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第三章 さくらさく
85 失踪
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咲也の母の失踪は、突然だった。
昨日から帰って来ないと叔父から連絡を受けた咲也は、慌てて実家に帰ったがーー部屋はひっそりと静まり返り、母の不在を除いて何も変わらないように見えたそうだ。
ただ、机の上には、一言だけ、書き置きがあった。
ーー咲也、幸せになってね。ーー
冷蔵庫の中もそのままで、家を出たのはほとんど思いつきだったのではないかと思われた。捜索願いを出すか叔父と話し合ったが、パスポートや一部の服がなくなっていたこと、それなりのお金が引き落とされていること、そして咲也の父の手紙が部屋のいたるところに置いてあったことから、様子を見ることにした。
「多分、父に会いに行ったんだと思うんだ」
咲也は疲れきった様子で言った。母の失踪を聞いてからというもの、食事も喉を通らず、就寝してもうなされているのに気づいている私は気が気ではない。
咲也にとって、母の存在は、ほとんど自分の一部なのだろう。
「叔父さんは連絡取れるんでしょ。咲也のお父さん」
咲也の心配を和らげようと、私は言ったが、咲也はうん、と曖昧に頷いた。
「でも、基本的に渡りのカメラマンだから、定住してることがあんまりないみたいで。連絡が取れるのは確かだけれど、すぐに連絡が取れるかは分からないんだ。やりとりは手紙だけだったみたいだし」
「そんな、原始的な」
「仕方ないよ」
咲也は苦笑した。
「それくらいの距離感がないと、駄目だったんだ、きっと。ーーそれも分かる気はする」
私は咲也の母の少女のような笑顔を思い出して、それ以上何も言えずに黙った。
母と息子。ただそれだけで表現するには、二人の関係は近すぎる。
ほとんど依存し合っていた二人のそれぞれの想いは、私の想像の範囲外だ。
年始に会った咲也の母は、言っていた。
自分の存在が、咲也の幸せを邪魔しているのではないか、と。
ーーどうして、今。
咲也には、自分の命のことをこそ、考えて欲しいのに。
腹の底で感じた苛立ちに、奥歯をかみしめながらも、
ーーいや、今だからこそ、かもしれない。
と思い当たる。
私と咲也が同棲を開始してから、もうすぐ半年になる。それでも進展の連絡はない。私たちが一歩を踏み出すためには、自分が邪魔なのではないかとーー咲也を解放すべきではないかと、そう思ったのかもしれない。
私は下唇を噛んだ。咲也は日に日に憔悴していくその姿は、母のせいなのか、それともーー
病のせいだったらどうしよう。咲也はこのまま死んでしまうのだろうか。
そんな幻想を抱いて、ときどき咲也が死ぬ夢で目を覚ますようになった。
朝起きてみたら、眠ったように鼓動を止めている咲也。
ただの夢だと分かっても、不安で咲也の寝床まで確認に行くこともあった。
膝を抱えてその横に座り込み、咲也の寝顔を見ながら、ぼんやりと考える。
――私が看取れるのなら、それもいいのかもしれない。
咲也がいなくなる様を目の当たりにすれば、私も諦めがつくのではないか。
思ってから、苦笑して一人、首を振った。
諦めがつく前に、壊れてしまいそうだ。もうすっかり、弱くなってしまった私の心が。
いや、強くなったと思っていたことこそ、幻想だったのかもしれない。
ただただ意地を張り、ムキになっていただけなのかもしれない。
一人で生きていくと豪語していながら、その実私は、人の温もりを求め続けた。
今までもーーきっと、これからも。
咲也が言うように、私は、寂しがりやなのだろう。
それでも、咲也の次はない。
咲也の代わりになるものなど、何もない――
あったとしても、失う恐怖を知ってしまった今となっては、怖くて手を伸ばす勇気はない。
人の気配に目を覚ました咲也は、自分の寝床の横に座り込む私に気づくと、不思議そうに仰ぎ見た。
「どうしたの」
私はなんでもない、と答えた。うなされてたから、と適当な嘘をついて。
咲也は苦笑した。それが私の嘘だと、気づいているかもしれない。それでもよかった。
咲也が何をするにも、まず影響を気にしていたのが母だ。
その人がいなくなったのだから、病の治療に踏み出してみてもいいのではないか。
私はそうも思ったが、咲也にそんなことを言えるほど、不躾ではなかった。
そして何より、怖かった。
むしろこれで、遠慮なく死を選べる――そう、咲也が口にするのではないかと。
だからただ黙って、咲也の言葉を待っていた。
生きていくという決断を、待っていた。
――それなのに。
昨日から帰って来ないと叔父から連絡を受けた咲也は、慌てて実家に帰ったがーー部屋はひっそりと静まり返り、母の不在を除いて何も変わらないように見えたそうだ。
ただ、机の上には、一言だけ、書き置きがあった。
ーー咲也、幸せになってね。ーー
冷蔵庫の中もそのままで、家を出たのはほとんど思いつきだったのではないかと思われた。捜索願いを出すか叔父と話し合ったが、パスポートや一部の服がなくなっていたこと、それなりのお金が引き落とされていること、そして咲也の父の手紙が部屋のいたるところに置いてあったことから、様子を見ることにした。
「多分、父に会いに行ったんだと思うんだ」
咲也は疲れきった様子で言った。母の失踪を聞いてからというもの、食事も喉を通らず、就寝してもうなされているのに気づいている私は気が気ではない。
咲也にとって、母の存在は、ほとんど自分の一部なのだろう。
「叔父さんは連絡取れるんでしょ。咲也のお父さん」
咲也の心配を和らげようと、私は言ったが、咲也はうん、と曖昧に頷いた。
「でも、基本的に渡りのカメラマンだから、定住してることがあんまりないみたいで。連絡が取れるのは確かだけれど、すぐに連絡が取れるかは分からないんだ。やりとりは手紙だけだったみたいだし」
「そんな、原始的な」
「仕方ないよ」
咲也は苦笑した。
「それくらいの距離感がないと、駄目だったんだ、きっと。ーーそれも分かる気はする」
私は咲也の母の少女のような笑顔を思い出して、それ以上何も言えずに黙った。
母と息子。ただそれだけで表現するには、二人の関係は近すぎる。
ほとんど依存し合っていた二人のそれぞれの想いは、私の想像の範囲外だ。
年始に会った咲也の母は、言っていた。
自分の存在が、咲也の幸せを邪魔しているのではないか、と。
ーーどうして、今。
咲也には、自分の命のことをこそ、考えて欲しいのに。
腹の底で感じた苛立ちに、奥歯をかみしめながらも、
ーーいや、今だからこそ、かもしれない。
と思い当たる。
私と咲也が同棲を開始してから、もうすぐ半年になる。それでも進展の連絡はない。私たちが一歩を踏み出すためには、自分が邪魔なのではないかとーー咲也を解放すべきではないかと、そう思ったのかもしれない。
私は下唇を噛んだ。咲也は日に日に憔悴していくその姿は、母のせいなのか、それともーー
病のせいだったらどうしよう。咲也はこのまま死んでしまうのだろうか。
そんな幻想を抱いて、ときどき咲也が死ぬ夢で目を覚ますようになった。
朝起きてみたら、眠ったように鼓動を止めている咲也。
ただの夢だと分かっても、不安で咲也の寝床まで確認に行くこともあった。
膝を抱えてその横に座り込み、咲也の寝顔を見ながら、ぼんやりと考える。
――私が看取れるのなら、それもいいのかもしれない。
咲也がいなくなる様を目の当たりにすれば、私も諦めがつくのではないか。
思ってから、苦笑して一人、首を振った。
諦めがつく前に、壊れてしまいそうだ。もうすっかり、弱くなってしまった私の心が。
いや、強くなったと思っていたことこそ、幻想だったのかもしれない。
ただただ意地を張り、ムキになっていただけなのかもしれない。
一人で生きていくと豪語していながら、その実私は、人の温もりを求め続けた。
今までもーーきっと、これからも。
咲也が言うように、私は、寂しがりやなのだろう。
それでも、咲也の次はない。
咲也の代わりになるものなど、何もない――
あったとしても、失う恐怖を知ってしまった今となっては、怖くて手を伸ばす勇気はない。
人の気配に目を覚ました咲也は、自分の寝床の横に座り込む私に気づくと、不思議そうに仰ぎ見た。
「どうしたの」
私はなんでもない、と答えた。うなされてたから、と適当な嘘をついて。
咲也は苦笑した。それが私の嘘だと、気づいているかもしれない。それでもよかった。
咲也が何をするにも、まず影響を気にしていたのが母だ。
その人がいなくなったのだから、病の治療に踏み出してみてもいいのではないか。
私はそうも思ったが、咲也にそんなことを言えるほど、不躾ではなかった。
そして何より、怖かった。
むしろこれで、遠慮なく死を選べる――そう、咲也が口にするのではないかと。
だからただ黙って、咲也の言葉を待っていた。
生きていくという決断を、待っていた。
――それなのに。
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