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.第1章 高校2年、前期
06 父・政人
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帰宅すると、玄関に父の革靴があった。もう帰ってきているらしいと分かってほっとする。
定時上がりがモットーなのは独身時代からで、役職についた今も、よほどのことがなければ定時で職場を出ている。「上司が率先して帰った方が、部下も帰りやすいしな」と笑っているけど、確かにそれは一理ありそうだ。
電車のダイヤによっては、私が先に家につくこともあるからけど、いると分かるとやっぱり嬉しい。高校生になっても、誰かがいる家に帰ってくると安心できる。
父の靴はいつも磨かれていて、綺麗なツヤがある。週末になると自分と母の靴を手入れしているのは、半ば趣味の一つらしい。
末端まで神経が行き届いた、大人の男ーー
そりゃ、同級生の男子とは違うよねぇ。
最近まであえて考えたことはなかったものの、当然のことを思ってため息を一つ。
「礼奈、お帰り。どうかしたか?」
玄関が開いた音の後、なかなか上がって来る気配がないから心配してくれたのだろう。リビングから顔を出した父に、笑顔を返す。
「ううん、なんでもない。ただいま」
父はアーモンド型の目を細め、甘い口元を緩めて微笑んでくれた。その目じりに、ごくわずかにしわが寄る。
父は今年、55歳。ほどよく白が混ざりはじめた黒髪は、厭味なく撫で付けられている。
仕事はスーツで行っているけど、既にスラックスをGパンに履き替え、ワイシャツの上に黒いエプロンをつけていた。これから夕飯の準備なのだろう。
はしもっちゃんの言っていた通り、父は家事全般に抵抗がない。というか、むしろ母よりも手際がいいくらいだ。
母が育休から復帰してから、毎日の夕飯はほぼ父が用意してくれている。つまり、末っ子の私は物心ついたときから父の夕飯を食べてきた。
その上、兄二人も私も、競うようにその料理を手伝った時期があるから、それなりに料理ができる。自然、「料理ができる男っていいよねー」なんて言葉は、私に言わせれば「そもそもできて当然でしょ?」ってレベルなのだ。
でも、それも、「基準が高い」と言われるのだろうと、最近自覚し始めた。私にとって、料理は性別に関わらず「できて当然、上手に手早くできて素敵なこと」なのだけれどーー
あー、もう。考えない、考えない。
確かにみんなが言うように、「当たり前」の基準が高いのだろう。一つ一つの例を具体的に認識する度、そう自覚しては自分をたしなめる。
靴を脱いで家に上がった。キッチン、ダイニング、リビングがひと続きになったひと間に入る。
明かりを点した家から見ると、ガラス戸の外はもう真っ暗だった。父がカーテンを閉めるのを手伝い、ダイニングの隣につながるリビングのカーテンを閉めた。その奥には一段高くなったところに4畳の和室があって、窓の内側にはめられた障子がカーテン代わりになっている。
我が家の家具はほとんどが両親の勤める会社で買ったもので、ダイニングの中央に置いてある食卓も御多分に漏れず。子どもが危なくないようにと、角は丸い。普段は4人用のサイズで使っているけど、机の間に亀裂が入っていて、板を噛ませれば6人がけにもなる優れモノだ。人が多いときや料理の品数が多いときにはそうして広く使う。
リビングに置かれた布張りのソファも機能的で、倒せばツインベッドになる。従兄が来たときにはよくここで眠っていた。
インテリア業界で働く両親が見繕ったものだから、どの家具も、デザインはシンプルでも実用性があるものばかりだ。
私は食卓の椅子の一つにかばんを置いて、ファイルごとプリントを出した。
「これ、今日配られたよ。保護者宛てのプリント」
「ん」
父はそれを手にして、ざっと目を通してから顔を上げた。
「授業参観か。今年はもう行かないつもりだけどいいか?」
「うん、いいよ」
父が来てくれるのは嬉しいけど、またみんなに騒がれるのはちょっと困る。私はあくまで、平穏無事な高校生活を希望しているのだから。
ーーようやく、目立ちすぎる兄も卒業したことだし。
父はキッチンに対面するカウンターの上にファイルを置きつつ、首を傾げた。
「保護者会だけでも行った方がいいのかなぁ」
「えー、いいんじゃないの。お兄ちゃんたちのとき、来てなかったじゃん」
「そうだけど」
父の言葉に、ちらっとその横顔を見上げる。
「……それなら、今度はお母さんに来て欲しいかなぁ」
「そうか」
父は苦笑した。器用で要領のいい父とは反対に、母は不器用で一つのことしかできないタイプだ。仕事に懸命なあまり、ついつい他のことが疎かになる。
「お母さん、今、忙しいんだっけ」
「人事担当だからなぁ。年度始めは研修やら何やらあるみたいだ」
父は台所へ向かう。シンクで手を洗う姿をぼんやり眺めていると、「何か食いたいものあるか?」と聞かれた。
「んー……冷や奴」
「好きだなぁ、それ」
父が笑った。冷や奴は私の大好物だ。小腹が空くと、プリンのようにすくって食べる。
しょうゆをかけてもよし、ゴマでもよし、鰹節もよし。薬味のバリエーションだけ風味が楽しめて、しかも低カロリー。カンペキ。
「じゃあ、冷や奴は礼奈用な」
「わーい」
柔らかい父の微笑みに、私も頬が綻ぶ。
「私も手伝うね。部屋にかばん置いてくる」
「助かるよ」
父の声に頷いて、かばんを手にリビングを出た。
定時上がりがモットーなのは独身時代からで、役職についた今も、よほどのことがなければ定時で職場を出ている。「上司が率先して帰った方が、部下も帰りやすいしな」と笑っているけど、確かにそれは一理ありそうだ。
電車のダイヤによっては、私が先に家につくこともあるからけど、いると分かるとやっぱり嬉しい。高校生になっても、誰かがいる家に帰ってくると安心できる。
父の靴はいつも磨かれていて、綺麗なツヤがある。週末になると自分と母の靴を手入れしているのは、半ば趣味の一つらしい。
末端まで神経が行き届いた、大人の男ーー
そりゃ、同級生の男子とは違うよねぇ。
最近まであえて考えたことはなかったものの、当然のことを思ってため息を一つ。
「礼奈、お帰り。どうかしたか?」
玄関が開いた音の後、なかなか上がって来る気配がないから心配してくれたのだろう。リビングから顔を出した父に、笑顔を返す。
「ううん、なんでもない。ただいま」
父はアーモンド型の目を細め、甘い口元を緩めて微笑んでくれた。その目じりに、ごくわずかにしわが寄る。
父は今年、55歳。ほどよく白が混ざりはじめた黒髪は、厭味なく撫で付けられている。
仕事はスーツで行っているけど、既にスラックスをGパンに履き替え、ワイシャツの上に黒いエプロンをつけていた。これから夕飯の準備なのだろう。
はしもっちゃんの言っていた通り、父は家事全般に抵抗がない。というか、むしろ母よりも手際がいいくらいだ。
母が育休から復帰してから、毎日の夕飯はほぼ父が用意してくれている。つまり、末っ子の私は物心ついたときから父の夕飯を食べてきた。
その上、兄二人も私も、競うようにその料理を手伝った時期があるから、それなりに料理ができる。自然、「料理ができる男っていいよねー」なんて言葉は、私に言わせれば「そもそもできて当然でしょ?」ってレベルなのだ。
でも、それも、「基準が高い」と言われるのだろうと、最近自覚し始めた。私にとって、料理は性別に関わらず「できて当然、上手に手早くできて素敵なこと」なのだけれどーー
あー、もう。考えない、考えない。
確かにみんなが言うように、「当たり前」の基準が高いのだろう。一つ一つの例を具体的に認識する度、そう自覚しては自分をたしなめる。
靴を脱いで家に上がった。キッチン、ダイニング、リビングがひと続きになったひと間に入る。
明かりを点した家から見ると、ガラス戸の外はもう真っ暗だった。父がカーテンを閉めるのを手伝い、ダイニングの隣につながるリビングのカーテンを閉めた。その奥には一段高くなったところに4畳の和室があって、窓の内側にはめられた障子がカーテン代わりになっている。
我が家の家具はほとんどが両親の勤める会社で買ったもので、ダイニングの中央に置いてある食卓も御多分に漏れず。子どもが危なくないようにと、角は丸い。普段は4人用のサイズで使っているけど、机の間に亀裂が入っていて、板を噛ませれば6人がけにもなる優れモノだ。人が多いときや料理の品数が多いときにはそうして広く使う。
リビングに置かれた布張りのソファも機能的で、倒せばツインベッドになる。従兄が来たときにはよくここで眠っていた。
インテリア業界で働く両親が見繕ったものだから、どの家具も、デザインはシンプルでも実用性があるものばかりだ。
私は食卓の椅子の一つにかばんを置いて、ファイルごとプリントを出した。
「これ、今日配られたよ。保護者宛てのプリント」
「ん」
父はそれを手にして、ざっと目を通してから顔を上げた。
「授業参観か。今年はもう行かないつもりだけどいいか?」
「うん、いいよ」
父が来てくれるのは嬉しいけど、またみんなに騒がれるのはちょっと困る。私はあくまで、平穏無事な高校生活を希望しているのだから。
ーーようやく、目立ちすぎる兄も卒業したことだし。
父はキッチンに対面するカウンターの上にファイルを置きつつ、首を傾げた。
「保護者会だけでも行った方がいいのかなぁ」
「えー、いいんじゃないの。お兄ちゃんたちのとき、来てなかったじゃん」
「そうだけど」
父の言葉に、ちらっとその横顔を見上げる。
「……それなら、今度はお母さんに来て欲しいかなぁ」
「そうか」
父は苦笑した。器用で要領のいい父とは反対に、母は不器用で一つのことしかできないタイプだ。仕事に懸命なあまり、ついつい他のことが疎かになる。
「お母さん、今、忙しいんだっけ」
「人事担当だからなぁ。年度始めは研修やら何やらあるみたいだ」
父は台所へ向かう。シンクで手を洗う姿をぼんやり眺めていると、「何か食いたいものあるか?」と聞かれた。
「んー……冷や奴」
「好きだなぁ、それ」
父が笑った。冷や奴は私の大好物だ。小腹が空くと、プリンのようにすくって食べる。
しょうゆをかけてもよし、ゴマでもよし、鰹節もよし。薬味のバリエーションだけ風味が楽しめて、しかも低カロリー。カンペキ。
「じゃあ、冷や奴は礼奈用な」
「わーい」
柔らかい父の微笑みに、私も頬が綻ぶ。
「私も手伝うね。部屋にかばん置いてくる」
「助かるよ」
父の声に頷いて、かばんを手にリビングを出た。
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