【完結】魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――

ムラサメ

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反則

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「空耳です」とマルクに切り捨てられながらも、カイルの執務机の上には、もはや再起不能となったペンの残骸が積み上がっていた。

「……終わった。これですべてだ!」

最後の一枚に殴り書きのような署名を叩きつけると、カイルは椅子を蹴るようにして立ち上がった。マルクが書類を確認する間も惜しみ、彼は雷光のような速さで執務室を飛び出していく。


その頃、離宮の一室では、エリナが人生で一度も経験したことのない「戦い」の真っ最中だった。

「……え、エリナ様、背筋を伸ばしてください。……ああっ、また洗濯物を干す時のような前傾姿勢に!」

「も、申し訳ありません、ルカ様……! どうしても、籠を抱える癖が……」

ルカが頭を抱え、手元の教本をパタンと閉じる。

エリナは、頭の上に薄い陶器の皿を乗せたまま、生まれたての小鹿のように震えながら絨毯の上を歩いていた。王宮のマナー、歩き方、そして淑女としての微笑み。

伯爵家で日陰の存在だった彼女にとって、難解な試練だった。

「だめだよ兄さん、そんなに固く教えちゃ! エリナちゃん、もっとこう、ふわっと! 殿下に抱きしめられる時みたいに、幸せそうな顔して!」

「レオン様、そ、そんな恥ずかしいこと言わないでください……!」

​レオンが次々と運び込ませたドレスの山。

そのどれもが、カイルが選んだ重厚なものではなく、エリナの淡い藤色の髪に似合う、風に揺れるようなシフォンや繊細なレースのものばかりだった。

​「ふふ、いい調子だ。やっぱり僕の目に狂いはなかったな。君の魔力は、こうしてリラックスしている時こそ一番輝く」

​窓際に腰掛け、優雅に茶を啜りながら眺めていたフェリクスが、不敵に目を細めた。

​「……あの、皆様。本当に、私なんかがこんな……」 

「おっと、その言葉は禁止だよ、聖女様」

​フェリクスがひらりと椅子から立ち上がり、エリナの目の前に立った。
彼はエリナの顎を指先でクイと持ち上げ、その曇りのない瞳を覗き込む。

​「君は、カイルが選んだ女だ。自分を安く見積もることは、アイツの目を疑うのと同じことだよ?」

「カイル様の、目を……」

「そう。アイツを喜ばせたいんだろう? なら、最高に可愛い自分を見せて、アイツを腰抜けにさせてやりなよ」

​フェリクスの言葉に、エリナの瞳に小さな火が灯る。

カイルのために。自分を見つけてくれた、あの熱い手を持つ人のために。

​「……はい! 私、頑張ります!」

​エリナが気合を入れ直し、再び頭の上にお皿を乗せた、その時だった。

​バガァァァァァン!!

​離宮の正面玄関が、物理的な衝撃で吹き飛んだ。
地響きのような足音。廊下を突き抜けてくるのは、間違いなく、怒りと焦燥で理性を焼き切った「獅子」の気配だ。

​「……エリナァァ!! どこだ! 私のいない間に、その銀髪が何をした!!」

​「げっ、早すぎるよ殿下!」

「まだドレスの試着が終わっていません! レオン、隠して!」

​ルカとレオンが慌ててエリナをカーテンの裏へ押し込もうとするが、もう遅い。

扉が壊れんばかりの勢いで開け放たれ、そこには髪を振り乱し、服のあちこちにインクを跳ねさせたままのカイルが立っていた。

​彼の鋭い碧眼が、部屋の中にいる面々を射抜く。
そして、頭の上にお皿を乗せ、慣れないドレスの裾を握りしめて固まっているエリナの姿を捉えた。

​「…………エ、エリナ?」

​カイルの殺気が、一瞬で霧散した。
代わりに、彼の顔は耳の先まで一気に真っ赤に染まっていく。

​「……なんだ、その、姿は……」

「あ、あの、カイル様……これは、その……特訓で……」

​お皿をガシャリと落とし、エリナが顔を覆ってしゃがみ込む。

カイルはよろよろと彼女に歩み寄り、
​「その格好はなんだ。誰が着せた。……フェリクス、貴様か。私の許可なく、彼女をこれほど……」

​「これほど?」

​ フェリクスがわざとらしく聞き返す。カイルは答えられない。

 「美しくした」なんて言葉を口にすれば、自分の負けだと思っている。あまりのまばゆさに、自分の目が焼かれそうなほど、今の彼女は完璧だった。

​「……隠せ。今すぐ、その肌を隠せ。……マルク! カーテンをすべて閉めろ! 窓もだ! 隙間一つ作るな!!」

​「無茶を言わないでください、殿下」

​ カイルはエリナの肩に自分の上着を乱暴にかけ、彼女を背後に隠すようにして三人を睨みつけた。

​「貴様ら……!! 誰に、これを見せるつもりだった。夜会だと? 冗談ではない。こんな姿を他の男に見せるくらいなら、私は今すぐこの国を焼き払ってお前を連れて逃げるぞ」

​「あ、あの、カイル様……! 私、カイル様に喜んでほしくて、それでルカ様たちに……」

​ エリナが上着の裾を掴んで、震える声で告げる。

​「貴様ら……!! 誰に、これを見せるつもりだった。夜会だと? 冗談ではない。こんな姿を他の男に見せるくらいなら、私は今すぐこの国を焼き払ってお前を連れて逃げるぞ」

​「あ、あの、カイル様……! 私、カイル様に喜んでほしくて、それで皆さまに……」

​ エリナが上着の裾を掴んで、震える声で告げる。
 その瞬間、カイルの顔面は朱に染まり、喉の奥で「ぐっ……」と呻き声が漏れた。

​「私に……? 私のために、そんな……」

​ カイルは、自分に向けられた真っ直ぐな献身に、心臓を直接握り潰されたような衝撃を受けた。彼は顔を覆い、その場に崩れ落ちるように片膝をつく。

​「……卑怯だ、エリナ。そんな顔で言われたら、私は……。……おい、お前ら。今すぐ失せろ。死にたくなければ三秒以内にこの場から消えろ」

カイルは背後にいる三人を、血走った目で振り返った。

​「言われなくても。……まあ、精々頑張って。明日の夜会、君がどれだけ周囲を威嚇しても、彼女の輝きまでは隠しきれないんだから。……カイル、君が一番分かっているだろう? 彼女はもう、君だけの『秘密』じゃいられないってことくらい」

フェリクスは肩をすくめ、カイルの放つ刺すような視線をさらりとかわし、双子を連れて静かに部屋を去った。

​ 静寂が戻った部屋で、カイルはしばらく動けなかった。握りしめた拳が、怒りと、動揺でわずかに震えている。

​「……カイル様? あの、やっぱり……あまり良くなかったでしょうか」

​ エリナが不安そうに、カイルの上着の裾をそっと握った。

 その控えめな仕草が、カイルの胸の奥を激しく掻き乱す。彼はゆっくりと振り返ると、エリナの頬を包み込むように手を伸ばした。

​「……違う。良すぎて、腹が立っているんだ」

​ カイルの声は、戦場での冷酷な命令とは程遠い、掠れた響きだった。

​「お前が綺麗になればなるほど、お前を誰の目にも触れさせたくないと思ってしまう」

​「カイル様……」

​「だが。……お前が私のためにと、慣れない作法を学び、そのドレスを選んだというのなら」

​ カイルは一度だけ目を閉じ、自分の中の独占欲を無理やり抑え込むように深く息を吐いた。再び目を開けた時、そこには守護者としての強い光が宿っている。

​「……分かった。明日、私はお前を連れて会場へ向かう。ただし、私の側を離れることは万に一つも許さん。誰がお前を望もうと、髪先一本にも触れさせない。……いいな」

​ カイルはそう告げると、エリナの小さな手を、壊れ物を扱うような手つきでそっと取った。

 そして、自分の両手でその手を包み込むようにして、逃がさないよう、けれど優しく握りしめる。

​「……はい、カイル様。私は、ずっとお側にいます」

​ エリナが微笑み、彼の胸にそっと頭を預ける。
 カイルは彼女の温もりにようやく安堵し、その藤色の髪を慈しむように撫でた。
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