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「ごめんなさいすみませんほんっとに申し訳ありませんっっ!!」
「いや、大丈夫だよ。午前中お休みにしといたから……お礼は課長にね。きっと疲れてて休んでるんだろうけど、もし来る途中で何かあったんなら大変だから、一時間後に連絡するよう頼まれてたんだ」
当然モーニングコールのことなど知らない三原は、困ったような笑顔で言った。穴があったら両手を上げて飛び込みたい気分の春菜はただひたすら小さくなって頭を下げ続けるばかりだ。
二度寝で半休など、まがりなりにも就職して五年の人間のすることではない。恥ずかしいにも程がある。しかも今朝は重役のサテライト会議だったのだ。端末資料の最終確認など、春菜がすべき雑用、もとい仕事があったのである。社会人としてあるまじき失態。弟に知られたら「ねぇちゃんってそれだから……」と呆れられることだろう。
「ま、いろいろ考えたりして寝不足気味だったりもするんでしょ。体調崩す前に、休めるときに休みなよ」
「考えたり……?」
何か悩んでいるようにでも見えただろうかと、春菜は思わず首を傾げた。三原はやや言いにくそうに視線を泳がせながら、
「いや、ほら……急に変わったこともあったし、こまっちゃんくらいの年頃だと、気になったりもするよねって」
オブラートに包んでいるが、小野田とのことを念頭に置いているのだろうと察しがつき、春菜は慌てた。
(そんな、人を恋する乙女のように)
「ち、違います、私は本当にただ」
ただの寝坊なんです。と言おうとしたとき、不在にしていた日高が帰ってきた。
「おっはよー、こまっちゃん。体調、だいじょぶ?」
日高がひらりと手を振る。その後ろにはすらりとした長躯。
小野田だ、と脳が判断するとほぼ同時に、優しい声が振ってきた。
「おはよう、小松さん」
春菜はかろうじて、その顔を仰ぎ見た。柔らかい声に見合う優しげな瞳。穏やかな微笑み。
「……おはよう、ございます」
答えてうつむき、一呼吸置いてから深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけして、申し訳ありません」
日高と小野田が顔を見合せる気配がした。春菜は頭をしっかりと下げたまま、身動きもできずじっとしている。じわりと目ににじんできた涙の理由は、先ほど感じていた社会人らしからぬ自分への情けなさに加え、非の打ち所のない上司に面したからだ。
(部下と上司としてですら、私は課長の近くに相応しくない)
頭を下げたままじっと動かない春菜の頭上で、小野田の小さな嘆息がした。小野田の指示だろう、日高と三原がデスクで自分の仕事に戻る。
「小松さん。ちょっとおいで」
声は変わらず穏やかで優しかった。春菜は顔を上げられないまま頷き、小野田の背を追って部屋を出る。
歩いていく小野田の背におとなしくついていくと、自販機前の休憩スペースまで来た。
「何飲む?」
小野田は言いながらポケットから小銭を取り出し、ちゃりんちゃりんと自販機に投げ入れる。小銭入れからではなく、ズボンから直接出てきた小銭に春菜は元の姿の面影を見て、ふと微笑んだ。
「どうしたの?」
「あ、いえ」
不遜だったとまた顔を引締める。小野田は不思議そうにしながらボタンを押した。がこんと音を立てて出てきた飲み物を春菜に差し出す。
「はい」
「え?あ、ありがとうございます」
渡されたのは、春菜がよく飲んでいるレモンティーだった。
「でも、自分で出します」
「いいよ。そんなの」
小野田はひらりと手を振って、自分の分のボタンを押した。ブラックコーヒー。いつもせいぜい微糖だったように思うが、勘違いだったろうかと春菜は出てきたそれをぼんやり眺めた。
小野田はプルタブを開けながら休憩スペースの椅子に腰掛け、春菜に正面の椅子を勧めた。レモンティーを両手に持ったまま、春菜はおそるおそる腰掛ける。
コーヒーを一口飲み込むと、小野田はちらりと舌を出して顔をしかめた。
「苦い」
「そりゃ、ブラックですから」
くしゃりと崩れた小野田の相貌に、春菜は思わずくすりと笑った。つられたように小野田も笑う。
「だって久しぶりだったから。ブラックなんて」
「じゃ微糖にすればいいのに。私奢りましょうか」
「ううん。たまにブラック飲んで、ああそうだった、こういう苦さだったって思い出すんだ」
その言い方が少年のように幼く感じて、春菜はまた笑った。
「何ですか、それ」
「だって、大人になると味覚が変わるって言うじゃない。美味しいと思えなかったものが美味しいと思えるようになるとか、好きだったものが嫌いになるとか……」
小野田は言いながらコーヒーをまた一口飲み、苦そうに顔を歪める。
「僕の祖父、コーヒーが好きでね。ブラックコーヒーを飲めるのが大人なんだって、ずっと思ってたんだ。ーー僕も大人になったら、美味しいって飲めるようになるかなって」
言いながら、コーヒーの缶をくるくると回す。
「でも、なかなか美味しいと思えないんだよね。だから時々思い出したときに試すんだ、ブラックコーヒー。毎回、今なら美味しいと思えるんじゃないかと思うんだけど、やっぱり変わらないや」
小野田がふわりと微笑む。その微笑みに、春菜は見とれた。
「小松さんの早起きと一緒でしょ」
春菜はその言葉にきょとんとする。何の話につながるとも思っていなかったので、素直に驚いた。
「子供のときに思ってた、大人の証。案外そんなのなくても大人になっちゃうもんだよね」
大人になりきれていない自分。
それを感じているのは小野田も同じだったのかとーー春菜からしたら充分に大人に見える小野田でも、そういうものがあるのかと、春菜はわずかに肩の力が抜けた。
落ち込んでいる部下に、さらっとそうして自分の話ができる小野田は、やはり人格者だ。上司としても人間としても、尊敬できるーー
(だからこそ、私はこの気持ちを諦めた方がいい)
春菜は決意した。胸を締め付けられるような痛みに耐えながら、それを気付かせないよう笑顔を作った。
「いや、大丈夫だよ。午前中お休みにしといたから……お礼は課長にね。きっと疲れてて休んでるんだろうけど、もし来る途中で何かあったんなら大変だから、一時間後に連絡するよう頼まれてたんだ」
当然モーニングコールのことなど知らない三原は、困ったような笑顔で言った。穴があったら両手を上げて飛び込みたい気分の春菜はただひたすら小さくなって頭を下げ続けるばかりだ。
二度寝で半休など、まがりなりにも就職して五年の人間のすることではない。恥ずかしいにも程がある。しかも今朝は重役のサテライト会議だったのだ。端末資料の最終確認など、春菜がすべき雑用、もとい仕事があったのである。社会人としてあるまじき失態。弟に知られたら「ねぇちゃんってそれだから……」と呆れられることだろう。
「ま、いろいろ考えたりして寝不足気味だったりもするんでしょ。体調崩す前に、休めるときに休みなよ」
「考えたり……?」
何か悩んでいるようにでも見えただろうかと、春菜は思わず首を傾げた。三原はやや言いにくそうに視線を泳がせながら、
「いや、ほら……急に変わったこともあったし、こまっちゃんくらいの年頃だと、気になったりもするよねって」
オブラートに包んでいるが、小野田とのことを念頭に置いているのだろうと察しがつき、春菜は慌てた。
(そんな、人を恋する乙女のように)
「ち、違います、私は本当にただ」
ただの寝坊なんです。と言おうとしたとき、不在にしていた日高が帰ってきた。
「おっはよー、こまっちゃん。体調、だいじょぶ?」
日高がひらりと手を振る。その後ろにはすらりとした長躯。
小野田だ、と脳が判断するとほぼ同時に、優しい声が振ってきた。
「おはよう、小松さん」
春菜はかろうじて、その顔を仰ぎ見た。柔らかい声に見合う優しげな瞳。穏やかな微笑み。
「……おはよう、ございます」
答えてうつむき、一呼吸置いてから深々と頭を下げた。
「ご迷惑おかけして、申し訳ありません」
日高と小野田が顔を見合せる気配がした。春菜は頭をしっかりと下げたまま、身動きもできずじっとしている。じわりと目ににじんできた涙の理由は、先ほど感じていた社会人らしからぬ自分への情けなさに加え、非の打ち所のない上司に面したからだ。
(部下と上司としてですら、私は課長の近くに相応しくない)
頭を下げたままじっと動かない春菜の頭上で、小野田の小さな嘆息がした。小野田の指示だろう、日高と三原がデスクで自分の仕事に戻る。
「小松さん。ちょっとおいで」
声は変わらず穏やかで優しかった。春菜は顔を上げられないまま頷き、小野田の背を追って部屋を出る。
歩いていく小野田の背におとなしくついていくと、自販機前の休憩スペースまで来た。
「何飲む?」
小野田は言いながらポケットから小銭を取り出し、ちゃりんちゃりんと自販機に投げ入れる。小銭入れからではなく、ズボンから直接出てきた小銭に春菜は元の姿の面影を見て、ふと微笑んだ。
「どうしたの?」
「あ、いえ」
不遜だったとまた顔を引締める。小野田は不思議そうにしながらボタンを押した。がこんと音を立てて出てきた飲み物を春菜に差し出す。
「はい」
「え?あ、ありがとうございます」
渡されたのは、春菜がよく飲んでいるレモンティーだった。
「でも、自分で出します」
「いいよ。そんなの」
小野田はひらりと手を振って、自分の分のボタンを押した。ブラックコーヒー。いつもせいぜい微糖だったように思うが、勘違いだったろうかと春菜は出てきたそれをぼんやり眺めた。
小野田はプルタブを開けながら休憩スペースの椅子に腰掛け、春菜に正面の椅子を勧めた。レモンティーを両手に持ったまま、春菜はおそるおそる腰掛ける。
コーヒーを一口飲み込むと、小野田はちらりと舌を出して顔をしかめた。
「苦い」
「そりゃ、ブラックですから」
くしゃりと崩れた小野田の相貌に、春菜は思わずくすりと笑った。つられたように小野田も笑う。
「だって久しぶりだったから。ブラックなんて」
「じゃ微糖にすればいいのに。私奢りましょうか」
「ううん。たまにブラック飲んで、ああそうだった、こういう苦さだったって思い出すんだ」
その言い方が少年のように幼く感じて、春菜はまた笑った。
「何ですか、それ」
「だって、大人になると味覚が変わるって言うじゃない。美味しいと思えなかったものが美味しいと思えるようになるとか、好きだったものが嫌いになるとか……」
小野田は言いながらコーヒーをまた一口飲み、苦そうに顔を歪める。
「僕の祖父、コーヒーが好きでね。ブラックコーヒーを飲めるのが大人なんだって、ずっと思ってたんだ。ーー僕も大人になったら、美味しいって飲めるようになるかなって」
言いながら、コーヒーの缶をくるくると回す。
「でも、なかなか美味しいと思えないんだよね。だから時々思い出したときに試すんだ、ブラックコーヒー。毎回、今なら美味しいと思えるんじゃないかと思うんだけど、やっぱり変わらないや」
小野田がふわりと微笑む。その微笑みに、春菜は見とれた。
「小松さんの早起きと一緒でしょ」
春菜はその言葉にきょとんとする。何の話につながるとも思っていなかったので、素直に驚いた。
「子供のときに思ってた、大人の証。案外そんなのなくても大人になっちゃうもんだよね」
大人になりきれていない自分。
それを感じているのは小野田も同じだったのかとーー春菜からしたら充分に大人に見える小野田でも、そういうものがあるのかと、春菜はわずかに肩の力が抜けた。
落ち込んでいる部下に、さらっとそうして自分の話ができる小野田は、やはり人格者だ。上司としても人間としても、尊敬できるーー
(だからこそ、私はこの気持ちを諦めた方がいい)
春菜は決意した。胸を締め付けられるような痛みに耐えながら、それを気付かせないよう笑顔を作った。
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