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第一章 こちふかば
48 末端
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咲也の家に泊まった翌日、宣言通り始発の電車で自宅へ向かう私に、咲也は黙ってついてきた。
「いいのに。咲也も仕事あるんでしょ」
「うん、あるよ」
言いながら、わずかに微笑む。
昨夜のように手を繋いだりせず、私がわずかに前に立って歩いていく間、私たちはほとんど会話を交わさずにいた。ローヒールのストラップパンプスが、こつこつこつ、と規則的に私の歩みを音に刻む。
大股で、カカトから力強く地面に足をついて歩く私の靴は、だいたいカカトからすぐダメになって、一年ともたない。
靴って消耗品ですよね、いい靴ってどうやって履くんでしょう、とぼやいたとき、ヨーコさんがふわりと笑って言った。
「ちゃんと手入れして履くんや。そうすれば愛着も沸くし、足の運びも丁寧になる」
ヨーコさんが持ってる靴で一番長く履いているのはブーツだそうだ。二十年近く履いていると聞いて驚いた。シーズンの終わりには、必要そうならカカトや靴底を張替えて、磨いてまたしまっておく。ーーそう話していた。
そういえば、安田さんも神崎さんも、そうそう阿久津さんだって、いい色味の靴を履いている。安田さんはどうか知らないが、神崎さんと阿久津さんは靴談義をしていたことがあって、多分根っから靴好きなんだろう。神崎さんに到っては財布や鞄、果てはベルトに到るまで、革製品は定期的に手入れしていると当然のように言っていた。結婚したら彩乃の靴も磨いている、あいつはそういうところがズボラだから、とまた始まる無自覚な惚気を思い出して笑う。
「どうしたの」
咲也が不思議そうに問いかけてきて、私はうん、と言った。
「神崎さんはね」
「政人さん?」
「うん。自分の靴を磨くついでに、妻の靴も磨いてあげるんだって」
咲也は目を数度またたかせて、私の味気ないパンプスを見た。
「靴、ね」
「そうそう」
私のはいいの、安物だから。そう言って笑うと、咲也が微笑む。
「意識が末端まで行き届くのって」
咲也は歩きながら、一人ごちるように言った。
「難しいよね。すごく」
私はその横顔を見やり、また前を向く。
「そうだね」
余裕がないと、無理だよね。
言おうとしてやめた。余裕ってどんな余裕なんだろう。時間?気持ち?それとも、他の何かだろうか。
そんなことを思ったから。
「末端、かぁ」
呟きながら、手をにぎりしめたり、解いたりしてみる。
私の末端。
ふと口元が歪んだ。末端なんて私の存在そのものなのに、さらに末端にまで意識を配る必要なんてどれくらいあるんだろうか。
「末端、だね」
咲也の手が広げられて、私の目の前をひらひらと舞った。手から腕、そして顔へと目を移すと、咲也は表面上穏やかに笑っている。
「咲也、目が笑ってないよ」
「知ってる」
咲也は言って前を向いた。それでも表情は変わらず、一見穏やかな笑顔のままだ。
「表情が、張り付いちゃってるだけだよ」
「だろうね」
私は応じながら歩いていく。咲也よりも一歩前を。前を向いたまま。
「時々、仮面は外さないと」
吐き出す言葉は、ほとんど自分へのものだ。
「自分のもとの顔、わかんなくなるよ」
咲也が笑った。でも、それは乾いた笑いだった。
「もう、だいぶ、わかんなくなってる」
「知ってる」
私は答えた。咲也の顔は見る気にならなかった。
「……知ってるよ」
一歩前を歩いたまま、私は自分の“末端“を咲也の方へ伸ばす。咲也がそれに自分の“末端“を伸ばすまでのわずかな間、肩から先が変に冷たく感じた。拒否されたら。無視されたら。一瞬駆け巡った恐怖に近い不安は、咲也の手の温もりで上書きされる。
気付かれないように息を吐き出しながら、私は家のある通りまでたどり着いた。
「いいのに。咲也も仕事あるんでしょ」
「うん、あるよ」
言いながら、わずかに微笑む。
昨夜のように手を繋いだりせず、私がわずかに前に立って歩いていく間、私たちはほとんど会話を交わさずにいた。ローヒールのストラップパンプスが、こつこつこつ、と規則的に私の歩みを音に刻む。
大股で、カカトから力強く地面に足をついて歩く私の靴は、だいたいカカトからすぐダメになって、一年ともたない。
靴って消耗品ですよね、いい靴ってどうやって履くんでしょう、とぼやいたとき、ヨーコさんがふわりと笑って言った。
「ちゃんと手入れして履くんや。そうすれば愛着も沸くし、足の運びも丁寧になる」
ヨーコさんが持ってる靴で一番長く履いているのはブーツだそうだ。二十年近く履いていると聞いて驚いた。シーズンの終わりには、必要そうならカカトや靴底を張替えて、磨いてまたしまっておく。ーーそう話していた。
そういえば、安田さんも神崎さんも、そうそう阿久津さんだって、いい色味の靴を履いている。安田さんはどうか知らないが、神崎さんと阿久津さんは靴談義をしていたことがあって、多分根っから靴好きなんだろう。神崎さんに到っては財布や鞄、果てはベルトに到るまで、革製品は定期的に手入れしていると当然のように言っていた。結婚したら彩乃の靴も磨いている、あいつはそういうところがズボラだから、とまた始まる無自覚な惚気を思い出して笑う。
「どうしたの」
咲也が不思議そうに問いかけてきて、私はうん、と言った。
「神崎さんはね」
「政人さん?」
「うん。自分の靴を磨くついでに、妻の靴も磨いてあげるんだって」
咲也は目を数度またたかせて、私の味気ないパンプスを見た。
「靴、ね」
「そうそう」
私のはいいの、安物だから。そう言って笑うと、咲也が微笑む。
「意識が末端まで行き届くのって」
咲也は歩きながら、一人ごちるように言った。
「難しいよね。すごく」
私はその横顔を見やり、また前を向く。
「そうだね」
余裕がないと、無理だよね。
言おうとしてやめた。余裕ってどんな余裕なんだろう。時間?気持ち?それとも、他の何かだろうか。
そんなことを思ったから。
「末端、かぁ」
呟きながら、手をにぎりしめたり、解いたりしてみる。
私の末端。
ふと口元が歪んだ。末端なんて私の存在そのものなのに、さらに末端にまで意識を配る必要なんてどれくらいあるんだろうか。
「末端、だね」
咲也の手が広げられて、私の目の前をひらひらと舞った。手から腕、そして顔へと目を移すと、咲也は表面上穏やかに笑っている。
「咲也、目が笑ってないよ」
「知ってる」
咲也は言って前を向いた。それでも表情は変わらず、一見穏やかな笑顔のままだ。
「表情が、張り付いちゃってるだけだよ」
「だろうね」
私は応じながら歩いていく。咲也よりも一歩前を。前を向いたまま。
「時々、仮面は外さないと」
吐き出す言葉は、ほとんど自分へのものだ。
「自分のもとの顔、わかんなくなるよ」
咲也が笑った。でも、それは乾いた笑いだった。
「もう、だいぶ、わかんなくなってる」
「知ってる」
私は答えた。咲也の顔は見る気にならなかった。
「……知ってるよ」
一歩前を歩いたまま、私は自分の“末端“を咲也の方へ伸ばす。咲也がそれに自分の“末端“を伸ばすまでのわずかな間、肩から先が変に冷たく感じた。拒否されたら。無視されたら。一瞬駆け巡った恐怖に近い不安は、咲也の手の温もりで上書きされる。
気付かれないように息を吐き出しながら、私は家のある通りまでたどり着いた。
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