さくやこの

松丹子

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第二章 ふくらむつぼみ

64 本意の翻意

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「あきちゃん、泣かせちゃった」
 しばらく泣き続けて、ようやく落ち着いた私は、咲也の苦笑を見ながら冷めきった紅茶を口にした。
「ごめんね」
 咲也の言葉に、
「ううん」
 私は首を振る。
 ためらった後、小さい声で付け足した。
「ありがとう。話してくれて」
 こんな陳腐で、独りよがりな台詞を、自分が口にする日が来るとは思わなかった。
 思いながら、紅茶をまた一口飲む。
「でも、今は、離れてても大丈夫なんだね。お母さん」
 咲也はちらりと私に目をやる。
「……今日はもう、やめておこうよ」
 咲也は微笑んだ。続きがあるらしいと気づき、私はぎくりと身をすくめる。
「あきちゃんには刺激が強かったでしょう」
 強かった、といえば確かにそうかもしれない。自分と同等以上のーーいや、比較できるものでもないのだけどーー苦しみを味わった人がいるだなんて、あんまり考えたことがなかった。
「……じゃあ、やめておく」
 私は静かに息を吐き出した。すると身体の強張りが少しだけ和らぐ。
 もう一度、今度は深呼吸する。吐き切るとだいぶ楽になった。
「代わりに、私の話をしようか」
「何それ。どうせ楽しい話じゃないんでしょ」
 咲也は笑う。私も笑いを返した。
「だって、フェアじゃないでしょ。片方だけが知ってるなんて」
「いいよ、フェアじゃなくても」
「咲也ほど複雑じゃないよ」
 私は言った。残った紅茶を一息に口にする。
「父がDV男で、母と二人で逃げたの。そんな母の姿を見て、絶対に男に依存しないで生きていくと決めたあきちゃんは、一人で暮らしていける強い女になったのでした」
 咲也は笑った。
「本当かなぁ」
「何がよ」
「一人で生きていけるってところ」
 私はちょっと顔をしかめた。それについては私も、最近、ちょっとだけ、違和感を覚え始めているーーちょっとだけ。
「あきちゃんは、何だかんだ言って寂しがりやじゃない」
 咲也は机に散らばったパンの空包装を、一つの袋に突っ込みながら言った。
「違うもん」
 私は唇を尖らせながら反論する。が、自分でも薄々気づきはじめているーー私は、本当に一人で生きていくことを望んでいる訳ではないのかもしれない、と。
 咲也は笑った。
「いいじゃない、あきちゃんは会社の先輩に恵まれてるし、寂しくないでしょ」
「恵まれてるぅ?」
 私は眉を寄せた。咄嗟に思い出したのは、阿久津さんと神崎さんだ。よりによってどうしてその二人が真っ先に浮かんで来る、と心中セルフツッコミを入れる。ヨーコさんとアヤさんが先に浮かんでくるべきだろう。
「面倒見よくて、あきちゃんのことよく見守ってくれてるじゃない。口は悪くても」
「それ、誰のこと?神崎さんのこと?」
「いや、阿久津さんも」
「やっぱりその二人かい」
「え、駄目?ヨーコさんも」
「うん、それならよし」
 私が満足げに鼻を鳴らすと、咲也は楽しげに笑った。
「結局、突き放せないんでしょ。あの、“育ちのいい“先輩たち」
 私は咲也の穏やかな顔を見て、目を反らした。
「突き放しても絡んで来るもん」
「内心、嬉しいんじゃないの」
「そんなことはーー」
 改めて向き直った私は、咲也の微笑みを見て観念した。
「ない、とも言いきれない」
 小さく付け足した言葉に、咲也が笑う。
「ありがとう、って気持ち」
 咲也は集めた空の袋で、くるりと結び目を作りながら言った。
「忘れなければ、大丈夫だよ」
 手元に目線を落とした咲也の顔を、私は見やる。
「あの人たちは、ちゃぁんと、感謝の気持ちを受け止めてくれる人たちだから」
 ぞ、っとした。
 人からの好意を、感謝の気持ちを、受け止められない心理状態を知っている。咲也も、私も。
「心の端っこでも、感謝してれば、きっとずっと、離れずにいてくれる」
 咲也は微笑んで首を傾げた。
「そしたら、あきちゃんは一人にならない」
 その晴れやかな微笑みの後ろに、舞い散る桜の花が見えたような気がしてーー戸惑う。
「やめてよ」
 私は乾いた声で言った。
「何かそれ、死亡フラグみたい」
「死亡フラグ?」
「『この戦いが終わったら、言いたいことがあるんだ……』みたいな」
 咲也は笑った。そういうのあるね。
「でも、大丈夫。俺も一緒にいるよ」
 咲也は笑顔のまま、また私の頭をぽんぽんと叩く。
「あきちゃんが、そう望むなら」
 私はまた、泣きそうになった。
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