193 / 368
.第8章 終わりと始まり
189 先延ばし
しおりを挟む
その翌週には、健人兄もぼちぼち調子が戻って来たらしい。ある朝、寝坊して両親の見送りをしそこねた私がリビングへ下りると、鬱陶しいくらい溌剌とした調子で「よっ! 礼奈! おはよう!!」と声をかけてきた。
「……元気だねぇ」
「お前は元気ないの?」
笑われて、思わず口をつむぐ。聡い兄のことだ、何か言ってはすぐにバレてしまうのは身をもって知っている。
今は、あんまり突っ込まれたくなかった。栄太兄のことも、慶次郎のことも。自分でもよく分からなかったし、分かってしまうのが怖い気もしていたから。
「よーし。そんじゃ、可愛い礼奈ちゃんのために、健人お兄様がサービスしてあげよう。フレンチトーストとエッグベネディクト、どっちがいい?」
「エッグ……? そんなの作れた?」
「同じステイ先の子に教えてもらった。なんか食いたくなってさ、昨日マフィン作ったし、今朝父さんたちにも出したんだ。喜んでくれた」
猫目をくるんと見開いてそう笑う兄に感心しながら、「じゃあ、エッグベネディクト」とリクエストして食卓の椅子に座る。
誰もいないのに、選んだ椅子はいつも通り、私が一番よく座るお誕生日席だ。みんなの横顔がよく見えるその席は、私の特等席だった。会話に置いていかれないように、懸命に耳をそばだてて、口をはさんでいた頃は、もう十年も前になるんだ、と気づく。
「……あっという間だねぇ」
ふと呟くと、キッチンから「何が?」と声がした。対面型のキッチンだから、声は聞こえるし顔も見える。
「なってみれば、あっという間だなって」
「大学生?」
「うん……まぁ」
大人に。という言葉は、飲み込んだ。まだ私は大人じゃないからだ。でも、あと半年したら、私もその仲間になる。
ただ、十九年だった人生が、二十年になったところで、いったい何が変わるというのだろう。
それでも、成人式だってあるし、お酒を飲むこともできるようになる。もう、何かするときにも両親に許可を得る必要はなくなる。
どんどん、自由になる。そこには思っていたほど、解放感はなかった。代わりにのしかかる責任の重さが煩わしいのでもない。ただ、思ったよりも――呆気ない。
考えてみれば、それも当然なのだ。だって、成人するのに資格は必要ない。試験も資格もない。ただ、振り向いた先に、過ぎてきた時間があるだけだ。
二十年。その時間をどう過ごしていたかなど、誰も気にしていない。
ーー二十歳になるまで。
栄太兄はそう言った。社会人になるまで、とは言わなかった。成人すれば、何か分かるのかと思っていたけど、そういうわけでもなさそうだ。
やっぱり、その場しのぎの時間稼ぎだったんだろうか。その割には、真剣に考えていたし、言葉を口にする目は、何かを決心しているように見えた。
初めて見る、一人の男の人の顔――「面倒見のいいお兄ちゃん」じゃない顔だった。
コトン、とお皿を置かれて、はっと顔を上げる。そこにはエプロン姿の兄が立っていた。
「お待たせしました、お嬢様。エッグベネディクトでございます」
ご丁寧なことに、横にはシーザーサラダも添えてある。ふわりと立ち上るベーコンの香りに、ぐぅとお腹が鳴った。
兄は慣れた動きでポットからカップへ紅茶を注ぐ。
「紅茶をご用意いたしました。スライスレモンと一緒にどうぞ」
もったいぶった演技で差し出されて、私は「どうも」と小さく答える。兄は笑った。
「感想教えて。うまくいったらジョーさんにも食べてもらうんだ。んで、オッケー出たらヨーコさんにも作る」
「……ジョーさん、毒見役?」
「あはは、そんな感じ」
ジョーさんのお眼鏡に敵わないと、ヨーコさんに振る舞う権利はもらえないらしい。
でも、そのジョーさんの前に、私たちが実験台になるってわけね。
なんだか複雑な気分で、丸く乗せられた卵にナイフを走らせた。
つぶ、と切った卵から、とろりと濃厚な黄身が流れ出す。思わず「ふわ」と声が出て、自然と口元が笑顔になった。
「美味しそう。いただきまー……」
あんぐり口を開いたところで、ふと、兄の方を見る。
「……ちょっと! 何撮ってんの!?」
「いや、絶対喜ぶだろうなと思ってたから。差があった方が面白いじゃん、リアクション」
それは、元がちょっと元気がなかったことを揶揄しているんだろう。私は顔を赤くした。
「止めてよ! 食べにくいじゃない!」
「いいのに、食べて」
「いいからそれやめて!!」
健人兄は「ちぇー」と言いながらスマホを下ろした。私はほっとして、フォークに刺した一切れを口にする。
ふわっとしたイングリッシュマフィンと芳ばしいベーコンの香り。とろりとした卵が口の中に広がって、一振りされたコショウもいい感じに効いている。
「んーっ、美味しい」
「そりゃ、よかった」
健人兄が笑う。私は切っては口に運び、切っては口に運んだ。
「そういえば、聞いた? 今年は敬老の日に鎌倉集合だってよ」
「うん、聞いた」
健人兄が帰国した頃、父から聞いて知っている。頷いた私に、健人兄は何気なく「そっか。行くの?」と訊いてきた。
私はもぐもぐしながら首を横に振る。
まだ、栄太兄と会う気にはなれない。会っていいんだろうか、という戸惑いの方が強い。
あと、半年。
私が二十歳になる誕生日まで、あと半年。
カレンダーをめくる度、カウントダウンしている自分に気づいている。
バイト先にも、そろそろ、来年のカレンダーが並び始めた。
もう、季節は秋。冬が来れば、その次には春ーー3月が待っている。
私はそのとき、どうするんだろう。栄太兄は本当に、あの約束を覚えているんだろうか。
二十歳の誕生日の、予定を空けとく――
もしかしたら、覚えているのは、もう私だけかもしれない。
「あ、そ。みんなどうすんのかな。朝子ちゃんも内定決まっただろうし、来るかな。栄太兄と会うの久々だなー。とりあえず死んでないらしいからよかったけど。愚痴る相手もいなくて大丈夫だったか心配してたんだよね」
健人兄は私のことなど気にもせず話している。私は黙って、朝食を口に運ぶ。
エッグベネディクトを丸々一つ食べ終えた私に、兄が笑った。
「イングリッシュマフィン、まだあるよ。食う?」
「もらう」
言うと、にこりと笑って、兄はキッチンへ入って行く。
その背中を目で追って、空っぽになったお皿を見下ろした。
私はいったい、どうしたいんだろう。
――ほんとに、分からない。
……ほんとに。
「……元気だねぇ」
「お前は元気ないの?」
笑われて、思わず口をつむぐ。聡い兄のことだ、何か言ってはすぐにバレてしまうのは身をもって知っている。
今は、あんまり突っ込まれたくなかった。栄太兄のことも、慶次郎のことも。自分でもよく分からなかったし、分かってしまうのが怖い気もしていたから。
「よーし。そんじゃ、可愛い礼奈ちゃんのために、健人お兄様がサービスしてあげよう。フレンチトーストとエッグベネディクト、どっちがいい?」
「エッグ……? そんなの作れた?」
「同じステイ先の子に教えてもらった。なんか食いたくなってさ、昨日マフィン作ったし、今朝父さんたちにも出したんだ。喜んでくれた」
猫目をくるんと見開いてそう笑う兄に感心しながら、「じゃあ、エッグベネディクト」とリクエストして食卓の椅子に座る。
誰もいないのに、選んだ椅子はいつも通り、私が一番よく座るお誕生日席だ。みんなの横顔がよく見えるその席は、私の特等席だった。会話に置いていかれないように、懸命に耳をそばだてて、口をはさんでいた頃は、もう十年も前になるんだ、と気づく。
「……あっという間だねぇ」
ふと呟くと、キッチンから「何が?」と声がした。対面型のキッチンだから、声は聞こえるし顔も見える。
「なってみれば、あっという間だなって」
「大学生?」
「うん……まぁ」
大人に。という言葉は、飲み込んだ。まだ私は大人じゃないからだ。でも、あと半年したら、私もその仲間になる。
ただ、十九年だった人生が、二十年になったところで、いったい何が変わるというのだろう。
それでも、成人式だってあるし、お酒を飲むこともできるようになる。もう、何かするときにも両親に許可を得る必要はなくなる。
どんどん、自由になる。そこには思っていたほど、解放感はなかった。代わりにのしかかる責任の重さが煩わしいのでもない。ただ、思ったよりも――呆気ない。
考えてみれば、それも当然なのだ。だって、成人するのに資格は必要ない。試験も資格もない。ただ、振り向いた先に、過ぎてきた時間があるだけだ。
二十年。その時間をどう過ごしていたかなど、誰も気にしていない。
ーー二十歳になるまで。
栄太兄はそう言った。社会人になるまで、とは言わなかった。成人すれば、何か分かるのかと思っていたけど、そういうわけでもなさそうだ。
やっぱり、その場しのぎの時間稼ぎだったんだろうか。その割には、真剣に考えていたし、言葉を口にする目は、何かを決心しているように見えた。
初めて見る、一人の男の人の顔――「面倒見のいいお兄ちゃん」じゃない顔だった。
コトン、とお皿を置かれて、はっと顔を上げる。そこにはエプロン姿の兄が立っていた。
「お待たせしました、お嬢様。エッグベネディクトでございます」
ご丁寧なことに、横にはシーザーサラダも添えてある。ふわりと立ち上るベーコンの香りに、ぐぅとお腹が鳴った。
兄は慣れた動きでポットからカップへ紅茶を注ぐ。
「紅茶をご用意いたしました。スライスレモンと一緒にどうぞ」
もったいぶった演技で差し出されて、私は「どうも」と小さく答える。兄は笑った。
「感想教えて。うまくいったらジョーさんにも食べてもらうんだ。んで、オッケー出たらヨーコさんにも作る」
「……ジョーさん、毒見役?」
「あはは、そんな感じ」
ジョーさんのお眼鏡に敵わないと、ヨーコさんに振る舞う権利はもらえないらしい。
でも、そのジョーさんの前に、私たちが実験台になるってわけね。
なんだか複雑な気分で、丸く乗せられた卵にナイフを走らせた。
つぶ、と切った卵から、とろりと濃厚な黄身が流れ出す。思わず「ふわ」と声が出て、自然と口元が笑顔になった。
「美味しそう。いただきまー……」
あんぐり口を開いたところで、ふと、兄の方を見る。
「……ちょっと! 何撮ってんの!?」
「いや、絶対喜ぶだろうなと思ってたから。差があった方が面白いじゃん、リアクション」
それは、元がちょっと元気がなかったことを揶揄しているんだろう。私は顔を赤くした。
「止めてよ! 食べにくいじゃない!」
「いいのに、食べて」
「いいからそれやめて!!」
健人兄は「ちぇー」と言いながらスマホを下ろした。私はほっとして、フォークに刺した一切れを口にする。
ふわっとしたイングリッシュマフィンと芳ばしいベーコンの香り。とろりとした卵が口の中に広がって、一振りされたコショウもいい感じに効いている。
「んーっ、美味しい」
「そりゃ、よかった」
健人兄が笑う。私は切っては口に運び、切っては口に運んだ。
「そういえば、聞いた? 今年は敬老の日に鎌倉集合だってよ」
「うん、聞いた」
健人兄が帰国した頃、父から聞いて知っている。頷いた私に、健人兄は何気なく「そっか。行くの?」と訊いてきた。
私はもぐもぐしながら首を横に振る。
まだ、栄太兄と会う気にはなれない。会っていいんだろうか、という戸惑いの方が強い。
あと、半年。
私が二十歳になる誕生日まで、あと半年。
カレンダーをめくる度、カウントダウンしている自分に気づいている。
バイト先にも、そろそろ、来年のカレンダーが並び始めた。
もう、季節は秋。冬が来れば、その次には春ーー3月が待っている。
私はそのとき、どうするんだろう。栄太兄は本当に、あの約束を覚えているんだろうか。
二十歳の誕生日の、予定を空けとく――
もしかしたら、覚えているのは、もう私だけかもしれない。
「あ、そ。みんなどうすんのかな。朝子ちゃんも内定決まっただろうし、来るかな。栄太兄と会うの久々だなー。とりあえず死んでないらしいからよかったけど。愚痴る相手もいなくて大丈夫だったか心配してたんだよね」
健人兄は私のことなど気にもせず話している。私は黙って、朝食を口に運ぶ。
エッグベネディクトを丸々一つ食べ終えた私に、兄が笑った。
「イングリッシュマフィン、まだあるよ。食う?」
「もらう」
言うと、にこりと笑って、兄はキッチンへ入って行く。
その背中を目で追って、空っぽになったお皿を見下ろした。
私はいったい、どうしたいんだろう。
――ほんとに、分からない。
……ほんとに。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
123
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる