モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子

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第二章 はなれる

52 訪問

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「初めまして。神崎と申します。東京本社からこちらに参りました。よろしくお願いします」
 近隣に、織物関係の組合は2つあった。よくありがちなことだが、もともと一つだったものが分かれたようだ。とはいえ、そこまで大きく相対することはなく、ときどきは協力もし合う関係らしい。ーーとは、事前に江原さんから聞いたところ。
 特に感触が悪かったという福岡織物組合の会長に会いに行くことにした俺たちは、会長が持つ会社に足を運んだ。
 一応は応接室に通されたが、秘書と名乗った女性だけしかいない。
「社長は、予定がありますので、私が承ります」
 女性は50代前後、飾り気はないが髪後ろのバレッタは織物の柄を効果的に使ったものだ。服装も、動きやすくラフではあるものの、上品と言えた。
「どうぞ」
 淡々とした調子で出されたお茶が湯気を立てている。香りを嗅いで俺は言った。
「いい匂いですね。ほっとします」
 心からの言葉に、前に座った女性の表情が少し動揺した。
 冷えた手を器に添えると、じんわりと暖かさが手の平を伝わってくる。が、決して茶葉の香りを損ねるほどの熱さではない。
「外は寒かったでしょう。どうぞ、暖かいうちに」
 女性は少しだけ表情を柔らかくして言った。俺は微笑んで頷き、失礼して口をつける。
 少しぬるめだからこそ、緑茶特有の甘さがほんわりと広がった。
「ああ、甘くて美味しい」
 俺は知らず知らず声が浮き立った。
「煎れ方がいいんですね。ーー福岡といえば、八女茶でしたっけ。これも?」
 俺が水を向けると、女性はおずおずと応じた。
「ええ、まあ。……お茶がお好きで?」
「普段はコーヒー派なんですけど、こういうおいしいお茶を飲むとほっとします」
 女性が微笑んだ。
「気に入ったならよかったです」
 俺も微笑み、また緑茶を口に含む。
 横で江原さんが何とも言えない顔をしているのを見て、あ、と呟いた。
「しまった。ついつい美味しいお茶に惹かれて、本来の目的を忘れていました」
 苦笑しながら座り直し、コップを卓上の茶托に置く。女性の緩みかけた顔がわずかに引き締まった。
「お察しとは思いますが、今日伺ったのは、弊社との案件ーーの前に」
 女性と江原さんが、え?という顔をする。
 俺も計画していた訳ではないのだが、このまま話しても意味がなさそうだし、応接室に来るまでに見た機械や職人への好奇心が勝った。
「ぜひ、御社のこと、織物組合のこと、歴史やこだわりーーそういうものをお聞かせいただけませんか。もしできるなら、見学もさせてください」
 女性は驚いたような間の後、ようやく笑った。
「見学の許可をもらって来ますね」

 俺たちは女性から話を聞きながら、実際に作っている様子を見せてもらった。
 興味関心の赴くまま、あれこれ聞いたりする内に、段々と女性の態度が軟化してくる。
「失礼ですが」
 正味1時間後。おおかた案内が終わり、コート類を置いた応接室に戻ろうという頃、俺は切り出した。
「差し支えなければ、お名前お聞かせ願えますか」
 女性は秘書と言っただけで名前を名乗ることがなかった。少し躊躇った後で、女性は静かに頭を下げた。
「山口と申します。ご挨拶が遅れまして」
 組合会長である社長と同じ姓である。
 薄々察していたが、身内の方なのだろう。
「秘書の山口さまですね。ありがとうございます」
 俺は気にしていない風で微笑んだ。
「よかった。お名前を聞かずに帰ったら、遊んで来たのかと言われてしまいますから」
 山口さんはふふふ、と笑った。
「突然のお願いでしたのに、長い時間ご丁寧に説明いただきありがとうございました。また伺いますーーできれば、今度は社長の山口さまにお会いしに」
 山口さんの表情には、もう最初の突き放したような冷たさはなかった。微笑みすら浮かべて、彼女は言った。
「そうですね。神崎さんがお越しなら……社長にも伝えておきます」
「ありがとうございます」
 コートを手にすると、俺と江原さんは頭を下げて別れを告げ、車に乗り込んだ。
「……すごい」
 助手席でシートベルトを装着した俺は、江原さんの呟きに運転席を見やった。
 少し頬を紅潮させ、気持ちを落ち着かせるようにハンドルの先を見つめる江原さん。
「運転手さん。シートベルト装着お願いしますよ」
 声をかけたが、江原さんは目を輝かせたまま、
「神崎さんって、人たらし」
 俺はがくりと肩の力が抜けるのを感じた。
「それ、褒めてる?けなしてる?」
「えっ?けなしてるように聞こえました?褒めてますよ、もちろんーー少なくとも、今は」
 江原さんはようやく気を取り直してシートベルトをつけ、エンジンをかけた。
 一度動かしたあとのをエンジンは、比較的スムーズに暖まる。ゆっくりと発進して、江原さんは言った。
「私、神崎さんから勉強させてもらいます。そうだ、アニキって呼んでもいいですか?」
 目を輝かせる後輩に、それはちょっと、と苦笑した。
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