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第三章 きみのとなり
108 最後の一押し
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その夜、橘を誘って夕飯に行った。人事課の様子を話すと、橘はにこりと笑って、よかったねと一言言った。その顔を見て、そんなに心配していた訳でもなかったらしいと気づく。
「だって言ったじゃない。ありもしない噂、本気にするのが馬鹿馬鹿しい」
そうかもしれないが、その馬鹿馬鹿しい噂でクビになりそうになったのが俺なのだ。
「でもあれね。よっぽど恨み買ったのね」
くすくすと楽しげに笑いながら、橘はピザを美味しそうに平らげる。その変わらない表情と姿に心からの安堵を覚えた。
「お前に守られるまでもなかったな」
何か冗談を言いたかったのだが、いまいち冗談になりきれない。それでも橘は、そうねと笑った。
「ーーありがとう」
散々ためらった挙げ句、ようやく口から言葉が出た。橘が目を上げ、首を傾げる。
「何が?」
その無垢な表情に、緊張が一気に解け、解けたことで自分が緊張していたことに気づく。
「いや……」
俺は笑った。
信じてくれたこと。変わらず側にいてくれること。こうして笑ってくれること。守りたいと思ってくれたこと。
自分でも、どれに対しての感謝なのか分からない。分からないので説明しようもない。ーーが、結局、言うなれば橘の存在に対しての感謝なのかもしれない。
「何でもいいだろ。とにかく、ありがとう」
丁寧に感謝を伝えようとすると、自然言葉も丁寧に発音するものなのだと気づいた。
微笑む俺の顔を、橘はしばらくじっと見つめていたと思えば、急に力が抜けたような、へにょりとした笑顔になる。
「うん。何でもいいや。そんないい顔してるなら」
ーーいい顔なのはお前だろ。
言おうとしたが、もしかしたら橘のそれは、俺の表情を写しただけなのかもしれないと思い直す。
互いの笑顔を写したように笑う。そういう関係もあるんだなと思いつつ、その後は何という訳でもない雑談を交わしながら食事を進めた。
「送っていくよ」
明日も仕事だから、上がる気はなかったが、一人で帰らせる気もない。
店を出て手を繋いで歩きながら、橘の家まで向かう。
マンションの前に男の人影が見えた途端、橘が立ち止まった。俺もそれに合わせて立ち止まる。
俺の腕に纏わり付いた手が、わずかに緊張したのを感じた。
「……長谷川くん」
呟く橘の表情は硬かった。おおかた事情を察しつつ、俺は目線を男に戻す。
「彩乃。……そいつが、今の彼氏? 」
男は俺よりも小柄で、丸い顔立ちに眼鏡をかけている。スーツに黒いビジネスバッグ。スーツのラインを見るに、あまり服飾にこだわりのないたちなのだろうと読み取って、最初に橘の家に泊まったときの部屋着を思い出した。
「もう来ないでって言ったよね」
橘は男を睨みつけるようにして言った。
「でも、俺はまだ」
「もう貴方とは終わったの。そう言ったでしょう。私は貴方の都合のいい女じゃない」
一息に言い切って、橘は息を吸い直した。
「帰って。もう来ないで。話すことなんかないからーーもう、顔も見たくない」
厳しい言葉は諸刃の剣だ。相手にぶつける言葉は、同時に橘を傷つける。一時期とはいえ大切に想っていた人なら、尚更。
橘は男の答えを聞かず、俺の手を引いて自分の部屋へと向かった。男はマンションの前で棒立ちになったまま、俺たちの方を呆然と見ていた。
家に入りドアを閉めると、止めていた息を吐き出すように、橘は深々と嘆息した。
吐き切ると、俺の顔を見上げる。
「……ごめんね、なんか。変なとこ見せて」
「いや」
変なとこ。
確かに元カレとの修羅場など、人には見られたくないだろう。そう分かっているが、何となく疎外されたような物寂しさを感じる。
ーー結婚を前提に、やり直そう。
ただ都合のいい女、というだけなら、そんな台詞を言うだろうか。俺は落ち着かない様子の橘に寄り添いながら、ぼんやりと考えていた。
「上がって。コーヒーでも飲もっか」
橘は表面上、何事もないかのように笑っていたが、落ち着かない様子は変わらない。俺に電話をかけたあの晩もこんな様子だったのかと、二件の着信履歴を思い出した。
あまり目を合わせようとしない橘の肩に、静かに手を添えた。橘はびくりと脅えたように俺を見上げる。
「強がんな」
静かに言うと、橘は口を開きかけ、また閉じた。
俺が黙って見ていると、目を泳がせてから俯く。
橘の手を、ゆっくりと握る。その手はわずかに震えていた。
「側にいるから。俺が」
ーー怖かった。
ヒカルの声を思い出す。状況は全く異なるといえども、女の家の前で男が待ち伏せしていて、何とも思わない訳がない。
ーー俺はお前のヒーローじゃない。
次いで、ヒカルに言った自分の言葉を思い出す。
ーーじゃあ、誰の?
握った片手をそのままに、もう一方の手を橘の背に回す。
抱きしめるというより包み込むように、身体を引き寄せた。
硬くなっていた橘の身体が緩む。
「お前が傷つくのは見たくない」
ーー守りたい。橘を。
握った手を、祈るように口元に寄せた。
橘の双眸が潤む。
「ありがとう」
潤んだ目のまま、橘は力無く笑った。
「その言葉だけでも、嬉しい」
ーー言葉だけ。
耳にその言葉がひっかかる。
それで済ませたくない。そう思う自分がいる。それに気づいて苦笑した。それでも、俺はまだ先に進めない。
ーー隼人なら、何の迷いもなく踏み出せる一歩なんだろうに。
再来週に結婚式を控えた弟を思い出す。煮え切らない自分に苛立ちすら感じるが、どうして自分にとってその一歩が踏み出せないのか、どうすれば踏み出す気になるのか、俺にも分からなかった。
まるで迷子になったような戸惑いと悔しさを感じながら、ただ黙って橘を引き寄せた。
「だって言ったじゃない。ありもしない噂、本気にするのが馬鹿馬鹿しい」
そうかもしれないが、その馬鹿馬鹿しい噂でクビになりそうになったのが俺なのだ。
「でもあれね。よっぽど恨み買ったのね」
くすくすと楽しげに笑いながら、橘はピザを美味しそうに平らげる。その変わらない表情と姿に心からの安堵を覚えた。
「お前に守られるまでもなかったな」
何か冗談を言いたかったのだが、いまいち冗談になりきれない。それでも橘は、そうねと笑った。
「ーーありがとう」
散々ためらった挙げ句、ようやく口から言葉が出た。橘が目を上げ、首を傾げる。
「何が?」
その無垢な表情に、緊張が一気に解け、解けたことで自分が緊張していたことに気づく。
「いや……」
俺は笑った。
信じてくれたこと。変わらず側にいてくれること。こうして笑ってくれること。守りたいと思ってくれたこと。
自分でも、どれに対しての感謝なのか分からない。分からないので説明しようもない。ーーが、結局、言うなれば橘の存在に対しての感謝なのかもしれない。
「何でもいいだろ。とにかく、ありがとう」
丁寧に感謝を伝えようとすると、自然言葉も丁寧に発音するものなのだと気づいた。
微笑む俺の顔を、橘はしばらくじっと見つめていたと思えば、急に力が抜けたような、へにょりとした笑顔になる。
「うん。何でもいいや。そんないい顔してるなら」
ーーいい顔なのはお前だろ。
言おうとしたが、もしかしたら橘のそれは、俺の表情を写しただけなのかもしれないと思い直す。
互いの笑顔を写したように笑う。そういう関係もあるんだなと思いつつ、その後は何という訳でもない雑談を交わしながら食事を進めた。
「送っていくよ」
明日も仕事だから、上がる気はなかったが、一人で帰らせる気もない。
店を出て手を繋いで歩きながら、橘の家まで向かう。
マンションの前に男の人影が見えた途端、橘が立ち止まった。俺もそれに合わせて立ち止まる。
俺の腕に纏わり付いた手が、わずかに緊張したのを感じた。
「……長谷川くん」
呟く橘の表情は硬かった。おおかた事情を察しつつ、俺は目線を男に戻す。
「彩乃。……そいつが、今の彼氏? 」
男は俺よりも小柄で、丸い顔立ちに眼鏡をかけている。スーツに黒いビジネスバッグ。スーツのラインを見るに、あまり服飾にこだわりのないたちなのだろうと読み取って、最初に橘の家に泊まったときの部屋着を思い出した。
「もう来ないでって言ったよね」
橘は男を睨みつけるようにして言った。
「でも、俺はまだ」
「もう貴方とは終わったの。そう言ったでしょう。私は貴方の都合のいい女じゃない」
一息に言い切って、橘は息を吸い直した。
「帰って。もう来ないで。話すことなんかないからーーもう、顔も見たくない」
厳しい言葉は諸刃の剣だ。相手にぶつける言葉は、同時に橘を傷つける。一時期とはいえ大切に想っていた人なら、尚更。
橘は男の答えを聞かず、俺の手を引いて自分の部屋へと向かった。男はマンションの前で棒立ちになったまま、俺たちの方を呆然と見ていた。
家に入りドアを閉めると、止めていた息を吐き出すように、橘は深々と嘆息した。
吐き切ると、俺の顔を見上げる。
「……ごめんね、なんか。変なとこ見せて」
「いや」
変なとこ。
確かに元カレとの修羅場など、人には見られたくないだろう。そう分かっているが、何となく疎外されたような物寂しさを感じる。
ーー結婚を前提に、やり直そう。
ただ都合のいい女、というだけなら、そんな台詞を言うだろうか。俺は落ち着かない様子の橘に寄り添いながら、ぼんやりと考えていた。
「上がって。コーヒーでも飲もっか」
橘は表面上、何事もないかのように笑っていたが、落ち着かない様子は変わらない。俺に電話をかけたあの晩もこんな様子だったのかと、二件の着信履歴を思い出した。
あまり目を合わせようとしない橘の肩に、静かに手を添えた。橘はびくりと脅えたように俺を見上げる。
「強がんな」
静かに言うと、橘は口を開きかけ、また閉じた。
俺が黙って見ていると、目を泳がせてから俯く。
橘の手を、ゆっくりと握る。その手はわずかに震えていた。
「側にいるから。俺が」
ーー怖かった。
ヒカルの声を思い出す。状況は全く異なるといえども、女の家の前で男が待ち伏せしていて、何とも思わない訳がない。
ーー俺はお前のヒーローじゃない。
次いで、ヒカルに言った自分の言葉を思い出す。
ーーじゃあ、誰の?
握った片手をそのままに、もう一方の手を橘の背に回す。
抱きしめるというより包み込むように、身体を引き寄せた。
硬くなっていた橘の身体が緩む。
「お前が傷つくのは見たくない」
ーー守りたい。橘を。
握った手を、祈るように口元に寄せた。
橘の双眸が潤む。
「ありがとう」
潤んだ目のまま、橘は力無く笑った。
「その言葉だけでも、嬉しい」
ーー言葉だけ。
耳にその言葉がひっかかる。
それで済ませたくない。そう思う自分がいる。それに気づいて苦笑した。それでも、俺はまだ先に進めない。
ーー隼人なら、何の迷いもなく踏み出せる一歩なんだろうに。
再来週に結婚式を控えた弟を思い出す。煮え切らない自分に苛立ちすら感じるが、どうして自分にとってその一歩が踏み出せないのか、どうすれば踏み出す気になるのか、俺にも分からなかった。
まるで迷子になったような戸惑いと悔しさを感じながら、ただ黙って橘を引き寄せた。
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