さくやこの

松丹子

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第三章 さくらさく

82 今を春辺と

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「ねぇ、あきちゃん」
 買い物の途上、咲也は不意に暗闇の先を指差した。
「梅、もう少しで咲きそうだよ。知ってた?」
 そんな余裕はなかった私は、咲也のマイペースさに呆れる。
 嘆息しながら、その指の先に目を向けた。
「知らないよ、そんなん」
「えー。ちゃんと、四季感じようよ」
 ふて腐れる咲也の指の先の暗闇に、わずかに膨らんだ蕾をつけた梅の花を確認する。
 春の訪れを告げる花。
 この冷たい夜風からは、とても春の訪れを感じることはできないけれど、この花が咲き、そして散る頃――また、桜の花が咲き誇るのだろう。
 昨年、咲也と見た桜。
 初めて、咲也と出会った季節。
 ――私はそのとき、どこにいるんだろう。
 転勤の話が脳裏を過った。
 ――咲也はそのとき、どこにいるんだろう。
 こみ上げる不安を振り払い、私は少し大きめの声を出す。
「咲也が教えてくれればいいじゃない」
 できるだけ、ぶっきらぼうに言い放ちながらも、
 ――だから、側にいて。
 本当に伝えたい言葉は飲み込んだ。
 私は咲也の横顔を見る。咲也は黙って、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
 止まっていた歩みを進めながら、咲也は笑う。
「あきちゃん、どうせ桜見る度に俺のこと思い出すんでしょ」
 いつもの笑顔に、舞い散る桜の花の幻想を見て、私は顔をしかめた。
 何も言わず、その横を歩く。
 咲也の手が、私の方に伸びてきた。
 私は黙ったまま、その手を取る。
「――また、春が来るんだね」
 咲也は、静かに言った。
「あきちゃんも、もう三十一になるんだ」
 三月末が私の誕生日だ。
 そして、咲也は四月。
「咲也だって、二十八になるよ」
 咲也はそうだねと頷いた。
 もし、何もせずに日々を過ごしたら、彼はあと何度、誕生日を迎えられるのだろう。
 包まれた大きな手のひらの温もりに、間違いなく彼の生を感じて、切なさが込み上げる。
 生きること――
 それが持つ意味が、こんなに人によって異なるだなんて、考えたこともなかった。
 咲也は、選ばなければならないのだ。
 積極的な生か、消極的な死を。
 生きることなんて、選んだつもりもなかった私にとって、その選択がどういうものかは想像もできない。
 死が、どんな人間にも、いずれ訪れるものであるにしても、咲也のそれは、私たちとは違う。
 何もしなければ、間違いなく、彼の余命は縮むのだ。
 ――咲也の気持ちは、咲也にしか分からない。
 どんなに、近くにいたとしても。
 それが、もどかしくて仕方なかった。
「もう、春が来るんだね」
 咲也はまた、ひとりごちるように呟いた。
 私は感情に流されないようにするのに必死で、頷くこともできないまま奥歯を噛み締めた。
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