さくやこの

松丹子

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第二章 ふくらむつぼみ

52 打診

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「アキちゃーん。今日、三十分くらい時間あるー?」
 出勤した私に声をかけてきたのは、山崎財務部長だった。もうずいぶん長いこと財務部長を勤めている。他にもう行くところないんだよねー、と本人は笑っているが、ぼちぼち退職になるはず。
「ありますよー」
「今は?大丈夫?」
「大丈夫ですけど。何ですか?」
 首を傾げると、山崎部長はにっこり笑い、
「うん、じゃあ、ちょっとこっち」
 おいでおいでと手招きした。
「ちょっと行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
 ヨーコさんは手を挙げて、
「山崎部長、三十分ですね」
 にこり、と部長に問いかけた。
「やだなぁ、ヨーコちゃん。ちょっとくらい、過ぎてもいいじゃない。僕もたまには若手と話したいんだよー」
「嫌やわぁ、山崎部長。懇親の機会が欲しいなら、事前に言うてもらえれば、設定しますさかい」
 ヨーコさんの美しい笑顔に、山崎部長はひょいと肩をすくませる。
「ヨーコちゃん、チーフになったら言葉数が増えたよねぇ」
「そうでしょか」
「それとも、結婚してからかなぁ。おしゃべりだからなぁ、彼」
 ぶつくさ言いながら部長は歩き始める。私は安田さんの顔を思い浮かべて噴き出した。独り言のようなヨーコさんの声が聞こえた。 
「そうかも知れへんなぁ。不本意やけど」
 そうかもしれませんね。と私は心中で答えた。
 ずっと一緒にいる、って、少なからず、そういうことだ。互いに、互いが近づく。
「でも、安田さんはあんまり変わりませんね」
「まあ、強いていえば女遊びをやめたくらい?」
 廊下を歩きながら私がぼやくと、山崎部長が答えた。
「いや、それは当然でしょう」
 私が笑うと、そうかなあ、結構すごかったみたいだよ、と部長は右に左に首を傾げた。
 私が本社勤務になったのは、安田さんとヨーコさんがお付き合いし始めた後だ。だから、その手の噂は聞いたことがない。神崎さんも、結婚前はいろいろ噂が立ってたらしいけど、残念ながらそちらも、私は聞けなかった。神崎さんで遊ぶ絶好のチャンスだったのに。
 まあ、ちらっとは聞いたんだけどね。というのも、私もそのひと悶着に巻き込まれたからだ。
 例の取引先のお孫さん、当時中学生のその子を自宅に連れ込んで関係を持ったって、そんな疑惑がかかったことがあったのだ。ついでのように私へのセクハラ疑惑も浮上して、人事から電話があった。
 そうしたいざこざは、まあようするに、できる男へのただの僻みが引き起こしたんだけど。巻き込まれた私はその後どうなったか様子を聞いたのだが、神崎さんは笑っていた。「目が合うだけで妊娠するとか、すげぇのもあったぞ。よく考えるよな」確かにそこまで行けば笑い話だと私も納得したものだが、さすがにアヤさんと結婚したら誰もそんなの信じなくなった。見るからにラブラブだしね。ほとんど毎日夫婦でランチとか、むしろちょっと引く。
 そんなことに思いを馳せながら部長について行くと、資料室横の閲覧スペースの椅子を勧められた。 私が腰掛けると、部長も前に座る。よっこらせ、と超えを出したのはきっとわざとだ。いつでも、部下を和ませようとしてくれる上司は、比較的みんなに好かれている。
「お話って、何ですか?」
 席に着くなり問いかけた私に、部長は渋面を返して見せた。
「いきなり本題、いっちゃうの?ちょっと会話楽しんでもよくない?」
 はあ、まあ、いいですけど。と私は言った。アキちゃんて意外と真面目だよね。意外と、は余計です。そんなくだらない会話を交わす。
「ちょっとプライベートな話、聞いてもいい?嫌ならやめるから」
 部長に言われて、どうぞ、と先を促すように手を出した。部長はうんと頷いて、
「アキちゃんは、一生独身主義って言ってたじゃない」
「ええ、まあ」
「それ、今も?」
 私は質問の意図がわからず、眉を寄せた。ああ、ごめんと部長が後ろ頭をかく。
「やっぱりアキちゃんは直球がいいか。ズバリ聞くよ」
 きり、と言われてちょっと姿勢を正した。何でしょう、と問うと、部長は言った。
「もし、海外勤務になっても、問題ない?」
 私は思わずぽかんとした。
 先述したように、海外勤務が経験できるのは、この会社に入った動機の一つだ。が、最初の採用先が九州で、その後本社に来てから、かれこれ五年。
 通常のパターンでは、三年目か、そうでなくても七年目までに海外勤務になるのだが、私はもう就職して八年目になっている。すっかり財務部に骨を埋めつつあったが、一応、海外への転勤希望は出しつづけていた。一応。
「行けるんですか、海外」
 私は期待に満ちた声で言ったが、その実、思ったのは逆のことだった。
 ーー日本を、出られる。
 思った自分に苦笑する。一体何から逃げようというのだろう。晃さんから?それも無くはないだろうけど、もっと違うもののような気がした。
 母から。父から。過去の自分からーー
 目の前の部長の存在を忘れかけていたことに気づいて、我に返った。いつも通りのアキちゃんスマイルを浮かべ、快活に声を出す。
「行きます。喜んで」
 部長はちょっと慌てたようだった。
「まだ、本決まりじゃないからね。ちょっとほら、都合が大丈夫かなって、確認でーー」
「あは。分かってます。でも、ずっと希望してたんですもん。もう諦めかけてたんで、そうだったら嬉しいです」
 私は笑顔で応じながら、心中では切望していた。
 どうか、どうかーーそれが実現しますように。
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