モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子

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第三章 きみのとなり

109 危機管理能力

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 翌日の朝、いつもより一本遅い電車で会社に向かうと、車内で名取さんを見かけた。混み合った車内なのでそれと認識しただけだ。
 朝から何となく疲れているなと思ったら、斜め後ろに立つ男の気配がおかしい。次で降りるというタイミングだったが、混み合った車内で周りに謝りつつ近づき、名取さんのスカートの中に伸びようとしたその腕を掴み上げた。
「次の駅で降りろ」
 男の顔が青ざめていくのが見える。
 驚いて振り返った名取さんは、俺の顔を見てふと笑った。
 ーーずいぶん余裕があるもんだ。
 痴漢などに遭えば、普通もっと動転したり憤るものなのだろうと思っていたのだが。
 男の腕を掴んだままホームに降り、人の流れを避けて対峙する。男は50代と見えるサラリーマンだった。俺に腕を捕まれたまま、俯いている。
「どうしますか?」
 後ろからついてきた名取さんに尋ねると、名取さんはけだるげに首を傾げた。
「せやなぁ。警察沙汰は面倒やなぁ。会社に遅れるの嫌やし」
 自分が被害に遭ったとも思えない淡々とした様子に苦笑しつつ、目線を男へ向けた。
「何か言いたいことは?」
 男はうろたえ、顔を俯けたまま視線をさ迷わせる。俺は嘆息して、手を離した。
「名刺二枚と免許証出せ」
 俺の言葉に男は戸惑いながら従う。
 俺は名刺と免許証の名前が同じであることを確認して、名取さんに名刺を一枚渡し、一枚をジャケットのポケットにしまった。
「会社と名前は押さえたから、もう二度とやるなよ。見かけたらソッコーで会社に電話入れる」
 俺が言うと、男は顔を上げられないまま頷いた。名取さんが後ろから言う。
「うちの若いボーイフレンド、柔道の有段者やねん。何かの時には会社に押しかけてもらうさかい」
 俺がちらりと横目で見やると、名取さんが悠然と微笑んでいた。言い切るときびすを返して歩き出す。俺も後に続いた。
「嘘は言うてへんで」
「知ってます」
 ジョーのことだとは推測がついた。あいつに話せば頼まなくとも殴り込みに行きかねない。
「嫌やわぁ。マーシーはすぐヒーローみたいになりはるさかい」
 不意の言葉に出過ぎたことをしたかと肩を竦めたが、名取さんは笑った。
「うちやなかったら勘違いするで。独身の間はほどほどにしとき」
 俺は眉を寄せつつ、曖昧に返事をした。

「あ、このパン屋さん美味しいよねぇ。八木ちゃんの家、その近く?」
「いや、この前テニスの練習で近くのコート借りて。アーヤは何で知ってるの?」
「うち、この近くだから。テニスコート、大通りを一本入ったとこの?」
「そうそう。アーヤの家は?」
「私の家はーー」
 エレベーターのドアが開くなり繰り広げられていた会話に、俺は呆れて額を押さえた。
「名取さん……橘の危機管理能力についてどう思いますか」
「天然やからなぁ。仕方ないやろ」
 八木、と聞こえた気がした。これが名取さんが以前言っていた、会計課の例の男かと一瞥すると、こちらに背を向けて立つ橘より先に男が気づいた。
 男の視線につられるように、橘が振り返る。
「あ、おはよう。ヨーコちゃん、神崎」
 ふわりと笑う。一応先に名取さんの名を呼んだが、その笑顔は俺に向けられたものだということが分かった。ーーが、この男がいるところでその顔はしてほしくない。
 俺はおはよう、と簡単に応じた。
「おはようさん」
 名取さんは微笑みながら、いつかしたように橘の腕に腕を絡め、豊満な胸を押し付ける。ジョーがうらやましがりそうだ。
「何してはるのん」
「八木ちゃんに本借りたの」
 橘は言いながら、手にしたロゴ入りのビニール袋を掲げて見せた。
「へぇ。本貸し借りするような仲なん、知らへんかった」
「オススメだから読んでみてって言われて。久々に読書もいいかなって」
 それ、どー考えても近づくきっかけ作りだろ。気づけよ。
 思いながらも突っ込みきれない。八木という男は俺をちらりと見ただけで、ろくに挨拶もせず、橘に一声かけて立ち去った。
「橘」
 名取さんと財務部のオフィスへ向かう橘に声をかける。振り向いた橘に、気の利いた台詞も浮かばず、
「……気をつけろよ」
 橘は案の定、首を傾げた。
 俺は自分のデスクに向かいながら、ジャケットのポケットに軽く指先を突っ込む。触れた名刺に、知らず舌打ちをした。
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