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第三章 さくらさく
88 大嫌いったら大嫌い
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咲也がいなくなってから、私は誰よりも早く出社して、誰よりも遅くまで残っていた。
それを伝え聞いたのか、早朝にオフィスに入ってきた人影に、私は身体を強張らせる。
ーー神崎さんだった。
「おはよ」
「……おはようございます」
私は笑顔の仮面すら置き去りにして、無感情に答える。
神崎さんは眉を寄せ、困惑した表情のまま近づいてきた。
「おい、江原。どうした?名取さんが心配してたぞ」
「何でもないです。放っておいてください」
「咲也くんと、何かあったか?」
私はぎくりと肩を震わせた。
何も言わずにいると、神崎さんは嘆息しながら口を開く。
「俺にメッセージ来てたんだよ。一週間くらい前に。お前が変なようだったら、フォローお願いしますって」
私は口を開きかけーーまた閉じた。
一週間前といえば、咲也がいなくなった後だ。
腹の底に、ふつふつと怒りが沸く。
ーーどうして、神崎さんに。
私じゃなくて、神崎さんに――
「知りません」
「って、人のこと避け続けといて、信じられるかよ」
神崎さんは言いながら、また一歩私に近づいて来た。
私はその足元を睨みつける。怯んだように神崎さんが足を止めた。
「飯とか、ちゃんと食ってんのか?睡眠だってろくにとってると思えないって名取さんから聞いたぞ。みんな心配してんだ、たまには甘えろよ」
私は、震える息を、吸い込み、吐き出しながら呻いた。
「何も、知らないくせにーー」
神崎さんはじっと、私の言葉に耳を澄ませている。
優しい。神崎さんは。いつでも。
言葉で突き放していても、結局人を突き放しきれないこの人は、影でどれだけの人を苦しめてきたのだろう。
彼の心を手にしたのは、たった一人だというのに。
――もし、私が彼だったら。
咲也を、引き留められただろうか。
抱いた幻想に、こみあげてきたのは底知れぬ怒りだった。
「ーー嫌いです」
「は?」
唸るような私の声に、神崎さんがぽかんとした。
「嫌いです。神崎さんなんて、大嫌いです。大嫌い、大嫌い、大嫌い!」
腹の底から吐き出すような言葉は、しかし私を苦しめる。
ーー悔しい。
嫌いだと口にする度に軋む胸が悔しい。
この胸の痛みは、私に告げている。その言葉が嘘だと。
恋愛感情ではない、違う意味での好意を、私は神崎さんに持っている。
でなければこんなにーー何年も、つるんでいる訳がない。
咲也の笑顔が脳裏を過ぎった。照れ臭そうな、笑顔。
ーー咲也。
咲也。咲也。
どうして、私に頼ってくれなかったの?
力及ばぬ自分に対しての悔しさは、翻って神崎さんへの憎しみになる。
苦もなくーー気にもせず自覚もせずーー人をひきつけるこの男が、憎い。ーー憎いのに、憎みきれない。
気づくと頬を涙が伝っていた。
「だい、きらい、です」
子どものように泣きじゃくり、袖で乱暴に涙を拭う。
きっと気づいている。誰よりも優しいこの人は、私のこの言葉が本心でないと気づいている。
そんな不思議な信頼に、私はますますあふれる涙が止められない。
「そうか」
神崎さんは、複雑な微笑みを浮かべた。絵になる、誰もが魅了される微笑。
私も、嫌いじゃない笑顔。
「……はい」
俯くと、デスクに乱暴に何かが放られる。ハンカチだった。
「いくらでも嫌っとけ」
神崎さんは言った。
「それで気が済むなら」
次いで、机に紙コップを置く。
黒い液体からは湯気が立ちのぼり、香ばしい匂いがした。それを、ほとんど働かない頭で、ぼんやりと目にする。
ーーお前が一人前になったら、煎れてやるよ。
不意に思い出した言葉に、弾かれたように顔を上げた。
もうその背は見えなくなっていた。
「……ごめんなさい」
八つ当たりだ。そう分かってる。
「ごめんなさい」
震える手で、コップの淵をなぞる。その温もりが指に伝わってきた。
――あきちゃん。
咲也が呼びかける声を思い出した。ついで、手紙の言葉を思い出す。
――君には、たくさんの、素敵な先輩たちがいる。
――そこに君の幸せがあると、僕も信じてる。
私の幸せを決めるのは、私なのに。
咲也ってば――自分勝手。
切なさに歪んだ顔のまま、口の端を引き上げる。ゆっくりとカップを持ち上げ、口をつけた。
苦いだろうと身構えていたそれは、思ったよりも軽やかな味だった。
ほう、っと息を吐き出す。
「ほんとだ。美味しい」
ーーマーシーが煎れたコーヒーだけは飲めるんや。
微笑むヨーコさんの言葉を思い出す。
きっと彼女も、神崎さんに魅了された人の一人なんだろう。その夫の安田さんも。
ーーそして、私も。
素直に心に落ちてきた納得感と同時に、笑いが込み上げる。
神崎さんにあれこれ言うなんて馬鹿馬鹿しい。あの人はあの人なりに苦労してきた。それを私は知っているーーわずかであっても。
「後でお礼言っておこう」
滞っていた脳が、思考回路が、ゆるゆると、少しずつ動き出す。
お礼のついでに、また煎れてくれと言っておこう。仕事が煮詰まったときにはバリスタ代わりに使ってやってはどうだろうか。きっと文句を言いながら煎れてくれることだろう。ヨーコさんの分も頼めば、財務部の稼働率が向上する気がする。
口中に爽やかな苦みを残したまま、香ばしい香りに包まれた私は、日差しが差し込む窓の方を見た。
窓の外には青空が広がっている。
咲也は今どこにいるだろう。何をしているだろう。
ーー笑顔でいるといいな。どこで何をしているとしても。
それにしても、私がこんな馬鹿なことをしているとは、彼も思うまい。
土産話と思っておこう。手の平に包んだカップの温もりを感じながら思う。もしもまた、会えたなら。そのときには。
この空はーー彼の元にも、繋がっているだろうか。
そして、数ヶ月後、私が訪れるどこかの国へも。
それを伝え聞いたのか、早朝にオフィスに入ってきた人影に、私は身体を強張らせる。
ーー神崎さんだった。
「おはよ」
「……おはようございます」
私は笑顔の仮面すら置き去りにして、無感情に答える。
神崎さんは眉を寄せ、困惑した表情のまま近づいてきた。
「おい、江原。どうした?名取さんが心配してたぞ」
「何でもないです。放っておいてください」
「咲也くんと、何かあったか?」
私はぎくりと肩を震わせた。
何も言わずにいると、神崎さんは嘆息しながら口を開く。
「俺にメッセージ来てたんだよ。一週間くらい前に。お前が変なようだったら、フォローお願いしますって」
私は口を開きかけーーまた閉じた。
一週間前といえば、咲也がいなくなった後だ。
腹の底に、ふつふつと怒りが沸く。
ーーどうして、神崎さんに。
私じゃなくて、神崎さんに――
「知りません」
「って、人のこと避け続けといて、信じられるかよ」
神崎さんは言いながら、また一歩私に近づいて来た。
私はその足元を睨みつける。怯んだように神崎さんが足を止めた。
「飯とか、ちゃんと食ってんのか?睡眠だってろくにとってると思えないって名取さんから聞いたぞ。みんな心配してんだ、たまには甘えろよ」
私は、震える息を、吸い込み、吐き出しながら呻いた。
「何も、知らないくせにーー」
神崎さんはじっと、私の言葉に耳を澄ませている。
優しい。神崎さんは。いつでも。
言葉で突き放していても、結局人を突き放しきれないこの人は、影でどれだけの人を苦しめてきたのだろう。
彼の心を手にしたのは、たった一人だというのに。
――もし、私が彼だったら。
咲也を、引き留められただろうか。
抱いた幻想に、こみあげてきたのは底知れぬ怒りだった。
「ーー嫌いです」
「は?」
唸るような私の声に、神崎さんがぽかんとした。
「嫌いです。神崎さんなんて、大嫌いです。大嫌い、大嫌い、大嫌い!」
腹の底から吐き出すような言葉は、しかし私を苦しめる。
ーー悔しい。
嫌いだと口にする度に軋む胸が悔しい。
この胸の痛みは、私に告げている。その言葉が嘘だと。
恋愛感情ではない、違う意味での好意を、私は神崎さんに持っている。
でなければこんなにーー何年も、つるんでいる訳がない。
咲也の笑顔が脳裏を過ぎった。照れ臭そうな、笑顔。
ーー咲也。
咲也。咲也。
どうして、私に頼ってくれなかったの?
力及ばぬ自分に対しての悔しさは、翻って神崎さんへの憎しみになる。
苦もなくーー気にもせず自覚もせずーー人をひきつけるこの男が、憎い。ーー憎いのに、憎みきれない。
気づくと頬を涙が伝っていた。
「だい、きらい、です」
子どものように泣きじゃくり、袖で乱暴に涙を拭う。
きっと気づいている。誰よりも優しいこの人は、私のこの言葉が本心でないと気づいている。
そんな不思議な信頼に、私はますますあふれる涙が止められない。
「そうか」
神崎さんは、複雑な微笑みを浮かべた。絵になる、誰もが魅了される微笑。
私も、嫌いじゃない笑顔。
「……はい」
俯くと、デスクに乱暴に何かが放られる。ハンカチだった。
「いくらでも嫌っとけ」
神崎さんは言った。
「それで気が済むなら」
次いで、机に紙コップを置く。
黒い液体からは湯気が立ちのぼり、香ばしい匂いがした。それを、ほとんど働かない頭で、ぼんやりと目にする。
ーーお前が一人前になったら、煎れてやるよ。
不意に思い出した言葉に、弾かれたように顔を上げた。
もうその背は見えなくなっていた。
「……ごめんなさい」
八つ当たりだ。そう分かってる。
「ごめんなさい」
震える手で、コップの淵をなぞる。その温もりが指に伝わってきた。
――あきちゃん。
咲也が呼びかける声を思い出した。ついで、手紙の言葉を思い出す。
――君には、たくさんの、素敵な先輩たちがいる。
――そこに君の幸せがあると、僕も信じてる。
私の幸せを決めるのは、私なのに。
咲也ってば――自分勝手。
切なさに歪んだ顔のまま、口の端を引き上げる。ゆっくりとカップを持ち上げ、口をつけた。
苦いだろうと身構えていたそれは、思ったよりも軽やかな味だった。
ほう、っと息を吐き出す。
「ほんとだ。美味しい」
ーーマーシーが煎れたコーヒーだけは飲めるんや。
微笑むヨーコさんの言葉を思い出す。
きっと彼女も、神崎さんに魅了された人の一人なんだろう。その夫の安田さんも。
ーーそして、私も。
素直に心に落ちてきた納得感と同時に、笑いが込み上げる。
神崎さんにあれこれ言うなんて馬鹿馬鹿しい。あの人はあの人なりに苦労してきた。それを私は知っているーーわずかであっても。
「後でお礼言っておこう」
滞っていた脳が、思考回路が、ゆるゆると、少しずつ動き出す。
お礼のついでに、また煎れてくれと言っておこう。仕事が煮詰まったときにはバリスタ代わりに使ってやってはどうだろうか。きっと文句を言いながら煎れてくれることだろう。ヨーコさんの分も頼めば、財務部の稼働率が向上する気がする。
口中に爽やかな苦みを残したまま、香ばしい香りに包まれた私は、日差しが差し込む窓の方を見た。
窓の外には青空が広がっている。
咲也は今どこにいるだろう。何をしているだろう。
ーー笑顔でいるといいな。どこで何をしているとしても。
それにしても、私がこんな馬鹿なことをしているとは、彼も思うまい。
土産話と思っておこう。手の平に包んだカップの温もりを感じながら思う。もしもまた、会えたなら。そのときには。
この空はーー彼の元にも、繋がっているだろうか。
そして、数ヶ月後、私が訪れるどこかの国へも。
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