31 / 368
.第1章 高校2年、前期
28 夢に会う人
しおりを挟む
テスト週間とはいえ、何もしないのは落ち着かない。私はマウスピースを手にして、ときどき気分転換にぷっぷくぷっぷく吹いていた。
それを耳にした家族が「うちはいつからアヒルを飼いだしたんだっけ」と笑うので、私も答えるように「ぷわっぷわっ」とアヒルっぽく吹いてやった。
母と健人兄は特にこのやりとりがお気に入りのようだ。私を見つけるなり「今日はアヒルは元気?」と声をかけてくるようになって、マウスピースを持っていないときには、仕方なく声で「くわっ、くわっ」と答えてやったりもした。
テストを翌日に控えた夜。そろそろ勉強を終えて寝ようと、歯磨きのために1階へ降りたら、健人兄がお風呂に入っていた。コンコンとノックをして洗面所へ入り、歯磨きをする。
不意に、兄が身体を洗う音がぴたりと止まった。湯舟に入ったのだろう。私はぼんやりしながら歯ブラシを動かし、口の中でしゃこしゃこと泡立てる。
頭の中ではさっきまでやっていた数学の方程式を思い浮かべていた。目を閉じても三角形がまぶたに浮かんで、あんまりいい気分ではない。
はー。今回もせめて100番台取りたいなぁ。
ナルナルとか小夏に言ったら笑われそうな目標だけど、不器用な私にはそれがせいぜいだ。
兄や従兄姉たちみたいに優秀だったらよかったけど、私はどんなに足掻いても優等生にはなれそうにない。ナルナルが運動部に憧れていたように、人間みんな無いものねだりだ。
そうわかっていても、きらきらしい功績を持つ人が傍にいて、それと比べてしまうと、どんどん自分が惨めに思えて来る。
よくない。大変、よろしくない。
そんなことをぼーんやりと考えていたら、急にガラリと浴室に繋がるガラス戸が空いて、もわっとした湯気が洗面所へ流れ込んで来た。
「ん、む、ぁに」
出てくるなら言ってよ! 口濯いで出るから!!
慌てて口の中の泡を洗面台に吐き出し、歯ブラシと口を濯ぐ。「はー」と満足げな声と、髪を乱暴に拭く音が後ろから聞こえた。睨みつけたいけど、一糸まとわぬ兄を見る趣味はない。
「健人兄の変態。露出狂」
「馬鹿言うな。よく見ろ、下半身は隠してるっつの」
「見ないよ! 何でわざわざ見んのよ!」
「勘違いされたままじゃ、俺が変態みたいじゃねぇか!」
腕をつかまれたから、呆れながらにらみ返す。一応、一瞬、視線を下げてタオルがあることを確認。うん、よかった隠れてる。ホッとしたところを兄に笑われた。
「まあお前、少しくらい抗体持った方がいいかもしれないけどな」
「よ、余計なお世話です!」
異性とつき合ったことがない私に、男性経験なんてある訳もない。責任を何も取れない高校生がそんなことをするべきじゃない、と思っているのは確かだけど、そもそも機会がないのであえて考えることでもない。
「潔癖すぎる女も嫌煙されるぞ」
にやりと笑う健人兄は、もう1枚のフェイスタオルを肩にかけている。1年前に引退したものの、柔道で鍛えた首筋と肩はがっちりしていて筋肉質だ。「暑っち」と言いながら下着を身につけ、短パンを履いて腰に巻いたタオルを洗濯カゴに投げ入れる。
「潔癖ってなんのこと」
私が言うと、健人兄は笑った。
「だってこないだの、栄太兄の」
言いかけて、健人兄は「あ」という顔をした。
「そういや、礼奈。7月24日、何か用ある?」
聞かれて戸惑う。7月下旬はぼちぼち夏休みに入る頃だ。
けど、
「ないけどある」
「は?」
「翌日、地区大会」
前日だから最終調整をするだろう。地区大会で敗退すれば、今演奏している曲はそれまで。次は12月の定期演奏会に向けて練習が始まるーー
どうにか、形にしたい。
そんなことを思い返して、ひとり表情を引締める。悔いのないように。それは自分のためだけではなくて、ナルナルやナーガ、はしもっちゃんーーそう、仲間みんなのためだ。
健人兄はそんな私の表情を見て微笑むと、くしゃりと頭を撫でてきた。父よりも乱暴な、髪の流れをぐちゃぐちゃにするような撫で方だ。
「わ、ちょーー」
「そっか。がんばれよ」
兄はふと首を傾げた。
「地区大会って、フツーにぷらっと行って見れんの?」
「え? ……チケット買って入るんじゃなかったかな、確か」
「あ、そーなんだ」
健人兄が言って廊下に出ていく。私は困惑して声をかけた。
「え、何なの、結局」
「いや、なんでもない。ま、がんばれよ」
健人兄は「ははは」と笑った。笑い声を聞きながら、ナルナルの笑い声を思い出す。
少なくとも健人兄に似ているのではないらしい。そりゃそうだ、さすがに兄ならすぐ分かるだろう。悠人兄も父も違う。
一体、誰だろう。
すっきりしない。すっきりしないままに眠りについたら、夢にナルナルが出てきた。
私たちは二人で歩いていて、ナルナルは笑っていて、その隣はすごく優しくて温かかった。
ナルナルが手を伸ばしてきて、私は自然と手を伸ばした。
まるで恋人みたいだな、と頭のどこかで思ったけれど、いざその手を握ったら、それはナルナルの手じゃなかった。
顔を見上げた私が、その人の名前を呼ぼうと息を吸う。
その瞬間に目が覚めて、一瞬ぽかんとした。
手を繋いだのが誰だったのか、目を覚ました私にはわからなかった。ただ、ずっと会いたかった人だったように感じてーーそんな人に思い当たらず、ますます混乱したのだった。
それを耳にした家族が「うちはいつからアヒルを飼いだしたんだっけ」と笑うので、私も答えるように「ぷわっぷわっ」とアヒルっぽく吹いてやった。
母と健人兄は特にこのやりとりがお気に入りのようだ。私を見つけるなり「今日はアヒルは元気?」と声をかけてくるようになって、マウスピースを持っていないときには、仕方なく声で「くわっ、くわっ」と答えてやったりもした。
テストを翌日に控えた夜。そろそろ勉強を終えて寝ようと、歯磨きのために1階へ降りたら、健人兄がお風呂に入っていた。コンコンとノックをして洗面所へ入り、歯磨きをする。
不意に、兄が身体を洗う音がぴたりと止まった。湯舟に入ったのだろう。私はぼんやりしながら歯ブラシを動かし、口の中でしゃこしゃこと泡立てる。
頭の中ではさっきまでやっていた数学の方程式を思い浮かべていた。目を閉じても三角形がまぶたに浮かんで、あんまりいい気分ではない。
はー。今回もせめて100番台取りたいなぁ。
ナルナルとか小夏に言ったら笑われそうな目標だけど、不器用な私にはそれがせいぜいだ。
兄や従兄姉たちみたいに優秀だったらよかったけど、私はどんなに足掻いても優等生にはなれそうにない。ナルナルが運動部に憧れていたように、人間みんな無いものねだりだ。
そうわかっていても、きらきらしい功績を持つ人が傍にいて、それと比べてしまうと、どんどん自分が惨めに思えて来る。
よくない。大変、よろしくない。
そんなことをぼーんやりと考えていたら、急にガラリと浴室に繋がるガラス戸が空いて、もわっとした湯気が洗面所へ流れ込んで来た。
「ん、む、ぁに」
出てくるなら言ってよ! 口濯いで出るから!!
慌てて口の中の泡を洗面台に吐き出し、歯ブラシと口を濯ぐ。「はー」と満足げな声と、髪を乱暴に拭く音が後ろから聞こえた。睨みつけたいけど、一糸まとわぬ兄を見る趣味はない。
「健人兄の変態。露出狂」
「馬鹿言うな。よく見ろ、下半身は隠してるっつの」
「見ないよ! 何でわざわざ見んのよ!」
「勘違いされたままじゃ、俺が変態みたいじゃねぇか!」
腕をつかまれたから、呆れながらにらみ返す。一応、一瞬、視線を下げてタオルがあることを確認。うん、よかった隠れてる。ホッとしたところを兄に笑われた。
「まあお前、少しくらい抗体持った方がいいかもしれないけどな」
「よ、余計なお世話です!」
異性とつき合ったことがない私に、男性経験なんてある訳もない。責任を何も取れない高校生がそんなことをするべきじゃない、と思っているのは確かだけど、そもそも機会がないのであえて考えることでもない。
「潔癖すぎる女も嫌煙されるぞ」
にやりと笑う健人兄は、もう1枚のフェイスタオルを肩にかけている。1年前に引退したものの、柔道で鍛えた首筋と肩はがっちりしていて筋肉質だ。「暑っち」と言いながら下着を身につけ、短パンを履いて腰に巻いたタオルを洗濯カゴに投げ入れる。
「潔癖ってなんのこと」
私が言うと、健人兄は笑った。
「だってこないだの、栄太兄の」
言いかけて、健人兄は「あ」という顔をした。
「そういや、礼奈。7月24日、何か用ある?」
聞かれて戸惑う。7月下旬はぼちぼち夏休みに入る頃だ。
けど、
「ないけどある」
「は?」
「翌日、地区大会」
前日だから最終調整をするだろう。地区大会で敗退すれば、今演奏している曲はそれまで。次は12月の定期演奏会に向けて練習が始まるーー
どうにか、形にしたい。
そんなことを思い返して、ひとり表情を引締める。悔いのないように。それは自分のためだけではなくて、ナルナルやナーガ、はしもっちゃんーーそう、仲間みんなのためだ。
健人兄はそんな私の表情を見て微笑むと、くしゃりと頭を撫でてきた。父よりも乱暴な、髪の流れをぐちゃぐちゃにするような撫で方だ。
「わ、ちょーー」
「そっか。がんばれよ」
兄はふと首を傾げた。
「地区大会って、フツーにぷらっと行って見れんの?」
「え? ……チケット買って入るんじゃなかったかな、確か」
「あ、そーなんだ」
健人兄が言って廊下に出ていく。私は困惑して声をかけた。
「え、何なの、結局」
「いや、なんでもない。ま、がんばれよ」
健人兄は「ははは」と笑った。笑い声を聞きながら、ナルナルの笑い声を思い出す。
少なくとも健人兄に似ているのではないらしい。そりゃそうだ、さすがに兄ならすぐ分かるだろう。悠人兄も父も違う。
一体、誰だろう。
すっきりしない。すっきりしないままに眠りについたら、夢にナルナルが出てきた。
私たちは二人で歩いていて、ナルナルは笑っていて、その隣はすごく優しくて温かかった。
ナルナルが手を伸ばしてきて、私は自然と手を伸ばした。
まるで恋人みたいだな、と頭のどこかで思ったけれど、いざその手を握ったら、それはナルナルの手じゃなかった。
顔を見上げた私が、その人の名前を呼ぼうと息を吸う。
その瞬間に目が覚めて、一瞬ぽかんとした。
手を繋いだのが誰だったのか、目を覚ました私にはわからなかった。ただ、ずっと会いたかった人だったように感じてーーそんな人に思い当たらず、ますます混乱したのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
123
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる