モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子

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第三章 きみのとなり

110 勢い

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 今日は飲んで帰るから、と橘から連絡があったので、久々に主義を通して定時で上がった。ここ最近は平日の夜ゆっくりできなかったので、気分転換がてら料理をと思いながら、適当に食材を買い足して帰宅する。
 夕飯づくりに取り掛かろうとしたとき、ジョーからメッセージがは言った。
【ヨーコさんから連絡。アーヤ、今日会計課の人と飲みに行くらしいけどいいのかって】
 俺はそれを見て固まった。名取さんと俺は個人的な連絡先を交換していないから、ジョーを経由したのだろう。
 時計を見ると20時前。朝見かけた八木という男の容姿を思い出す。銀縁の眼鏡の奥には感情の読み取りにくい細い目。ひょろりとしていて身長は俺よりやや低いくらいか。
 橘の交遊関係にどうこう口を出すつもりはない。たとえ二人きりでの夕飯だとしても、本人が単純に夕飯を楽しむだけのつもりであるなら尊重してやりたい。
 そもそも、八木という男については、名取さんからかなり独自に色をつけた前評判を聞いただけだ。今まで話したこともない男のことなど俺には分からないーーからこそ、警戒すべきかもしれないが、杞憂ということもありえる。
 ーーさて、どうしたものか。
 橘が、女としての自分を巡る思惑に関してかなり鈍感だということは、阿久津と勝田さんの件でよく分かっている。そして、幸か不幸か、そうした危険にさらされたことのないまま三十を過ぎたために、若い女性ならではの警戒心などさらさらないのも伺えた。
 俺は嘆息してスマホを傍らに置いた。橘に連絡がつかず、落ち着かずに明かした一夜を思い出す。あの時にはすぐに手の届かないところにいた。ーー今とは違う。
 違うからこそ、躊躇いも生じた。俺自身、恋人とはいえほどほどの距離感が欲しいと思うたちだ。どこまで干渉することが許されるのか。
 自分で答えの出そうにない問いがぐるぐると頭の中を巡る。
 橘自身がそれを望むなら、きっと俺は彼女が俺から離れていくことを拒まない。だが、彼女が望まないことを強要され、傷つけられるならば、それは阻まなければいけない。それは明確だった。
 考えに考えた挙げ句、橘にメッセージを送る。
【今日の店どこ?迎えに行く】
 橘からのレスポンスは割と早かった。
【私の家の最寄り駅だし、会社の人とだから大丈夫だよ】
 ーーだから危ないんだっつーの。
【とにかく迎えに行くから。場所と時間指定して】
 送ってから、ふと必要を感じて釘を刺す。
【自宅の場所、安易に他の男に教えんなよ】
 橘からは店の地図と時間だけが送られてきた。

「でも、明日も仕事ですし」
「そう言わずにさ。もう一軒行こうよ。もっとゆっくりできるところ知ってるから」
 声が聞こえたのは、もう角を曲がればすぐそこに店が見えるというときだった。
「いや、もう、いいですから」
「それなら、送るって」
 振り切ろうとする橘と、追いすがる八木。
「男と二人で夕飯とって、何もないと思う年齢じゃないでしょ。ーーそれに」
 俺は眉を寄せながら足を早める。
「あの神崎を落としたんなら、相当床上手なんじゃないの?」
 俺に背を向けた男の肩を掴んだ。八木は驚いて振り返る。その手が橘の手首をしっかりと握りしめていることに気づき、俺は奥歯を噛み締めた。
「……神崎」
 ホッとしたように橘が微笑む。
「手、離せよ」
 肩に置いた手にわずかに力を込めると、八木は橘にかけていた手を緩めた。
「何だよ、彼氏面しやがって」
 八木は細い目をますます細めて、俺に目線をよこす。
「お前みたいなろくでもない噂立つような男。アーヤがかわいそうだろ」
 俺は黙って橘と八木の間に割って立つ。
「何とか言ってみろよ。どうせ遊んで飽きたら捨てるつもりなんだろ、より取り見取りな色男」
 八木からはアルコールの臭いがした。目の周りが赤らんでいる。よく見ると足元もふらついていた。
「八木さん、だっけ。帰り、気をつけて」
 俺は言って橘の肩を引き寄せる。橘は戸惑いながらついて来た。
「八木さん、大丈夫かな。結構酔ってたけど」
「どれくらい飲んだんだ」
「ワイン、ボトルで一本頼んじゃって」
 橘は申し訳なさそうに肩をすくめている。女を飲みつぶさせようとして、自分の方が先に酔ってるようじゃツメが甘いな。
 思いつつも、あのまま俺が現れなかったらどうするつもりだったのかと考えると笑えない。
「ま、あいつに送らせなくてよかったよ」
 嘆息すると、橘が目を反らした。
 その様子に、なんとなく、嫌な予感がする。
「……何か隠してんだろ」
「えーと」
 橘は目を泳がせていたが、あきらめたように俯いた。
「荷物が」
「はあ?」
「本が、結構重かったし、なくしてもいけないから、先に家に置いてきたの」
 俺は顔が引き攣るのを感じる。
「あいつも一緒に?」
「……うん」
 自宅の場所を教えるなと言って、返信がなかったことを思い出す。
 できない約束はしない主義、か。納得しつつも呆れ返って、俺はこれ以上ないというくらい盛大なため息をついた。
 ーーこいつは。本当に。
 じわじわと、様々な感情が込み上げては消え、込み上げては消えてーー
 最後に残ったのは、諦めと決意だった。
「もう、駄目。お前、危なっかし過ぎる」
 呟いてスマホを取り出した。首を傾げる橘の前で、時間を確認してから電話をかける。
 23時。他人だったら絶対にかけない時間だが、身内だから許してもらおう。
 挨拶もそこそこに、俺は言った。
「あー、隼人。悪い、やっぱり鍵返して」
 隼人は楽しげに笑った。
『了解。急いだ方がいいんだよね?』
「できれは」
『明日の夜なら空いてるよ。もちろん、橘さんも一緒だよね』
 おまけのように付け足された最後の言葉は、多分弟にとって一番重要なポイントなのだろう。またいじられるネタを与えたことを自覚しつつ電話を切ると、俺は橘の頭をがしりと掴んだ。小柄な橘が叱られた小学生のようにびくりと震える。
「明日、定時で上がれよ」
「えっ?え?今の隼人くんじゃないの?どういうこと?」
「どうもこうもねぇよ。元カレにもお前を狙ってる男にもバレてる自宅、とっとと引っ越せ。引っ越せないなら帰りが遅いときは俺んとこ来い。じゃないと俺がもたない」
 橘は途端に小さくなった。
「……そういうもん?」
「そういうもんだ」
 自分のテリトリー云々言っている場合じゃない。九割方、勢いでふっ切ったような気もするが、そういうもんなんだろうと自分を納得させる。
 橘を家まで送り届けた後、俺はようやく安心して帰宅した。
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