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第三章 きみのとなり
106 浮き名
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「お疲れー」
橘が選んだのは、最初に二人で飲みに行った店だった。カウンター席に並んで座り、あのときと同じように、俺はハイボール、橘はサングリアを頼んで、カチンと軽くグラスを合わせる。
「十二月だったね。ここに来たの」
「ああ」
橘の懐かしむような言葉に、俺は頷いた。
あのときは、到底こうなることなど想像もしていなかったが。
それは橘もそうだっただろう。ふふと笑って、不思議な感じ、と呟いた。
「結構強引に連れて来たよね。あのとき」
「強引っつか、誘いじゃなくて命令だったからな」
「どう転ぶか、わかんないもんよねぇ。人生なんて」
ずいぶん大きい表現をするなと橘を横目で見やった。
「そういや、人事の矢原さんと、ダイバーシティ推進室の勝田さんて知ってる?」
「ああ、うん。前一緒に仕事してた」
橘は頷きながらサングリアを傾ける。
「勝田さんは飲み友達みたいな。結構何度か誘ってもらって飲みに行ったよ。いいお店知ってるんだよね、あの人」
俺は呆れて嘆息した。
ーーそれ、お前を狙ってたんだろ。
言っても意味のないことなので、あえて口にはしないでおく。阿久津の話といい、今回といい、当人はまったく気づいてないんだろう。
「その二人だったの?担当」
「まあ、そんなとこ」
「でも、矢原くん、あんたのファンでしょ」
俺は苦笑した。
「個人的な感情は関係ないだろ」
「明らかに、個人的な感情で持って行かれた話なのに?」
そりゃそうだが。ーー桑原さんは仕事を、勝田さんは橘を、俺に取られた腹いせだろう。
「なあ」
橘がこちらにちらりと目をやる。
「昼さ。ジョーに何て言おうとしてたんだ?」
橘は首をひねって考えた。しばらくしてから、ああ、と思いつく。
「私との話がどう、とかじゃなくって、神崎が悔しいよねって。辞めたら負けを認めるみたいで、きっとレッテル張られたままになるでしょ」
その発想は、橘自身が負けず嫌いだからだろう。
「お前だって、そんな男とつき合ってる女になるんだぞ」
「浮き名が立つほど魅力的な彼氏がいるってことで、いいんじゃない?」
その発想に苦笑する。
「未成年を家に連れ込んでるとか、女に身体触らせて喜んでるとか、噂が立って人事に呼ばれるような男だぞ」
言葉にするとひどいもんである。浮かぶ自嘲的な笑みを噛み殺した。橘がこちらを見ている。その目がまっすぐで受け止め切れず、思わずそらした目を手元のグラスに落とした。
「俺、お前の隣にいていいのかな」
ぽつりと呟いた言葉は、自分で思った以上に心細そうに響いた。
「こんな変な噂立つような男、嫌だろ」
橘はきょとんとした後であっけらかんと笑う。
「何言ってるのよ。あんたのこと、少しでも知ってる人ならちゃんと分かってるじゃない。誰かが妬んで撒いた種だって」
それが演技でも何でもないと分かってはいるが、もやもやした気持ちは晴れない。
「……でも、俺が会社辞めることになったら、やっぱ、無理だよな」
「専業主夫と結婚すれば、って言ったの誰?私、養ってあげてもいいわよ」
橘がキリッとした顔をして胸を張った。俺はその未来を想像しかけて、思い切り顔をしかめて首を振った。
「嫌だ。ぜっったい、嫌だ。ーーお前にでかい顔されるのは気に食わない。だいたい、ヒモはゴメンだって言ってたの誰だよ」
「そうだったかもね。でも、神崎ならいいよ。鑑賞用でも」
橘は愉快そうに笑ってから、
「大丈夫よ、神崎。私がーー私たちが、ちゃんと守るから」
「……たち?」
「えーとねぇ、ヨーコちゃん、ジョー、阿久津、山崎部長に……」
「……なんか、安心していいのかいけないのか分からない面子だな」
指折り数える橘に、俺は引き攣った苦笑を浮かべた。あんまり恩を売りたくない人ばかりだ。見返りを求められそうで。
橘は噴き出した。
「イロモノばっかり?でも、仕方ないじゃない。類は友を呼ぶ、でしょ」
「俺はイロモノじゃない」
「あーはいはい、イロモノじゃなくて色男よね。失礼」
「お前なぁ」
言い合っているうちに、もやもやとした不安や焦燥は消えていた。ずいぶん馬鹿馬鹿しい言い争いだと気づいて、俺と橘は顔を見合わせて笑った。
橘が選んだのは、最初に二人で飲みに行った店だった。カウンター席に並んで座り、あのときと同じように、俺はハイボール、橘はサングリアを頼んで、カチンと軽くグラスを合わせる。
「十二月だったね。ここに来たの」
「ああ」
橘の懐かしむような言葉に、俺は頷いた。
あのときは、到底こうなることなど想像もしていなかったが。
それは橘もそうだっただろう。ふふと笑って、不思議な感じ、と呟いた。
「結構強引に連れて来たよね。あのとき」
「強引っつか、誘いじゃなくて命令だったからな」
「どう転ぶか、わかんないもんよねぇ。人生なんて」
ずいぶん大きい表現をするなと橘を横目で見やった。
「そういや、人事の矢原さんと、ダイバーシティ推進室の勝田さんて知ってる?」
「ああ、うん。前一緒に仕事してた」
橘は頷きながらサングリアを傾ける。
「勝田さんは飲み友達みたいな。結構何度か誘ってもらって飲みに行ったよ。いいお店知ってるんだよね、あの人」
俺は呆れて嘆息した。
ーーそれ、お前を狙ってたんだろ。
言っても意味のないことなので、あえて口にはしないでおく。阿久津の話といい、今回といい、当人はまったく気づいてないんだろう。
「その二人だったの?担当」
「まあ、そんなとこ」
「でも、矢原くん、あんたのファンでしょ」
俺は苦笑した。
「個人的な感情は関係ないだろ」
「明らかに、個人的な感情で持って行かれた話なのに?」
そりゃそうだが。ーー桑原さんは仕事を、勝田さんは橘を、俺に取られた腹いせだろう。
「なあ」
橘がこちらにちらりと目をやる。
「昼さ。ジョーに何て言おうとしてたんだ?」
橘は首をひねって考えた。しばらくしてから、ああ、と思いつく。
「私との話がどう、とかじゃなくって、神崎が悔しいよねって。辞めたら負けを認めるみたいで、きっとレッテル張られたままになるでしょ」
その発想は、橘自身が負けず嫌いだからだろう。
「お前だって、そんな男とつき合ってる女になるんだぞ」
「浮き名が立つほど魅力的な彼氏がいるってことで、いいんじゃない?」
その発想に苦笑する。
「未成年を家に連れ込んでるとか、女に身体触らせて喜んでるとか、噂が立って人事に呼ばれるような男だぞ」
言葉にするとひどいもんである。浮かぶ自嘲的な笑みを噛み殺した。橘がこちらを見ている。その目がまっすぐで受け止め切れず、思わずそらした目を手元のグラスに落とした。
「俺、お前の隣にいていいのかな」
ぽつりと呟いた言葉は、自分で思った以上に心細そうに響いた。
「こんな変な噂立つような男、嫌だろ」
橘はきょとんとした後であっけらかんと笑う。
「何言ってるのよ。あんたのこと、少しでも知ってる人ならちゃんと分かってるじゃない。誰かが妬んで撒いた種だって」
それが演技でも何でもないと分かってはいるが、もやもやした気持ちは晴れない。
「……でも、俺が会社辞めることになったら、やっぱ、無理だよな」
「専業主夫と結婚すれば、って言ったの誰?私、養ってあげてもいいわよ」
橘がキリッとした顔をして胸を張った。俺はその未来を想像しかけて、思い切り顔をしかめて首を振った。
「嫌だ。ぜっったい、嫌だ。ーーお前にでかい顔されるのは気に食わない。だいたい、ヒモはゴメンだって言ってたの誰だよ」
「そうだったかもね。でも、神崎ならいいよ。鑑賞用でも」
橘は愉快そうに笑ってから、
「大丈夫よ、神崎。私がーー私たちが、ちゃんと守るから」
「……たち?」
「えーとねぇ、ヨーコちゃん、ジョー、阿久津、山崎部長に……」
「……なんか、安心していいのかいけないのか分からない面子だな」
指折り数える橘に、俺は引き攣った苦笑を浮かべた。あんまり恩を売りたくない人ばかりだ。見返りを求められそうで。
橘は噴き出した。
「イロモノばっかり?でも、仕方ないじゃない。類は友を呼ぶ、でしょ」
「俺はイロモノじゃない」
「あーはいはい、イロモノじゃなくて色男よね。失礼」
「お前なぁ」
言い合っているうちに、もやもやとした不安や焦燥は消えていた。ずいぶん馬鹿馬鹿しい言い争いだと気づいて、俺と橘は顔を見合わせて笑った。
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