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第一章 ちかづく
03 橘女史とサングリア(1)
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「神崎!もう上がり?」
残業はしない主義の俺が、久々に残業して、帰ろうという金曜日。
エレベーター前で声をかけられて、俺はギクリと肩を竦めた。聞こえないふりをするにはあまりに大きすぎる声に、そろそろと振り返る。
そこには、同期の橘彩乃が立っていた。ほとんど仁王立ちで。
「……そうだけど」
さすがにコートも鞄も持ってエレベーター前に立っていれば、言い訳もできない。
せめてもの抵抗に、気乗りしない空気を前面に出しながら言ったが、橘女史はそれを無視して、よし、と腰に手を当てた。
あえて空気読まない気か。
俺は嘆息する。
「今夜の予定は?」
「それ、お前以外の女から聞きたいなぁ」
「Shu-t up!」
橘女史は大袈裟に片手を降って言った。わが社での公用語は英語である。
「どちらにしろ、ドタキャンできないほど大事な予定なんてないでしょう。夕飯行こう」
こちらの都合も全く聞かずに言いきって、しばし待たれよ!と身を翻した。
何だその時代がかった台詞は。つーか俺の予定の価値をお前の尺度で測るなっつーの。
心中ではいろいろと文句も浮かぶが、いちいち言い返すのも面倒だ。
ぱたぱたと荷物を持って出てきた橘を見て嘆息すると、黙ってエレベーターのボタンを押した。
橘は女にしてはさっぱりした気性だが、服装は割とフェミニンなものを好むらしい。大概、フリルやレースがどこかについていて、スカートといえば基本的にミニスカートである。
テニス経験者なので、長い丈のスカートは気持ち悪いらしい。
今日の装いも、レース地の黒いワンピースにベージュジャケットという出で立ちだ。
こういうのって、普通気合いの入ったデートとかで着るもんじゃないのか。
などと、やはり内心では思いつつ、特段何も言わない。いちいち指摘してやるほどお人よしではない。
「何飲もうかなぁ。神崎は?」
「ハイボール」
「いっつもそれだよね。私は……サングリアにしようかな」
職場から程近いレストランバーで、唯一空いていたカウンター席に並んで座った俺たちは、飲み物とつまみを頼んだ。飲み物が来ると橘が言う。
「今週もお疲れさまっ」
「お疲れ」
グラスを軽く合わせて口に運ぶ。独特の苦みと炭酸の泡立ちが、口から喉へと落ちる。
あー、美味い。
俺は2、3口飲み込むと、深々と息を吐き出した。
橘も、サングリアをちびちびと飲んでいた。
それを風景の一部として眺めてから、カウンターの中にまた目を戻す。
何で俺がコイツにつき合わなきゃならんのだ。
同期の出世頭、エリート街道まっしぐらな橘だ。毎日残業……どころか家でも仕事してるような生真面目な奴が、俺に用があるとも思えない。
まあ、俺じゃなきゃいけない用ではないのだろう、と推測した。たまたま帰ろうと思ったときに俺を見かけただけだ。きっと。
「疲れがとれるねぇ」
「そうか?」
家で風呂でも入った方が、よっぽど癒されるが。
橘は苦笑した。
「そういうの、相変わらずね。神崎って、人好きのする雰囲気あるのに、意外と人に無関心」
よくお分かりで。
とは言わずに、黙ってハイボールを飲み込む。
「まあ、だから気楽なときもあるけど。今日みたいに」
橘は言って、またサングリアを一口飲んだ。俺は突っ込んで聞くこともなく、グラスを傾ける。
つまみがいくつか運ばれてきた。それをつつきながら、ふと俺は口を開いた。
「先週、久々に弟に会ってさ」
橘が目だけをこちらへよこす。
「フィアンセ連れで。見た目はまあまあな子だったけど、結構ズバズバ物言うの。見ようによっては大人しくも見えるから、すげぇ面白かった」
橘はふぅん、と言った。
「気に入ったんなら、よかったじゃない。弟さんいくつなの?30くらい?」
「いや、25。相手も同級生」
答えた途端、橘がえーっ、と目を見開く。
「若っ。早っ」
俺はその素直な反応に笑った。
「おかげで、お袋から厭味言われたよ。これでわが家の売れ残りは俺だけだって」
俺はまたハイボールを口に含んだ。
橘が深々と嘆息しながら、
「いいなぁ……」
と心底うらやましそうに呟く。
俺はまた笑った。
「結婚願望あるのか。橘も人の子だな」
「そりゃあるよ。家に帰って旦那さんに笑顔で迎えられたら、一日の疲れもとれるよねぇ」
俺は思わず噴き出した。
それ、普通男の台詞じゃないか。
橘は何よと唇を尖らせた。夢を笑われたと思ったのか、照れ臭そうだ。
「橘、専業主夫と結婚すれば」
「何で」
「家のこと任せて、バリバリ仕事できるだろ」
橘は思い切り顔をしかめた。
「どーして結婚してまでバリバリやらなきゃいけないのよ。ほどほどでいいの。ほどほどで」
俺はふぅんといい加減に相槌を打った。
残業はしない主義の俺が、久々に残業して、帰ろうという金曜日。
エレベーター前で声をかけられて、俺はギクリと肩を竦めた。聞こえないふりをするにはあまりに大きすぎる声に、そろそろと振り返る。
そこには、同期の橘彩乃が立っていた。ほとんど仁王立ちで。
「……そうだけど」
さすがにコートも鞄も持ってエレベーター前に立っていれば、言い訳もできない。
せめてもの抵抗に、気乗りしない空気を前面に出しながら言ったが、橘女史はそれを無視して、よし、と腰に手を当てた。
あえて空気読まない気か。
俺は嘆息する。
「今夜の予定は?」
「それ、お前以外の女から聞きたいなぁ」
「Shu-t up!」
橘女史は大袈裟に片手を降って言った。わが社での公用語は英語である。
「どちらにしろ、ドタキャンできないほど大事な予定なんてないでしょう。夕飯行こう」
こちらの都合も全く聞かずに言いきって、しばし待たれよ!と身を翻した。
何だその時代がかった台詞は。つーか俺の予定の価値をお前の尺度で測るなっつーの。
心中ではいろいろと文句も浮かぶが、いちいち言い返すのも面倒だ。
ぱたぱたと荷物を持って出てきた橘を見て嘆息すると、黙ってエレベーターのボタンを押した。
橘は女にしてはさっぱりした気性だが、服装は割とフェミニンなものを好むらしい。大概、フリルやレースがどこかについていて、スカートといえば基本的にミニスカートである。
テニス経験者なので、長い丈のスカートは気持ち悪いらしい。
今日の装いも、レース地の黒いワンピースにベージュジャケットという出で立ちだ。
こういうのって、普通気合いの入ったデートとかで着るもんじゃないのか。
などと、やはり内心では思いつつ、特段何も言わない。いちいち指摘してやるほどお人よしではない。
「何飲もうかなぁ。神崎は?」
「ハイボール」
「いっつもそれだよね。私は……サングリアにしようかな」
職場から程近いレストランバーで、唯一空いていたカウンター席に並んで座った俺たちは、飲み物とつまみを頼んだ。飲み物が来ると橘が言う。
「今週もお疲れさまっ」
「お疲れ」
グラスを軽く合わせて口に運ぶ。独特の苦みと炭酸の泡立ちが、口から喉へと落ちる。
あー、美味い。
俺は2、3口飲み込むと、深々と息を吐き出した。
橘も、サングリアをちびちびと飲んでいた。
それを風景の一部として眺めてから、カウンターの中にまた目を戻す。
何で俺がコイツにつき合わなきゃならんのだ。
同期の出世頭、エリート街道まっしぐらな橘だ。毎日残業……どころか家でも仕事してるような生真面目な奴が、俺に用があるとも思えない。
まあ、俺じゃなきゃいけない用ではないのだろう、と推測した。たまたま帰ろうと思ったときに俺を見かけただけだ。きっと。
「疲れがとれるねぇ」
「そうか?」
家で風呂でも入った方が、よっぽど癒されるが。
橘は苦笑した。
「そういうの、相変わらずね。神崎って、人好きのする雰囲気あるのに、意外と人に無関心」
よくお分かりで。
とは言わずに、黙ってハイボールを飲み込む。
「まあ、だから気楽なときもあるけど。今日みたいに」
橘は言って、またサングリアを一口飲んだ。俺は突っ込んで聞くこともなく、グラスを傾ける。
つまみがいくつか運ばれてきた。それをつつきながら、ふと俺は口を開いた。
「先週、久々に弟に会ってさ」
橘が目だけをこちらへよこす。
「フィアンセ連れで。見た目はまあまあな子だったけど、結構ズバズバ物言うの。見ようによっては大人しくも見えるから、すげぇ面白かった」
橘はふぅん、と言った。
「気に入ったんなら、よかったじゃない。弟さんいくつなの?30くらい?」
「いや、25。相手も同級生」
答えた途端、橘がえーっ、と目を見開く。
「若っ。早っ」
俺はその素直な反応に笑った。
「おかげで、お袋から厭味言われたよ。これでわが家の売れ残りは俺だけだって」
俺はまたハイボールを口に含んだ。
橘が深々と嘆息しながら、
「いいなぁ……」
と心底うらやましそうに呟く。
俺はまた笑った。
「結婚願望あるのか。橘も人の子だな」
「そりゃあるよ。家に帰って旦那さんに笑顔で迎えられたら、一日の疲れもとれるよねぇ」
俺は思わず噴き出した。
それ、普通男の台詞じゃないか。
橘は何よと唇を尖らせた。夢を笑われたと思ったのか、照れ臭そうだ。
「橘、専業主夫と結婚すれば」
「何で」
「家のこと任せて、バリバリ仕事できるだろ」
橘は思い切り顔をしかめた。
「どーして結婚してまでバリバリやらなきゃいけないのよ。ほどほどでいいの。ほどほどで」
俺はふぅんといい加減に相槌を打った。
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