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第三章 さくらさく
87 伝言
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咲也に連絡を取る気にはなれなかった。
私が出た行動や、私の存在自体が逆に彼をこの場所から遠ざけたのではないかーーそんな気がしてならなかったから。
そして、怖かったから。
あきちゃんはもう要らないと、そう言われるのが怖かったから。
だから、じっと待っていた。
それでも、連絡がないかと落ち着きなくスマホを触る。
まるで思春期に戻ったように不安定な気持ちを、ただただ持て余した。
いくら待っていても、咲也からの連絡はなかった。
あるわけがない。
だって、彼は私を置いて行ったのだから。
咲也の置き手紙をぼんやり見ていた私は、ゴミ箱の前まで歩いて行った。
いつか、晃さんの手紙をそうしたように、それを捨ててしまえば。
ゴミ箱の上に手紙を掲げる。
――捨ててしまえば、咲也へのこだわりも捨てられるだろうか。
一本一本の指先を、順番に手紙から引きはがしていく。
腕が、指が、震えていることには、気づかない振りをした。
指が紙から離れるたびに、悲鳴を上げる胸の内にも。
最後に残った人差し指と親指に、ごくごくわずかな隙間ができたとき――
落下しかけた手紙を、両腕で抱き留めた。
ぐしゃっ、と音を立てて、手紙が腕中に収まる。
――馬鹿みたいだ。
頬を涙が伝った。
私は、馬鹿だ。
手紙を抱えたまましゃがみ込み、手紙についたしわを床で伸ばす。
白い手紙の上に、ぽたり、ぽたりと涙が落ちた。
乱暴に自分の目を拭い、机の上からティッシュを取って、慎重に手紙に落ちた涙を吸い取る。
忘れられるわけがない。
捨てられるわけがない。
もう、彼の存在は、私の胸にしっかりと刻まれてしまった。
ある週末、家のチャイムが鳴った。
ぼうっとしていた私は慌てて玄関先へ駆けて行く。
咲也が帰ってきたんじゃないかーー反射的にそう思ったのだ。
それが幻想だと分かっていながら、私は自分の期待を抑えられない。
玄関を開けると、そこに立っていたのは、咲也の叔父だった。
「あ、どうも……」
瞬時に落胆した私は、うつむきながら挨拶をした。そのとき、部屋着のままであることに気づき、わずかに慌てる。
「ああ、すみません。ちょっとのんびりしていて」
口先から言い訳が滑り出た。内心、上辺だけ体裁を作ろう自分の社交性に嫌気を覚える。
咲也の叔父は、いえ、と呟くように言って、顔を歪めた。その醜い表情が、笑顔を浮かべたつもりだと分かってしまって、私は目を反らす。
「あの、今日は何か」
「ええーー」
叔父は足元に目を落としてから、外を見た。外には、春の日差しが降り注いでいた。
「今日は天気もいいし、ご一緒に散歩でもいかがですか」
私は一瞬の逡巡の後、頷いた。
外に出ると、梅の花が咲き始めていた。
咲也が暗闇で指さした梅の花は、今を盛りと咲いている。
――当時、花と言えば、梅の花だから。
不意に思い出した言葉は、咲也と出会ったあの日のことだ。
咲也と会ってから、まだ一年も経っていないと気づき、私はうろたえた。
彼と一緒に過ごした時間と同じだけの日々を過ごしたら、私は彼と過ごしたときを、感覚を、忘れるのだろうか。
ただの思い出の一つになるのだろうか。
誰かとの関係が過去になることが、こんなに怖いと思ったのは初めてだった。
それもーーひどく、美しい思い出で、終わってしまいそうなことが。
もっと、汚い思い出があればよかったのに。
心中で咲也に文句を言う。
私にとって咲也は、あまりに無垢で、綺麗すぎた。
もう少し、汚れていてくれればよかったのに。
隣を黙って歩いていた咲也の叔父は、不意に口を開いた。
「咲也からは、あの家は、しばらくそのままにしていてくれと言われています」
私は黙ってその横顔を見る。妹と甥の相次ぐ失踪に傷心しているのが伺えた。
今の私と気持ちを近しくしているのはこの人なのだと思うと、不思議な感覚にとらわれる。
咲也以外、何の接点もない人なのに。
「私は……四月になったら」
「聞いています。海外に転勤になるんでしょう?」
咲也の叔父は私の顔に目を向けたが、その視線は私をとらえているにしては遠すぎる。
彼の目も、追っている。見えない咲也の母を。そして咲也を。
彼への共感は、途端に苦く私の胸中に広がった。
「あきらさんの荷物で、日本に置いていきたいものがあれば預かるようにとも言われています」
私は咲也の叔父の顔に、咲也の面影を探した。
似ているようにも似ていないようにも見えーーしかし、求めた面影ではないことに小さく落胆する。
自分が覚えているのは、何より咲也のあの笑顔なのだ。
透明感のある。散る桜のような。
つかみどころがないのに、側に留めておきたくなる。
「私の荷物は」
私は言った。
「全部、持っていきます。残したものはどうにでもしてくださって構いません。お手数おかけしますが」
言い切って、わずかに頭を下げた。
あと数週間後、私の行く先が分かる。
行くのだ。もうーー思い残すことは、何もない。
日本を離れることを躊躇させた存在は、自ら姿を消してしまったのだから。
まるで戦地へ赴く戦士のような悲壮感に、自嘲の笑みを浮かべる。
二年、ないし、三年。
日本を離れたとしても、私はきっとまた、自分の意思で日本へ戻って来る。
そう確信している自分に気づいた。
咲也の面影を探しに。
――満開の桜に会いに。
私が出た行動や、私の存在自体が逆に彼をこの場所から遠ざけたのではないかーーそんな気がしてならなかったから。
そして、怖かったから。
あきちゃんはもう要らないと、そう言われるのが怖かったから。
だから、じっと待っていた。
それでも、連絡がないかと落ち着きなくスマホを触る。
まるで思春期に戻ったように不安定な気持ちを、ただただ持て余した。
いくら待っていても、咲也からの連絡はなかった。
あるわけがない。
だって、彼は私を置いて行ったのだから。
咲也の置き手紙をぼんやり見ていた私は、ゴミ箱の前まで歩いて行った。
いつか、晃さんの手紙をそうしたように、それを捨ててしまえば。
ゴミ箱の上に手紙を掲げる。
――捨ててしまえば、咲也へのこだわりも捨てられるだろうか。
一本一本の指先を、順番に手紙から引きはがしていく。
腕が、指が、震えていることには、気づかない振りをした。
指が紙から離れるたびに、悲鳴を上げる胸の内にも。
最後に残った人差し指と親指に、ごくごくわずかな隙間ができたとき――
落下しかけた手紙を、両腕で抱き留めた。
ぐしゃっ、と音を立てて、手紙が腕中に収まる。
――馬鹿みたいだ。
頬を涙が伝った。
私は、馬鹿だ。
手紙を抱えたまましゃがみ込み、手紙についたしわを床で伸ばす。
白い手紙の上に、ぽたり、ぽたりと涙が落ちた。
乱暴に自分の目を拭い、机の上からティッシュを取って、慎重に手紙に落ちた涙を吸い取る。
忘れられるわけがない。
捨てられるわけがない。
もう、彼の存在は、私の胸にしっかりと刻まれてしまった。
ある週末、家のチャイムが鳴った。
ぼうっとしていた私は慌てて玄関先へ駆けて行く。
咲也が帰ってきたんじゃないかーー反射的にそう思ったのだ。
それが幻想だと分かっていながら、私は自分の期待を抑えられない。
玄関を開けると、そこに立っていたのは、咲也の叔父だった。
「あ、どうも……」
瞬時に落胆した私は、うつむきながら挨拶をした。そのとき、部屋着のままであることに気づき、わずかに慌てる。
「ああ、すみません。ちょっとのんびりしていて」
口先から言い訳が滑り出た。内心、上辺だけ体裁を作ろう自分の社交性に嫌気を覚える。
咲也の叔父は、いえ、と呟くように言って、顔を歪めた。その醜い表情が、笑顔を浮かべたつもりだと分かってしまって、私は目を反らす。
「あの、今日は何か」
「ええーー」
叔父は足元に目を落としてから、外を見た。外には、春の日差しが降り注いでいた。
「今日は天気もいいし、ご一緒に散歩でもいかがですか」
私は一瞬の逡巡の後、頷いた。
外に出ると、梅の花が咲き始めていた。
咲也が暗闇で指さした梅の花は、今を盛りと咲いている。
――当時、花と言えば、梅の花だから。
不意に思い出した言葉は、咲也と出会ったあの日のことだ。
咲也と会ってから、まだ一年も経っていないと気づき、私はうろたえた。
彼と一緒に過ごした時間と同じだけの日々を過ごしたら、私は彼と過ごしたときを、感覚を、忘れるのだろうか。
ただの思い出の一つになるのだろうか。
誰かとの関係が過去になることが、こんなに怖いと思ったのは初めてだった。
それもーーひどく、美しい思い出で、終わってしまいそうなことが。
もっと、汚い思い出があればよかったのに。
心中で咲也に文句を言う。
私にとって咲也は、あまりに無垢で、綺麗すぎた。
もう少し、汚れていてくれればよかったのに。
隣を黙って歩いていた咲也の叔父は、不意に口を開いた。
「咲也からは、あの家は、しばらくそのままにしていてくれと言われています」
私は黙ってその横顔を見る。妹と甥の相次ぐ失踪に傷心しているのが伺えた。
今の私と気持ちを近しくしているのはこの人なのだと思うと、不思議な感覚にとらわれる。
咲也以外、何の接点もない人なのに。
「私は……四月になったら」
「聞いています。海外に転勤になるんでしょう?」
咲也の叔父は私の顔に目を向けたが、その視線は私をとらえているにしては遠すぎる。
彼の目も、追っている。見えない咲也の母を。そして咲也を。
彼への共感は、途端に苦く私の胸中に広がった。
「あきらさんの荷物で、日本に置いていきたいものがあれば預かるようにとも言われています」
私は咲也の叔父の顔に、咲也の面影を探した。
似ているようにも似ていないようにも見えーーしかし、求めた面影ではないことに小さく落胆する。
自分が覚えているのは、何より咲也のあの笑顔なのだ。
透明感のある。散る桜のような。
つかみどころがないのに、側に留めておきたくなる。
「私の荷物は」
私は言った。
「全部、持っていきます。残したものはどうにでもしてくださって構いません。お手数おかけしますが」
言い切って、わずかに頭を下げた。
あと数週間後、私の行く先が分かる。
行くのだ。もうーー思い残すことは、何もない。
日本を離れることを躊躇させた存在は、自ら姿を消してしまったのだから。
まるで戦地へ赴く戦士のような悲壮感に、自嘲の笑みを浮かべる。
二年、ないし、三年。
日本を離れたとしても、私はきっとまた、自分の意思で日本へ戻って来る。
そう確信している自分に気づいた。
咲也の面影を探しに。
――満開の桜に会いに。
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