ。」
緩く首を振ってもう一度廊下の奥に目を向ける。そこに探している影は勿論なかった。
「ソウセイ?大丈夫かい?」
「……ああ。大丈夫だ。」
ニコラウスの心配そうな顔に軽く笑ってそっと目を閉じる。十年前、丁度ここであの声を聞いた。寒さも本番になり始めた秋の終わり。あの時二人で帰って来たこの場所に今は一人だ。その事実に耐えられないと思っていたからずっとこの家に来るのを拒んでいた。だけど溢れ出した記憶は蒼生が怯えるまでもなく愛しい日々だった。一時も忘れたことはないけれど、より鮮明に映し出される幼い頃の自分達。何よりも大切だった、月明かりのような笑顔。
「本当に大丈夫かい?とにかく早く奥で休もう。コートと手袋はこっちだよ。……ああ、そうだ。マフラーはどうする?」
蒼生の調子が戻ってきたことを察したのか、マフラーを指差してニコラウスが揶揄うような笑みを浮かべた。その視線から顔を逸らしつつ自分の首元を見下ろす。十年間使い続けている灰色のマフラーは、大事に扱っているのにワンポイントの青いラインが少し色褪せてきていた。それでも蒼生がこのマフラーを手放すことは生涯ない。それが分かっていて聞いてくるのだから意地悪だ。
「自分で持っとく。悪いな。」
態と見せつけるようにゆっくりと外せば、ニコラウスがくつくつと喉の奥で笑った。相変わらずだな、という言葉に肩を竦めて見せる。それはそうだろう。何を隠そう十年もの年季が入った恋心だ。いや、もしかしたら二十年だったかも。
「……カルラ!カルラ……!お客様だ!飛び切り素敵な客人だよ!」
コート掛けの前にある姿見で服装を整えているとニコラウスの呼びかけに応えるようにふわりと甘い香りが漂った。それと共に穏やかな表情の老婦人がゆったりと廊下の奥から現れる。ニコラウス曰く『花のようだった』と讃えられる美貌は健在で、少女のように笑うさまは蒼生の目にも可愛らしく写った。
「まあ……!ソウセイ?貴方、ソウセイなのね?まあまあ、会いたかったわ……!」
「カルラさん。ご無沙汰しています。」
優しく抱きしめてくれる暖かい腕は変わらない。柔らかく香るケーキと香辛料の香りも。そしてその美しい瞳も。
「外は寒かったでしょう。お茶を淹れましょうね。丁度ケーキが焼けたの。」
「是非。」
手を引かれながらリビングへと招かれる。柔らかな暖炉の火が照らし出す室内は、時を止めたかのようにあの時のままだった。二人暮らしには少しだけ物の多いそこは、色とりどりのハンモックや揺り椅子が未だに多くのスペースを占拠している。ただ一人のために置かれたそれらにそっと目を細めた。懐かしい。懐かしくて、ほんの少しだけ寂しい。自然と探してしまう暖かな存在を見つけることが出来ないから。
「大きくなったのねぇ。さっき見た時、あんまり立派になっていたから私、それはもう驚いたのよ。」
「本当にね。懐かしいなぁ。ソウセイと初めて会った時はまだまだ子供だったのにね。」
カルラご自慢の甘いザッハトルテと紅茶を楽しみながら時間はゆっくりと流れていった。お互いの近況を報告し合い、昔話に花を咲かせ。取り止めもない話題を何度も挙げて、手持ち無沙汰にお茶をお代わりして。だけど永遠に続いて欲しいと願う時間にもいつか終わりが来る。
「そういえばこの前、あの子が夢に出てきてくれたのよ。一緒に庭にポピーを植えたわ。春が楽しみね。」
「それはいい!暖かくなったら庭でお茶をしよう。その時はソウセイも一緒に!」
「ああ。そうだな。」
会話が途切れ、束の間の沈黙が部屋を満たした。その静寂に自分の息遣いが響くようでそっと息を吸い込む。もう飲み物は底をついた。ケーキの一切れだって残っていない。話題すら思い付かなくなる程話し込んで。それでもまだ迷う心にこの静かな空間は優しかった。きっと聡い二人は気付いている。蒼生が今日ここに目的を持って来たことを。用もなくここに来れるほど、蒼生はまだ思い出を遠いものに出来てはいない事も。それでも話し始めるまで待ってくれている二人に、蒼生はようやく重たい口を開くことが出来た。
「……カルラさん。貴女と、ニコルに招待状を。自分が指揮を務めるコンサートです。場所は遠いですが日本で。飛行機のチケットも入っています。だから…だから、来ていただきたいんです。来月、あいつの……命日に。」
声は震えていただろうか。それすら認識できないほど、心が波打って二人の顔が見れなかった。俯き閉ざした瞼の裏で、鮮やかに浮かぶのは思い出ばかり。楽しそうな顔、怒った顔、滅多に見ることの出来なかった泣き顔。そして何よりも好きだった花が綻ぶような笑顔。忘れた時なんて1秒もない。蒼生の胸に今も色濃く残る、十年前静かに眠った最愛の人。
二人からの返答を待つ間、心臓は早鐘のように音を刻んでいた。自分の計画が間違っているとは思わない。何度も全員で考えて、努力してやっと手に出来たステージだから。だけどこの二人にとってそれが重荷にはならないだろうか。仕舞ったままの傷を抉るような真似になっていないだろうか。どんなに頑張っても哀しい思い出は覆らないのではないか。そんな疑問が頭を占拠して身体が凍りつくような心地がする。しかしそんな蒼生の思いに反して、そっと肩に乗せられた手はとても暖かった。
「そうなのね。やっと、2人の夢が叶うのね。……おめでとう、ソウセイ。是非参加させてもらうわ。」
「楽しみだね。もちろん僕も参加するよ!夢が叶う瞬間には是非とも立ち会わなくちゃ!」
口々に喜びを表してくれる二人に自分の視界が滲んでいくのを感じる。だけどまだ。まだここで泣くわけにはいかない。
「ありがとう……ございます。」
やっと絞り出せた言葉に顔を上げれば、柔らかな笑顔の2人と目があった。優しい人たちだ。強くて、暖かい。そういうところがやっぱりあいつに似ている。
「久しぶりにあの子の曲を生演奏で聴けるのね。それにソウセイが指揮者。なんて贅沢なのかしら……!」
「そうだね。ふふ、カルラ。沢山おめかししなくちゃね。」
「ご期待に添えるように頑張ります。」
楽しげな二人の様子に明るい笑い声が耳の奥を擽った。
窓から見える風景が暗闇に包まれた頃、蒼生はコートを羽織っていた。相変わらず降り続けている雪に全ての音が吸収されて静かな夜が更けていく。今夜はきっといい夢が見られるだろう。
「それじゃあまた、ひと月後に。」
「元気でね。必ず行くわ。」
「風邪を引くなよ、ソウセイ。」
手を振って見送ってくれる二人に、蒼生も手を振り返して家を後にした。少しの間のお別れ。きっとひと月後には、その笑顔を日本で見ることが出来るだろう。
空を見上げれば街灯に照らされた雪が淡く輝いて銀色を灯す。焦がれてやまないその色に蒼生は小さく呟いた。
「やっと……やっと夢が叶うよ、月……。」
春を待つ、蕾のように。待ち焦がれた時はすぐそこだ。
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
古いポストが不安と期待を乗せて軋んだ音を響かせた。昨晩より降り続いていた雪は広い庭を白く染め上げ、父親の大事な盆栽にも雪化粧を纏わせている。そんな美しい景色も逸る気持ちの前では意味を成さない。いま現在、己の心にただ1つ関心をもたらすのは、ポストの中に恭しくおさまる雪景色にも劣らない真白の封筒だけだ。それをそっと持ち上げて太陽へと翳すと、縁取りされた金色の模様が輝いて光の残滓が目に残る。眩いばかりの封筒に目を瞬かせながら家へと戻れば、自分よりも遥かに緊張した面持ちの母親と姉に迎えられた。そのまま2人と連れ立って奥の居間へと向かう。待ち構えていた父親の表情にも緊張の色が浮かんでいるのを横目で見ながらペーパーナイフへと手を伸ばした。丁寧に封を切り、折り畳まれた中の紙をゆっくりと広げる。誰かが喉を鳴らす音が大きく聞こえた。
「……結果通知。青山楓様、この度は貴殿の合格を……ご、合格……!!」
一瞬の静寂の後に歓声が上がる。姉に揉みくちゃにされながらもう一度確認するが、夢ではなくそこにはきちんと己の名と『合格』の二文字が刻まれていた。楓はこの春めでたく『私立東雲学園』高等部に入学出来るらしい。ずっと憧れていた音楽の舞台へ。今日が記念すべき1ページ目だ。
「ほら、これで全部よ。忘れ物はない?」
「大丈夫。ありがとう、お母さん。」
雪解けも終えた今日。楓は生まれ育った家から旅立つ。進学が決まった私立東雲学園は全寮制であり、家からも電車で3時間と遠い場所にあるからだ。そんな期待と不安が入り混じるバス停前、見送りに来てくれた家族の心配そうな顔に楓は笑ってみせた。
「ちゃんとゴールデンウィークには帰ってくるから。友達もきっと出来るよ。だから心配しないで。」
「分かってるわ。……風邪を引かないようにね。」
そう言ってマフラーを巻いてくれる母親にうっかり視界が滲んでくる。しかしこんなところで泣くものかと慌てて姉に目をやれば、しっかりとウィンクを返された。
「大丈夫。あんたならやれるわ。ま、最初『調律師』になりたいって言われた時にはびっくりしたけど……でも、こんな凄い学園に入学出来るんだもん。大丈夫よ。ね、父さん。」
「折角与えられたチャンスだ。しっかりと勉学に励みなさい。」
普段は揶揄ってくるばかりの姉の信頼と父親の激励に、今度こそ涙腺が崩壊してしまう。しかし時間は待ってくれず、振り向いた先には楓が乗るバスが来ていた。ほんの少し気圧される心を背中に回った温かい手のひらが押してくれる。
「頑張んなさいよ~!」
最後に姉の元気な声がドア越しに響いて、バスはゆっくりと発車した。窓の向こうでは家族全員が手を振ってくれる。その光景が見えなくなるまで楓も手を振り返した。もう泣いている暇はない。あとは夢に向かって前進するのみ。決意も新たに楓の順風満帆な学園生活が始まった、と思っていた。学園に着くまでは。
「ここ、どこ……?」
見渡す限りの森だ。森。鬱蒼とした森が目の前に広がっている。小さな萌芽と、まだ黄みの強い柔らかな葉。木漏れ日が優しく降り注いで穏やかな風が通り抜ける。芽吹く春、と言ったところだろうか。そんなどこからどう見ても森であるこの場所は、なんと学園の中にあるのだ。そして楓はいま、完全に迷っている。
「どうしてこんなことに……。」
思い返すは30分ほど前。家族と感動的な別れを終え、無事学園に辿り着いた時点だ。
楓が進学する『私立東雲学園』は、国内有数の音楽を専門とした音楽学校だ。学内は初等部、中等部、高等部に分かれ、それぞれが様々な学科を選択できるようになっている。楓のように調律師を目指すことも可能だ。また、全寮制であり生徒は例外なく寮生活を送る決まりとなっている。その為、学園内には食堂や生活雑貨を売る購買、生鮮品を扱う場所もあるらしく、しかも病院が併設されている為、生徒たちはここにいる限り何不自由なく暮らせるというお墨付きだ。国内最大規模と言葉にするのは容易いが、一見すれば圧巻の設備である。そんな学園内に入れるのは厳しい試験を通った選りすぐりのエリートばかりなわけで、楓もまた今日からその仲間入りというわけだ。
ということで、気合を入れつつ門をくぐった楓であったが、案内をしてくれる管理人に運悪く電話が掛かってきてしまった。しかも何やら緊急事態のようで慌てる様子に、楓は寮に行くだけだからと案内を辞退してきたのだ。そうして意気揚々と出てきたものの、気が付けば森の中へと足を踏み入れ幾星霜。完全に迷子になってしまったのである。
「……人がいない……。」
周りを見渡せど、歩けど人に出会わない。これでは寮への道を聞くことすら不可能だ。かといって闇雲に知らない場所を歩き回るのも限界がきている。このまま遭難なんて洒落にならない。情けなさすぎる。家族に知られれば姉は目を輝かせて楓を揶揄ってくるだろう。それだけはどうあっても避けたい。しかしこのままでは誰かに会うよりも楓が力尽きる方が先だ。どうしようと唸ったところで誰にも聞かれないのだから虚しいだけ。そろそろ涙も出てきそうだと重たい溜息を吐きつつ、休憩の為ひときわ大きな木の根元に腰掛けていると、ふと柔らかな音色が耳を擽った。
「この音……。」
もう一度耳を澄まして確信する。ピアノの音だ。誰かがピアノを弾いている。弾むような音色に自然と身体がその方向へ動き出した。あまりよく聞こえないけれど、途切れ途切れの音は楽しげに跳ねて美しく響いている。どんな人が弾いているんだろう。なんの曲だろう。こんな森の中にピアノがあるのだろうか。次々と湧いてくる疑問を胸に、足は疲れも忘れて立ち上がった。誰が弾いているのか知りたい。それだけが楓の足を動かす。そうやってしばらく歩いていると、なんとも奇妙なドーム型の建築物がある開けた場所に着いた。どうやら音はその中から聞こえてくるらしい。
ーーなんだろうこれ。……温室?
白い外壁はよく見れば中の植物の緑が透けて見える。それに上の方はガラス造りで陽の光がよく入るようになっていた。そんな不思議な温室から、これまた不思議なことにピアノの音がする。膜が張ったように少しだけ遠いけれど、柔らかく弾むような楽しげな音が。
ーーこれ、『春のソナタ』だ。
ベートーヴェン【ヴァイオリン・ソナタ第5番スプリング】。通称『春のソナタ』。本来ならヴァイオリンが主体の曲だが、アレンジをしているのか奏者はピアノだけで存分に弾きこなしている。まるで春が待ちきれないというような音色は自然と楓を惹きつけた。
ーー綺麗な音……。
ガラス越しでも分かる、柔らかな温かみを載せた音。こんな音色を響かせる人はどんな人なんだろう。この音のように温かくて優しい人だろうか。聞けば聴くほど抑えられなくなる好奇心に、せめてもっと近くで聴きたいと楓は温室の壁に耳を当てた。こつりと冷たい感触と共に、滑らかな音色が先程よりも大きく聞こえる。それに楓が感嘆の息を吐こうとしたその瞬間、ぴたりと音が止まった。それに驚くよりも先にこちらへと近づいてくる音が耳に入る。それが足音だと理解するのと楓が耳を当てていた壁が開くのは同時だった。
「いたっ、!」
「え……わ、大丈夫……!?」
鈍い音と共に頭に走る衝撃。ぐらりと倒れた楓の上から慌てた声が降ってくる。何が起こったのか分からないまま、何度も瞬きをしながら痛みを逃せば段々と思考が追いついてきた。どうも楓が壁だと思っていたところは出入り口だったらしい。そんなところに耳を当てていたものだから、扉が開けば当然ぶつかる訳で。咄嗟に反応できなかった楓は草の上に倒れ伏したというところだろう。
ーーは、恥ずかしい……!!
聞き耳を立てていた挙句、心配まで掛ける始末だ。弁明しようにも羞恥が勝って仕方がない。しかしその間にも心配そうな声は止まず楓の上に降ってくる。取り敢えずはこちらも謝って大丈夫なことを伝えなければと、楓は目線だけで声の主を伺い見て目を丸く見開いた。
「あ、こっち見た。大丈夫?動けない?先生呼んでこようか?」
困ったように眉を下げて楓に呼びかけているその人。きっと先程のピアノを弾いていたのだろうその人は陽光に反射して煌めいて見えるほど美しい顔をしていた。白木蓮のような真白の肌に、小振な桜色の唇。形の良い鼻と、風に乗って揺れる細い絹糸のような黒髪。何よりも特徴的な長いまつ毛に縁取られた色素の薄い瞳は、灰色というには輝いていて銀色に見える。制服姿から見るに上級生で男の人なのだろう。だけど中世的な容姿はどちらと言われても納得できる。
ーー綺麗な人……。
まるで絵本の中から飛び出してきた麗人のような風貌に楓は暫しの間見惚れてしまった。しかし惚けている己とは異なり、いつまでも転がったままの楓に目の前の麗人がにわかに焦り始める。
「え、え、反応ないけどこれもしかしてやばい?どうしよ。救急車、救急車呼ばないと……!」
「あ……だ、大丈夫です!」
その人が携帯を取り出したところで我に返った楓は、慌てて立ち上がるとその手を掴むことで止めた。驚いたその人はぱちりと瞬くと、ぐっとその顔を楓に近づける。至近距離で目が合えば楓の顔に熱が集まった。
「ほんとに大丈夫……?顔、赤いけど……打ったりしてない?」
「大丈夫です!!」
近すぎる顔を離しながら半ば叫ぶように首を振れば、安心したのかその人はほっと息を吐き出して柔らかく微笑む。そんな何気ない仕草まで綺麗で、楓の心臓は早鐘のように身体中に鳴り響いた。
「ごめんね。急に開けたからびっくりしたよね。頭も痛かったでしょ?」
「い、いいえ……!あの、僕の方こそ…聞き耳立てちゃってごめんなさい。」
「ふふ、いーよ。大丈夫ならそれで。でも、念のために保健室に行こうか。」
新入生でしょ、と首を傾げられて浮き足立っていた心が瞬時に我に帰る。そういえば忘れていたが楓は寮への道が分からなくて迷っていたのだった。これはもしかしなくても千載一遇のチャンスだ。
「えっと、あの……保健室はいいんですけど、その……寮ってどこでしょうか……?」
最後の方は尻すぼみになってしまった声に、目の前の人は目をぱちくりと瞬く。まさか迷子とは思っていなかったのだろう。楓の手に持たれた荷物を見て漸く合点がいったように、その人はぱちりと手を合わせた。
「もしかして、迷った?」
「う、……はい……。」
恥ずかしい。この歳になって迷子とか。しかし項垂れる楓にその人は綺麗な顔で笑ってくれた。
「それじゃ、一緒に帰ろうか。」
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
「……それであそこまで来たの?耳が良いんだね。温室、一応防音になってるのに。」
「そ、それ程でも……。というか、あそこやっぱり温室なんですね。」
「うん。中は結構広くて快適だよ。また今度遊びにおいで。」
他愛ない会話を交わしながら、寮までの道を並んで歩く。サクサクと草を踏む音が心地よく、陽光も穏やかで気持ちがいい。特に隣の人の男性にしては少し高めのテノールボイスは澄んでいて、耳を擽るたびに心が暖かくなるようで楓は少々浮かれていた。
「弾いてた曲って『スプリング』ですよね?」
「そうだよ。ヴァイオリン弾いてって頼んだのに、忙しいって断られちゃってさ。仕方なく1人で弾いてたんだ。」
「すごく綺麗な音でした。春が待ち遠しいなって感じで。」
「ふふ、分かる?あれ弾いてたら春が来そうでさ。冬も好きなんだけど、やっぱり早くお花見したいからね。」
柔らかな笑い声が胸をくすぐる。なんだかずっと笑っている人だ。迷子になってしまって落ち込んでいたがこの人に会うためだったと思えば悪い経験でもなかった気がする。
「あの、途中だったのに良かったんですか?送ってもらっちゃって。」
「いいのいいの。そろそろ帰らないと怒られるからさ。怖ーいやつがいるんだ。」
鬼みたいなやつなんだよ、と笑うその人に楓も笑っていればいつの間にか寮らしき建物が見えてきた。白い煉瓦造りの豪奢な4階建ての建物は入口を前にしてコの字型を九十度横にした形になっており、ここからでは見えないが多分奥の方まで続いているのだろう。全校生徒が集う場所とはいえこの広さ。改めてすごい場所に来てしまったのだと実感する。
「はい、到着!あそこの入口で受付したら自分の部屋に連れてってもらえると思うよ。」
「あ、ありがとうございます!」
白い指で差しながら説明してくれたその人に楓は深く頭を下げた。あそこで出会えていなければ楓は未だあの森を彷徨っていたことだろう。感謝しても仕切れない。そんな思いを込めたお礼だったが、その人にはそこまで伝わらなかったようだ。不思議そうな顔で目を瞬かせた後、優しく微笑まれた。
「ふふ、丁寧でいい子。ちゃんとお礼が言えて偉い偉い。」
伸びてきた手にくしゃりと髪をかき混ぜられる。まるで子供にするような仕草に恥ずかしくなるが、当の本人はにこにこと特に気にしていない。そのまま固まっていれば、満足したその人は楓の頭から手を離すと品よく横に振ってみせた。
「それじゃあね。」
「え、あ…はい。」
最後ににっこりと笑うと、その人は先に寮の入口へと向かってしまう。きっと帰りを待っている人がいるのだろう。楓に付き合わせてしまった手前、これ以上時間を取らせるのは悪いと分かっているがどうにも寂しくて、気が付けば楓はその背に声を掛けていた。
「あ、あの……!」
「ん?」
振り返ってくれたその人に、咄嗟のことで声が出ない。声を掛けて、どうしよう。まだ話したいとは流石に言えないし、楓だって荷解きがある。でもこのままお別れはどうしても嫌だ。そんな衝動のまま、なけなしの勇気を振り絞って楓は言葉を続けた。
「えっと、また……ピアノ、聴きに行ってもいいですか?」
緊張で声が震える。そんな情けない楓の様子にその人は驚いた表情をしていたが、すぐに破顔すると嬉しそうに頷いた。その笑顔に光が弾ける。
「うん!いつでもおいで!」
そう言って今度こそ去っていくその人の背に、楓は密かにガッツポーズをした。偶然出会えたあの綺麗な人と縁が出来たことが嬉しい。不安で仕方なかった学園生活にも明るい光が差し込んでいるようだ。楓は上機嫌で寮の入口へと足を向けた。
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
桜の花びらが風に乗って舞い落ちる、麗かな春の日差しが暖かい本日。待ちに待った東雲学園の入学式が執り行われる。一週間ほど前に入寮した楓も、合格通知が来た時から指折り数えてこの日を楽しみにしてきた。だがしかし。そんな期待に満ち溢れた佳き日に、楓は陰鬱な溜息を吐き出していた。それもこれも話は入寮日に遡る。
この『私立東雲学園』は全寮制の学校だ。全員が暮らす場である寮は外装からして英国ホテルのようであり、内装も申し分ない。自分達が暮らす部屋だけでなく、食堂や大浴場、図書館やテニスコート果ては簡易スーパーまで併設されており生活する上で不自由は感じない造りになっている。もちろん自室にも風呂やトイレは付いているし、キッチンも完備され、なんなら電化製品までひと通り揃っている有様だ。そんな徹底的に快適を突き詰めた寮ではあるが、最大の特徴として挙げられるのは、2人一部屋の相部屋という事だろう。勿論、自室には共用スペースの他に自分だけの寝室があるので完全にプライベートが無い生活というわけでは無いが、やはりルームメイトとは互いに顔を合わせる時間が、学園生活の中で最も長くなってくる。出来ることなら仲良く平和に生活がしたいと思うのが普通であろう。その例に漏れず、楓もルームメイトとある程度良好な関係を保ちたいと願っている。しかしそれがどうにも上手くいかないのだ。
楓のルームメイトは名を箱崎千夏という。出会いは丁度一週間前。楓があの綺麗な人と知り合ったその日だ。あの日、楓は柄にもなく浮かれていた。それは単にあの人と知り合えたという喜びであったが、それだけで全てが上手くいくようなそんな幸福感に満ちていた。そんな楓はルームメイトともこの調子で上手くやれるだろうと何の根拠もなく信じ込んでいた。しかし、ルームメイトである千夏はそう単純な人物ではなかった。
「青山楓です。今日からよろしくお願いします。」
そんな挨拶と共に差し出した楓の手を千夏は無言でもって迎え入れた。それに驚き固まる楓を横目に立ち上がると自室へと引込む。それは明確な拒絶であった。だが、楓にその理由は到底理解出来なかった。なにせ会って数分なのだ。楓の何を気に入らなかったのか、そもそもその時の楓には千夏の名前すら分からなかった。だから呆然とするしかなかったのである。そんな最悪のファーストコンタクトであった千夏だが、その後楓の数々の努力により名前を教えてもらう迄には改善できたと思いたい。ただし、それ以上の会話などは何ひとつ発生していないのだけど。そういう訳で、未だ会話らしい会話をしていないルームメイトに楓の心は入学式を前にしても意気消沈気味だ。それからもう一つ。
ーーあの人、昨日もいなかった……。
思い浮かべるのは一週間前に出会った麗人。ルームメイトの話を出来る人で他に浮かぶ人も居なくて、というよりももう一度会いたくて楓は毎日のようにあの温室に通っていた。しかしあの日以来温室からピアノの音色が漏れ聞こえることも、人の気配を感じることもなかった。そもそも入口すら分からない。いつでもおいで、と言ってくれていたのに。なんて恨みがましいことを思っても相手の名前すら聞いていないのだから学園初心者の楓にはお手上げだ。折角良い縁が出来たと思っていただけに、落ち込み具合もひとしおである。
そんなこんなで入学式を前にして、楓の気分は最底辺に萎んでいた。しかしこの佳き日に何時迄もこの調子じゃ戴けないことも分かっている。楓はひとつ溜息を吐き出すと、舞い散る桜の花弁を降り仰いだ。会場である講堂前で入場待ち状態の楓たちは、誰もが緊張感と期待感を滲ませている。この中の半分くらいは中等部からのエスカレーター組で、その分高等部から編入する楓みたいな編入組より幾分も進んだ立ち位置に立っているのだろう。そんな人たちに置いていかれないように、それから友だちが出来るように。そんな決意を桜に誓うように、楓は降り注いだ花弁をそっと一枚手に取った。
入学式は言葉で表すなら圧巻のふた文字だった。まずひとつ挙げるなら、入場に合わせた初等部生による可愛らしいマーチ演奏だろうか。鉄琴や木琴を多く使用した愛らしい音に負けないくらい技巧も素晴らしかった。あれで初等部というのだから世界は広い。それと中等部から贈られた歓迎のコーラス。透明感ある歌声のハーモニーが綺麗だった。そして何よりも心惹かれたのは高等部の生徒たちによるオーケストラ演奏だ。式最後のイベントだったその演奏はプロ顔負けの音色と迫力だった。うっとりとするような優雅さと、何処か明るく飛び跳ねるような曲調は聞いたことのないものだったけれど、言葉よりも雄弁に今日という日を祝福してくれているようで楓の耳は未だに余韻に浸っている。そんな心躍る、素晴らしい式だった。
その式も終わり、現在。楓たちは生徒会主催の各委員会と部活動の紹介を受けている。司会を務めるのは生徒会副会長で、厳格そうな雰囲気と少し色素の薄い黒灰色の髪が何処か近寄り難い雰囲気を与える少年だった。
「それでは、各部活動の紹介をーー、」
委員会紹介の後、凛とした声に急かされるように各部活動の紹介が行われる。よくある美術部や手芸部から始まり、茶道や華道、ダンス部に軽音楽部、果てはミュージカル部など多彩に富んだ部活動たちはどれも魅力的だ。また音楽学校では珍しく運動部の活動も盛んなようで、活気に満ち溢れている。様々な趣向が凝らされた紹介を見ながら、楓の心は高揚していた。部活動に参加するのは個人の自由らしいが、こんなにも興味が湧く紹介をされては入ってみたくもなるものだ。どれがいいだろう。運動は少し苦手だから文化部だろうか。それでも選択肢は沢山ある。どうせなら気になる全ての部活に体験入部してみるのも良いかもしれない。早速今日の放課後にでも、と頭の中で計画を練っていると最後の部活紹介が終わりを告げた。それに合わせて司会の副会長が終了の挨拶を述べる。結局最後まで一度も表情を崩さなかった副会長に楓はこっそりと生徒会に参加する可能性を打ち消した。流石にルームメイトと先輩両方の愛想が悪いのは、この先胃を痛める事になりそうなので。
「それではこれで各委員会と部活動の紹介を終わります。新入生の方々は各自担任の指示に従ってーー、」
「あれ?もう終わっちゃうの?俺まだ紹介してないよ?」
形式的な挨拶を流すように聞いていた楓は、突然割って入った聞き覚えのある声にはっと息を呑んだ。慌てて司会の方を向き、目を凝らす。司会の副会長が表情を崩して驚いている目の前に、楓があれほど会いたいと思っていたあの人は立っていた。
「……月、お前いつ帰って……。」
「さっきだよ。ただいま、蒼生。ちょっとマイク借りるね。」
漏れ聞こえるよく分からない会話と共に呆然としている司会からマイクを奪ったその人は、ゆっくりと舞台の真ん中へ進む。唐突な登場に周囲の生徒たちの騒めきが大きくなった。それもその人がマイクに声を吹き込む事でピタリと止まる。
「あー。お、ちゃんとマイク通ってるね。…どーも。園芸部です。と言っても部員は1人なんだけど。植物や花に興味がある人を募集してます。主な活動内容は草花の手入れかな。あ、でもこの広い学園内の花壇とか全部手入れしているわけじゃなくて普段は温室の植物たちのお世話をしてます。良かったら遊びに来てくれると嬉しいな。」
待ってる、と付け加えられた言葉に女子生徒が色めき立った。いや、女子だけではない。男子生徒も何処かそわそわと次の言葉を待っている。それも頷けるほど、その人は相変わらず絵画から出てきたように綺麗だった。何気ない仕草も言葉も全てが人を惹きつける。
「あ、でも温室はーー、」
「花宮月!!何をしている!!!」
殆どの生徒がその人の話に耳を傾けていたその時、講堂内に怒声が響き渡った。それと同時に全員の視線が講堂の入口へと向く。そこには先程の式で挨拶を述べていた生徒会長と、その後ろに背が高く体格の良い、いかにも生徒指導といった風体の厳格そうな教師が1人立っていた。
「げ、桂木のやつ、やまちゃん連れてきた。」
そんな焦った声がマイクを通して講堂内に響き渡る。苦々しい顔をした生徒会長を前に、その人は早々にステージの端へと戻ると、副会長に向かってマイクを放り投げた。
「俺逃げるから。あと頼んだ。」
「え?あ、おい…!ちょっと待て……!」
静止の声も無視してその人はステージの裏側へと駆けていく。それを猛然と追う教師という図は想像するより恐ろしかった。だからだろうか。その人たちが去った後も生徒たちは誰ひとり声を発する事なく講堂内は静寂に包まれた。そんな中、1人だけ憮然とした様子で生徒会長がステージへと上がる。先程放り投げられたマイクを片手に混乱しているのであろう副会長を差し置いて最後の挨拶を述べた。
「……これで各委員会と部活動の紹介を終わります。ハプニングもありましたが、皆さん気にせず担任の指示に従って退場してください。」
落ち着いた声に、生徒たちの騒めきも戻ってくる。式の荘厳さ、どの部活に入るか、先程のひと騒動。そんな話題が飛び交う中、楓は緩む表情を見られないように俯いていた。もう会えないと思っていたあの人にまさかもう一度会えるなんて。
ーー園芸部……。
それなら楓でも入部できそうだ。なんせ実家で庭仕事は楓と父親の仕事だったのだから。もう一度会いに行ったらあの人はどんな顔をするだろう。それを想像するだけで楓の気分は浮上する。逸る気持ちを胸にしつつ担任の呼びかけに合わせて席を立つと、丁度副会長の姿が見えた。会長に頭を下げつつも、その表情は何処か嬉しそうな雰囲気を纏わせている。そのままステージ裏へと急ぎ足で入っていく様が何故か目に焼き付いた。
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
放課後、息をきらせて温室まで走ってきた楓の目の前に広がっていたのは人の山だった。あまりの人数に一瞬間違えたのかと思うが、目の前の個性的な建物は一週間前あの人と出会った場所で間違いない。他にも魅力的な部活は山程あったというのに、あの声掛けだけでここまで人が集まったのかと思えば自然溜息が溢れ落ちた。
ーーちょっと浮かれてたから恥ずかしいかも……。
なんというか、先に接点があった分、自分は特別なんじゃないかと思い込んでいた。だからなんとなく園芸部志望は自分が一番なのだと。だけど蓋を開けてみれば入部希望者は自分だけではないし、一番最初という訳でもない。それにここに集まった人達を見渡せば、純粋な入部希望者など殆どいない事も分かる。要はあの人目当てという事だ。それに自分も少なからず該当するのだからどうにも居た堪れない。まあ、園芸部自体にも興味があるからこそここに居るのだけれど。しかしてこの状況は楓の心を落ち込ませるには十分だった。
ーー諦めて帰ろうかな。
あの人に会いたいならまた日を改めればいい。あの時助けてもらったお礼をしに、お菓子でも持って会いに行こう。そう心に決めた楓は立ち去る前にもう一度だけ人混みを見渡し、おかしな事に気が付いた。人が減らないのだ。いや、追加で大勢が詰め寄せているのならそれで説明がつくが楓が来たくらいを皮切りに人数は増えていないように見える。なのに誰も温室の中へと入らない。それを不思議に思いながらも楓の頭には一週間前の出来事が思い起こされていた。
ーーそういえば入口、分かりづらかったような……。
楓が頭をぶつけたあの入口。音色に気を取られて気づかなかっただけかと思っていたが、どうも他の壁の部分と大差ない造りだったように感じる。というか、いま遠目から見ても何処が入口か分からない。もしかして、ここに居る誰にも入口が分からないんじゃないだろうか。そう考えるとこの人はけの悪さにも納得がいく。そんな楓の思考を裏付けるように誰かが『妙な鍵があった』と叫び声をあげた。
「鍵……。」
なんだその魅惑的な響きは。しかも『妙』って。ちょっと気になってしまうじゃないか。騒めきが広がる人集りにすっかり帰る気も失くして、楓は件の鍵というものを見に雑踏の中へと踏み込む。見るからに不思議な入口の分からない温室とそこに鎮座する妙な鍵。そんなの興味をそそられない方が少ない筈だ。とは言っても、人の多さにその妙な鍵の近くまで辿り着くことは無謀に近い。楓はある程度の距離で諦めつつも目を凝らしながら、そっと生徒たちの声に耳をすませた。それでいくつか分かったことがある。どうも鍵は温室に備え付けのものらしく、ぱっと見では分かりにくいものらしい。また、鍵といっても鍵穴やダイアルがあるのではなくどうも鍵盤らしきものが付いているのだとか。試しに何人かが弾いてみた音は楓の耳にも聞こえてきたが、ちゃんと対応した音が鳴るところをみるに、正しい旋律を奏でる事で開く仕掛けになっているのではないか、と。そんな憶測が飛び交う中、何人もの生徒がその鍵に挑戦しては諦めていく。輪の中に入れない楓を置いて1人また1人と消えていき、最後に残るは楓のみ。既に日は傾き、目にも眩しい夕焼け色が空を覆い始めている。そんな中で楓はゆっくりとその鍵に近づいた。一見するだけでは分からないように内側に埋め込まれた鍵。この鍵が開くことで、壁にしか見えないドアも開くようになるのだろうか。
ーーでも、当てずっぽうじゃ無理だ……。
8つの鍵盤で奏でられる音色の組み合わせはそれこそ星の数程ある。それをひとつずつ試すには生憎だが時間も労力も足りない。ならばどうするか。楓は少しだけ考えると、一番左端の鍵盤をそっと押してみた。それと同時に響く、『ド』の音。もう一度押せば、同じ音がまた響く。さらにもう一度、と押してみたところで響いた音に楓は微かな違和感を感じた。本当に微妙な違いだが、最後に押した時だけ音の響きが異なった気がしたのだ。途端に期待で熱くなる胸を抑えつつ、楓はまた『ド』の鍵盤に向き直る。一回、二回、三回。やはり最後の音の響きだけがおかしい。何かが詰まったように音の響きがくぐもるのだ。それは周りに人が居たなら気づけないほど些細な違和感であったが、楓に希望を抱かせるには十分すぎるほどの違和感であった。
ーーこれなら解けるかも……。
時間は掛かるだろうが、解くなら人が居ない今しかない。というよりも、解けそうな確信を得たのだから今解きたい。園芸部のことも温室のあの人も綺麗さっぱり抜け落ちて、楓はただ目の前の鍵に夢中で取り掛かった。
楓が最後の一音を探し当てた頃には、辺りはすっかり薄闇に包まれていた。まだ春先の寒い夕暮れ。しかし高揚感に包まれた身体はそんな寒さなど打ち消すほどに熱を帯びている。童謡の『きらきら星』。その最初の一小節が鍵を開くための正しい旋律だった。澄んだ音を響かせてその音色が奏でられると同時に、音を立てて鍵が開く。震える指でそっと手を伸ばせば、鍵盤の裏が開く仕掛けになっていることに気が付いた。その奥から現れたドアノブに詰めていた息を吐き出す。此処こそが楓の求めていた温室への入口なのだと改めて分かり安心したのだ。その安堵感からか楓は躊躇する事なく、ドアノブを回して扉を開いた。
ーー眩しい。
開いた先から漏れる柔らかな光に目を細める。独特の爽やかな草の香りと、甘い花の香りに少しだけ視界が回るのを感じながら一歩踏み込めば、草を踏む軽い音が耳に響いた。
「芝生……?」
敷き詰められた緑色に目を見張る。温室には珍しい直植えの芝生と、人が2人入れるほどの小さな空間。そして、今しがた入ってきたのとは異なる木造製の扉に楓は目を瞬かせた。温室の外からでも分かるほどの広い空間が拡がっているものだと思っていた為、ほんの少し拍子抜けしてしまう。ここは入口、で合っているのだろうか。では園芸部の活動はこの奥か。そう考えながら扉に手を伸ばした所で楓は動きを止めた。
ーーこれ、勝手に入って良かったのかな……。
今更だがその思考に至ったのだ。そもそも鍵が掛かっているという事は、入られたくないのだろう。それを破ったばかりか、ここまで侵入している。時間的にもそろそろ寮に帰らなければならない頃合いだ。そこに楓が入っていったら相手はどう思うだろうか。サッと自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。ひとつのことに夢中になると後先を考えなくなるのが己の悪い癖だと認識していたが、今回はそのエピソードの中でも特に最悪だろう。いや、でもまだギリギリ不法侵入にはならない。筈だ。温室の中まで入っていないのだし、このまま何事もなかったかのように帰って後日改めることにしよう。というか逃げよう。そう決めるが早いか楓は踵を返し温室から出ようとした。が、しかし。無情にも楓の目の前で木製の扉が音を立てて開く。なすすべもない楓が心臓を凍らせていると、扉から顔を覗かせた年上らしき少年と目が合った。癖毛が目立つ、端正な顔立ちの少年だ。その少年は楓の姿に驚いたのか、僅かに目を丸くする。
「ほう……。あの鍵を破る奴がいるとはな。……おーい、月!入部希望者が来たぞ!」
そんな言葉を皮切りに、少年はまた奥へと引っ込んでしまった。固まったままの楓を残して。
ーーえ、え、これどうしたらいいの……!?
少年の反応から非難めいた色は感じなかったが、かといってどうすれば良いか分からない。というか誰だあの人。園芸部の部員は1人だって言ってたじゃないか。そもそも入部希望者を待っていたのならどうして鍵をしていたのか。様々な疑問が頭を飛び交う中、急いた足音が此方へと近づいてくる。『走るな!』という焦った声と目の前の扉が大きな音を立てて開いたのは同時だった。
「ようこそ入部希望者!……て、あれ?君……。」
ぱちりと瞬く不思議な色の瞳。少女かと見紛うほどの美しい容姿に、耳に心地よい少し高めのテノール。一週間ぶりに近くで見たその人は、楓の姿を認めるとぱあっと顔を明るくした。その反応に覚えていてくれたのかと楓の胸にも喜びが溢れていく。期待に満ちた瞳に応えるように楓は口を開いた。
「あの、高等部1年の青山楓です。……入部希望です。」
ー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ーー♬ー
『温室』と呼ばれていたその場所は、温室というよりも庭園といった方が近い様相だった。ドーム型の広い空間は入口と同じように芝生が敷き詰められ、天井には柔らかな光を放つ照明が備え付けられている。そんな『温室』の中心を陣取っているのはアンティーク調の美しいグランドピアノだ。ひと目で大切にしているのが分かるほど丁寧に磨かれたそれは、明かりを反射し輝いている。そしてそのピアノを囲むように両側には大きな階段状の花壇があり、春の花や花木が所狭しと植えられては鮮やかな色彩で『温室』を彩っていた。それに目を奪われながら奥へと進めば、大きなテラステーブルが現れる。更には簡易的なシンクと食器棚まで置かれており、まるで海外にあるティーガーデンのようだった。そんな夢のように美しい温室で、楓は現在背筋に冷汗を流しながらテラステーブルに付いている。目の前では淹れてもらった紅茶が温かそうな湯気を甘い香りと共に漂わせているのに、楓の周りの温度だけ真冬のように低い。それは単に、楓に向けられている三人分の冷たい視線のせいだ。
「高等部2年の花宮月。園芸部部長です。改めてよろしくね。」
そう嬉しそうに自己紹介をしてくれた彼は楓の来訪を心の底から喜んでくれているようだった。手ずから紅茶を淹れてくれ、にこにこと笑みを絶やさない。それに楓が浮かれていられたのは最初のうちだけだ。入っておいで、と招き入れられた温室で楓を待っていたのは月だけではなかった。
「いやー、良かったよ。今年も入部希望者がいなかったらどうしようかと思って。」
そう笑って月が紅茶に角砂糖を落とす。1つ、2つ、3つ…5つ。溶けきれるか分からない量の砂糖の塊が水面に当たって跳ねる音を聞きながら、楓は居心地悪く縮こまっていた。折角淹れてもらった紅茶も、少し前から湯気が見えなくなっている。
「入部希望者など居なくとも、俺たちがいるだろう。」
カチャリと陶器がぶつかる音が響いた。それに肩が跳ねるのを感じながら、そっと視線だけで音の鳴った月の左隣を伺い見る。その視線に気付いたのか、音の主はうっそりとした笑みで楓を迎え入れた。酷く優雅にティーカップから紅茶を飲みながら、好意の欠片もない視線を向けてくる癖毛が目立つ端正な顔立ちの少年。九条夜、と名乗ったその人は楓が入口で出会った少年だ。
「ダメだよ。お前ら、いくら教えても花の名前ひとつ覚えないんだから。」
「それはそうだけどさ。俺らも心配してんだよ、月。」
もうすっかり冷めたであろう紅茶に息を吹きかける月に、今度は柔和な声が話しかけた。夜の左隣に座る、少し垂れ目で明るい茶髪の優しそうな人。唯一楓に同情の視線を向けてくる天ケ谷紫苑という名の先輩だ。彼は気遣うように眉を下げると、言いづらそうに口を開いた。
「また、一昨年みたいになったら困るだろ?」
「大丈夫でしょ。前も話したけど、良い子だったよ?」
ね、と同意を向けられてもどう反応すれば良いか分からない。そもそも楓には一昨年何があったのかも分からないし、分からなければ自分がそういう行動をしないとは断言しにくい。だからといってこの緊迫した雰囲気と楓に対する周りの警戒から、良くないことがあったことは流石の楓でも分かる。それを踏まえた上でなんと発言したものか。視線を彷徨わせながら思考を巡らせていると、苛立たしげな溜息が月の右隣から落ちた。その音に血の気が引いていく。この空間で楓が一番恐怖を感じている人物。温室に楓が入ってきた時から値踏みするように眉を寄せたまま、凍り付かせるような視線を向けてきた先輩。その人は、あの入学式の日に楓が怖いと感じていた生徒会副会長の少年だった。名を、清水蒼生という。
「……大丈夫かどうかなんて、お前が決めることじゃないだろ。何かあってからじゃ意味が無いんだ。そもそも鍵掛けてたのに破って入ってくるか?立派な犯罪じゃないか。」
少し色素の薄い髪を乱暴に掻き混ぜて、蒼生は眉間の皺を一本増やした。精悍な顔つきが苛立ちで歪んでいる。しかし言っていることは正論で、楓には反論する余地もない。犯罪だと感じていたのは自分も同じなのだ。心臓が嫌な音を立てて鳴り続け、足が竦む。変な汗が背中に滲むのを感じながら蒼生の視線に耐えかねていると、ふいに楓の頭に暖かい手が乗せられた。驚く楓の耳にふふ、と柔らかな笑い声が届く。いつの間にか楓の背後に立っていた月が、楓を守るように蒼生を睨め付けた。
「あんま苛めるなよ。てか、お前がどうやって希望者募るかちゃんと言わないからだろ。あと頼んだ、って言ったのに。」
「あんな状況で言えるわけないだろ。それに鍵掛かってても本気で入部したけりゃ教師に尋ねれば良いんだよ。今日来たやつなんて全部、客寄せパンダの客だ。ただの野次馬ーー、」
「え?俺、パンダなの?」
蒼生の言葉を遮って、月が驚きの声をあげる。先程までの頼もしい様子とは一転、見上げた楓の視線の先でくるりと丸くなる瞳は子供のようだ。その変化についていけない楓の前で蒼生が苦虫を噛み潰したような顔で息を吐き出した。
「あのな。そんな事ひと言も言ってないだろ馬鹿。お前目当ての奴が居るから自衛しろって俺は言ったんだよ。一昨年みたいな事になったら俺が会長に怒られるんだぞ。」
「なんで蒼生が桂木に怒られるんだよ。俺が文句言いに行ってやろうか?」
「そうじゃなくて……!」
楓を挟んで二人の言い合いはどんどんヒートアップしていく。しかし聞いていると、話の論点を月が変な方向に転がすのでどうにも真面目な雰囲気になりきれない。最終的に押し負け口数を減らしたのは蒼生の方だった。
「……っ、の馬鹿!」
「馬鹿って言う方が馬鹿なんだからな。ばーか。ばか蒼生。」
最早小学生の喧嘩である。収拾がつかなくなってきた遣り取りに楓はオロオロと視線を彷徨わせるが、夜は我関せずと紅茶を飲んでいるし紫苑は苦笑を浮かべているものの止める気は無いようだ。その間にも益々幼稚になっていく二人の喧嘩を止めたのは、意外にも夜の揶揄い混じりの声だった。
「素直に心配していると言ったらどうだ、蒼生。」
「……うるさい。」
それまでの勢いを無くし、蒼生がバツの悪そうな顔で目を逸らす。ほんの少しだけ染まった耳に先程までの恐ろしい印象が形を潜めた。怖い事に変わりはないがこれまでの話を聞いていた楓としても、蒼生が真剣に月を心配している事は分かる。もしかしたら思ったよりも悪い人じゃないのかもしれない。そんなことを考えていると、二人が落ち着いたのを確認した紫苑が柔らかく口を開いた。
「月。さっきも言ったけど、皆んなお前のこと心配してんだ。でもお前が入部希望者を楽しみにしてた事も分かる。だから取り敢えず、その子に話聞こーぜ。それから考えても悪くないだろ?」
その言葉に全員の視線が楓に注がれる。それに一瞬身体が強張るが、月が宥めるように楓の肩を軽く叩いてくれたのでなんとか落ち着くことが出来た。ゆっくりと深呼吸をすれば身体の強張りも解けていく。楓はもう一度深く息を吸い込むと、向けられた視線に真っ直ぐ向かい合った。
楓が園芸部に興味を持った一番のきっかけは月の呼びかけがあったからだ。この学園に来て初めて出会った先輩。迷子だった楓を見つけて、助けてくれた。そのお礼がしたくて、もう一度あのピアノが聴きたくてここまで来たのだ。だけどそれが蒼生たちの懸念に触れないかと言われれば微妙なところだろう。下心がないというわけでは無いのだから。勿論、蒼生たちが思う邪な気持ちは無いが仲良くなりたいという思いはあった。だからそれを責められたらどうしようもないけれど。
「……それに、ちゃんと園芸部にも魅力を感じているんです。実家で、庭仕事は父と僕の役目で…世話をした分ちゃんと育ってくれる植物が好きだなって。ここの、温室の植物を見たら凄く手を懸けているんだって分かります。大切にしているんだって。素敵な場所だって思いました。僕もそのお手伝いが出来たらなって。だから、本当に勝手に入って来て申し訳ないんですけど……僕、園芸部に入部したいです。」
緊張しながらひと息に言ったものだから、最後の方は声が掠れて震えてしまった。心臓は耳に響いて痛いほど鳴っているし、握りしめていた手のひらは汗で湿っている。それでも言えたことにほっとひと息ついていると、ふと楓の背後で空気が揺れる音がした。月が笑ったからだ、と気づくよりも先に優しい声が落ちる。
「そう。……嬉しいなぁ。君みたいな子が来てくれて。俺のピアノもこの温室も、好きだって思ってくれたんだろう?……だったらきっと大切にしてくれる。君が来てくれて良かった。歓迎するよ、楓。あ、そうだ俺の事は月でいいよ。みんなそう呼ぶんだ。」
振り向いた先で、楓の髪をくしゃくしゃにした月が嬉しそうに手を差し出してきた。慌ててその手に自分の手を重ねれば、温かさに泣きそうになる。それをなんとか堪え、楓は笑顔で応えた。
「はい!よろしくお願いします、花宮先ぱ…えっと、月…さん。」
まだ口に慣れない名前は、きっとこの先たくさん呼ぶ事になるのだろう。そんな未来に心を馳せていると、楓の背後で盛大に息を吐く音が響いた。それに驚いて振り返れば、月以外の三人が脱力したように椅子にもたれかかったり、テーブルに突っ伏したりしている。その変わりように楓が目を白黒させている隣で口を開いたのは紫苑だった。
「あ~~良かったぁ!!良い子が来てくれて!夜と蒼生まじでこえーんだもん。しかも蒼生、月と喧嘩しだすしさぁ……俺、もうどうしようかと…。」
「いや……あれは月が悪いだろ…。というか俺怖かったか?夜の方がやばいだろ?」
不思議そうな蒼生に対し、幾分落ち着いた様子の夜が溜息を吐く。呆れた表情は先程までの冷たい印象とは異なり、どことなく楽しげだ。
「お前は一度鏡を見た方がいいな。真面目な顔のつもりだろうが、不機嫌そうで近寄りがたい。初対面でそれでは相手が可哀想だ。」
「悪口だろ、それ。……いや、もういい。お前と話すと疲れる。」
ひらりと手を振って蒼生は諦めたように息を吐き出した。憮然とした表情は変わらないが、不機嫌というよりは少し拗ねているように見える。その様子は夜が言うような近寄りがたい印象とはかけ離れているようだ。そのまま蒼生は自分の紅茶に口をつけると、チラと楓の方に目を向けた。考え込むような素振りに内心緊張していれば、おずおずとした笑顔を向けられる。楓の後ろで月が押し殺したように笑う声が聞こえた。
「……その、怖がらせてたなら悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、月…そいつ、無駄に顔だけ整ってるだろ。」
「なんだよ蒼生。顔だけじゃないだろ。」
「お前は黙ってろ。……それでだな、園芸部入部希望者っていうと、そいつの顔に釣られて勘違いした奴がホイホイ来るんだよ。それで一昨年結構大事になって…。」
その時のことを思い出したのか、蒼生が苦々しく息を吐きだす。はっきりと分かるほどの嫌悪感に月の様子を覗き見れば、柔らかい笑みで返された。確かにこれでは周りにいる人間は気苦労が絶えないだろう。
「そっからはなるべく温室に鍵掛けるようにしたんだよ。そんで入部希望者は、月じゃなくて俺たち…俺と、蒼生と、夜な。そこを通してくれって事にしたんだけどさ。……今日はバタバタしてたからなぁ。」
黙り込んでしまった蒼生に代わり、紫苑が苦笑しながら説明を続けてくれる。思い返せば部活紹介の時、確かに月は何かを言いかけていた。それがこんな事情に繋がるなんて。鍵にしても、好意的でない雰囲気にしても、全ては仕方がない事だったのだろう。それが分かっただけで楓も安堵の息を漏らす事が出来た。
「ほら、やっぱり蒼生がちゃんと言ってないせいじゃん。」
「だから、あの状況で言える訳ないだろ……!お前こそ許可も貰ってないのに無茶苦茶しやがって……!!」
「仕方ないだろ。ああでもしなきゃ今年も誰も来なかったかもなんだからな!そもそもお前が毎回毎回入部希望者を追い返すから……!」
「それはお前が……!」
また言い合いが始まった二人を横目に、冷めてしまったからと紫苑が新しく紅茶を淹れてくれる。夜は相変わらず我関せずだが楽しそうなのも変わらない。どうもこれがこの人達の日常のようだ。
「あいつら何時もあんな感じだから気にしなくていーぜ。あ、茶菓子も食う?」
「俺にもくれ、紫苑。……まあ、これから先は俺たちともよく顔を合わせるだろうからな。よろしく頼む、後輩。」
「あー、俺ら何時もここにいるからなぁ。」
改めまして、と紫苑たちが歓迎の意を示してくれた。軽い世間話ついでに自分達のことも話してくれる。この四人は大抵この温室にいるらしいが、園芸部なのは月一人だけで他はそれぞれ別の部活や委員会に所属しているのだとか。蒼生は分かっていたが生徒会、夜は茶道部、紫苑は軽音部らしい。そう言われてみれば部活紹介で紫苑と夜の顔も見た気がする。世間は案外狭い。
「部活多かったろ?あれで新入部員確保すんの難しくてさー。軽音部、なかなか居ないんだよね。誰かクラスに良い子いたら紹介してくんない?」
「茶道部も最近は少ないな。まあ、こういうものは縁だから気にせずともいずれはどうにかなるさ。」
「……夜のそういうとこホント羨ましいわ…。」
そんな会話をしながらお茶を楽しんでいると、言い合いが終わったのか月が此方へと近づいてきた。テーブルの上のクッキーに目を輝かせる様子に、紫苑が笑いながら新しい紅茶を注ぐ。それにまた大量の砂糖を溶かす横で、蒼生が疲れたように息を吐き出した。多分今度も言い合いに負けたのだろう。見た限り、一番真面目そうな蒼生は月の奔放さに勝てないようだ。それでも気にかかるのか眉間に皺を寄せながら世話を焼いている。それが何処となく微笑ましい気がするのは、蒼生に対する恐怖心が払拭されたからだろう。
「あ、そうだ。楓は楽器の専攻なに?ピアノ弾ける?」
相変わらず紅茶に息を吹きかけながら月が首を傾げた。その表情にはありありと期待が浮かんでいる。それに苦笑しながら楓は小さく首を振った。
「すみません。僕、調律師を目指していて楽器はあんまり……。ピアノ、少しなら弾けるんですけど。」
「へえ。珍しいんだな。……いいな、そういう目標があって入学っての。しっかりしてるっていうか。」
ふ、と蒼生が軽く笑みを浮かべる。この人、本当に普段の表情で損しているかもしれない。柔らかな雰囲気は近寄りがたさなんて感じさせないのに。しかもさり気無く褒めてくれるのが嬉しい。蒼生の言葉に照れていると、紫苑が話を引き継ぐ形で口を開いた。
「そんじゃ、高等部入学か。調律師のコースって高等部からだもんね。入学式どうだった?初だろ。」
「あ、えと…凄かったです!豪華で、洗練されていて…!初等部のマーチは可愛らしかったし、中等部のコーラスもすごく素敵でした。それから高等部の演奏も!あんな演奏を聴けるなんて本当に贅沢で……。」
気さくな紫苑に乗せられながら、今日の入学式で感じたことを話す。マーチやコーラス、何よりオーケストラの演奏。初めての豪奢な入学式は一生の思い出に残るものだった。あの演奏は今でも耳に残っている。
「それから曲も…式に相応しい優雅さなのに明るくて、楽しげで。聴いていて心が暖かくなるような曲でした。」
初めて聴いた曲だったけれど、惹き込まれるような魅力が詰まっていた。例えるなら春が待ち遠しいと微笑む表情を見つめるような。息を呑みたくなる程美しいのに暖かい。
「ほう……。そうかそうか。だ、そうだ。月。良かったな。」
「え、」
「ふふ、ありがとう。やっぱ褒められると嬉しいね。」
「え?」
少し照れたように頬を紅潮させて月が笑った。その表情と言葉の意味が分からない。楓はただ入学式の感想を言っていただけなのに、それがどうして月の『ありがとう』に繋がるのだろう。そんな疑問が表情に透けていたのだろう。月は可笑しそうに笑うと、ほんの少し意地悪く目を細めた。
「いま君が褒めてくれた曲、作ったの俺だよ。」
「……え?」
ーーあの曲を、この人が、学生の月さんが作った……?
「え、えええ!?」
驚き過ぎて素っ頓狂な声をあげる楓に、月は相変わらず綺麗に笑うばかりだ。それでもその発言を訂正する人間はここには居ない。ならば本当にあの曲を作った人間は月なのだろう。固まる楓の前で月と夜は悪戯が成功したように笑い合っているし、紫苑と蒼生は溜息を吐き出している。そんな中で月はもう一度楓に目を向けると得意げに微笑んだ。
「俺、結構凄いんだぜ。知らなかったろ。」
「し、知りませんでした……。」
その答えに満足したのか、子供のような満面の笑みに楓まで脱力する。なんというか、凄い人と知り合いになってしまった。これからの学園生活、穏やかに過ごせることを願っていたけれどこの感じはどう転んでも劇的だ。なのに嫌じゃない。
あの曲のように弾む未来を想像して、楓は胸を高鳴らせた。
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