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.第1章 高校2年、前期

27 上書きの気配

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 文化祭を終えた二週間後には、期末テストが待っている。
 テスト週間は部活が禁止になるから、その前に少しでも形を整えようと、練習は真剣みを増した。
 みんな、文化祭の演奏のときに掴みかけた何かを掴もうとしているのだ。
 それまでの穏やかな印象が一転するくらい、ナルナルの指揮にも力が入っていた。うまくいったり行かなかったり。だんだん自信がなくなってきたのか、揺らぎそうになる解釈を、他の部員が「元のまま行こう」と言ったりもした。
 そんな中迎えたテスト週間前最後の練習日。みんなどこかすっきりしないまま、仕方なく部活を引き上げて帰路についた。

 学校から駅へ向かうバスの中は部活を終えた生徒で満員状態だった。先に乗り込んだナルナルが席を譲ってくれようとしたけど、軽く手を振って遠慮した。私たちと少し離れて、後輩たちも乗り込んできたのが見える。

「運動部の帰りと重なっちゃったね」
「うん」

 乗り込んで来た人の中に、慶次郎を見つけた。一瞬目が合うけど、話しかけるような距離じゃない。ちらりと微笑んでみたけど、慶次郎は軽く顎を引いただけで、そっぽを向いてしまった。
 文化祭の学食で話しかけてきた男子がその隣にいて、楽しそうに話しかけている。慶次郎は聞き手に回る一方だ。

 ……あいつ、基本的には無口なんだよなぁ。

 様子を見ながら改めて気づく。そう、あまり無駄口をたたくタイプじゃないのだ。私に向かって放つ子どもじみた悪態を除いては。
 口からこぼれそうになるため息を飲み込む。

「……馬場くん、知り合い?」

 ナルナルに言われてまばたきした。
 どうして慶次郎のことを?
 疑問が浮かんだ後に思い出す。

「……あ、そっか。塾、一緒だったんだっけ」
「うん、まあ。あれ? 言ったっけ」
「ううん、慶次郎に聞いた」
「……慶次郎」

 ナルナルがぽつりと呟く。
 え、なんか変だったかな。
 幼馴染とはいえ、馴れ馴れしすぎる呼び名かもしれない。

「あ、あの、小学生のときから一緒で」
「そりゃ長いつき合いだね」
「うん、ほんと」

 私は頷き、へらりと笑う。

「小中と一緒なんだけど、いっつもケンカ売って来るんだよね。まさか高校まで一緒になると思ってなかった。あいつ、自転車通学したいとか言ってたし……」

 ナルナルは何かに思い当たったかのように、私の目を見つめて来る。

「……そうなんだ」

 1秒、間があった。私が困惑したとき、ナルナルがふわりと笑う。

「あ、ごめん。ちょっと考え事」

 私は首を傾げた。バスが発車する。車内は生徒たちで込み合っていた。
 駅に着くまでにも数箇所バス停があって、そのうち一カ所で降りる人と乗る人がいた。さらに人波に押される。慶次郎の右手がドア近くのパイプを握っていた。その腕にやたらと力が入っているのが見えて、不思議に思う。
 その腕の内側に、あーちゃんがいるのが見えた。そして気づく。慶次郎は左手を吊り革に添え、半ば肩ごしに友人と話しながら、あーちゃんの方へ圧が行かないように腕で止めているらしい。

 へー。
 そういうこともできるんじゃん。

 初めて見えた紳士な一面に、思わず感心する。
 私にはテキトーだけど、意外とよく周りを見てるのかもしれない。
 あーちゃんは慶次郎が庇っていることに気づいているようだ。ちらちら慶次郎を気にしているけれど、慶次郎自身は何食わぬ顔でそっぽを向いているから話しかけることもできないらしい。

 慶次郎も不器用なやつ。
 それにしても、あーちゃんって……もしかして、

「馬場くんのこと、好きだったり?」

 ぽつり、とナルナルの声が聞こえて、ごふ、と噴き出した。

「え、あ、な、何言ってるの」

 思考を読まれたのかとうろたえた後、ナルナルの視線で私自身への問いだと気づいた。椅子席に座ったナルナルは、眼鏡の奥の目を細めながら、探るように私を見上げている。

「だって、背高いし、かっこいいし。……去年の体育祭でも、活躍してたよね」

 ナルナルは遠い目をして慶次郎を見た。私は笑いそうになる。

「そうかなぁ。でも、ナルナルみたいに優しくないよ」

 ナルナルは何も言わずに首を傾げて微笑んだ。

「でも、憧れるな。ああいう……体育会系っていうか、運動できる人って。体育と美術は俺、成績落とさないように必死だから」
「そうなの?」

 ナルナルは頷いて、また慶次郎を見やる。

「必死に机にしがみついてても、何もかっこよくないでしょ。でも必死にボール追いかけてたらかっこいいなって思わない?」

 ……まあ、わからなくもないけど。

「必死に……音を追いかけてるのも、かっこいいと思うよ」

 私が言うと、ナルナルは一瞬の間の後笑った。

「そうだね。それはかっこいいと思う」

 二人で顔を見合わせて笑う。ナルナルの笑い声は柔らかくて優しくて、耳障りがいい。

 ーーやっぱり、誰かに似てる。でも誰に?
 分からないまま気になっていたら、耳の奥で重なっていた誰かの声が、ナルナルの声だけになりつつある。
 前まで身近にいた誰かの声が、今、もっと身近にいる人の声に置き換わっていくような感覚。薄れていく思い出のようで、少し寂しい。

 ……誰だっけ。

 忘れちゃいけない、ような気だけがした。
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