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第一章 こちふかば
27 夫婦のバランス
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「とうとう江原も結婚かなぁ」
「はぁ?」
咲也くんが手洗いに立ったとき、その背を見送った神崎さんが不意に呟いた。私は眉を寄せる。
「私、結婚願望ないし。彼氏とかいらないし」
「それ、前から言ってるよな」
返って来たのは苦笑だが、
「でも悪くないんじゃないの、あいつ」
と、咲也くんが去った方を親指で示す。言いたいことはあるけど口にはできない。私は大仰に嘆息して、何も言わずにグラスに口をつけた。
「どうだかねぇ。羊に見えて狼ということもある」
「狼はお前だろう」
グラスを傾けながらの阿久津さんの言葉に、神崎さんが応じる。
「狼、いいんじゃないですか」
私が言うと、神崎さんが半眼で私を見た。
「神崎さんだって、女に性欲がないだなんてお花畑なこと思ってるわけじゃないでしょ」
当然のように言ってグラスをわずかに振る。氷が音を立てた。また神崎さんが微妙な顔をする。
「結婚願望なくたって、性欲はありますよ」
「……それ、セフレ希望ってこと?」
「あーまあざっくり言うとそうなるかも」
グラスの飲み物がもう残りわずかだ。氷を伝って喉に落ちて来る焼酎を最後の一滴までという気概で口にしていると、神崎さんが店員さんに手で示し、もう一杯頼んでくれた。
やっぱり、できる男は違うねぇ。
「でも病気伝染されたくないし、セフレ希望って女がおおっぴらに言うのもためらわれるじゃないですか。そんなリスク背負うくらいなら自分でどうにかします」
「なるほどなぁ」
私の台詞に阿久津さんが笑い、自分も飲み物を追加で頼んでから残ったビールを飲み干した。
神崎さんは物言いたげな目のまま、私と阿久津さんを交互に見る。
「……ずっと思ってたけどさ」
言いにくそうに目を反らしつつ、
「二人がどうこう、てのはないの?」
「私と?阿久津さんが?」
問いかけに、阿久津さんと私は目を合わせる。
「……試してみます?」
私はいいですよと不敵な笑みを浮かべるが、
「遠慮しとく」
阿久津さんは微妙な表情で応じた。
私はむっと唇を尖らせる。
「私じゃ勃たないって言うんですか」
「まあそうだな」
「失礼な!」
不全なんじゃないですかと机を叩くと、ちゃんと機能すると返される。えげつない会話になる前に神崎さんが手で制した。
「分かった、分かったから。もうやめとけ。聞いた俺が悪かった」
もともと育ちのいい人だ。えげつない会話はお好みでないと承知している。
どんなに悪ぶったって、最終的には育った環境が物を言う。神崎さんたち夫婦も安田夫妻も、価値観や立ち振る舞いに落ち着きがある。
羨んだってきっと私には手に入れられない。だからもう羨むことは諦めた。それでも楽しくいられれば充分じゃないかと思っている。
そこに咲也くんが帰ってきた。私たちの顔を順番に見てーー最初と最後が神崎さんだったけどーー笑顔で首を傾げる。
「賑やかな感じでしたね。楽しい話でした?」
「阿久津さんが不全だっていう」
「江原黙れ」
「お前時々発言がR18指定な」
神崎さんと阿久津さんが速攻で止めにかかる。いいじゃんよ別に。もうこのメンバーならセクハラとか考えなくてもいいでしょ。
でも私は唇を尖らせて嘆息してみた。
「発言じゃなくて存在がR18になりたいです。ヨーコさんみたいなナイスバディ、溢れ出る色気」
「無理無理。絶対無理」
「それであれか、ジョーみたいな男ひっかけるか?」
神崎さんが片肘で頬杖をつきながら笑う。
「安田さん重いから無理です」
「だろうな」
神崎さんの笑顔が不意に穏やかになった。隣に座る咲也くんの目が奪われたのが分かる。
「でも、あれくらいの重さが必要なんだよ。名取さんには」
ずいぶんと慈愛に満ちた声で呟いて、残っていたハイボールを飲み干した。喉仏が上下に大きく動く。それに目を奪われたままの咲也くんの足を少しだけ蹴った。はっとした咲也くんは私の方を振り向き、照れ笑いを寄越した。まったく。油断も隙もない。ーーってこういうときの言葉じゃないけど。
「夫婦って不思議だよな。それぞれのバランスがあって、多分他の組み合わせじゃうまく行かないんだ」
「そうでしょうね」
私があっさりと頷くと、神崎さんは苦笑した。
「知った風に言うな」
「知ってますから。うちの親は、うまく行かなかったパターン」
もう傷にすらならない事実を告げると、神崎さんの表情がわずかに強張る。何を言ったものかと目線が一瞬揺れ、ただ一言、
「そうか」
私はその対応についつい口の端が歪むのを感じた。
ーーなんて育ちのいい人。
きっと幸せな家庭の中で、愛情を受けて育って来たんだろう。
そしてそんな彼と寄り添うアヤさんもきっと、そういう育ち方をしてきたのだろう。
「何笑ってんだよ」
気まずそうにこちらに目をやる神崎さんに、私は笑いながら首を振った。
「何でもないです。もう関係ないですよ。一人で生きていける力を身につけた私には」
言って、ほとんどない胸をふんと張る。
「一人で生きていける女、江原あきらですから」
神崎さんは私のその言葉に目を丸くして息を飲んだ後、
「ーーそれ、前にも聞いたわ」
「え、そうでしたっけ?」
私が首を傾げると、神崎さんは複雑な笑顔で小さく頷いた。
「俺もハイボール追加しよ。咲也くんは?」
「あ、じゃあ俺も同じもので」
神崎さんが手を挙げながら問うと、咲也くんが笑って応じた。神崎さんは微笑んで頷き、店員さんに飲み物の追加を注文した。
「はぁ?」
咲也くんが手洗いに立ったとき、その背を見送った神崎さんが不意に呟いた。私は眉を寄せる。
「私、結婚願望ないし。彼氏とかいらないし」
「それ、前から言ってるよな」
返って来たのは苦笑だが、
「でも悪くないんじゃないの、あいつ」
と、咲也くんが去った方を親指で示す。言いたいことはあるけど口にはできない。私は大仰に嘆息して、何も言わずにグラスに口をつけた。
「どうだかねぇ。羊に見えて狼ということもある」
「狼はお前だろう」
グラスを傾けながらの阿久津さんの言葉に、神崎さんが応じる。
「狼、いいんじゃないですか」
私が言うと、神崎さんが半眼で私を見た。
「神崎さんだって、女に性欲がないだなんてお花畑なこと思ってるわけじゃないでしょ」
当然のように言ってグラスをわずかに振る。氷が音を立てた。また神崎さんが微妙な顔をする。
「結婚願望なくたって、性欲はありますよ」
「……それ、セフレ希望ってこと?」
「あーまあざっくり言うとそうなるかも」
グラスの飲み物がもう残りわずかだ。氷を伝って喉に落ちて来る焼酎を最後の一滴までという気概で口にしていると、神崎さんが店員さんに手で示し、もう一杯頼んでくれた。
やっぱり、できる男は違うねぇ。
「でも病気伝染されたくないし、セフレ希望って女がおおっぴらに言うのもためらわれるじゃないですか。そんなリスク背負うくらいなら自分でどうにかします」
「なるほどなぁ」
私の台詞に阿久津さんが笑い、自分も飲み物を追加で頼んでから残ったビールを飲み干した。
神崎さんは物言いたげな目のまま、私と阿久津さんを交互に見る。
「……ずっと思ってたけどさ」
言いにくそうに目を反らしつつ、
「二人がどうこう、てのはないの?」
「私と?阿久津さんが?」
問いかけに、阿久津さんと私は目を合わせる。
「……試してみます?」
私はいいですよと不敵な笑みを浮かべるが、
「遠慮しとく」
阿久津さんは微妙な表情で応じた。
私はむっと唇を尖らせる。
「私じゃ勃たないって言うんですか」
「まあそうだな」
「失礼な!」
不全なんじゃないですかと机を叩くと、ちゃんと機能すると返される。えげつない会話になる前に神崎さんが手で制した。
「分かった、分かったから。もうやめとけ。聞いた俺が悪かった」
もともと育ちのいい人だ。えげつない会話はお好みでないと承知している。
どんなに悪ぶったって、最終的には育った環境が物を言う。神崎さんたち夫婦も安田夫妻も、価値観や立ち振る舞いに落ち着きがある。
羨んだってきっと私には手に入れられない。だからもう羨むことは諦めた。それでも楽しくいられれば充分じゃないかと思っている。
そこに咲也くんが帰ってきた。私たちの顔を順番に見てーー最初と最後が神崎さんだったけどーー笑顔で首を傾げる。
「賑やかな感じでしたね。楽しい話でした?」
「阿久津さんが不全だっていう」
「江原黙れ」
「お前時々発言がR18指定な」
神崎さんと阿久津さんが速攻で止めにかかる。いいじゃんよ別に。もうこのメンバーならセクハラとか考えなくてもいいでしょ。
でも私は唇を尖らせて嘆息してみた。
「発言じゃなくて存在がR18になりたいです。ヨーコさんみたいなナイスバディ、溢れ出る色気」
「無理無理。絶対無理」
「それであれか、ジョーみたいな男ひっかけるか?」
神崎さんが片肘で頬杖をつきながら笑う。
「安田さん重いから無理です」
「だろうな」
神崎さんの笑顔が不意に穏やかになった。隣に座る咲也くんの目が奪われたのが分かる。
「でも、あれくらいの重さが必要なんだよ。名取さんには」
ずいぶんと慈愛に満ちた声で呟いて、残っていたハイボールを飲み干した。喉仏が上下に大きく動く。それに目を奪われたままの咲也くんの足を少しだけ蹴った。はっとした咲也くんは私の方を振り向き、照れ笑いを寄越した。まったく。油断も隙もない。ーーってこういうときの言葉じゃないけど。
「夫婦って不思議だよな。それぞれのバランスがあって、多分他の組み合わせじゃうまく行かないんだ」
「そうでしょうね」
私があっさりと頷くと、神崎さんは苦笑した。
「知った風に言うな」
「知ってますから。うちの親は、うまく行かなかったパターン」
もう傷にすらならない事実を告げると、神崎さんの表情がわずかに強張る。何を言ったものかと目線が一瞬揺れ、ただ一言、
「そうか」
私はその対応についつい口の端が歪むのを感じた。
ーーなんて育ちのいい人。
きっと幸せな家庭の中で、愛情を受けて育って来たんだろう。
そしてそんな彼と寄り添うアヤさんもきっと、そういう育ち方をしてきたのだろう。
「何笑ってんだよ」
気まずそうにこちらに目をやる神崎さんに、私は笑いながら首を振った。
「何でもないです。もう関係ないですよ。一人で生きていける力を身につけた私には」
言って、ほとんどない胸をふんと張る。
「一人で生きていける女、江原あきらですから」
神崎さんは私のその言葉に目を丸くして息を飲んだ後、
「ーーそれ、前にも聞いたわ」
「え、そうでしたっけ?」
私が首を傾げると、神崎さんは複雑な笑顔で小さく頷いた。
「俺もハイボール追加しよ。咲也くんは?」
「あ、じゃあ俺も同じもので」
神崎さんが手を挙げながら問うと、咲也くんが笑って応じた。神崎さんは微笑んで頷き、店員さんに飲み物の追加を注文した。
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