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番外編② 花一輪、枯泉に根を張る ー花梨の話
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春菜の結婚式に招待され、日取りを聞いてからというもの、花梨はずっと「幸せ」について考えている。「幸せそうだね」「幸せになってね」「お幸せに」式場ではそんな言葉が飛び交うのだろう、そして自分もそう口にすることになるのだ、と気づいたからだ。
ーー僕のことは忘れて、幸せになってくれ。
就職前に別れた彼から聞いたその言葉は、今の花梨にとってほとんど呪いに変わっている。幸せとは何だろう。あのときの自分にとっては、彼といる未来こそが幸せなのだと信じて疑わなかった。
だから、事故に遭った彼の妻が脳死になるや、動揺した彼が別れ話を切り出したときにも、花梨は頑なにそれを拒んだ。
妻は彼にとって、間違いなく一度は愛した女性だった。動揺するのも無理はない。花梨とて、それを批難する気はなかった。
花梨は花梨なりに、覚悟したつもりだった。一緒に背負わせてくれ、と言った。その悲しみを。その苦しみを。それでも、彼は頷かなかった。君とはもう、一緒にいられない。そう繰り返すだけだった。
もしも、彼の妻が事故に遇わなければ、淡々と離婚が成立していただろう。けれど、彼女は事故に遭ってしまった。さらには、それが脳死という形でーー死と生との間の存在として、彼の目前につきつけられた。
彼が交わした最後の言葉が、次の調停日を決めるための事務的なものだったことも、そのときの妻の顔が、冷めきって目線も合わせない、まるで他人行儀なものだったことも、彼をひどく滅入らせていた。
「愛していたと伝えればよかった」。彼は泣きながらそう言った。それが彼のわがままだと、当時の花梨は思えなかった。
ひたすら自分の殻にこもり、後悔している彼の耳に、もう花梨の声は届いていなかった。届くとしたら、昏々と眠りつづける彼の妻の声だけだっただろう。
その姿を見る花梨は孤独だった。大切な人が、ただ一人で孤独に身を浸しているのは、ひどく虚しかった。そして同時に悟った。悟らざるを得なかった。もう、この人と自分の将来はないのだ、と。
妻との離婚調停については、まだ外部には知らせていなかった。周囲の混乱を招くだろうから、きちんと決まってから知らせようということになっていたのだ。
だから、彼は周りから見たら、「事故で突然、愛する妻と意思疎通ができなくなった男」だった。悲しみに暮れる彼は、実際そうとしか見えなかった。
花梨との将来を夢のように思い描いていたからこそ、彼の反動も大きかったのだろう。
自分の将来を考えること自体、彼にとっては罪悪に思えるらしかった。当然、その状態の妻を差し置いて離婚を進める気にもならないようだったーーいや、もう妻との離婚を考えること自体、思えないようだった。
落ち込む彼に、花梨はどうにか前向きな決断をと説得したが、無駄なことだった。
花梨は結局、彼の別れ話を飲んだ。それが、大切な人に返せる思いやりなのだろうと分かったからだ。彼はそのときも、絶望に染まりきった表情でうなだれていた。
すまない。僕がふがいないばかりに。
彼女のことも、君のことも、傷つけてしまった。
幸せがあると思った彼との将来は、あっという間に暗闇に飲まれた。花梨は彼のいないところで泣いた。涙を見せないことも、彼への思いやりのつもりだった。別れ際、花梨は微笑みすら浮かべて言ったのだ。
安心して。私、ちゃんと幸せになるから。
本当はみっともなく泣き崩れ、その胸にすがりつきたかった。重ねられなかった肌を重ね、もう目を開けない人間のことなど忘れろと叫び、ともに泣き、笑える自分のぬくもりを彼に刻み付けたかった。
でも、花梨はそうしなかった。できなかったし、しなかった。そのどっちでもあるけれど、今さら考えたところで何が変わるわけでもない。
今、わかることといえば、そのまますがりついて彼といたとしても、結局「幸せ」にはなれなかっただろう、ということだけだ。
幸せとは何だろう。
花梨はぼんやりそう考えては、カレンダーを眺める。
彼に別れを告げてから、五年以上にもなる。
彼の妻は、まだ生きているのだろうか。
奇跡的に脳死から覚めた、という話も、死んだ、という話も、結局聞かずじまいのまま、今にいたっている。
同期のハレの日が、一日ごとに近づいてきている。
その日までに、見つけられるだろうか。
幸せ、というものが、どういうものなのか。
ーー僕のことは忘れて、幸せになってくれ。
就職前に別れた彼から聞いたその言葉は、今の花梨にとってほとんど呪いに変わっている。幸せとは何だろう。あのときの自分にとっては、彼といる未来こそが幸せなのだと信じて疑わなかった。
だから、事故に遭った彼の妻が脳死になるや、動揺した彼が別れ話を切り出したときにも、花梨は頑なにそれを拒んだ。
妻は彼にとって、間違いなく一度は愛した女性だった。動揺するのも無理はない。花梨とて、それを批難する気はなかった。
花梨は花梨なりに、覚悟したつもりだった。一緒に背負わせてくれ、と言った。その悲しみを。その苦しみを。それでも、彼は頷かなかった。君とはもう、一緒にいられない。そう繰り返すだけだった。
もしも、彼の妻が事故に遇わなければ、淡々と離婚が成立していただろう。けれど、彼女は事故に遭ってしまった。さらには、それが脳死という形でーー死と生との間の存在として、彼の目前につきつけられた。
彼が交わした最後の言葉が、次の調停日を決めるための事務的なものだったことも、そのときの妻の顔が、冷めきって目線も合わせない、まるで他人行儀なものだったことも、彼をひどく滅入らせていた。
「愛していたと伝えればよかった」。彼は泣きながらそう言った。それが彼のわがままだと、当時の花梨は思えなかった。
ひたすら自分の殻にこもり、後悔している彼の耳に、もう花梨の声は届いていなかった。届くとしたら、昏々と眠りつづける彼の妻の声だけだっただろう。
その姿を見る花梨は孤独だった。大切な人が、ただ一人で孤独に身を浸しているのは、ひどく虚しかった。そして同時に悟った。悟らざるを得なかった。もう、この人と自分の将来はないのだ、と。
妻との離婚調停については、まだ外部には知らせていなかった。周囲の混乱を招くだろうから、きちんと決まってから知らせようということになっていたのだ。
だから、彼は周りから見たら、「事故で突然、愛する妻と意思疎通ができなくなった男」だった。悲しみに暮れる彼は、実際そうとしか見えなかった。
花梨との将来を夢のように思い描いていたからこそ、彼の反動も大きかったのだろう。
自分の将来を考えること自体、彼にとっては罪悪に思えるらしかった。当然、その状態の妻を差し置いて離婚を進める気にもならないようだったーーいや、もう妻との離婚を考えること自体、思えないようだった。
落ち込む彼に、花梨はどうにか前向きな決断をと説得したが、無駄なことだった。
花梨は結局、彼の別れ話を飲んだ。それが、大切な人に返せる思いやりなのだろうと分かったからだ。彼はそのときも、絶望に染まりきった表情でうなだれていた。
すまない。僕がふがいないばかりに。
彼女のことも、君のことも、傷つけてしまった。
幸せがあると思った彼との将来は、あっという間に暗闇に飲まれた。花梨は彼のいないところで泣いた。涙を見せないことも、彼への思いやりのつもりだった。別れ際、花梨は微笑みすら浮かべて言ったのだ。
安心して。私、ちゃんと幸せになるから。
本当はみっともなく泣き崩れ、その胸にすがりつきたかった。重ねられなかった肌を重ね、もう目を開けない人間のことなど忘れろと叫び、ともに泣き、笑える自分のぬくもりを彼に刻み付けたかった。
でも、花梨はそうしなかった。できなかったし、しなかった。そのどっちでもあるけれど、今さら考えたところで何が変わるわけでもない。
今、わかることといえば、そのまますがりついて彼といたとしても、結局「幸せ」にはなれなかっただろう、ということだけだ。
幸せとは何だろう。
花梨はぼんやりそう考えては、カレンダーを眺める。
彼に別れを告げてから、五年以上にもなる。
彼の妻は、まだ生きているのだろうか。
奇跡的に脳死から覚めた、という話も、死んだ、という話も、結局聞かずじまいのまま、今にいたっている。
同期のハレの日が、一日ごとに近づいてきている。
その日までに、見つけられるだろうか。
幸せ、というものが、どういうものなのか。
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