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第二章 ふくらむつぼみ
51 独り立ち
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大学は都内に行こうと決めていた。ゆくゆく女が一人で生きていける仕事に就くには、仕事を選ぶにも世間体的にも都会がいいと思っていたこともあるし、何より母と離れたかった。母は私が成長するに伴い何かと私に頼るようになってきて、私はそんな母が煩わしく思えた。母に男の陰が見えたときには、徹底的に反対した。何考えてるの。散々な目に合っておいて、まだ男に頼ろうなんて考えてるの。私の為を思うなら、自分の足で立ってよ。他人に頼ろうとなんてしないでよ。
当然だと思っていた。一時の恋心に任せて勝手に妊娠して駆け落ちして出産して、ろくでもない男と生活を初めてーー自分だけが心も身体もボロボロになっただけではない、娘までも巻き込んで、散々な思いをさせたのだ。気を許せる男など、母に作る権利はない。どうせ男を見る目もない、マトモな男を引き付けることもない、そう思っていた。
思っている自分が、苦しかった。気持ち悪かった。罪悪感、ではない。自己嫌悪、に近いけれど、それはきっと、母を支配しようとする父の姿を、自分の内面に見るからだった。
母と離れれば、そんな自分とも離れられるーー
そう思った。
大学に入ると、思い切りキャラを変えた。いつでも笑顔で、お調子者で、明るく楽しいあきらちゃん。そんな自分は悪くない。そう思っていた。大学は気が楽だった。必要以上に近づかない人間関係は、私が包み隠したい部分を曖昧なままにさせてくれた。大人になるってこういうことか、こんなに楽なことかと、次のステップーー社会人になることにも希望を持てた。
無利子の奨学金を貰えるほど優秀な成績ではなかったけど、当然のように奨学金で大学に通うことを選んだ。家庭教師のバイトをして、時々夕飯をご馳走になって、昼ご飯を削って、仕送りに頼らず大学に通った。
苦学生、親孝行者、と周りには言われた。私も表面上は、母に負担をかけたくないから、とだけ言っておいた。でも実際は違う、と自分で分かっていた。負担をかけたくないのではない、早く母という存在から自分を切り離したいだけなのだ、と。
血が繋がっている、ということは、それだけでも気持ちが悪かった。妻子に暴力を奮うことで自分の力を誇示しようとした父と、悲劇のヒロインになったようになよなよと歎き哀しむ母。そんな二人の血が私の身体に流れている。私にとっては、それだけで吐き気を感じるほど気持ち悪いことだった。血を全部取り替えたい、と何度も思った。
二十歳になると、しょっちゅう献血に協力した。社会貢献したいからじゃない、少しでも早く、昔の血を外に出してしまいたかったから。母の臭いのついた血を。父を覚えている血を。そして、「明るく楽しいあきらちゃん」の血に生まれ変わるのだ。そんな妄想は、自分でも馬鹿馬鹿しいとわかっていたけど、そうしないと落ち着かなかった。それもやっぱり友達からは「協力的で偉いね」と褒められた。「血の気が多いから」と私は笑った。
大学では彼氏もできた。いつも明るくて楽しいね、と言われた。何も分かってない男の馬鹿さを心中で嗤った。元から男になんて期待してない。重い関係なんかごめんだった。でも興味から、何人かと関係を持った。彼氏と、一晩だけ寝た男が殴り合いを始めることもあった。ああまた男が勝手にやってるわ、と私はそれを冷めた目で見ていた。その後、どちらも私には近づかなくなった。私は別に寂しくもなんともなかったけど、寝るなら後腐れない相手か、イチイチ寝た女のことを考えない男の方がいいということは分かった。
男と寝るときには、ピルを飲んだ。定期的に無料の性病検査を利用した。母のように、男のせいで人生を台なしにされたくなんてなかったから。それでも、まだ二十そこそこの若い身体は男を求めた。男も若い身体を求めるから、それはそれでニーズに合致していたんだろう。寝た男の人数だけなら、なかなかの数にのぼると思う。男が付き合おうと言ってきたときには、必ず事前に釘を刺した。私、割とドライで面倒くさがりなの。もし、物足りなくなったらはっきり言って。ーーと。
就職は外資系のインテリアメーカーに入った。若い時期に海外勤務があると聞いたことと、女性管理職がいること、実力主義なこと、そして本社が東京にあること、そんな条件から会社を選んだ。
なのに、就職して最初に配属されたのは福岡にある九州支社だった。私は目の前が真っ暗になったように感じた。またあの人の手中に帰らなくてはいけないのか。そう思った。社会人になり、本当の意味で独り立ちできる、という希望を、呆気なく潰されたような気になった。
母には就職先が都内だと告げ、二ヶ月の本社研修を経て九州支社で働き始めた。支社では本社ほどの活発さも、自由さも、感じられなかった。男女差別は地元の他社ほどひどくはなかったけれど、全く無いわけではなかった。
あっという間に失ったやる気を取り戻したのは、それから二年後、神崎さんが九州支社に派遣されてきたときだ。
柔らかい髪はやや短めだが短髪というには長いくらいで、自然と整っていた。涼やかな目もとに通った鼻筋、厚くも薄くもない唇。タレントや俳優と並んでも遜色ないほど、整った顔立ち。彼が洗練されて見えるのはそれだけでなく、靴やスーツ、鞄に至るまで、身につけるものにこだわりが感じられたからだ。
物腰は柔らかく、かといって持論を譲るほど弱くはない。多少、優柔不断なところはあったが、一方で使えるものは使う強さもある。
私を経験不足な女として放置していた今までの先輩たちと神崎さんは、全然違った。私はやる気を取り戻した。この人に、認めさせたい。そう思った。昔の私とは違う、今の自分を試したいと思った。
気合いを入れ直して働いている内に、神崎さんより少し先に九州支社に来ていた阿久津さんも私を見直してくれた。おもしろい奴。そう言って構ってくれるようになった。学生時代の曖昧な自分とはまた違う自分が、少しずつ、でも確実に、形になっていく。それが私にとっては最高に幸せに感じられた。
このときようやく、母にも、九州で働いていると告げた。それまではあくまで東京で働いていたことにして。
これだけ地面に足がついた自分なら、もう過去の幻想に振り回されることはないんじゃないか。再三連絡を寄越す母がうるさくて断りきれず、久々に会ってみた。母は、やっぱり変わらなかった。変わらないまま、恥ずかしそうに言った。二人で食事に行っている男の人がいるの。私は何も言わなかった。母が私に何を期待しているのかを考えるのも面倒だった。この人は変わっていない。それだけがわかればもう充分だった。
私の人生に、この人は要らない。
母は言った。貴女はいい仕事についたわよね。年収いくらくらいなのかしら。やっぱり東京の大学に行ったのがよかったのよね。
受験して、東京に行くとき、お母さん、がんばって工面したのよね、百万円。ーー
手切れ金なら安いものだ、と思った。口座に振り込むから、後で番号教えて。そう言って、数千円のランチの伝票を手に店を出た。
その一年後、担当していた仕事が一段落ついたのを期に、本社へ異動になった。アヤさんの後任として、財務部ーー昇進コースの一つと言える部署への異動が決まった。私は喜びより驚きより、まず先に安堵した。これで、福岡をーー母を、離れられる。そう思った。
当然だと思っていた。一時の恋心に任せて勝手に妊娠して駆け落ちして出産して、ろくでもない男と生活を初めてーー自分だけが心も身体もボロボロになっただけではない、娘までも巻き込んで、散々な思いをさせたのだ。気を許せる男など、母に作る権利はない。どうせ男を見る目もない、マトモな男を引き付けることもない、そう思っていた。
思っている自分が、苦しかった。気持ち悪かった。罪悪感、ではない。自己嫌悪、に近いけれど、それはきっと、母を支配しようとする父の姿を、自分の内面に見るからだった。
母と離れれば、そんな自分とも離れられるーー
そう思った。
大学に入ると、思い切りキャラを変えた。いつでも笑顔で、お調子者で、明るく楽しいあきらちゃん。そんな自分は悪くない。そう思っていた。大学は気が楽だった。必要以上に近づかない人間関係は、私が包み隠したい部分を曖昧なままにさせてくれた。大人になるってこういうことか、こんなに楽なことかと、次のステップーー社会人になることにも希望を持てた。
無利子の奨学金を貰えるほど優秀な成績ではなかったけど、当然のように奨学金で大学に通うことを選んだ。家庭教師のバイトをして、時々夕飯をご馳走になって、昼ご飯を削って、仕送りに頼らず大学に通った。
苦学生、親孝行者、と周りには言われた。私も表面上は、母に負担をかけたくないから、とだけ言っておいた。でも実際は違う、と自分で分かっていた。負担をかけたくないのではない、早く母という存在から自分を切り離したいだけなのだ、と。
血が繋がっている、ということは、それだけでも気持ちが悪かった。妻子に暴力を奮うことで自分の力を誇示しようとした父と、悲劇のヒロインになったようになよなよと歎き哀しむ母。そんな二人の血が私の身体に流れている。私にとっては、それだけで吐き気を感じるほど気持ち悪いことだった。血を全部取り替えたい、と何度も思った。
二十歳になると、しょっちゅう献血に協力した。社会貢献したいからじゃない、少しでも早く、昔の血を外に出してしまいたかったから。母の臭いのついた血を。父を覚えている血を。そして、「明るく楽しいあきらちゃん」の血に生まれ変わるのだ。そんな妄想は、自分でも馬鹿馬鹿しいとわかっていたけど、そうしないと落ち着かなかった。それもやっぱり友達からは「協力的で偉いね」と褒められた。「血の気が多いから」と私は笑った。
大学では彼氏もできた。いつも明るくて楽しいね、と言われた。何も分かってない男の馬鹿さを心中で嗤った。元から男になんて期待してない。重い関係なんかごめんだった。でも興味から、何人かと関係を持った。彼氏と、一晩だけ寝た男が殴り合いを始めることもあった。ああまた男が勝手にやってるわ、と私はそれを冷めた目で見ていた。その後、どちらも私には近づかなくなった。私は別に寂しくもなんともなかったけど、寝るなら後腐れない相手か、イチイチ寝た女のことを考えない男の方がいいということは分かった。
男と寝るときには、ピルを飲んだ。定期的に無料の性病検査を利用した。母のように、男のせいで人生を台なしにされたくなんてなかったから。それでも、まだ二十そこそこの若い身体は男を求めた。男も若い身体を求めるから、それはそれでニーズに合致していたんだろう。寝た男の人数だけなら、なかなかの数にのぼると思う。男が付き合おうと言ってきたときには、必ず事前に釘を刺した。私、割とドライで面倒くさがりなの。もし、物足りなくなったらはっきり言って。ーーと。
就職は外資系のインテリアメーカーに入った。若い時期に海外勤務があると聞いたことと、女性管理職がいること、実力主義なこと、そして本社が東京にあること、そんな条件から会社を選んだ。
なのに、就職して最初に配属されたのは福岡にある九州支社だった。私は目の前が真っ暗になったように感じた。またあの人の手中に帰らなくてはいけないのか。そう思った。社会人になり、本当の意味で独り立ちできる、という希望を、呆気なく潰されたような気になった。
母には就職先が都内だと告げ、二ヶ月の本社研修を経て九州支社で働き始めた。支社では本社ほどの活発さも、自由さも、感じられなかった。男女差別は地元の他社ほどひどくはなかったけれど、全く無いわけではなかった。
あっという間に失ったやる気を取り戻したのは、それから二年後、神崎さんが九州支社に派遣されてきたときだ。
柔らかい髪はやや短めだが短髪というには長いくらいで、自然と整っていた。涼やかな目もとに通った鼻筋、厚くも薄くもない唇。タレントや俳優と並んでも遜色ないほど、整った顔立ち。彼が洗練されて見えるのはそれだけでなく、靴やスーツ、鞄に至るまで、身につけるものにこだわりが感じられたからだ。
物腰は柔らかく、かといって持論を譲るほど弱くはない。多少、優柔不断なところはあったが、一方で使えるものは使う強さもある。
私を経験不足な女として放置していた今までの先輩たちと神崎さんは、全然違った。私はやる気を取り戻した。この人に、認めさせたい。そう思った。昔の私とは違う、今の自分を試したいと思った。
気合いを入れ直して働いている内に、神崎さんより少し先に九州支社に来ていた阿久津さんも私を見直してくれた。おもしろい奴。そう言って構ってくれるようになった。学生時代の曖昧な自分とはまた違う自分が、少しずつ、でも確実に、形になっていく。それが私にとっては最高に幸せに感じられた。
このときようやく、母にも、九州で働いていると告げた。それまではあくまで東京で働いていたことにして。
これだけ地面に足がついた自分なら、もう過去の幻想に振り回されることはないんじゃないか。再三連絡を寄越す母がうるさくて断りきれず、久々に会ってみた。母は、やっぱり変わらなかった。変わらないまま、恥ずかしそうに言った。二人で食事に行っている男の人がいるの。私は何も言わなかった。母が私に何を期待しているのかを考えるのも面倒だった。この人は変わっていない。それだけがわかればもう充分だった。
私の人生に、この人は要らない。
母は言った。貴女はいい仕事についたわよね。年収いくらくらいなのかしら。やっぱり東京の大学に行ったのがよかったのよね。
受験して、東京に行くとき、お母さん、がんばって工面したのよね、百万円。ーー
手切れ金なら安いものだ、と思った。口座に振り込むから、後で番号教えて。そう言って、数千円のランチの伝票を手に店を出た。
その一年後、担当していた仕事が一段落ついたのを期に、本社へ異動になった。アヤさんの後任として、財務部ーー昇進コースの一つと言える部署への異動が決まった。私は喜びより驚きより、まず先に安堵した。これで、福岡をーー母を、離れられる。そう思った。
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