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.第1章 高校2年、前期
29 夏の主役
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期末試験はいつも通りの感触だった。よくも悪くもないだろう。
テスト最終日からは部活が再開する。テストが終わってぐったりしている間もなく、コンクールに向けた練習が始まるのだ。
運動部は運動部で、ぼちぼち最後の大会が始まっているらしい。バスケ部は男女とも、初戦を勝ち抜いたとのこと。
小夏に「応援に来て」と言われたけど、私も部活があって行けないのが残念だ。
「礼奈が来てくれたらきっと慶ちゃんも喜ぶよ。感想とか特に言ってなかったけど、文化祭で礼奈たちの演奏聞いてから、すごい真剣に練習してるし」
「……そうなの?」
そう返してから、照れ臭くなる。
「そもそも、普段から練習真面目にやれよって話じゃん」
「そりゃあまあ、そうなんだけどさ」
小夏は笑った。
「ま、テストも終わったし、お互いがんばろ」
「うん、がんばろ。じゃ、また明日!」
手を振って、小夏が教室を出ていく。私もいつもパート練習をしている教室へ向かった。
教室にはまだ誰もいなかった。冷房をつけていなかった教室は、中に入るともやっとしている。
冷房のボタンを押すと、窓際の机に腰掛けた。
手にしたマウスピースを唇に押し当てる。
ぷわ、ぷわ、ぷー
がらんとした教室に音が響く。
ぷわっぷわっ
母や健人兄が気に入っていたアヒルの真似をして、ひとりでくすくす笑っていると、廊下から違う笑い声が重なった。どきっとしながら振り返るとナルナルが立っている。
「礼ちゃん、ほんとにトランペットが好きなんだね」
その笑顔は優しくて、嬉しそうだった。私は照れ臭くなって唇からマウスピースを離す。
「テスト週間に家で吹いてたら、家族にアヒルみたいって言われて」
モゴモゴ弁解じみたことを言うと、ナルナルは柔らかく笑った。
廊下と教室の間に立ったまま、私の表情を伺う。
「中、入ってもいいかな」
「うん、どうぞ」
「お邪魔します」
私しかいないのに、いちいち確認を取るのがナルナルらしい。
窓際の私の席まで近づいて来ると、窓の外を眺め、目を細めた。縁のない眼鏡に光が反射する。私は話題を探した。
「……あと一か月、切ったね」
言ってから、下手な切りだし方だったと自分にあきれる。一か月後に控えたコンクールで、ナルナルが必要以上にプレッシャーを感じているのは薄々察している。
テストは一種の気分転換にもなった。けれど、終わったからにはもう、次の目標である大会に突き進むしかない。そうはいっても、逃げ道を失ったような感覚にさせたくはない。
慌てて言葉を取り繕った。
「で、でも、来週のテストの返し怖いなぁ。そろそろ、受験校決めなきゃいけないし……」
私は目を泳がせながら笑うけど、わざとらしくなったと自覚する。我ながらなんて演技が下手なんだろう。
「って、ナルナルはそういうこともないか。ナルナルならどの大学でも行けるだろうって、みんな言ってるもんね」
しまった、ますますミスを上塗りした。
同じことを言うにも、もっと言い方があるだろうに。そもそも、言いたいことはこんなことじゃないのに。自分に呆れ、いら立つ私と裏腹に、ナルナルは穏やかに微笑むだけだ。
「……行けない大学もあるよ」
ナルナルの呟きは、内容も言い方も意外だった。感情を切り離したような声音に逆に切なさを聞きとって、どきりと心臓が高鳴る。
「……え?」
戸惑うと、ナルナルはふっと笑った。
ジェスチャーで私に許可を求めて、隣の椅子に腰掛ける。
「音大。行こうかなーって、思ったんだけどね」
私はまばたきした。ナルナルは私の斜め前の窓から外を見ている。そこには桜が数本生えていた。盛りを過ぎた桜は、青い葉をまとって、次の春を待っている。
「……行けないの?」
私が聞いた。声は自信なさげに、か細くなった。ナルナルは笑って、頷く。
「俺、ピアノ弾けないから」
ナルナルは剽軽なふりをして、軽く指を動かした。ぎゅっと胸が苦しくなる。
「ピアノ、必修なの?」
「うん」
「……練習、すれば」
「ちょっとでも経験あればそれも考えたけどね」
返ってきたのは苦笑だった。
「親にも、聞かれた。音大行って指揮やって……どういう将来を考えてるんだって。それをちゃんと考えた上で、どうしても行きたいと思うなら、ピアノを習わせてもいいって」
ナルナルは膝の上に肘をつき、合わせた両手の指先に目をやった。
「……音楽で食べて行けるのなんて、ほんの一握りの人間だ。ましてや、指揮者なんて」
私はうつむいたナルナルの額から目を反らすと、自分の手に握ったマウスピースを眺めた。カドのない丸い金属は、私の体温ですっかり温もっている。手の小さな私でも、両手で隠してしまえるほどの大きさだ。
「だから、俺の指揮は高校までだ」
お腹の中で、ぐるり、と何かが動いた。
苦しくて、切ない。
「でも」と私は顔を上げた。
「また、吹奏楽部とか、入れば」
「うん。練習では、振れるかもね」
返ってきた微笑みに、またぎゅぅと胸が締め付けられる。
「大学まで行けば、普通、指揮をするのは音大卒業生だよ。練習では生徒が振っても、本番で振ることは滅多にないだろ」
そういえば、叔母の合唱サークルでも、音大の講師に指揮をお願いしていたと聞いた。そういうものなのかもしれない。私は黙ってうつむく。
ナルナルが笑った。
「そんな、礼ちゃんが落ち込まないでよ。俺はもう、気持ち切り替えたから」
そう言うと、私の顔を覗き込む優しい目が、レンズ越しに私を見つめた。
「ごめん、こんな話して」
ナルナルは微笑んで続ける。
「でも、だから……残したいんだよ。俺が指揮をしたことを……ひとりでも多くの人の心に」
私は頷こうとして、ゆがんだ視界に気づいた。
ナルナルはそれ以上語らなかったけど、その表情を見ればどれくらい苦しんだか分かる。
私は涙が落ちないように、そっと窓の外へ目を反らした。
太陽は、桜の葉を、コンクリートを、焼き尽くさんばかりに照らし出して、輝いている。
――夏の主役は自分だと叫ぶかのように。
***
ナルナルはその後、その話をすることはなかった。
彼の熱心さの理由を知った私は、ときどきひどく切なくなったりもしたけど、より一層懸命に部活に励んだ。
私たちの音楽をーーナルナルの指揮を、ひとりでも多くの人の心に刻み付けられるように。
そう願って。
地区大会を翌日に控えたその日、ナルナルはみんなに言った。
「明日は、おもいっきり楽しもう」
できることはした。
ナルナルの表情はそう語っていた。
……本当に?
自問自答。
部員それぞれが、自分に問いかけていることだろう。
それでも、明日が本番。
県大会に出場できなければ、今演奏している曲を、同じメンバーで演奏することはもうない。
ーーいいわねぇ、若いっていうのは。
母の言葉が、脳裏を掠めた。
ーーこれから自分が何になるか、どんな可能性を持ってるのか……私も高校生くらいのときは、何にでもなれるような気がしてたなぁ。
あのとき、私はあまり深く考えることなく、笑って頷いた。
けど、今はその言葉が嘘だと分かる。
高校生の私たちは、もう、知っているのだ。
自分には選べない将来があるってことを。
私たちなりに、現実を見据えている。
大人が思うほど、私たちは無垢でも、夢見がちでもない。
現実を見ずにはいられないんだ。
私は唇を噛み締める。
ーーそして、大会当日がやってきた。
テスト最終日からは部活が再開する。テストが終わってぐったりしている間もなく、コンクールに向けた練習が始まるのだ。
運動部は運動部で、ぼちぼち最後の大会が始まっているらしい。バスケ部は男女とも、初戦を勝ち抜いたとのこと。
小夏に「応援に来て」と言われたけど、私も部活があって行けないのが残念だ。
「礼奈が来てくれたらきっと慶ちゃんも喜ぶよ。感想とか特に言ってなかったけど、文化祭で礼奈たちの演奏聞いてから、すごい真剣に練習してるし」
「……そうなの?」
そう返してから、照れ臭くなる。
「そもそも、普段から練習真面目にやれよって話じゃん」
「そりゃあまあ、そうなんだけどさ」
小夏は笑った。
「ま、テストも終わったし、お互いがんばろ」
「うん、がんばろ。じゃ、また明日!」
手を振って、小夏が教室を出ていく。私もいつもパート練習をしている教室へ向かった。
教室にはまだ誰もいなかった。冷房をつけていなかった教室は、中に入るともやっとしている。
冷房のボタンを押すと、窓際の机に腰掛けた。
手にしたマウスピースを唇に押し当てる。
ぷわ、ぷわ、ぷー
がらんとした教室に音が響く。
ぷわっぷわっ
母や健人兄が気に入っていたアヒルの真似をして、ひとりでくすくす笑っていると、廊下から違う笑い声が重なった。どきっとしながら振り返るとナルナルが立っている。
「礼ちゃん、ほんとにトランペットが好きなんだね」
その笑顔は優しくて、嬉しそうだった。私は照れ臭くなって唇からマウスピースを離す。
「テスト週間に家で吹いてたら、家族にアヒルみたいって言われて」
モゴモゴ弁解じみたことを言うと、ナルナルは柔らかく笑った。
廊下と教室の間に立ったまま、私の表情を伺う。
「中、入ってもいいかな」
「うん、どうぞ」
「お邪魔します」
私しかいないのに、いちいち確認を取るのがナルナルらしい。
窓際の私の席まで近づいて来ると、窓の外を眺め、目を細めた。縁のない眼鏡に光が反射する。私は話題を探した。
「……あと一か月、切ったね」
言ってから、下手な切りだし方だったと自分にあきれる。一か月後に控えたコンクールで、ナルナルが必要以上にプレッシャーを感じているのは薄々察している。
テストは一種の気分転換にもなった。けれど、終わったからにはもう、次の目標である大会に突き進むしかない。そうはいっても、逃げ道を失ったような感覚にさせたくはない。
慌てて言葉を取り繕った。
「で、でも、来週のテストの返し怖いなぁ。そろそろ、受験校決めなきゃいけないし……」
私は目を泳がせながら笑うけど、わざとらしくなったと自覚する。我ながらなんて演技が下手なんだろう。
「って、ナルナルはそういうこともないか。ナルナルならどの大学でも行けるだろうって、みんな言ってるもんね」
しまった、ますますミスを上塗りした。
同じことを言うにも、もっと言い方があるだろうに。そもそも、言いたいことはこんなことじゃないのに。自分に呆れ、いら立つ私と裏腹に、ナルナルは穏やかに微笑むだけだ。
「……行けない大学もあるよ」
ナルナルの呟きは、内容も言い方も意外だった。感情を切り離したような声音に逆に切なさを聞きとって、どきりと心臓が高鳴る。
「……え?」
戸惑うと、ナルナルはふっと笑った。
ジェスチャーで私に許可を求めて、隣の椅子に腰掛ける。
「音大。行こうかなーって、思ったんだけどね」
私はまばたきした。ナルナルは私の斜め前の窓から外を見ている。そこには桜が数本生えていた。盛りを過ぎた桜は、青い葉をまとって、次の春を待っている。
「……行けないの?」
私が聞いた。声は自信なさげに、か細くなった。ナルナルは笑って、頷く。
「俺、ピアノ弾けないから」
ナルナルは剽軽なふりをして、軽く指を動かした。ぎゅっと胸が苦しくなる。
「ピアノ、必修なの?」
「うん」
「……練習、すれば」
「ちょっとでも経験あればそれも考えたけどね」
返ってきたのは苦笑だった。
「親にも、聞かれた。音大行って指揮やって……どういう将来を考えてるんだって。それをちゃんと考えた上で、どうしても行きたいと思うなら、ピアノを習わせてもいいって」
ナルナルは膝の上に肘をつき、合わせた両手の指先に目をやった。
「……音楽で食べて行けるのなんて、ほんの一握りの人間だ。ましてや、指揮者なんて」
私はうつむいたナルナルの額から目を反らすと、自分の手に握ったマウスピースを眺めた。カドのない丸い金属は、私の体温ですっかり温もっている。手の小さな私でも、両手で隠してしまえるほどの大きさだ。
「だから、俺の指揮は高校までだ」
お腹の中で、ぐるり、と何かが動いた。
苦しくて、切ない。
「でも」と私は顔を上げた。
「また、吹奏楽部とか、入れば」
「うん。練習では、振れるかもね」
返ってきた微笑みに、またぎゅぅと胸が締め付けられる。
「大学まで行けば、普通、指揮をするのは音大卒業生だよ。練習では生徒が振っても、本番で振ることは滅多にないだろ」
そういえば、叔母の合唱サークルでも、音大の講師に指揮をお願いしていたと聞いた。そういうものなのかもしれない。私は黙ってうつむく。
ナルナルが笑った。
「そんな、礼ちゃんが落ち込まないでよ。俺はもう、気持ち切り替えたから」
そう言うと、私の顔を覗き込む優しい目が、レンズ越しに私を見つめた。
「ごめん、こんな話して」
ナルナルは微笑んで続ける。
「でも、だから……残したいんだよ。俺が指揮をしたことを……ひとりでも多くの人の心に」
私は頷こうとして、ゆがんだ視界に気づいた。
ナルナルはそれ以上語らなかったけど、その表情を見ればどれくらい苦しんだか分かる。
私は涙が落ちないように、そっと窓の外へ目を反らした。
太陽は、桜の葉を、コンクリートを、焼き尽くさんばかりに照らし出して、輝いている。
――夏の主役は自分だと叫ぶかのように。
***
ナルナルはその後、その話をすることはなかった。
彼の熱心さの理由を知った私は、ときどきひどく切なくなったりもしたけど、より一層懸命に部活に励んだ。
私たちの音楽をーーナルナルの指揮を、ひとりでも多くの人の心に刻み付けられるように。
そう願って。
地区大会を翌日に控えたその日、ナルナルはみんなに言った。
「明日は、おもいっきり楽しもう」
できることはした。
ナルナルの表情はそう語っていた。
……本当に?
自問自答。
部員それぞれが、自分に問いかけていることだろう。
それでも、明日が本番。
県大会に出場できなければ、今演奏している曲を、同じメンバーで演奏することはもうない。
ーーいいわねぇ、若いっていうのは。
母の言葉が、脳裏を掠めた。
ーーこれから自分が何になるか、どんな可能性を持ってるのか……私も高校生くらいのときは、何にでもなれるような気がしてたなぁ。
あのとき、私はあまり深く考えることなく、笑って頷いた。
けど、今はその言葉が嘘だと分かる。
高校生の私たちは、もう、知っているのだ。
自分には選べない将来があるってことを。
私たちなりに、現実を見据えている。
大人が思うほど、私たちは無垢でも、夢見がちでもない。
現実を見ずにはいられないんだ。
私は唇を噛み締める。
ーーそして、大会当日がやってきた。
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