さくやこの

松丹子

文字の大きさ
84 / 99
第三章 さくらさく

83 婚姻届

しおりを挟む
 二月に入ったとき、出社した私は山崎部長に呼ばれた。私はわずかな緊張感を覚えつつ部長の後へ続き廊下に出る。
 周りに他の社員がいないことを確認して、部長は口を開いた。
「ほんとはオフレコなんだけど」
 そして、小さな声で耳打ちする。
「海外勤務、決まったよ。正式な内示は三月。どこに行くかはまたそのときにね」
 言い終えると、少し距離を置き、私の表情をうかがった。
「ほんとに大丈夫?」
 私は無理矢理笑顔を浮かべた。
「ーー大丈夫です。もちろん」
 表面上の言葉と笑顔とは裏腹に、心の中は泣きそうだった。
 つい数ヶ月前まで思い描いていた期待と、咲也の笑顔を天秤にかけているような、そんな感覚。
 咲也ーー
 私は本当に、海外へ行きたいんだろうか?
 君を、日本に置いて。

 咲也の話では、ウィルスの影響が出るのは感染から数年後のことらしい。自覚症状が出る前に気づけたのは幸運だったと言えるが、感染後もう三年経っている。症状はいつ出始めるか分からない。
 感染したと分かれば、当然、早めの処置が望ましいーーが、治療を始めたとなれば、中断もできない。一度薬を中断すると、薬の効能が低下するリスクがあるからだ。
 薬の副作用の影響もあるため、治療を始めるのであれば会社に伝えるべきだが、会社に言うとなれば、叔父に話すことになるだろう。叔父は咲也の性指向を疑い、母にもそれは伝わるかもしれないーー
 咲也は、それを最も嫌がった。
「どうしても、お母さんに言いたくないの?」
 私が問うと、咲也は珍しくーーほとんど初めて見た、自嘲気味の笑顔で答えた。
「お母さんのおかしな性癖のせいで、俺がゲイになったって?」
 私は思わず、息を止める。咲也は、ああごめん、と言って俯いた。
「もちろん、それが理由だと思ってる訳じゃないんだけど。親って、そういうとこあるから。ーーあんまり、母を刺激したくないんだ」
 言うと、遠い目をした。壁には新年から新しくなったカレンダーがかけてある。
「年始に会ったとき、また増えてたから」
「え?」
「リストカットの傷」
 私は反応に迷い、俯いた。冬なのだから、当然、咲也の母が着ていたのは長袖だ。その陰にある傷跡に、私は全く気づかなかった。
 そういえば、初めて会ったときにも、咲也の母は長袖を着ていた。まだ暑いくらいの時期だったのに。あれは傷跡を隠すためだったのかーーと、いまさらながらに気づく。
 死そのものーーいや、死に臨むこと、は、咲也にとっては日常だったのかもしれない。私の幼少期のように、自分自身の身の危険としてではなく、身近な存在ーー母の姿において。
 咲也は全身の空気を吐き出すように長く嘆息して、乾いた笑いを浮かべた。
「でも、結局先延ばしにしているだけなのかなぁ。あきちゃんみたいに、一歩踏み出す決意が、俺はどうしてもできないんだ。色々考えてたらーーううん、考えれば考えるほど、そこまでして生きていく価値が俺にあるのかなって」
 本人は多分、いつもと同じ笑顔を浮かべているつもりだろうが、それはほとんど泣いているように見えた。
 私は飲み込むものの何もない喉を上下させて、言った。
「やめちゃえば。仕事」
 咲也は目を見開いてから噴き出す。
「やめて、どうするの。それこそ、生きていけないじゃない」
「生きていけるよ」
 私は鞄の中から、一枚の紙を取り出した。
「ーー私が、養う」
 テーブルの上にそれを広げる。
「……これって」
 咲也はそれを見て、一瞬言葉を失った。私は息を吐き出し、気合いを入れ直すように胸を張る。
 できるだけ強い意思を思わせる顔つきをし、咲也をまっすぐ見つめた。
 内心の不安をおし隠して。
「何か問題が?」
「いや、だって……」
 咲也は戸惑いながら私と紙を交互に見比べる。
「……どういうつもりなのか分からないのですが」
「どういうって、見た通りだけど」
 紙には、婚姻届、と書いてある。そして私のサイン。
「でもーーあれだけ、結婚しない、って言ってたのに」
 私は口を開けて、閉めてーーまた開けた。 
「咲也が、生きていく選択をしてもしなくても」
 声はひどくか細くなった。
「咲也が、私の隣で生きてた証が欲しいの」
 搾り出すような声で、続ける。
「籍を入れれば……あんたがいなくなっても、隣にいるような気がするんじゃないかって」
 咲也はまた、唖然とした。その後、ふと微笑む。
「あきちゃん」
「……何」
「あきちゃん、寂しがりやだからさ。俺がいなくなったら、次探しなよ。男でも女でもいいから。ちゃんとあきちゃん大事にしてくれる人」
 穏やかな口調はいつも通りで、私の願いを聞いてくれていると錯覚するほど温かい。
「じゃあ、あんたのゲイの友達でも紹介してもらおうかな。そしたら咲也の思い出話で盛り上がれるでしょ」
 ――やっぱり、イエスとは言ってもらえない。
 そう気づいて泣きそうになるのを堪え、せめてもの強がりに、口をとがらせながら言うと、咲也は笑った。
「嫌だなぁ。そんなじゃ悪口でも言われやしないかって、気になってうかうか成仏もできないじゃない。死んだ後くらい静かに眠らせてよ」
「成仏しなければいいじゃない。ずっといなよ」
 ずっといてよ。ーー私の側に。
 口にできない言葉の代わりに、涙が一気に込み上げてきた。
「ちょっと、あきちゃんーー」
 咲也は慌てて私の肩に手を置いた。
 涙は次々と私の頬を濡らして顎に、胸元にと落ちていく。
 咲也。ーー咲也。
 声を大にして、彼の名前を叫びたかった。なりふり構わず彼に抱き着き、ずっと私の手の届く場所に繋ぎ止めたかった。
 私たちの関係には、何の名前もない。
 でも、この想いは、世間一般の夫婦と、一体何が違うだろう。
 ただ身体の関係を伴わないだけだ。ただ互いが恋愛の対象にはならないだけだ。
 それでも側にいたいという気持ちは変わらない。相手を支えたいと思うのも変わらない。
 この気持ちに誰が文句を付けられるだろう。誰が馬鹿にできるだろう。
 これを愛と言わないなら、愛なんて言葉、要らない。もう、一生信じることなど、できない。
 この歳になってようやく、その温もりを知ることができたのに。
「まだ、俺、死ぬって決まった訳じゃないし」
 咲也は私の頬を流れる涙をすくって苦笑する。
「だって、生きる気ないって言ったじゃない」
「生きる価値があるのか、分からないなって思ってるだけだよ」
「似たようなもんでしょ」
 鼻水をすすり上げる私を、咲也が微笑んで見ている。
「ありがとう」
 咲也は穏やかに言った。
「俺のために泣いてくれて」
 私は唇を尖らせる。
「違うよ。ーー自分のためだよ」
 そう、自分のためだ。
 私はもう、咲也がいない毎日を過ごすのが――怖くて仕方ない。
 咲也の首にしがみついた。
「生きてよ、咲也。ーー私と一緒に、生きて」
 駄々をこねる子供のように、泣きじゃくりながら叫ぶように言う。
 私の頭を、咲也は黙って撫でていた。
 いつかしてくれたように、ゆっくりと。
 撫でながら――
 それでも、首を縦には振らなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

公爵令嬢は結婚式当日に死んだ

白雲八鈴
恋愛
 今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。 「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」  突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。 婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。  そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。  その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……  生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。  婚約者とその番という女性に 『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』 そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。 *タグ注意 *不快であれば閉じてください。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

✿ 私は夫のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

処理中です...